珊瑚海海戦の後に……
「第16・17任務混成隊が行方不明だと?!」
椅子から立ち上がり驚愕の表情で叫んだのは、チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア大将だ。
彼にしてみれば、珊瑚海海戦でレキシントンを失いヨークタウンも損傷して修理に三ヶ月と言われている上に、救援に向わせたエンタープライズとホーネットの二隻の空母が行方不明なのだ。
愕然とし声を上げてしまうのは仕方ないことなのかもしれない。
「はい。行方不明です。現在、進んでいた海域を大型機で哨戒しておりますが、全く発見する事ができません」
残念そうな表情を見せるものの、部下は淡々と報告書を読むかのように答える。
それは、部下自身も信じたくはないものの、なんとか感情を押し殺しているかのようであった。
「それは本当なのか?」
それでも信じられないのだろう。
ニミッツ大将はついつい聞き返す。
無駄だと思ってみても、それでも嘘だ、冗談だと思いたかったのだ。
「はい……。残念ながら……」
その言葉に、学理と崩れ落ちるかのように力なく椅子に座り込んでしまったニミッツ大将は呆然として焦点のあっていない視線を上に向けた。
珊瑚海海戦は、日本軍の侵攻を防ぐという目的は達成した。
これはアメリカの勝利と言っていいだろう。
しかし、戦いの内容としては痛み分けであり、ハワイ沖海戦で戦艦のほとんどを失ってしまった現在の戦力で、唯一日本軍に対抗できる空母を主戦力とした機動部隊に甚大な損害を受けてしまった事を考えれば、余裕がある日本海軍にしてやられたと言っても良いのではないだろうか。
現に、損傷したとはいえ、日本海軍にはまだ空母が六隻以上存在する。
そしてそれに対抗する為の頼みの綱の空母がことごとく戦力にならなくなってしまっているのが今の太平洋艦隊の有り様。
一応、特設空母を数隻太平洋艦隊に回すという話もあるが、速力の遅い空母を作戦に参加は難しい。
精々輸送任務などの護衛程度だろう。
戦力の圧倒的不足……。
また、スプルーアンス少将とフレッチャー少将といった指揮官二人を失ったのも大きい。
有能な指揮官と戦力を失い、今や今後の作戦の立てようがないといった有り様になってしまっている。
だが、いつまでも惚けてばかりもいられない。
はーっと息を吐き出して一緒に身体に活を入れ、ニミッツ大将は視線を部下に向けると命令を下した。
「まだ、残骸も何も発見されていないんだな?」
「はっ。まるでどこかに消えてしまったかのようです」
「ならば。もっと徹底的に探せ。いいな?」
「はっ。了解しました」
「それとだ。ヨークタウンの修理を急がせろ。あと、本土に戻っている空母サラトガの艦載機をこっちに呼び戻せ」
「しかし、空母は一隻も……」
「何を言ってる。ヨークタウンがあるじゃないか」
「し、しかし……修理に三ヶ月ほどかかると……」
「不眠不休の突貫工事で応急修理させろ。空母として使えればいい。それ以上は望まん。我々にはもう戦力がないのだ」
「わ、わかりました。すぐに連絡します」
部下が慌てて部屋から駆け出すように退出した。
その後姿を見送った後、ニミッツ大将はデスクにのった書類に目をやる。
そこには分厚い書類の束があった。
どうやら一つにまとめ上げられているらしく、上の方でがっちりと固定されている。
トップシークレットの印が押されているその書類のタイトルは『日本軍侵攻予想報告書』である。
今までの日本軍の動きから今後の動きを予想したもので、一応全部に目を通したがはっきり言って胸糞悪くなる内容だった。
日本の今の動きから東南アジアをある程度攻略し、補給を維持した後は、アメリカに対して侵攻を開始する。
その第一目標としてミッドウェイ、ハワイへの侵攻の可能性が高いと記してあるのだ。
多くの施設や航空機を失ったとはいえハワイは、アメリカ本土を守る為の最重要防衛ラインであり、太平洋艦隊の重要拠点でもある。
また、ミッドウェイも防衛ラインの拠点であり、この二つ、或いは片方を失う事は、アメリカ本土への侵攻を許すことになりかねない。
なんせ、後はアメリカ大陸への航路を遮るものはないのだから……。
また、外務省からの報告では、日本は裏で中立国を通じてオーストラリア、イギリスと休戦を狙った動きを示しているという。
実際、ドイツの侵攻で戦力が圧倒的に足りないイギリスにしてみれば、今休戦する事はメリットだらけだ。
アジアのもっとも重要な拠点であるインドを失うことが防がれるだけでなく、戦いによって受けるであろう損害を抑えることもできる。
そして、その戦力をドイツへと集中できる。
実際、ドーバー海峡を挟んでの戦いは、今のところ互角ではあるがイギリスにとって圧倒的不利なのは変わらない。
恐らくその辺をうまく使って交渉しているのだろう。
そして、イギリスは日本の提案を飲む可能性が高いらしい。
今のところは、背に腹は変えられないといったところだろう。
そして、オーストラリアにしても、一国で日本に戦いを挑むほどの戦力は保有していない以上、イギリスが抜けてしまえばアメリカが戦力不足という今の状況ではしぶしぶ休戦の提案に従うしかないだろう。
そして、イギリスもオーストラリアもアメリカを恨むのは間違いない。
アメリカが、日本を追い込んだ為にこんな状態になってしまったのだと……。
実際、ニミッツ大将自身もハルノートの内容と石油輸出の全面禁止は行き過ぎだと思っていた。
だから、抗議もしたし、抵抗もした。
だが、軍人である以上、政府の方針に従わなければならない。
そしてその結果がこれだ。
真珠湾攻撃で、備蓄していた燃料と湾施設と航空戦力を失い、その後のハワイ沖海戦で戦艦をほとんど失ってしまった。
そして、東南アジアでの小競り合いと珊瑚海海戦で空母も被害を受け、今やまともに動ける空母や戦艦は一隻もない。
まさに戦力の空白期間と言っていいだろう。
つまり、その間は相手はやりたい放題できるというわけだ。
新しく戦艦と空母が建造されているものの、次の戦いに間に合わないのは一目瞭然であり、修理できたとしても空母一隻で侵攻してくる日本海軍と戦わねばならないという圧倒的な不利な状況は変わらない。
そんな時に、日本海軍がミッドウェイやハワイに侵攻してきたら対抗できるだろうか……。
国家に対する忠誠も人に負けないほどあるつもりだし、国民を守る為の義務もわかっている。
何より祖国を深く愛している。
だが、それとこれとは別だ。
大体、なんで政府の尻拭いを我々の血でしなければならないのか。
文句のひとつも政府の高官に怒鳴りつけたいが。残念ながらここにはいない。
ニミッツ大将は深々とため息を吐き出した。
ある戦力でやるしかないという事はわかっている。
だが、どうすればいいのか。
さっさと引退したい。
そんな衝動にニミッツ大将は駆られ始めていた。
そんな中、1942年5月5日、連合艦隊司令長官山本五十六大将に対し、大海令第18号が発令された。
それは即ち、ミッドウェー島の攻略、米空母部隊撃滅を目的としたMI作戦実施が決定されたということである。
この時点で、まだ日本海軍はアメリカ太平洋艦隊が空母三~四隻保有していると考えており、一気に勝負を決める為に決戦を挑んだのだ。
そして、事前にその情報をキャッチしたニミッツ大将はなんとか残った戦力をかき集める。
その内訳は、新たに編成され直した部隊で、応急修理が間に合ったエリオット・バックマスター大佐率いる空母ヨークタウンを中心とした空母一隻、重巡洋艦一隻、駆逐艦六隻の第17任務部隊、トーマス・C・キンケイド少将率いる重巡洋艦 ミネアポリスを中心とした重巡洋艦三隻、軽巡洋艦一隻、駆逐艦八隻の第16任務部隊。
それに十隻程度の支援艦と三隻の潜水艦。
今のアメリカ太平洋艦隊で、集められる戦力はそれが全てである。
こうして、別世界で行なわれた魔法の儀式によって大きく歪められた時の流れが、また違った歴史を刻み始めていこうとしていた。




