ドクトルト教国、エンカンドルス大神殿にて…
教国艦隊の壊滅。
その報は、すぐにイオーアンネース総主教に伝えられた。
その時、イオーアンネース総主教はゆったりと紅茶を楽しみつつ最近気に入った古い戯曲の本を読んでいたが、その報を聞くと愕然とした後、本を床に落とすと力なくそのまま椅子の背もたれに身体を預けた。
その表情には、感情が抜け落ちてただ呆然としている。
例えるなら、魂が抜けたかのようにと言っていいかもしれない。
それは仕方ないのかもしれない。
派遣した艦隊と聖騎士団は、教国の中でも特に精鋭中の精鋭であり、彼の決断によって教国は虎の子の艦隊と最精鋭の聖騎士団を一気に失ったのだ。
前総主教の方針を否定してイオーアンネース総主教は今まで他国に干渉せずに済ましてきたが、段々と落ちていく教国の力と減少していく信者の数に危機感を感じ、今回その打破の第一歩としての帝国の東部地区への援助であったが、それが完全に裏目に出てしまった。
全部自分が決断した事であり、その責任の重圧に押しつぶされそうになっている。
まさにそんな感じだった。
その様子に、報を伝えた司祭はそのまま何も言わずに大主教の部屋から退出する。
慰めの言葉もなく冷たいようだが、ドクトルト教にとって各位の上下関係ははっきりとしており、司祭が何を言ってもそれは相手を批判することになりえる。
そうなった場合、どういった処罰が来るかわかったものではない。
よって、深く関わらない方がいいと判断したのだろう。
そして、前任の総主教を半ば追放する形で今の地位を手に入れたイオーアンネース総主教に味方は少なく、そして孤独であった。
そして、どれだけ時間が経っただろうか…。
イオーアンネース総主教の耳に笑い声が入る。
それは低く、耳障りで、まるで相手を蔑むかのようであった。
「だれだ?」
我に返ったイオーアンネース総主教が声の方向を睨み叫ぶように言う。
「わしじゃよ、イオーアンネース」
そう言いつつ笑いながら現れたのは、一人の老人であった。
真っ白になった髪と胸元まである顎鬚、そして顔に浮かぶ博愛に満ちた優しげな表情により、もし聖人がいるとしたらこんな人物に違いないと思わせるのに十分な姿だ。
しかし、笑い声はその口から漏れている。
老人を見てイオーアンネース総主教は顔を引きつらせて言う。
「なぜ、貴方が…」
「なに、わしを蹴落とした男の無様な様を見に来たといえば満足かの?」
表情からは想像できないような皮肉たっぷりの口調でそういった後、笑う。
「うるさいっ。貴方は、貴方はっ…追放されたはずだ…」
「ああ、追放されたのぅ…。お前さんの手で…」
ニタリ…。
初めて聖人らしからぬ笑みが老人の顔に刻まれた。
「だがのう、お前さんでは頼りにならぬという連中が多くてのぅ…」
その言葉に、イオーアンネース総主教の顔が驚きに染まる。
「そんな…貴方の息がかかっている連中は…」
「追放しきったと思っておるようだが、甘いのう…」
「なら…、なぜ?」
その問いに、老人は面白そうに笑いながら答える。
「なに、わしの追放を計画したお前さんが実際にはどれほどの事ができるかを見てみたくなってな。ただそれだけじゃて…」
そこまで言った後、一旦言葉を切り、じっとイオーアンネース総主教を見る。
その目には、哀れみの色があった。
「もっとも、こんなに早くつまらなくなってしまうとは予想外であったがな…」
その言葉に、イオーアンネース総主教は反論しょうとしたが、その言葉は口から出る事はなかった。
代わりに彼の口から出たのは真っ赤な血とひゅーという空気の音だけであった。
いや、正確に言うと喉からであったが…。
それでも口から出たかのように口からも血を吐き出しており、しぶきのように噴出した血がイオーアンネース総主教の前にある代々の総主教によって使われてきた格調高い古いテーブルも地味ながらも贅沢なつくりのソファも真っ赤に染め上げていく。
「ふふふっ。お前さんの役割は終わりだ。お前さんがわしを蹴落としてくれたおかげで色々準備が出来たぞ。ご苦労さん。後はゆっくり休むがいい」
慈愛に満ちた目を向けながらも老人は歪に口角を吊り上げて言う。
そして、視線をイオーアンネース総主教から、その後ろに立っている人物に移す。
年は四十といったところだろうか。
丁寧に整えられた口ひげを生やしたオールバックに固めた黒髪の男性で、その男の左手には鋭い刃物が握られており、刃には紅いスジか流れていた。
「ご苦労であった。卿のおかげで全てうまくいっておるようじゃな」
「はっ。ありがとうございます」
男は右手を胸に当てると丁寧に頭を下げ、そして聞き返す。
「それで後始末はどうなさいますか?」
「そうじゃのう…。今回の責を感じてイオーアンネース総主教は休養といったところかの。後任は決めず、こっちの息のかかったものを代理の総主教を置くというのはどうじゃ?」
老人の提案に、男は満足そうに頷く。
「それでよろしいかと…。それでどうなさるつもりなのですか?」
「ふむ…。近々実験をやろうと思っておる。その準備に取り掛かるつもりじゃ。後は任せても良いかの?」
「はっ。お任せくださいませ。後は指示をいただいたように始末して起きますのでご安心を…。それと今後のことですが…」
「帝国東部地区への援助は継続して行うようにしておけ」
「しかし、ここまで大敗していますとやりにくいのではないでしょうか?」
「なぁに、いつもの人としての権利だとか平和がとかなんだと理由をつけておけ。そうすれば、大抵の事は収まる。それとな、余り肩入れしすぎるな。ほどほどのところで押さえておけ。負けずそれでいて勝てずといった感じでな。そうやって出来る限り混乱を長引かせよ。世界中の目が帝国に向くようにな。それに、戦いが長引けば、人心も乱れよう」
「しかし、それでは教国の民や国力が…」
その言葉に、ぎろりと老人は睨むように視線を向けた。
「構うものか。神の御心に従うのだ。苦労も苦しみも喜びに変わるだろうて。それにな、もうわしは教国の総司教ではないしのう…」
「そうでございましたな。すっかり忘れておりました…」
そう言って男は頭を下げる。
「なぁにそんな些細な事を気にしたりはせんよ。さてわしはまたしばらく姿を隠すが後を任せたぞ」
そう言うと老人は満足そうな笑みを浮かべたまま退室した。
その後姿を男は深々と頭を下げて見送った後、頭を上げるとニヤリと笑みを漏らした。
「さて、始めるとするか…」
そう言ってイオーアンネース総主教の死体の方に視線を向ける。
その目には侮蔑の色が浮かび上がっていた。
「馬鹿が…。老師にしたがっておればよかったものを…。本当に昔からお前は余計なことをしすぎるから墓穴を掘るのだ…」
その言葉には少し懐かしさが含まれていたが、それあくまでも微々たるものであった。
五月十二日。
ドクトルト教国は、イオーアンネース総主教の休養を発表した。
多くの信者や自国の民の死に悲しみ、心労が重なってという事になり、代理の総主教が今後は全てを行うと発表された。
誰もがすぐにでも復帰なさるだろうと思っていたが、それ以降、イオーアンネース総主教は表舞台に出てくる事はなかったのである。




