動乱の始まり
「これは、これは、宰相殿はお忙しそうですな」
宰相の執務室に入ったエリク長官は、わざとらしく驚いたような大げさなジェスチャーをしつつ楽しそうに言う。
その様子は、第三者から見たら間違いなく人をからかっているかのように見えただろう。
しかし、それを書類の山に埋もれて黙々と処理している宰相グリゴリー・エフィモヴィチ・ラチスールプ公爵はエリク長官の方を見向きもせずに言い返す。
「何か用か?」
普段なら皮肉の一つも付けて言い返すだろうが、今はよほど余裕がないのだろう。
短めに必要事項だけの返事をするだけだ。
もちろん、返事を返しつつも目は書類の文字を走り、ペンを握った右手は休みなく動いている。
かなりの激務が続いているのだろう。
ラチスールプ公爵の目の下には濃いいクマがあり、幾分か痩せたのだろうか、頬がこけていて以前に比べてますます年老いた雰囲気に見える。
その様子と返ってきた言葉にエリク長官は苦笑したが、すぐに真顔になると口を開いた。
「いやなに、昨日提出した書類の許可をいただきたく…」
エリク長官の言葉に、ピクリとラチスールプ公爵の動きが止まった。
ゆらりとラチスールプ公爵の背後に炎が揺らぐように感じられる。
そしてゆっくりと視線が書類からエリク長官に向かう。
「昨日提出された…書類じゃと?」
まるでぶつぶつ言うかのように口から言葉が漏れる。
その表情に浮かぶのは、怒気だ。
ダンッ。
デスクが強く叩かれ執務室中に響き、その後にラチスールプ公爵の怒りの言葉が続いた。
「何を考えておるっ。今は、国家が貧窮に屈しているというのに、あんな膨大な予算も資材も許可できんわ!!」
希望されていた予算と資材は、実に重戦艦十隻分に匹敵する額と量だった。
逼迫している国庫からそんなものをポンポン出せるわけもない。
それはこの国の現状がわかっている者なら恐らく提案しないことであり、あまりにもその常識のなさに怒りはより大きくなったのである。
だが、その言葉に、エリク長官は怯むどころか、楽しそうにさえしている。
それがますます怒りに油を注いだのだろう。
ますますヒートアップした声量でラチスールプ公爵の叫びが響く。
「貴様ら親衛隊は、国家をなんと考えておるっ!国はお前らの遊び場ではないのじゃぞ!!それを、あれを用意しろだ、予算をよこせだ、まるで我侭なガキではないかっ!いい加減にせんかっ!」
しかしのその怒気の篭ったラチスールプ公爵の言葉にもエリク長官は怯まなかった。
ニヤニヤと笑いつつ、口を開く。
「いいえ。あなたはあの書類を承認します。承認するしかないのですよ…」
その口調は、淡々としていたが確信に満ちた言葉であった。
「承認するじゃと?」
怪訝そうな表情でラチスールプ公爵が聞き返す。
そこには、怒気ではなく戸惑ったような色が見える。
以前なら、ここまで怒鳴ればまず諦めていたというのに…。
こやつはなぜ、ここまで確信を持ったようにいえるのだ?
そんな考えがラチスールプ公爵の頭を掠める。
しかし、そんなラチスールプ公爵の戸惑いに関係なく、エリク長官は笑って言う。
「ええ。それしか手がないからです」
「なぜそう思う?」
「あなたには、政治力があっても武力がない。今混乱している国内を押さえ込む武力が必要ですからね。その武力を我々は持っている」
「確かに、お主の言うとおりだ。わしには武力はない」
「あなたには、望みがあるのでしょう?何をしても進みたい望みが…」
そう言ってニタリと笑うエリク長官。
その笑みは、あまりにもどろどろとした欲望にまみれていたが、それでもエリク長官の提案は、あらゆる物を犠牲にしても望んでいる未来があるラチスールプ公爵にとって無視できないものだった。
「お主は何を望む?」
「そうですな…。私の望みは、わが祖国を一つにすることです」
「一つにすることじゃと?」
「そう…。一つの意思にまとめ上げ、より強国とすることといったほうがいいのかもしれませんね。その手始めに…」
エリク長官がぺろりと自分の唇を舐めた。
そのしぐさは獲物を狙う肉食獣を連想させる。
「まずは…海軍の解体を実施…といったところですか…。国を守る武力組織は一つでいい」
その言葉にラチスールプ公爵の本能と経験が叫ぶ。
こやつは危険だ…。
国を潰しかねない化け物になると…。
恐らく、こいつの野望は、海軍を潰しただけではすまない。
その程度で満足するとは思えない…。
ラチスールプ公爵の背中に冷たい汗が流れ、なんとか表情が出ないように押さえ込む。
「ふ、ふむ…。そうか…。しかし、武力衝突などをすれば…」
「何を言うのです。いまさらでしょう…。長く続いた後継者争いに、フソウ連合や王国との戦争…。それらは武力がきちんと統一されていて分裂しなければ起こらなかったことではありませんか?軍がしっかりしていれば収まった事ではありませんか?」
確かにその通りだ。
後継者争いは軍部が割れたことでより凄惨な血みどろの戦いとなったし、戦争にしてももっと強力な軍であれば、東の劣等国に敗戦続きではなかったはずだ。
普段なら、そんな考えは所詮意味がないとわかり突っぱねただろう。
過去にはもう戻れないのに今更何を言っていると…。
しかし、すっかり疲労しきっていたラチスールプ公爵の思考はエリク長官の言葉を受け入れていく。
「ふむ…。確かに…。お前の言う事も一理ある…」
「でしょう?我々は武力をしっかりとして国の傾きを抑えたいのです。そしてあなたは政治で国の傾きを支える。互いにないものを提供しあうそれだけなのですよ」
「それは親衛隊に協力しろということか?」
「そうですね。いきなりこっちをとはいいません。当面表向きは中立で結構です。ですが、裏ででもかまいませんからこっちを優遇して欲しいとは思いますがね」
そう言われ、ラチスールプ公爵は考え込む。
確かに武力はきちんと一つに統一されていた方がいいのは事実だ。
だが、ネックになっているのは、こいつのあまりにも駄々漏れしている野望というか欲望の強さである。
ならばどうすればいい…。
少し考えた後、髭が動き、ラチスールプ公爵はニタリと笑う。
その笑みは、エリク長官と変わらないほどの欲望に満ちた笑みだった。
「いいだろう…。お主にかけよう…。その武力統一の為に必要なのじゃな?」
「ええ。その為に、この予算と資材の使用許可をいただきたいのです」
しばらく沈黙が執務室を包み込む。
にらみ合うかのように相手を見る視線が絡み合い、もし見えるとしたら火花が散っていたに違いない。
そして、最初に視線を伏せたのはラチスールプ公爵の方だった。
「わかった。なんとかしよう…」
そう言うとラチスールプ公爵は書類の束の一つに埋もれていた一部の書類を引き出すと、すでに押されていた印をペンで荒々しく消すと、それとは違う印を押す。
「これを会計部にまわせば、三日もしないうちに許可が下りる」
「はっ…。ありがとうございました。宰相殿」
恭しく書類を受け取り、エリク長官はラチスールプ公爵の執務室から退出しようとする。
その後姿に向けてラチスールプ公爵は声をかけた。
「成功を祈るぞ」
振り返り、エリク長官はニタリと笑う。
「ええ。もちろん成功させますよ」
そして出て行った。
ラチスールプ公爵はしばらくドアの方をじっと凝視していたが、すぐ近くにある紙にペンをにぎって書き留めると書簡にしまい、蝋で封をする。
だが、蝋に押す印には宰相として使うものではなく、家のものを使う。
それはあくまでも私通であるという証だ。
そして近くにあるベルを手に取ると振った。
カランカラン…。
その音に反応するかのように、横にある控え室に待機していた秘書が慌てて出てくる。
「何か御用でしょうか?宰相閣下」
「ふむ…。これを海軍省にいるビルスキーア・タラーソヴィチ・フョードル少将に直接渡せ。いいか、他のものではなく、本人にだぞ」
「はい。わかりました」
秘書は書簡を受けとると慌てて飛び出すように退出した。
ラチスールプ公爵の雰囲気にただならぬ事だと感じたのだろう。
そして、秘書が出た後、宰相はため息を吐き出して呟く様に口にする。
「ふんっ。互いに潰しあえばよいのだ…馬鹿者達めが…」
それは間違いなく、ラチスールプ公爵の本音であった。
反乱を起したクリチコの街には、住民一万人と賛同する下級兵士達や難民達によって、実に二万近い数になっている。
戦力として申し分ない人数だ。
それに、集まった人々の武器や装備は揃っていなかったが、それでも国に対して、今の国民を蔑ろにする政治に対して不平不満を持つものたちばかりであり団結している。
その上、クリチコの街は、不落の城塞都市と言われおり、言葉通りに高い城壁に囲まれ長い歴史の中で戦争によって陥落した事ない都市と言われていた。
その為、集まった人々の士気は限りなく高い。
それに、これだけの人数で反乱を行うのだ。
政府とて蔑ろにはできないだろう。
そんな思いがあった。
だが、そんな思いは、ただの甘い考えでしかないとすぐに考えさせられる事となる。
十三時三十分…。
それは説得も、布告もなくいきなり始まった。
重火器による無差別な砲撃だ。
使われているのは、榴弾なのだろう。
歴史ある建物が崩れ、火災が起き、街を火に包むだけでなく、破裂した砲弾が撒き散らす鉄片や建物が吹き飛んだ破片が人々を無差別に襲う。
即死できたものは幸せといえるのかもしれない。
手足を初めとして体の一部を失い、火に包まれ、半死の状態で放置される人々。
痛みが全てであるかのように怨嗟の声が辺りに響く。
最初こそ、助け出そうとしていたが、その人達も砲撃の餌食となり、結局は死体と半死の人々が作り出されていくだけだ。
そして、それには差別も区別もない。
その場にいた全ての人々に与えられる人災なのだ。
次々と人々が倒れていく。
そして助かったものも無傷ではすまない。
あれだけあった士気の高さも、思いも…今やどこにもなかった。
しかし、それで終わりではない。
人災は始まったばかりなのだ。
二時間の砲撃のあと、ゆっくりと親衛隊が街に侵攻を開始する。
生き残った人々はなんとか抵抗するが、それは微々たるものでしかない。
あっというに崩れ落ちた城壁は乗り越えられ、兵士たちが街になだれ込む。
人々は自分達の負けを悟り、降伏しようとする。
しかし、それはもう遅い事であった。
兵士達に下された命令は殲滅である。
全てを殺し、全てを壊せ。
それは老若男女関係なかった。
最初こそ躊躇していた兵士達ではあるが、狂気が辺りを包み込んでいき、命令だからと一人、また一人と兵士が人々を殺していく。
そして、一度タガが外れるとそれは当たり前のようになっていき、それはいつしかどす黒い悦びへと変わっていった。
兵士達の心が…白が黒に染まった瞬間だった。
その結果、街のいたるところで兵士達によって略奪や陵辱と殺害が続く。
すべては無に返すのだ。
何をやってもいいじゃないか。
兵士達の心がその思いに染まる。
いたるところで怨嗟の声と悲鳴が上がり、それに負けないかのように兵士達の狂気染みた笑いと銃撃の音、そして肉を叩きつぶす音が辺りに響く。
それは、一方的な虐殺であった。
こうして、夕日が当たりを照らして真っ赤に染めて夜になろうとする頃、地図に記された一つの都市が消滅し、帝国の人口が二万ほど減った。
それは、帝国全体から見たら微々たる数であったが、この出来事はこれから始まる地獄絵図の始まる狼煙となったのである。




