日誌 第百十日目 その3
夕食が終わり、風呂の前に作業室で今日買い込んだ模型や材料の整理をしているとトントンと遠慮がちにドアが叩かれた。
ドキリと心臓が高鳴る。
すぐに相手が誰だかわかってしまう。
ふう…。
息を吐き出し、吸い込む。
それを二回くり返した後、口を開く。
「どうぞ」
そう言ってドアの方に身体を向ける。
僕の言葉に、遠慮がちにドアが開いた。
「只今戻りました、鍋島さん…」
そう言って少し恥ずかしげに僕の前に立つのは予想通り東郷さんだ。
多分、荷物なんかは部屋に置いて着替えてきたのだろう。
いつも通りの身軽な格好になっている。
いつも通り…。
そのはずなのに…。
なんか少し気恥ずかしいが、それをなんとか抑えつつ聞く。
「どうだった?実家の方は…」
「はい。おかげさまでいい骨休めが出来ました。それに父も母もお土産すごく喜んで…。本当にありがとうございました」
僕の問いに東郷さんはうれしそうにそう言って頭を下げる。
どうやら僕が選んだお土産は気に入ってもらったらしい。
やはり、東郷さんに相談して決めてよかったと思う。
「いやいや。東郷さんが選ぶのに協力してくれたおかげだよ。本当に助かったよ」
「いえ。私は少しお手伝いをしただけで…」
「いや、それが重要だから…」
「でも…」
「だから…」
互いに言葉が続かず、下を向いて黙り込む。
もっとも、何か言わなければとは互いに思っているのだろう。
互いにちらちらと相手を見るものの、何を言っていいのかわからない為口が開かない。
以前なら、何気なく出来た事ができなくなっていた。
恐らくだが、そうなってしまった原因はわかっている。
彼女も僕も今までの付き合いで一度出来上がっていた距離感が、あの波止場の出来事で壊れてしまったのだと思う。
だから、その距離感がつかめず、どうすればいいのかわからないのだろう。
何か言わなきゃ…。
そうは思うけど、なにを言うべきだろうか…。
「あ、あのさ…」
何も考えずになんとか口を動かす。
「は、はいっ」
僕の声にびくっと反応し、東堂さんが少し緊張したような声を上げる。
「えっとだね…。晩御飯食べた?」
何を言ってんだよ、僕はっ…。
もっと気の聞いた事を言えよ。
自分の不甲斐なさに情けなくなる。
「はっ。はいっ…い、いえ…。食べてませんっ」
東郷さんがなんとか上ずった声でそう答える。
「そ、そうか。下におでんがあるから、それを温めて食べていいから…」
「はい。ありがとうございます…」
「鍋は…いつもの大きなやつだから…」
「はい、わかりました…」
「………」
「………」
そして、また沈黙…。
いかん。
いかんぞ。
このままだと明日からの職務にも支障が出るのは間違いない。
それに何より、この有様を三島さんか知ったらどうなるだろうか。
いや、三島さんだけじゃない。
それ以外の人でも大変な事になりそうな予感がする。
そうなると…。
すーっと背中に汗が流れる。
一番いいのは、今ここではっきりさせる事だ。
しかし、それがすごく怖い。
マイナス思考ではないつもりだが、ネガティブに染まっていくかのように否定的な思考ばかりが先行していく。
断られたらどうしょう…。
たったこれだけの事のはずなのに…。
今までの人生でこれほど怖い事があったとは思いもしなかった。
そう言えば、高校のときの友人が言ってたっけ。
怖いのは、それだけ思いが詰まっているからだと…。
思いは、重いんだと…。
その時は、そんなもんかと思ったけど、まさか本当にそう実感する時がくるとは思わなかった。
出来れば、もっと気軽な方がいいんだけどね。
そうは思うも、もう無理なわけで…。
何度も決心しかけては、怖さに負けて決心が鈍る。
それを何度も繰り返す。
どれほど時間が経っただろうか。
多分、本当は数分も経っていないのかもしれない。
しかし、実に長い時間が過ぎていくような感覚だ。
どうしょう…。
そう思ったときだった。
いきなり流れる着信音に、僕と東郷さんの身体がびくりと反応する。
僕のポケットに入っているスマホがかすかに揺れていた。
「えっと…電話だね」
「ええ。みたいですね。どうぞ…」
そう言われ、僕はポケットからスマホを出すとチェックする。
電話相手は、星野模型店からだ。
多分、光二さんあたりからで、アパートやマンション管理に関しての事だろうな。
それ以外で、電話はかかってきた事はほとんどない。
「ごめん…」
そう言って東郷さんに断って電話に出る。
やはり、アパートやマンションの管理の件だった。
何でも新年早々トラブルがあったようだ。
水回りのトラブルのようで、知り合いの業者に連絡を入れてすぐに対応をしてもらうから、それ以上被害が出ないように対処をお願いした。
そして、電話を切る。
「何かあったんですか?」
「ああ。水回りのトラブルらしい。建物なんかも痛むし、他の部屋にも被害がでるかもしれないからそのまま放置っていうわけにもいかないからね」
僕はそう言うと、知り合いの業者に電話しようと、スマホを操作する。
そんな僕の様子を少しほっとした表情で見つめた後、東郷さんはニコリと笑って言う。
「じゃあ、おでん、ご馳走になってきます」
「ああ。ごめんね」
「いえいえ。それに…」
そこで言葉が途切れ、思わず気になって視線を東郷さんに向ける。
スマホから呼び出し音が聞こえる中、彼女は微笑んだ。
「私、鍋島さんがきちんと言えるまで待ってますから…」
恥ずかしそうにそう言うと、顔を見られたくないのだろう、東郷さんはドアを閉めてしまった。
パタンというドアが閉まる音が響く。
「えっ…今のって…」
そう僕の口から言葉が漏れたのと同時に、呼び出し音が鳴り止み知り合いの業者の声がスマホから聞こえてきたのだった。
今回はすごく短いのですが、区切りがいいのでご勘弁を…。




