帝国東部地区
帝国東部。
フソウ連合に接するこの地域は、帝国でも有数の穀倉地帯であり、帝国の食を支えてきた重要な地点である。
だから、今まではかなりの海軍戦力が配備されてきた。
だが、フソウ連合海軍との度重なる戦いにより、海軍艦艇の多くを失い、また海軍の軍事拠点の中心となるジュンリョー港も『夜霧の渡り鳥作戦』によって機能不全の状態にされてしまう。
また、後任のロジオン・ヤーシャ・ミドルラス少将は、すっかり疲弊しきった戦力しかないこの地を任されたという事は左遷と考えて、そんな待遇をする帝国海軍に不審さえ持っていた為に、結局後始末だけを行い、艦隊補充や戦力の安定化、機雷の除去による軍港の復興など本来行うべき事を放置し、それ以上動こうとしなかったのである。
その結果、東部地域に配備される艦隊の補充も整備も後回しにされ、今や政府の力の及ばない半ば放置地区と変わらない状態になってしまっていた。
それでもまだ落ち着いていたのは、税さえ払えば政府はほとんど干渉してこなかった為だ。
その為、重税に苦しむ事はあったものの、他の地域に比べて住み易いと裏で言われる始末であった。
ある意味、帝国の権力争いの中で蚊帳の外、つまり隔離されてしまっていたといっていいだろう。
たが、そんな中で親衛隊の『城塞都市クリチコの大虐殺』が行われてしまう。
その結果、多くの難民や他の地域からの移民が増え、それをまだ余裕のあった東部地区は受け入れていった結果、一気に勢力も大きくなっていったのである。
そして、勢力が大きくなっていく中で、それらをまとめる人物が必要となってくる。
そこで担ぎ出されたのは、アンルトーナという都市の長であるアレクセイ・ユーリエヴィチ・ハントルンという人物だ。
元々は、帝国皇帝に繋がる血筋を引いているとはいえ、あまりにも長く続いた後継者争いにうんざりして地位を返上し、都市の一市民としての生活を選んだ変わり者だ。
しかし、その知識と経験は一目おかれ、都市の長だけでなく、東部地区の都市で行われる会議の議長などをするほどの実力者であった。
その為、指導者を必要とした人々は、彼に東部地区のまとめ役としての役割を頼む事となったのである。
最初こそ断ったものの、帝国の血を少しとはいえ引いているアレクセイとしては、今の帝国のあまりにも情けない現状に蜂起する事を決意して引き受ける。
こうして、東部地区は、親衛隊でも海軍でもない勢力によってまとめられたのであった。
目の前に広がる地図に視線を落としてアレクセイはため息を吐き出した。
蜂起したものの、各地区を基盤とする他の勢力に比べて財力、軍事力などほとんどの面で大きく劣っているのははっきりしている。
特に軍事力は、海軍や親衛隊といった具体的な組織を持たない以上、雲泥の差があるといっていい。
今東部方面に配備されている海軍戦力を取り込んだとしてもそれほど差は埋まらないだろう。
実際、東部方面に配備されていた元々の海軍力も、ジュンリョー港が不全になった時点でかなり引き抜かれてしまい、警備さえ滞るほどである。
また、艦艇群も東部方面艦隊と名前だけは一人前だが、その戦力は、戦艦二隻、装甲巡洋艦六隻を中心に、支援艦や警備艦を含めても三十隻に満たない状態となっていた。
なお、あまり艦艇のない親衛隊でさえ、取り込んだ海軍勢力と自前の親衛隊専属の艦艇を合わせると戦艦十隻、装甲巡洋艦二十二隻、その他支援艦、小型警備艇を含め、百隻近い艦艇群を保有。
また、帝国海軍は、弩級戦艦シャルンホルスト、重戦艦八隻、戦艦十五隻、装甲巡洋艦三十四隻、その他支援艦、小型警備艇などを含めると三百五十隻の艦艇群を保有している。(もっとも、海軍の戦力の内、超弩級戦艦ビスマルク、弩級戦艦グナイゼナウなど多くの艦艇がドッグや修理に回され、実働できる戦力は、ヒュドラ作戦で第二艦隊の中核になった、シャルンホルスト、戦艦八隻、装甲巡洋艦十九隻程度となり、保有艦艇の割には戦闘可能な艦艇数は親衛隊と変わらない程度となっており、動こうにも動けない有り様であったが…)
つまり、圧倒的な戦力の差があった。
「さて…この状態をどう打破したらよいか…。皆の意見を聞きたい」
地図から視線を外すと、テーブルに着く他の都市の長らに視線を移す。
どの顔も考え込むように目を塞いでいたり、うつむいていたりとその様子からあまりいい意見は見出せそうにない。
そんな中、ジュンリョー港の支援港であるチッカム港に隣接する街シスリアンの長がおずおずと手を上げた。
「どうぞ」
「えっとですね…他の国に援助を求めてはいかがでしょうか?」
その意見に、他の街の長らが呆れた声を上げた。
「どこが助けてくれるというのかね?」
「王国、フソウ連合とは戦争中じゃし、共和国は手を貸すとしたら今までのつながりから皇帝を担いでいるあの人殺し親衛隊の連中を支援するだろう。連盟に支援を受けたとしても、どんな見返りを求められるかわかったものじゃないぞ」
「そうだ。そうだ。安易な他国の介入を許せば、我が祖国はバラバラになってしまうぞ」
「では、どうすれば言いというんだ?他に名案があるというのか?」
「それは…確かにそうなのだが…」
「仮にだ、介入を認め、助けを求めるとするぞ。だがな、介入を認めたとしても見返りがなければ、どこも動かんのじゃないか?」
その言葉に、部屋の中がシーンと静まり返る。
そう。
介入し、力を借りるという事は、相手の国に血を流させ、消耗させるという事だ。
なら、それに合う見返りがなければならない。
義理人情といったものは、国同士ではありえない。
得るものがあるから、手を貸す。
それがこの世界の大前提なのである。
だが、そんな中、またシスリアンの長が手を上げた。
「何か?」
アレクセイは苦笑して発言を促す。
どうせ、たいした意見ではないと思っているのだ。
実際、ろくな意見は出まいと高を括っているのだから…。
そして、それは他の街の長とて同じであり、行き詰ってしまったと思っている。
だから、シスリアンの長がその発言を行った時、全員が我が耳を疑った。
「見返りがまったく必要ないとは言えませんが、我々に手を貸したいという国があるのです」
シーンと部屋の中が静まり返る。
その場にいたほとんどの者が、唖然とした表情をしていた。
そして、そんな中、アレクセイが呟く様に言う。
「そんな…馬鹿な…」
「実は…昨日、こういう親書をいただいたのです」
そう言って差し出されたのは一通の書簡である。
見るからに上等な紙質で、その縁には贅沢に模様ががかれており、その模様は金箔が張られているのだろう、光に当たり輝いている。
そして何より重要なのは、表に記された印である。
「そ、その印は…」
「はい。ドクトルト教、最高司祭である総主教様のものでございます」
ドクトルト教。
この世界で六大宗教の一つで、その信者の数は実にこの世界の三分の一を占めるといわれており、その信者の多くは六強と呼ばれる国に多く、一時期はその国の政治に深く関わった時もあるほどであった。
その為、帝国皇帝は宗教を一切否定して弾圧したし、王国でも限定的ではあるが宗教制限を設けて干渉を抑える方針に動いたほどである。
だが、他国干渉の方針を進めていた前総主教は、他国からの糾弾が酷くなったという責任を負わされて三年前に幽閉。
その後を継いだイオーアンネース総主教は、他国には干渉せずといった方針を推し進め、現在に至っている。
その他国に干渉せずを方針とするはずのドクトルト教総主教からの書簡だ。
信じられず、誰もが目を擦り、或いは深呼吸して目を閉じてその書簡を何度も見直す。
「し、信じられぬ…。あの他国干渉を頑なに否定されていた方が…」
「恐らく…」
「恐らく…?」
「『城塞都市クリチコの大虐殺』がきっかけになったのでしょう…。中の文面でもそれらしい事が書かれております」
「確かに…それはありえる話だ…」
誰かがそう呟くと、何人もの者がうなづく。
「それで…なんと書かれてあるのだ?」
アレクセイがそう聞き返すと、シスリアンの長が書簡をアレクセイに引き渡す。
「目をお通しください」
アレクセイは黙って書簡を受け取ると手紙を取り出して目を通していく。
全てに目を通し、それでも信じられなかったのだろう。
何度も何度も繰り返し読んでいく。
そして、力なく手紙をテーブルの上に置くと、天を仰いだ。
「し、信じられん…。物資支援だけでなく、我々を支援する艦隊や兵の派遣も含まれているというのか…」
そのアレクセイの言葉に、シスリアンの長が声をかぶせる。
「事実でございます。もし疑うのなら、使者の方とお会いになられますか?」
その言葉に、力の抜けたアレクセイが慌てて力が入り、のめり込むようにシスリアンの長の座っている方向に身を乗り出すように聞く。
「何っ。使者の方がおられるのか?」
「ええ。シスリアンに滞在されております」
「よし。わかった。すぐにでもお会いするぞ」
「わかりました。すぐに手配いたします」
そう言ってシスリアンの長は深々と頭を下げた。
絶望感とその後に訪れた光明が見えたという感覚に誰もが酔いしれていた為だろう。
誰もが気がつかないでいた。
それこそ、長い付き合いのあるものでさえも…。
以前に比べてシスリアンの長の喜怒哀楽の反応が薄かった事に…。
そして、深々と下げた際にちらりと胸元に見えたチェーンネックレスの先にドクトルト教の聖印がある事に…。




