魔女 対 魔術師 その1
アンネローゼは、この街の建物の中でも一番高い建物であり、値段の高い真新しいホテルの最上階の窓から下を見下ろしていた。
その顔に浮かぶのは、慢心の笑みだ。
王国の時に比べると実に簡単だった。
王国の時は、実に三ヶ月はかかっただろうか。
だが今回は、自分で用意する手間も準備もそれほどかからなかった。
そのうちに何かやるつもりでこの国の諜報部が準備していたものをそのままごっそりと利用させてもらったのだから、実にあっけない。
それに、ここでの生活は快適だった。
もちろん、全部が全部ではないものの、この地でこのまま生活し続けていてもいいかなと思えるほどには…。
ただ、あの男…カワミという男の事だけが不愉快だった。
フソウ海軍の諜報部の男。
好みじゃないと言う理由で、私の魔法を破った男。
私の女としてのプライドを踏みにじり、泥を塗った男。
そして、私の思うままにならなかった唯一の男。
あの男は、絶対に私に跪かせる。
私の下僕にしてやる。
私の欲望のままに使い、ボロボロになったらぼろ雑巾のように捨ててやる。
絶対に…。どんな事をしてもだ。
そのためなら、どんな事もしてやる。
心の中でどす黒い炎が熱く、大きく、より激しく燃え上がり、炎の先が蛇の舌のようにちろちろと蠢く。
それと同時にゾクゾクした喜びが背筋を走る。
それは今までに感じた事のないものだ。
だが、あわててそこで思考を切り替える。
今考える事はあの男の事ではない。
この暴動に関して連中がどう対処するか、そして、それに対してどう対応するかという事だ。
だが、ここまで火が付いてしまえばあいつらもそう簡単には鎮圧できまい。
だから、あまり心配はしていない。
現に、今や数千人ほどになった暴徒の波に、かなりの公共施設が飲み込まれ、この地区の警察機構は対応しきれていない。
軍の方が少し妖しい動きをしているものの、まもなく祖国の帝国海軍海兵隊が上陸する手はずになっている。
そうなるともうこの地区にある軍ではどうしようもないだろう。
一気にこの地区が瓦解するのは間違いない。
フソウ連合の軍の弱点。
それは圧倒的な海軍力に比べて、貧弱すぎる陸軍がある。
そのために、諜報部が発達しているようだが、それでは少数の敵には対応できても組織的な敵の攻撃の前には無力でしかない。
これで海戦でも我々が勝てば、イタオウ地区一帯は帝国の支配下に納める事が出来るだろう。
それは、フソウ連合を切り崩し、占拠する為の第一歩になるに違いない。
また、もし海戦で負けたとしても、この暴動はこの国に大きなダメージを与える事に変わりはない。
私さえ生きていれば、この程度の事など何でもやれる事だ。
もっとも、まぁ、手ごわい相手は居るようだが、それはそれで面白いし、なによりこの私が負けるはずがない。
そんな事を思っていたときだった。
ぷつんっ…。
まるで糸を切るような感覚で、結界の一つが壊された。
ぷつんっ…。
また一つ…。
このホテルを包み込むように作られたいくつもの結界。
それは、敵が入ってきた事を知らせるものであり、自分の力をより倍増させる為のものであり、そして、一番大きいのは、この結界…いいや、ある意味、自分にとっての聖域と呼んでいいだろう…では、自分に向けた攻撃を防ぐということにある。
この聖域の中にいる限り、この前のように銃なんて野蛮なもので撃たれる事はない。
それこそ、砲撃でもされたら別だろうが、それでも決定的なものにはならないだろう。
なんせ、ここに来てから、ずっと手間をかけて作ってきたものだ。
だから、かなり自信がある。
だが、それが少しずつではあるが、壊されていくのがわかる。
いくつもの結界、それもわかりにくく感知しにくいように絡ませていたものが、するっとまるであやとりのように簡単に解けていっているのだ。
つまりは、それほどの相手だということだろう。
すーっと手を動かしてテーブルの上に置いてあった細い金細工の腕輪を手首にはめる。
デザインが懲りすぎというか、自己主張しすぎであまり自分的には好みではないものの、今はそんな事を言っている暇はない。
なんせ、自慢の結界を解きつつ、近づいて来るものがいるのだ。
準備は万全にしておかなくては…。
脳裏に浮かぶのは、倉庫での一件。
あの時に受けた傷がまだ痛む。
あの時は、油断しすぎて怪我を負ってしまったが、あんな事は繰り返さない。
もっとも、こいつを使う事になるほどのことにはならないと思っているのだが…。
そう思いつつ、その腕輪を渡してきた男を思い出す。
キザなナルシストの薄っぺらい男…。
まぁ、転移魔術に関しては超一流だが、それ以外は何もかも、それこそベッドの中でさえも独りよがりでほとんど楽しめなかった今までの男の中でもっとも最低な男。
その男が恩を着せるかのように置いていった物だ。
だが、この物の魔術道具としての価値は、変わらない。
だから使ってやろう程度のものだ。
おっと…そろそろお客がこの部屋にたどり着きそうだ。
早速お出迎えしてあげなくてはね…。
そう思いながら、アンネローゼはぶつぶつと術式を呟き始めた。
狙撃銃のスコープを覗きながら、部屋の様子を伺う。
窓際にいる今なら絶好の狙撃チャンスだろうが、三島小百合からは私が合図するまではするなときつく言われている。
なんでも、かなり高位の結界が張られており、あの結界内ではほとんど銃は役に立たないだろうとのことだった。
本当にそうなのだろうか。
普通に見た感じ、何もないのだが…。
そう思い、スコープを覗きつつ指を引き金にかける。
そして、いつでも撃てる体制になった瞬間だった。
ぐらりっ…。
スコープの中の視界がまるで解けていくかのようにひね曲がっていく。
それは飴細工が融けていくかのように感じられた。
慌てて川見中佐はスコープから目を外す。
そして、周りが普通に見える事を確認し、何度も深呼吸をして再度スコープに目を近づける。
そこに見える景色は、周りの景色と同じできちんとしたものであり、さっき見えたのが嘘のようであった。
しかしだ。
殺意を込めた瞬間、それは別世界のようになる。
なるほど…。
彼女がするなといった意味がわかった。
これでは当たるどころか、狙う事さえ難しい。
それどころか、狙撃されたという事実は、相手を警戒させる事にしかならないだろう。
ふーっ…。
息を吐き出し、落ち着かせる。
魔術に関しては、自分よりはるかに彼女の方が詳しいし、対処の方法さもわかっている。
彼女の指示に従えばいい。
素人が色々やってうまくいくはずもないのだから。
しかしだ…。
なぜだろうか。
彼女の前でいいところを見せたいという気持ちが少しある気がした。
それを川見中佐は苦笑して、心の奥に押し込んだ。
まだまだ若いな…俺も…。
女性にいいところを見せたいと思うなんてな。
そう思いつつも、今はじっと彼女の合図を待つほかない。
雪山の中、息を殺し、獲物を狙う狩人のように…。
歩きながら、複雑な結界を解いていく。
よく練られて作られた厄介な代物だと思う。
だが、私にとっては少し厄介かなと思う程度だ。
難易度が高いとは思うが、歩きながらでも解ける。
その程度のものだ。
もっとも、そろそろきついのがあるのがわかる。
この結界の大元であり、基礎となっているものだ。
最上階を全て覆うように張られたその結界は、解除を専門とする私でさえもかなりの難易度だろう。
今までの歩きながら出来たものと違い、時間が必要になるほどだ。
多分、専門の魔術師でなければ、下手すると何十時間もかかるかもしれない。
だが、もう何回も魔女の結界を解かしてきたため、この魔女の癖というか解くきっかけはわかっている。
まぁ、それでも数分は稼ぐ必要はあるかな…。
そんな事を思いつつ、三島小百合は、最上階にたどり着く。
その階層には、むわっとするほど魔力に満ちており、今まで解除してきたモノとは比べ物にならないほどの魔力を感じた
待ち構えているんでしょうね…。
そう思いつつ、左手の薬指にはめられた指輪にそっと口付けをする。
どくんどくんっ…。
鼓動のようなものを感じることができる。
あの人がきちんとやってくれる。
だから、私は私の仕事をきちんとするだけだ。
三島小百合はそう自分に言い聞かせると、魔女との間を遮る最後になるであろうドアに手を伸ばす。
ドアノブはかなりひんやりとして冷たい。
それは、部屋の主人が、お客を歓迎していないかのように彼女には感じられた。




