日誌 第百四十七日目 その4
「少し遅くなってしまったな…」
そう言いつつ東郷大尉と長官室に戻ってきたのは十八時を過ぎた頃だった。
まだデスクの上には書類がいくつか重なっていたが、東郷大尉の話では別段急ぐものはないとのことで今日はこのまま仕事を上がる事にした。
「うーんっ。面白かったんだが、やはり五時間近く座っていたらきついな…」
そう言いつつ、僕は背を伸ばしたり、身体の関節を動かしたりする。
「ふふっ。そうですね。椅子がもう少しいいやつだといいんでしょうけど、折りたたみ椅子だと結構きついですね」
東郷大尉も苦笑してそう言うと、少し身体を動かす。
「ああ。そうだな。だから劇場では、かなりいい椅子を用意するらしい。クッション入りとか聞いたぞ」
そう答えつつ、視線を大尉に向けると、ちょうど腰に両手を当てて身体を軽くそらしている。
そうなると自然と胸を強調する格好になるわけで…。
いかん。いかん…。
すーっと視線をそらす。
何かの雑誌で、女性は男の視線の先に気が付いているという特集があったな。
だから、視線の先には気をつけなければならない。
それに、あんな映画見た後だと、やっぱり意識してしまう。
年末、年始のうやむやのまま、時間だけが過ぎている。
東郷大尉は何も言わないけれど、きっと僕の決断を待っていると思うんだよな。
でもな…。
踏ん切りと言うか、迷いがあるというか…。
いや…。
多分、僕が臆病なんだと思う。
今の関係を崩したくない。
そんな思いが強いんだと…。
ふーっ。
息を吐き出し、身体をひねった時だった。
右ポケットに違和感を感じた。
あ…。
そういえばまだ見てなかったな…。
杵島中佐から、的場大佐からの封筒を受け取ったのを思い出す。
まぁ、もう周りには人がいないし、ここでなら別に見てもいいよな。
そう思ってポケットから封筒を出して中身を確認する。
どうやら手紙のようだ。
便箋に、丁寧な時で文字がつづられている。
なかなか達筆じゃないか。
綺麗で読みやすい字だな…。
そう思いつつ、飲み進めていくと…
「えっ…。嘘だろう…」
思わず口から言葉が漏れた。
僕の言葉に少し驚いたのだろう。
慌てて東郷大尉が聞いてくる。
「ど、どうしたんですか?」
その声に、「あ、ああ…」と生返事をして、再度読み直す。
間違いなく読み違えではないようだ。
そして、手紙から視線を東郷大尉に移すと、ため息を吐き出して口を開いた。
「的場大佐と杵島中佐…六月に…結婚するらしい…」
「えっ?!」
東郷大尉もきょとんとして動きが止まった。
少し考え込むかのような表情。
どうやら、僕の言葉を脳内で反芻しているようだ。
そして、しばしの沈黙の後、東郷大尉は素っ頓狂な声を上げた。
「うそーっ…」
どうやら東郷大尉も知らされていなかったようだ。
「そう思うだろう?でも嘘じゃない…。おまけに…仲人を僕に頼みたいらしいんだ…」
なんとかそう言って、手紙を東郷大尉に見せる。
手紙を受け取って慌てて目を通す東郷大尉。
しっかりと確認して手紙を僕に返すと、大尉の表情は今度は驚いた表情からほっとしたような表情に変わっていた。
「そっか…。マリさん、思いを叶えたんだ…」
ぽつりと呟くように言った後、今度は少し怒り出す。
「でも…私に知らせてくれてもいいんじゃないかなぁ…。あんまりだよ。相談だってのるのにさ…」
その様子に、僕は落ち着くように言う。
「まぁ、まぁ、まぁ…。知らせる暇がなかったんじゃないかな。この手紙の日付が一日前って事は、こっちに杵島中佐が来る前の晩に急いで書いたんだと思うよ」
僕の言葉に少し怒りが収まったのだろう。
東郷大尉の口調が今度は少し拗ねたような口調に変わる。
「そうだといいんですけどね…。でもなぁ…。会った時に一言欲しかったなぁ…」
「ドタバタだったからね。なんなら、杵島中佐、今日はこっちに泊まると思うから会って来たら?久しぶりなんだろう?二人で飲みにでも行って来たら?」
「そうですね。少し愚痴ってやろうかしら…」
「まぁ、めでたいんだからほどほどにね」
僕はそう言いつつも、ため息を吐き出した。
「どうしたんです?」
「いやね、結婚するのはめでたい事だと思うし、祝福したいと思うんだけど…」
「けど?」
不思議そうな顔で覗き込む東郷大尉。
僕はその顔を見ながら苦笑を浮かべる。
「いや、何で仲人が僕なのかと…」
「そうですね。普通は年配者がしますよね」
「そうだろう…。上司とかさ…」
「でも、今の的場大佐の立場なら、上司って長官になりません?」
首を少し傾けつつ東郷大尉が聞いてくる。
「いや…山本大将が…」
そう言いつつ指揮系列を頭の中で思い描く。
そして思い出した。
イタオウ地区と東部方面部を同時に統括する為、的場大佐は山本大将配下から、長官直属に変更していたんだった。
つまり、上司は僕と言う事だ。
「し、しまったーーーーっ。まさか…こんな事になるなんて…」
がっくりと身体の力が抜けてソファに座り込む。
そんな僕を苦笑して見ていた東郷大尉だったが、さすがに慰めなようと思ったのだろう。
「まぁ、まぁ…。私だって結婚、まだ先だって思ってましたもん」
そう言って僕の隣に座るとポンポンと肩を何度も叩く。
それがまるで小さい子供が慰められているようで情けないものの、それはそれでなんかうれしいと思う自分がいた。
少し東郷大尉に慰められたあと、デスク回りの整理をして帰り支度を終わらせると長官室から出る。
そしてすぐ隣の部屋の受付の席にいる東郷大尉に声をかけた。
「どう?連絡ついた?」
ちょうど東郷大尉も帰り支度が終わったのだろう。
小さなバックだけを持ち、大尉は立ち上がりかけていた。
「あ、はいっ。連絡つきました。広報部にまだいたので内線で捕まえました」
「そうか。なら行くんだろう?」
「はい。一旦戻って私服で出かけてきます」
「なら楽しんでくるといい」
「はい。ありがとうございます。後、帰りはそんなに遅くはならないと思いますので…」
そう言った後、東郷大尉は少し考え込み、悪戯っ子のような表情を浮かべて聞き返す。
「マリさんに伝言あるなら伝えますけど…」
その言葉に、僕は苦笑して言う。
「豆腐の角に頭をぶつけてしまえって言っておいてくれ」
「わかりました。長官が大変ひがんでいたと伝えておきます」
「いや…大尉、それは違うぞ。確かにひがんでいないといえば嘘になる。しかしだな…」
くすくす笑いつつ東郷大尉が僕を置いて歩き出す。
「ち、ちょっと、大尉。僕は仲人をするのがね…、だからその辺をだな…」
「はい、はい。わかっています。わかっていますから」
笑いつつそう返す東郷大尉を、僕は言い訳をしつつ慌てて追いかけたのだった。




