八月十日……その1
いつもの通りの時間に姫様のお部屋に向かうとそこには信じられない光景が待っていた。
いつもならぐーぐー寝てて、結構起すのが大変な姫様が起きていたのだ。
それも寝巻きからいつもの普段着に着替えて……。
「おはよう、プリチャ」
少し照れくさそうに笑ってそう言うとベッドの上で座っていた姫様がぴょんと立ち上がる。
そう声をかけてもらっても、その異様な光景にプリチャは言葉を失って固まっていた。
そんな私の行動に、むっとした表情になる姫様。
「初めてプリチャに起こされずに起きた事を褒めてほしいな」
そう言われ、プリチャは慌てて我に帰る。
「も、申し訳ありません……」
そう言って頭を下げたがすぐにそんな普段とは違う行動をする原因に思いつく。
そう、今日はフソウ連合に訪問に向う日なのだ。
恐らく楽しみすぎて目が速く覚めてしまったのだろう。
つい、早く目が覚めてそわそわして落ち着かない姫様の姿が脳裏に浮かび、プリチャは思わずくすくすと笑ってしまう。
「あーっ、プリチャ笑うって酷いっ」
怒った表情でそういうも、姫様も自覚があるのだろう。
なんか普段の怒ったときの様な勢いがない。
「これは失礼しました、姫様。では、これからは朝は起しに来なくても大丈夫ですよね?」
「うーっ。プリチャのいじわるっ」
拗ねてみせるもののすぐに笑い出し、それに釣られるようにプリチャも笑っていた。
ひとしきり笑った後、プリチャは今日の予定を告げていく。
それを普段とは違う食い入るような姿勢で聞くチャッマニー姫に、プリチャは心の中で苦笑するが、まぁ気持はわからなくはないと思ってしまう。
ずっと籠の鳥として首都から出ることのなかったチャッマニー姫にとって初めての遠出であり、それもはるか遠い異邦の地である。
その上、普段は乗ることの出来ない飛行艇での移動やキーチ様との同行といった事も興奮に拍車をかけているのだろう。
仕方ないかな。
そう思いつつ、最後に「皆さんにきちんと御礼をしてから出発しましょう」と言葉を付け加える。
皆さんとは、今回のことで尽力を尽くしてくれたバチャラを初めとする官僚の方達にだ。
多分、今まで一人の少女としてではなく、王家の生き残りという存在でしか扱ってこなかった後ろめたさがあり、その償いという意味合いも含めての今回の訪問という形になったとは思うが、それでも実際に骨を折って色々動いてくれた事には感謝すべきだと思ったからだ。
「うん。もう皆には昨日の内にお礼は言ってあるの」
チャッマニー姫はニコニコ笑ってそう答える。
「ならよろしいのですよ」
そう答えつつプリチャは嬉しくて仕方なかった。
「それよりも……」
今度は怪訝そうな顔でチャッマニー姫が聞き返す。
「ブリチャは、バチャラとお話しなくていいの?」
その予想外の言葉に、プリチャは驚く。
「えっと……それはどういったことでしょうか?」
プリチャがそう聞き返すと、ニヤニヤした笑みを浮かべてチャッマニー姫が口を開いた。
「だってぇ、ここ最近、プリチャ、バチャラとよくお話してるじゃないの。それに何かと色々貰っているみたいだし……」
「いえ、あれは仕事の話で……」
そう言いつつも、よく考えれば最初こそチャッマニー姫の話で始まるものの、最近はその会話のほとんどはそれ以外のことばかりだ。
そう言えば、この前なんかお互いの個人的な話題なんか話したし、それに最初は姫様のついでという事だった贈り物が、最近はがんばる姫付きの侍女さまにという名目で私にだけ送られるようになったっけ……。
これってよくよく考えてみたら……。
想像してプリチャの顔が真っ赤になって言葉に詰まる。
その様子に、チャッマニー姫は実に楽しそうに笑った。
「ふふふっ。プリチャにも春が来たのかな?」
「な、何を言っているんですかっ」
「だって、まんざらでもないって顔で二人は話してたし、今のプリチャの反応を見たら……」
「い、いや……私みたいな者が……あの方に……」
「でもお似合いだと思うけどな」
「……そうでしょうか……」
「うん。今までプリチャはそう言った目でバチャラを見たことなかったから気が付かなかったけど、意識してみたらかなり見方が変わるんじゃないかなと思う」
「ですが……」
「やってみないで結果を決めるのはよくないと思う。絶対後悔する」
それはチャッマニー姫の経験から来る言葉だ。
今までずっと諦めていた。
王家の最後の生き残り。
この国の象徴。
それらが重く圧し掛かってきたからだ。
しかし、キーチのことだけは諦められなかった。
そして行動した。
その結果、周りに迷惑はかけたが、キーチは傍にいてくれる。
そして悟ったのだ。
今までどれだけ多くの事を諦めてきたのかを……。
だから、少女の言葉であったが、下手な言葉より重みがあった。
だから、その言葉にプリチャは真っ赤になって黙るしかなかったのである。
朝食の後の荷物の最終チェックといない間の姫様のお部屋の掃除などの件の打ち合わせが終わり、ブリチャはふーと息を吐き出した。
やることは全てやったはずだが、遣り残してそうな感じがして落ち着かないのだ。
貧乏性なのかなぁ……。
ふとそんな事を思いつつ姫様の部屋に向う途中でばったり会ってしまった。
誰かというと、今朝の話に出できたバチャラである。
「あ……」
無意識の内に頬の辺りが熱くなってしまうのがわかる。
何やってんだ、私……。
落ち着け、落ち着け。
今までどおり、今までどおりに……。
そう自分に言い聞かせていたが、「やぁ、ここにいたのか」という言葉と向けられた笑顔であっけないほどその決心は崩れ落ちた。
「あ、あ、あ……あのっ、な。なんでしょうかっ」
上ずった声が思わず出てしまう。
それに対して少し変だなとは思ったのだろう。
バチャラは怪訝そうな顔をしたものの、すぐにいつもの顔になった。
「準備の方は終わったのかな?」
「は、はいっ。終わりましたっ」
「そうか。君も大変だと思うが、姫様の事を頼むぞ」
「は、はいっ」
しどろもどろになんとか返事をするプリチャに、バチャラは優しそうな微笑を浮かべて言う。
「疲れているんじゃないか?出発まで少し休んだらいい」
ポンポンと肩を叩き、笑いつつ立ち去ろうとするバチャラ。
しかし、思い出したかのように踵を返すと耳元に口を寄せてくる。
カーッと一気に顔に熱が集まり、身体中の筋肉が、まるで凍りついたようにカチカチになった。
だが、それに気がつかないバチャラは囁く。
「実は、鍋島長官が知り合いにプレゼントしている紅茶やハーブ茶が結構美味しいらしいんだ。無理とは思うかもしれないが、もし良かったらでいいんだが、それらを個人的に買えないか部下の方にでも聞いてもらっておいてくれないか」
その言葉に、プリチャは一気に力が抜ける。
安心したというか、落胆したというか、ともかく複雑な心境であったが、プリチャは自然と苦笑した。
私、一人で何やってんだろう……。
すーっと緊張が抜けていき、そしていつも通りの口調で答える。
「わかりました、バチャラ様。それとなく聞いてみておきます。それでもし購入できるようなら、どうなさいますか?」
「そうだな。少しでもいいので購入しておいてもらえるかい?代金は言ってもらったら払うから」
「わかりました。もし購入できたら、そちらに持って伺います」
そういうプリチャに少し考え込んだ後、バチャラは笑いつつ言葉を返す。
「いや。持ってこなくてもいいよ。今度、執務室にでもいいから君が淹れたのを持ってきてくれたら二人で飲みたいと思うんだが、どうかな?」
思考が一瞬停止し、一呼吸置いてその意味に気がついたのだろう。
表情が固まったまま、間があった後、プリチャが慌てて言う。
「そ、それって……」
「考えておいてくれたまえ」
そう言うと、バチャラは笑いつつ去っていく。
「あ……」
手を伸ばしかけた姿勢で固まってしまったプリチャであったが、視線を感じて我に帰った。
視線の先にいたのは……。
「ふっふっふ……見てだぞっ」
そう呟いてドアの隙間からこっちを見ているチャッマニー姫とそれを呆れた顔で見ている木下喜一であった。
「もしかして……二人とも見てました?」
「ああ、止めたんだけど……」
頭をかきつつ木下喜一がそう言うものの、実に説得力がない。
ゆらりとプリチャの身体が揺れ顔が真っ赤になる。
「ふ……」
「ふ?」
「ふ?」
いつもと違う反応にチャッマニー姫と木下喜一は互いに顔を見合わせる。
てっきり照れ隠しで怒られると思っていたためだ。
しかし、ブリチャの反応は、思ってもみないものだった。
「ふみーーーーーっ」
崩れ落ちるようにその場に座り込むと泣き出したのである。
その反応に二人は慌てて近寄り、宥めようとする。
しかし、うまくいかない。
慌てふためく二人。
今までにない事態にどうすればいいのかわからなくなっていた。
そんな二人をよそに泣き続けるプリチャがぼそぼそと言う。
「もう……覗きとかそんな事はしないで……」
その言葉にも、二人はすぐに頷きつつ、言葉を返す。
「うん。プリチャの嫌がる事はしないよ、うんっ」
「勿論だとも。絶対今度はマムアンを止めて見せるから」
「絶対?」
「絶対よ。プリチャ」
「ああ。絶対だとも……」
その言葉で泣く音が低くなり静かになる。
そしてぼそぼそとプリチャが呟く様に言う。
「絶対だよ……」
せっかく落ち着こうとしていると判断したのだろう。
二人は慌てて相槌を打つ。
「ああ、絶対よ」
「絶対だって……」
するとプリチャはすーっと顔を上げた。
その顔は涙で濡れていない。
「今の言葉忘れないでくださいね」
満身の笑みを浮かべつつそう言うプリチャに、チャッマニー姫も木下喜一も唖然とするしかない。
付き合いの長いチャッマニー姫でも、交渉術を学んだ木下喜一でさえも、今回の場合はなかなか判断が難しかったようだ。
どうやら、まだまだプリチャの方が役者は一枚も二枚も上のようである。
午前十時。
首都コクバンの近くの港の埠頭の一角には、多くの人々でゴッタ返していた。
それを兵士達が警備している。
そこに集まった人々の目的は、チャッマニー姫だ。
フソウ連合訪問のため、アルンカス王国の関係者として始めて飛行艇に乗るのである。
その様子を一目見ようと集まっているのだ。
すでに搭乗する飛行艇、二式大艇は埠頭に接岸し、タラップが繋がっている。
そしてタラップ前には、パイロットなどの乗組員がずらりと並び待機していた。
そんな中、車が五台止まって中からチャッマニー姫が現れる。
今日は、白いワンピースと白いつばの広い帽子を身につけており、実に愛らしい格好だ。
その姿が目に入ったのだろう。
人々の歓声が大きく湧き、それぞれ持っている小さなアルンカス王国の国旗を振ながら国家を歌い始める。
その思いもしなかった歌による歓迎に、チャッマニー姫は一瞬驚いたものの、すぐに笑顔になると人々に手を振りながら歩き出す。
その様子に、人々の歓声は一際大きくなる。
そして、チャッマニー姫はタラップの側まで進むと立ち止まって微笑みながら手を振った。
その口は動いていたが、歓声で聞こえない。
しかし、誰もがわかっていた。
彼女が感謝の言葉を口にした事を……。
そしてチャッマニー姫は搭乗する飛行艇に目を向ける。
軍用という事で、深い緑と白っぽい黄緑によって上下に塗られた機体ではあったが尾翼には大きく、フソウ連合とアルンカス王国の国旗が書かれており、その二つの国旗の周りにはいくつかの大小の桜の花が鮮やかに着飾るように描き込まれている。
その尾翼の絵を見つつ、チャッマニー姫は並んでいる搭乗員達の傍に行くと口を開いた。
「今回はお世話になります。道中、よろしくお願いいたします」
その言葉に、恐らく機長であろうパイロットが一歩前に出て敬礼する。
「はっ。こちらこそ、私以下、搭乗員一同、姫殿下の快適な空の旅が出来るように尽力する次第であります」
その言葉に合わせて、残りの搭乗員達も敬礼する。
「ふふっ。ありがとう……」
そう言った後、チャッマニー姫は思い出したように聞く。
「あれはサクラよね?」
「はい。桜です。よくご存知で……」
「ふふふっ。知人に教えてもらったのですよ。フソウのサクラは実に素晴らしいと……」
だが、その言葉に、機長は残念そうな顔をして言う。
「残念ながら時期が合わず本物は見れないかと……」
その言葉に、少し残念そうな顔をするチャッマニー姫。
しかし、すぐに笑って言う。
「なら、今度はサクラの見れる季節にフソウ連合を訪問いたしましょう」
「では、その時も我々をご指名いただければ幸いです」
そう言って豪快に笑う機長。
その笑いに、チャッマニー姫もくすくすと笑う。
こうして、チャッマニー姫のフソウ連合訪問が始まったのであった。




