日誌 第百四日目 その1
ほとんど徹夜に近かったために、ぼんやりとした頭をはっきりさせるべく濃いめのコーヒーを口に運ぶ。
さっき東郷大尉がいれてきてくれたやつだ。
もちろん、いつものようにブラックである。
そして、飲みつつデスクに積まれている書類の束に目をやる。
コーヒーカップから離れた口からため息が漏れた。
昨日、あれだけやったのに、次の日には書類のタワーが復活してる…。
だが、これでも東郷大尉がかなり選別しておいてくれるから助かっているわけで、もしされていなかったらと思うとゾッと寒気がする。
今の僕の仕事は、彼女がいるおかげで何とかなっているのがわかる。
本当に頼りになるな…。
そんな事を思いつつコーヒーを飲み干すと、パンパンと両手で両頬を軽く数回叩いて気合を入れる。
午前中は、書類整理。
午後からは明日の議会の為の資料作りと負傷兵への見舞い、それに幕僚との打ち合わせといった感じで予定がびっしりと入っている。
やばいなぁ…。
ブラック企業よりブラックかもしれん…。
そんな考えが一瞬頭を過ぎったが、すぐにその考えを打ち消した。
なぜなら、ブラック企業なら、ここまでの充実感を与えられる事はないからだ。
それにサービス残業はほとんど無い。
まぁ、もっとも非常時とかは別であるが…。
ともかく、きついものの、辞めようという気にならないのは大きいと思う。
そんな事を思いつつ、書類を整理していく。
そして二時間程度が過ぎて三分の一程度の書類整理が終わった頃だろうか。
なんか、長官室の前が騒がしい。
なんだ?そう思ってドアのところに視線を向けると、それを待っていたかのように派手な音を立ててドアが激しく開け放たれた。
「長官にお聞きしたい事がありますっ!!」
そう言って入ってきたのは的場少佐だった。
頭と左手を包帯で巻き、顔にはいくつかの痣がある。
多分、今回の激戦で負ったものだろう。
そんな彼が荒い息をして真剣な表情で僕を見ながら叫ぶように言うのはなかなか鬼気迫るものがあった。
そして、それを杵島少佐と東郷大尉の二人がなんとか止めようとしていたようだが、いくら怪我人とは言え、女性二人では無理だったようだ。
「的場少佐っ、駄目ですっ…」
「気持ちはわかるけどっ、リョウちゃん駄目ってぇ…」
ふむふむ。
杵島少佐と的場少佐は付き合っていると聞いていたが、良治だけにリョウちゃんか。
なんかかわいいじゃないか…。
じゃなくって…。
多分、僕は的場少佐が来る事をなんとなくわかっていたような気がしていたのだろう。
かなり落ち着いて対応できた。
「いいよ。話を聞こうか」
僕はそう言って立ち上がるとソファに向かう。
その僕の様子に少し驚いた表情を見せながら東郷大尉が聞いてきた。
「いいんですか?」
聞き返してくる東郷大尉に微笑を返して頷きつつ、「ああ。それとコーヒー頼むよ」と言って的場少佐と杵島少佐の二人にソファを勧めた。
二人が座ると二人を交互に見たあと、口を開く。
「で、聞きたいこととは何かな?」
僕はそう言って視線を的場少尉に向けた。
多分、あの件のことだろう。
予想はついていたが、一応、きちんと聞いておく。
「最上の事ですっ!」
ずいっと身体を乗り出して聞いてくる的場少佐。
それを何とか宥めようとする杵島少佐。
なかなかいいカップルのように見える。
いやいや、そんな事は今は関係ないか…。
しかし、思ったとおりの問いかけに、僕は少しほっとした。
いきなり知らない事を聞かれても、なんと答えたらいいのか分からない。
僕は、何でもわかる賢者ではない。
ただの知っていることを知っているだけの一般人にしか過ぎないのだから。
その落ち着き払っている僕の様子に何か勘違いしたのだろう。
「昨日、ドックに最上がいたはずです。なのに…今朝には最上の姿が無い。どういうことですかっ!!」
普段の彼からは信じられないような焦りとイライラが感じられる。
それだけ最上の事が大切なのだろう。
そういえば、以前、最上が的場少佐と一緒に仕事がしたいと直談判をしに来たっけな。
そんな事を思い出しつつ、僕は口を開く。
「落ち着け、少佐。最上が心配なのはわかる。だが、落ち着くんだ。君は怪我人だし、彼女も心配しているぞ」
僕がそう言うと、的場少佐はハッとして横を見た。
その視線の先には心配そうに宥め寄り添う杵島少佐の姿がある。
「すみません…。つい…」
「いいよ。きちんと説明しなかったのは悪いと思ってる。的場少佐は最上の状態をどれくらいわかっている?」
僕の問いに、的場少佐はぐっと手に力を入れて決心したように口を開いた。
「自沈処理してもおかしくないほどだと聞いています…。後…最上に資材や労力を費やすより他の艦に回した方がいいとも…」
的場少佐の視線が段々と下がっていく。
そして呟く。
「あの時、あんな無茶な事を言わなければ…」
最後の方は、声が震えていた。
後悔と無念さに満ち満ちた懺悔の様な声だった。
そんな的場少佐の背中を撫でて慰める杵島少佐。
その様子を僕は黙って見たあと、「ふう…」と息を吐き出す。
「的場少佐の認識どおりの状態だ。このままでは、廃艦になる可能性が限りなく高い。そしてその状態になった責任は僕にもある。だから、出来る限りの事をしようと思っている。その為に、今、最上は特別なところで修復している」
僕の言葉に下を向いていた的場少佐が顔を上げる。
「じゃあ…」
そう口にして僕を見る彼は、まるで一本の糸にすがりつこうとするかのようだ。
だが、そんな彼に言わねばならない。
僕は心を殺して口を開く。
「だが、以前と同じ人格ではない恐れがある…」
「それは…どういう…」
聞き返す的場少佐に昨日聞いた三島さんの話をする。
付喪神と言う存在は、それに関する人達の思いが形になったものであり、一定の形をしておらず、付喪神の魂の部分は器の些細な差によって変化してしまうほどデリケートで繊細なものである。
だから、新しい同じような器に付喪神を宿し直したとしても、以前と同じ人格になるとは限らないし、以前の経験を維持できているかわからないという事。
そこまで話を聞いて、的場少佐は力なく再び下を向き、その肩は小刻みに震えている。
「だから、絶対とはいえないが…」
そう言いかけたとき、がしりと的場少佐の両手が僕の手を掴む。
そして、顔を上げた彼の顔は涙で濡れていた。
「長官…最上を…最上を…俺の親友を……お願いします」
「わかった。出来る限りの事はする。だから…もう少し待っていてくれ…」
そんな僕の言葉に、ただ頷く的場少佐。
そしてそんな彼を支える杵島少佐。
本当なら、全ての仕事を後回しにしても彼の思いに答えたいと思う。
しかし、それが許されるのは、プライベートな時だけだ。
フソウ連合海軍司令長官であり、フソウ連合の一角を背負うものとして、個人の感情だけで動く事は許されない事だろう。
だから…すまない…。
僕はそう心の中で思いつつ、的場少佐の手を握り返すことしか出来なかった。




