日誌 第八十二日目
「お疲れ様でした」
十五時過ぎに疲れきって部屋に返ってきた僕に、東郷大尉はそう言って濡れたおしぼりを渡す。
「あ、ありがとう…」
少し戸惑いつつもそれを受け取る。
あ…温かい…。
少し熱い程度の熱を持つおしぼりを広げてまずは手を拭く。
すごく気持ちいい。
で、これで顔を拭きたい衝動に駆られるも、なんか中年のおっさんが喫茶店なんかでおしぼりで顔を拭くのはあまり見栄えがよくないとか言ってたような雑誌に載っていた女性の記事を思い出す。
うーん…。どうすべきか…。
ふと、視線を上げると東郷大尉が不思議そうな顔で僕を見ていた。
「えっと…これで顔拭いてもいいかな?」
思わず聞いてみる。
何やってんだろう、僕は…。
自分でもどうだろうかと思うが、なんか聞いてしまう。
「えっ?顔拭いたら駄目って向こうの習慣か何かあるんですか?」
驚いたような顔で、そう聞き返されて僕は苦笑した。
「いや…ないんだけどね」
僕はそう言って、おしぼりで顔を拭く。
すごく気持ちよくてほっとする。
そして顔を拭き終わって椅子に座ると笑って誤魔化す。
「君に嫌われたくないから聞いてみたんだ」なんて言えるはずないじゃないか。
少し怪訝そうな顔をしたものの、東郷大尉は使い終わったおしぼりを受け取ると一旦長官室から出て、今度はコーヒーを持ってきてくれた。
実にありがたい。
感謝しつつデスクに置かれたコーヒーカップに手を伸ばそうとして、東郷大尉がじっと僕を見ていることに気がついた。
「えっと…なにか?」
「いえ。すごくお疲れだったから、交渉は上手くいかなかったのかなと…」
「いや。交渉は上手くいったよ」
僕はそう言ってコーヒーを口に運ぶ。
「なら…どうしてそんなにお疲れなんですか?」
おぼんを胸に押し付けるように両手で持って東郷大尉は心配そうに聞いてくる。
どうやら、そんなに疲れていたように見えたらしい。
「いやいや。交渉は問題なくてすぐに終わったんだ。でもね、向こうの使者の人があまりにも前回の戦いについて根掘り葉掘り聞いてきてね。それで少し疲れたんだよ」
「えっと…今日お会いしたのは確かアカンスト合衆国の使者ですよね」
「ああ。アーサー・E・アンブレラ特使だったかな。どこで知ったのか知らないけど、かなり細かい戦いの様子を知っていてね。戦史として研究するのに値する作戦ですからぜひ詳しい事を教えてくださいって交渉よりも熱心に聞かれたよ」
僕の言葉に、東郷大尉はくすくすと笑う。
「そう言えば、こんなのも来てましたよ」
そう言って一枚の紙を差し出す。
そこには、王国からの連絡で『今回の作戦の概要を教えていただきたい。それを今度の二国間軍事作戦勉強会の題材に使いたい』と書いてあった。
「こっちもかよ…」
がくりと肩から力が抜け、ため息が漏れる。
「別にすごい事をしたわけじゃないんだけどなぁ…。それに本当に賞賛すべきは、敵地の情報をきちんと集めてきた人たちや作戦を実行してくれた現場の人たちなんだけどね」
「でも…周りはそうは思っていませんよ」
くすくす笑いつつそう東郷大尉が言葉を返す。
「そこなんだよなぁ…。すごいと言われても実感わかないからな」
そう答えつつ頭をかく。
そんな僕の表情を覗き込むように東郷大尉が顔を下げて聞いてくる。
「でも、こんなにびしっと計画通りだと気持ちいいんじゃありません?」
確かにそれはあるな。
作戦成功の報告を受けた時は、すごく気持ちよかったのは事実だ。
でも、その後の被害報告を受けて、そんな気持ちは吹っ飛んでしまった。
被害ゼロなんてのは無理だとはわかっているものの、やはり自分の指示で人が死ぬのはやっぱり気持ちいいものじゃない。
それが、敵であったとしてもだ。
平和ボケと言われるかもしれないが、それでも僕はこの気持ちは忘れたくないと思う。
だから、僕は少し言葉を選びつつ答える。
「まぁ、そうではあるけどね。でも、やっぱりこれは僕の手柄じゃないよ。言うならみんなの手柄だ。まぁ…責任は僕にあるけどね」
僕の言葉に、少し目を大きくして驚いた表情をしたものの、すぐに笑顔になった東郷大尉はくすくす笑いつつ口を開く。
「ふふふっ。長官は面白い人ですね」
「そうかな?」
「そうですよ。では、少しお休みください」
そう言うと、楽しそうに東郷大尉はきびすを返して長官室を後にする。
その後姿をぼんやりと見ながら僕はコーヒーをすする。
僕って…変な人という自覚はあるけど、面白いとは言われた事はなかったなと思いながら…。
予定としては、この後は、のんびりと書類整理をして、十七時の定時に上がる予定だったのだが、十六時過ぎに飛び入りが入った。
杵島少佐が書類の山を持って直訴に来たのだ。
「えっと…どういうことだい?」
「だから、映画を作りたいと思うんです」
「いや、それはわかったから。何でそう思ったのかな?」
その勢いに押されつつも僕は尋ねる。
東郷大尉が、コーヒーとお茶請けを持ってきてテーブルに配りつつくすくす笑っている。
頼むから助けてくれよ。
目で合図してみるも、にっこりと笑ってさっさと出て行ってしまった。
多分、あれは気がついたけど、気が付かない振りをしたに違いない。
なんとなくだけど、そうわかってしまった。
後で文句を言うしかないな。
そんな事を思っていたが「聞いているんですかっ、長官っ」という杵島少佐の声に現実に戻された。
「あ、ああ聞いているよ。ああ、もちろん聞いているさ」
なんとかそう言って誤魔化す。
少し不服そうな顔だったが、そこを突っ込んでも話は進まないと思ったのだろう。
杵島少佐は話を続ける。
そして、その話を要約すると、前回作った映像がかなり好評で、続きを作るという事になったらしいのだが、まったく同じようなものを作っても意味はないということになったらしい。
そして、どうせやるならもっと物語色を強いものを作るべきだとなったわけだ。
ふむ。確かに、今のフソウ連合の国民にとって娯楽は限られている。
だから、映画という娯楽を提供したら大成功するのは間違いないだろう。
しかし、それでいいのかとも思う。
こういうのは民間でやった方が…とも思ったが、よく考えてみたら、マシナガ地区と他の地区の文化レベルの差が大きい事を思い出した。
やはり、基礎はこっちでやって、少しずつ民営化していくしかないということか…。
「よし。わかった。映画作製を許可する。ただし、今回は無料でというわけにはいかない。有料となるが…」
「それは仕方ないと思います。それで、値段とかは…」
そう言いかけた杵島少佐に待ったのジェスチャーをする。
「値段なんかはまた後だ。まずは、どういう映画を作るかを決めてからの方がいいんじゃないか?細かなところは後からでも決められるしな」
「そ、そうですね。で、長官はどういったものかよいと思いますか?」
そう聞かれて考える。
「うーん、そうだな。恋愛もの、戦記もの、日常もの、いろいろあるな」
僕がそう言うと、困ったような顔で頷く杵島少佐。
「ええ。どうしても一本に絞れないんですよ」
「ならさ、一本に絞らずに、複数同時にやればいいんじゃないか?」
僕の言葉に、杵島少佐はきょとんとした後、しばらく沈黙し、そして恐る恐る聞いてくる。
「同時に何本か作っていいってことですよね?」
「ああ。ただし、予算や人員の件もあるからな。一気に五本とかは無理だぞ」
「そうですねぇ…。なら、二本というのはどうでしょう?」
「二本?」
「ええ。いい脚本があるんですよ」
そう言って二つの本を渡される。
一つのタイトルは『遠い地のあなたに…』というタイトルで、もう一つは『夜霧の渡り鳥』というタイトルがついていた。
なんか嫌な予感がするぞ。
僕はぺらぺらとめくって大体のあらすじを確認する。
『遠い地のあなたに…』は、遠く離れた彼氏を思う女性の話で、最後のページに脚本家の名前が書いてあり、そこにはよく知っている名前があった。
著作者:杵島マリ
つまり、目の前にいる本人だ。
そしてもう一冊の『夜霧の渡り鳥』の話は、ぼかしてはいるものの、今回の作戦を扱った戦記もので、こっちの脚本家は新見正人となっていた。
要は参謀本部長の新見准将である。
さーっと汗が流れ、ゆっくりと顔を上げる。
「いかがでしたか?」
なんか杵島少佐がにこにこして聞いてくるが、僕はその笑顔に怖いものを感じて頷くしかなかった。
「あ、ああ。いいんじゃないかな…」
「わかりました。では…」
すぐにでも始めそうな勢いの杵島少佐を慌てて止める。
「後日、時間を取ってしっかり話を煮詰めようじゃないか…」
「あ、そうですね。ではまた後日伺います」
うれしそうにそう言って長官室を退出しようとする杵島少佐を呆然と見送っていた僕だったが、テーブルの上に脚本を忘れている事に気がついて声をかける。
「おい…脚本、忘れているぞ」
「あ、大丈夫です。それ最終稿なので、長官チェックお願いしますね」
そう言うと、杵島少佐はステップしているかのように軽い弾みで部屋を出て行った。
それを見送り…僕は思う。
「みんな何やってんだよ…」
思っていただけのはずなのに口から言葉が漏れていた。




