木下大尉の決意
二国間の対話が中断してから二十分後、フソウ連合の控え室はビリビリとした空気に包まれていた。
チャッマニー姫のあまりにも強い木下大尉への執着心に、ほとんどの関係者が焦りともイラつきとも取れる心境であった為だ。
そして、そんな中、対話が中断してからすぐに呼び出された木下大尉がやってくる。
「失礼します」
そう言って入室しょうとした木下大尉は、部屋のあまりにもピリピリした空気に思わず入室を躊躇いそうになった。
しかし、それで戻るわけにもいかず、「ふーっ」と息を吐き出し、気を引き締めると部屋の中に入った。
「木下、お呼びという事で只今到着いたしました。御用はなんでしょうか?」
敬礼してそう言うと、木下大尉の所属する諜報部の責任者である川見大佐が苦虫を潰したような顔でぎろりと木下大尉を見ると、用意してある椅子に座るように言った。
そして木下大尉が椅子に座ったのを確認すると、川見大佐が口を開いた。
「君は大切な事を報告していないんじゃないのかな?」
その言い方に、怪訝そうな顔で聞き返す木下大尉。
「報告していない事…ですか?」
「そうだ。とても大事な事を報告していないようだから、その確認のために呼んだんだ」
そう言ったのは、経済部の責任者であり、カオフク地区責任者でもある新田慶介だ。
彼も川見大佐ほどではないが、渋い顔をしている。
「どういう事でしょうか?」
そう聞き返す木下大尉に川見大佐が痺れを切らしたのか、木下大尉が言い終わらないうちに口を開く。
「君は、チャッマニー姫殿下と個人的な付き合いがあるらしいな…」
その言葉で何を言いたいのかわかった木下大尉の顔から血の気が引いたが、意を決したのだろう。
その場にいる全員の顔を見回した後、木下大尉は口を開いた。
「どういう経過でその事を聞かれたのかわかりませんが…事実です」
その言葉には腹を据えた決心といったものが感じられる。
だが、それが何になるというのだろう。
事実を確認し、川見大佐はあきれ返り、新田は頭を抱えていた。
いや、二人だけではない。
一人を除いて、その場にいた全ての関係者がほとんどこの二人と同じような反応だった。
「姫殿下から話が出たときは、まさかと思ったが…。本当とはな…。さて、この件に関してどうしてくれるんだね?」
そんな空気の中、新田が最初にそう言って睨みつけるように木下大尉を見ると言葉を続けた。
「よりによって一国の姫をたぶらかして弄ぶとは…。君は何を考えているんだ?それも未成年者を…」
その発言に、木下大尉はにらみ返して口を開く。
「確かにその点を報告しなかったのは、自分のミスであり、過失は認めます。しかし、その言葉は撤回していただきたい。はっきり言います。彼女との関係は、そんなものではありません。ましてやたぶらかしたとか弄んだとか言われる筋合いはありません」
「な、何を偉そうにっ…。貴様のおかけでアルンカス王国との同盟がご破算になるかもしれないんだぞ。その責任を取れるというのかっ」
怒りでブルブルと震えつつそう言って新田は木下大尉に掴みかかろうとする。
それを周りの人間がなんとか押さえ込むが、押さえ込みつつも木下大尉に向けられる周りの人間の視線は冷たいものだった。
それはある意味、仕方ないのかもしれない。
コツコツやってきたものが、大詰めになってひっくり返されるかもしれないのだ。
そういった気持ちにならない方がおかしいだろう。
それは木下大尉もわかっているのか、何も言わずにただその視線に耐えているようだった。
そんな険悪な雰囲気の中、川見大佐がまるで心の奥底を覗き込むように木下大尉をじっと見据えて口を開いた。
「大尉、新田殿の気持ちはわかるな?」
「はっ。わかります」
「ふむ。なのにあえて言い返した理由は何だ?」
「いくら責任があるとしても、事実無根な事を言われてそれを受け入れるつもりはありませんし、それとマム…チャッマニー姫殿下はそんなに簡単にたぶらかされるような人ではないからです」
「ふむ。なら新田殿が言った事は違うと?」
「はい。フソウ連合の法律に触れるような事は一切しておりません」
「誓えるか?」
「はいっ。自分の軍人としてのプライドをかけて」
真剣な目でそう告げられ、川見大佐は苦笑した。
そして、新田に顔を向ける。
「新田殿、どうやら彼の言っている事は事実のようだ。発言を撤回していただきたい」
その川見大佐の言葉に、木下大尉は驚き、新田は怒りに満ちた表情のまま口を開く。
「そんな男の言う事など信じ…」
しかし、その言葉は最後まで言う事は出来なかった。
新田を見る川見大佐の目が殺意を含んだモノに変化していったためだ。
「私の部下を愚弄しないでいただきたい…」
怒気の含まれる言葉が川見大佐の口から漏れる。
その怒気の含まれた言葉と殺気のこめられた視線の前では、大抵のものなら動けなくなるだろう。
だが、そんな雰囲気を、ぶち壊す者がいた。
ただ一人、腕を組んで話の一部始終を見守っていた者……鍋島長官だ。
「やめないか、二人とも。ここで我々がいがみ合ったとしても何も生み出さないし、進展もない。落ち着きたまえ」
パンパンと手を叩き、二人を宥める。
その落ち着いた態度と正論に、二人は毒気を抜かれたのだろう。
「そうですな…」
そう言って新田が息を吐き出す。
「申し訳ありません、長官」
そう言って川見大佐が長官に頭を下げた。
そして二人はお互いの顔を見て頭を下げる。
「すまんかった。憶測でものを言いすぎた」
「こちらこそ、熱くなりすぎました。申し訳ありません」
その様子をうれしそうに見た後、鍋島長官は木下大尉の方に視線を向けると懐から封筒を取り出した。
「今朝、この嘆願書を受けたときはなぜかわからなかったが、そういう理由があったというわけだね…」
その言葉に、木下大尉はただ無言で頷く。
思わず気になったのだろう。
新田が封筒を見つつ聞いてくる。
「それは?」
「これは木下大尉の嘆願書だ。アルンカス王国の駐在武官として残りたいと希望が書かれている」
鍋島長官の言葉に、新田と川見大佐が驚いた顔で木下大尉を見る。
「お前…そこまで…」
「そうか…」
二人の口からそれらの言葉が漏れ、冷たく厳しかった視線が柔らかいものになった。
今回のアルンカス王国での仕事は高い評価を受けており、木下大尉は本国に戻れば間違いなくエリートコースに乗って出世するだろう。
だが、反対にここで駐在武官として残ればその道も断たれてしまう。
なのにだ。
木下大尉は、出世や権力よりもここに残る事を選択した。
それほどの決意があるという事が二人にわかったからこそ、そんな言葉が漏れたのだ。
「ふむ。僕としては、君の希望を優先させたい。だがその反面、実に惜しい気がするがね」
そう言う鍋島長官に「すみません」と頭を下げる木下大尉。
「いやいや、気にするな。こっちの愚痴だ」
そういって苦笑した後、真剣な表情になって鍋島長官は再度確認する。
「本当にいいんだな?」
「はい」
「姫殿下はまだ十一歳だからな。少なくともあと七年は待たねばならない。だから百パーセント姫殿下と一緒になれるとは限らないぞ。それでもいいのか?」
「わかっています。ですが、それでもお願いします」
「ふむ。わかった。君の希望を優先しよう。だが、その前に姫殿下との話を話してくれないか?」
その鍋島長官の言葉に、木下大尉は頷いた後、チャッマニー姫ではなく、マムアンとの事を話し始める。
何気ない出会いから始まり、段々と色々話すようになった事。
フソウ連合の使者として王宮を訪ねたときに、お互いの立場かわかった事。
お互いの立場がわかった後も会っていた事。
それらの事をきちんと話していく。
そんな中、話が進んでいくにつれて厳しい目をしていた他の者たちの態度にも変化が見え始めた。
まるで昔を思い出すかのような表情を浮かべるもの。
仕方ないなといった表情を浮かべるもの。
ニマニマした笑いを浮かべるもの。
かゆくなったのか背中をむずむずさせるもの。
そして話が終わった後には、もうその場には木下大尉に厳しい目を向ける者はいなくなっていた。
しばしの沈黙が辺りを包み込む。
だが、それは非難めいたものでも、ピリピリしたものでもなかった。
どちらかというと、見守りたいという感じの暖かなものに近かった。
お人よしだな、僕らは…。
雰囲気からそんな事を思いつつも、悪い気はしないなと鍋島長官が思ったときだった。
怪訝そうな顔で新田が口を挟む。
「ふむ。確かに我々がどうのこうのいう話ではないのがわかった。それに大尉の希望も理解出来た。たが、今回の事が公になった場合、他国や国民はどう思うだろうか。変にマイナスにとる連中が出てきたりしないだろうか…」
その言葉に、対話に参加していた一人の関係者が頷きつつ口を開く。
「確かに、中には王女をたぶらかしたという嫌がらせを言い出す連中がいないとも限らないですね…」
「まぁ、人に対しての恨みや妬みは、大きな原動力になりえますからな」
川見大佐があきれつつも同意の意を示す。
どちらにしても、上げ足をとりたい連中にとっては、いいスキャンダルの材料でしかない。
どうしたものだろうか…。
誰もがそう考え込んだときだった。
「なら、そういう事を言われないようにしてやればいいんじゃないかな…」
鍋島長官が悪戯っ子のような笑顔でそう言う。
「なにか方法があるのですか?」
そう聞き返す川見大佐に、鍋島長官は笑って答える。
「今回の件は、アルンカス王国にとってもスキャンダルになってしまう可能性がある話だ。だが、変に隠すのはもっとも下策だと思う。なら、アルンカス王国を巻き込んでちょっといい話にして公開してしまえばいいんじゃないかと思ってるんだが、どうかな?」
その言葉に、今まで黙って聞いていた東郷大尉の目が光ったような気がした。
どうも乗り気のようだ。
そして、それは他の者たちも同じなのだろう。
こうして、対話の再開の時間までどういった話でいくかを話し合うこととなったのである。




