魔女の帰還 その2
アンネローゼは立ち上がるとゆっくりと船長の方に顔を向ける。
船長の顔に浮かぶのは寂しそうな笑顔。
この船に転移して二ヶ月以上に及ぶ船長の懇親的な看病によってなんとか生き延び、少しずつ身体を慣らしていってやっと普通に動けるようになったのが約一週間程度前。
たった一週間程度の夫婦ごっこ…。
だが、それが実に愛おしい。
私は、この人の妻になってよかった。
そう実感できた期間…。
もちろん最初から惹かれるというか憧れみたいなものがあったし、この三ヶ月以上もの間、一人の男に魔法ではなく、本心で大事にここまで尽くされた事もなかった事もあり、アンネローゼはもうこのままずっと船長と一緒に過ごしてもいいとさえ思っていた。
いや、そのつもりだった。
しかし、やっぱり逃れられないのね…。
自分の手を見てアンネローゼは苦笑する。
目に入るのは、最近は色々な家事なんかをする為に少しは荒れてしまったが、それでも綺麗な手だ。
だが、その手は血で真っ赤に濡れ光っているように彼女には見えた。
今まで殺してきた人々の血…。
船長に助けられる前までは、何も感じなかったはずなのに…。
でも、それは罪なのだ。
そして罪は清算しなければならない。
罰という形をとって…。
アンネローゼは深く深呼吸をすると決心して口を開いた。
「ごめん…。行かなきゃ…」
そう言って背を向けて歩き出そうとするアンネローゼの右手を船長が掴む。
びくんと身体が反応し、動悸が激しくなる。
ゆっくりとアンネローゼは船長の方を見ると、そこには泣きそうになりながらも必死に笑う船長の顔があった。
「よかったじゃねぇか…」
そう言った後、アンネローゼの右手を掴んでいる手に力が入る。
それは、船長のアンネローゼに対する思いだ。
「今までありがとうよ…」
なんとか搾り出すようにそう言った後、船長は手を離してアンネローゼから顔を背けた。
その身体が震えている。
それがすごく愛おしい。
だが、これ以上ここにいたら彼らに迷惑をかけるだろう。
だから…アンネローゼは視線を親衛隊隊長の方に向けると歩き出す。
船員達の視線が…すごく痛い。
だが、それはあえて受けなければならない。
あんなにも優しく迎え入れてくれた彼らを裏切るのだ。
これぐらいはあえて受けなければならない。
そして、親衛隊隊長の傍に来ると食堂全部を見回す。
誰もが泣きそうな顔でアンネローゼを見ていた。
それほどまでに私の事を…。
思わず涙が出そうになるのをぐっと押さえる。
「今までありがとう…」
自然と言葉が出た。
そしてアンネローゼの言葉に、親衛隊隊長が驚いたような表情をしているのがちらりと目に入る。
どうせ、男をたぶらかす傾国の美女とでも思っていたのだろう。
確かに、彼らに助けられる前までなら、そうだったかもしれない。
しかし、彼らに助けられ、そして何より船長と一緒に暮らし、妻となってアンネローゼは大きく変わった。
今まで閉じられていたいくつかの感情の扉が開かれたのだ。
自然にアンネローゼはすーっと頭を下げる。
それにあわせて、船員の誰かが呟く様に言う。
「姉御…俺らは家族だ。だからいつでも返って来てくだせぇ」
その呟きをきっかけに、誰もが口を開く。
「あねさんっ…。待ってますぜ」
「待ってますから、また来てください」
そして、船長が伏せた顔を上げた。
涙に濡れ、実にみっともない顔だった。
だが、アンネローゼはそれさえも愛おしかった。
「ずっと待ってるからな…」
ただ口にしたのは、その一言だけ。
だが、その一言だけでよかった。
すーっとアンネローゼの目から一粒の涙が流れる。
そして、アンネローゼは笑うとゆっくりとその場を立ち去った。
船から下船しょうとするアンネローゼの後ろにいた親衛隊隊長がニタニタと下卑た笑いを浮かべている。
「さすが、男を惑わす魔女ですな。すっかり連中骨抜きじゃないですか。私も少しはご相伴にあやかりたいものですな」
そう言ってケタケタと笑いつつすーっとアンネローゼのお尻を触ろうと手を動かす。
しかし、その手を手ひどく払いのけ、アンネローゼは冷たい目で親衛隊隊長を睨みつけた。
その目は殺気に満ちており、親衛隊隊長が身体を膠着させたじろかせるのに十分であった。
「ふんっ。ゲスがっ」
そう言って一瞥するとさっさと船を下りていく。
そして船を下りた先には、一人の男が待っていた。
「お帰りなさいませ、アンネローゼ様」
そう言って、男が恭しく頭を下げる。
船員に写真を見せて伝言を頼んだ男だ。
「やっぱり貴方だったのね、ヤロスラーフ」
アンネローゼにそう呼ばれた男は、頭を上げると苦笑した。
「いやはや、探しましたぞ。これでやっと宰相様にいい報告が出来ますな」
「そう…それはよかったわね」
しらけたような表情で男を見ていたアンネローゼだが、すぐに言葉を続けた。
「それはそうと、彼らには褒賞を与えておきなさい。死にかけていた私の命を救ってくれたんだからね」
アンネローゼの言葉に、驚いた表情をして聞き返すヤロスラーフ。
「死にかけていた…ですと?」
「ええ。だから、彼らは私の命の恩人なの。だから、その恩に報いなければならない」
船の方に視線を向けてアンネローゼは少し寂しそうな顔でそう告げる。
「わかりました。こちらの方で特別報酬を手配いたしましょう」
ヤロスラーフはそう言うと、やっと下りてきた親衛隊隊長に目配せする。
それを見て親衛隊隊長はニタリと笑った後、表情を引き締めて敬礼した。
「では、こちらにどうぞ、アンネローゼ様」
ヤロスラーフが用意したであろう黒塗りの高級車のドアが開けられる。
そこに乗り込もうとしかけてアンネローゼの動きが止まった。
すーっと視線が船を向かう。
「さよなら…」
小さく呟くと顔を伏せてアンネローゼは車に乗り込んだのだった。




