鉄道事業2
明和6年10月25日 江戸 新橋 有坂民部邸
ここ数ヶ月のゴタゴタの中、中央政界に変化があった。想定通り、阿部伊予殿が逝去。代わりに意次公が老中格へ、同時に板倉佐渡守勝清殿が老中へ昇格している。
伊予殿の後を継いだ備中守正倫殿が四十九日も済まない内に先代からの付き合い継続と藩政再建の感謝を述べにやってくるなど夏から秋は割と慌ただしく過ぎていった。
そんなこんなでようやく上野から大宮へ向けての鉄道建設が開始されたのである。カネがないとボヤいていた6月から4ヶ月も経ってやっとである。十分に建設資金が貯まったことで、総工費5000両(ちなみに品川~新橋は500両)、問題は荒川を越える鉄橋の建設だ。
江戸における鉄道事業の順調な進展に江戸近辺の諸藩が興味を示し、工事の見学や視察を申し込む例が最近は多い。
特に大宮・川越方面延伸に合わせて岩槻藩が自領内への延伸を打診してきていて、熱心な誘致陳情に来ている。また、老中輩出の館林藩、高崎藩もまた延伸を要請してきているが、こちらは繊維商品の貨物輸送で利益が上がることは間違いないだけに早期延伸を行いたいと思っているのだが、利根川が厄介である。これを越える鉄橋の建設が出来れば良いのだが、まずは荒川鉄橋の建設次第といったところだ。
年内に上野-川口を開業させる方向で動員をかけ、川口近くに荒川架橋予定地にも水運で物資を集積し川口-荒川鉄橋と荒川鉄橋-赤羽の工事も進め、上野-赤羽の二方向から挟み撃ちする形で工事を開始した。
相良の製鉄所から品川までレールをピストン輸送させ、同時に貨車や客車の増産も行われ、近隣諸藩からの人口流入もあり相良は未曾有の好景気に沸き、盃会各社、有坂(相良)財閥は大いに利益を上げていた。
鉄道事業が軌道に乗った今、三井・越後屋を始めとした大店衆も建設特需にありつかんと画策していたが、先の献金の一件で既得権益を構築した材木問屋などに取引を独占されてしまい商機を失っていた。
新規に鉄道事業を起こそうにも江戸を中心とする地域は天領であることで鉄道奉行の許可なしには勝手なことは出来ず、関東諸藩も幕府に抵抗する様な真似は出来ないため事実上の制限地区であり、かと言って関東以外で鉄道を始めようとしても理解されないという状況で悔しい思いを彼らはしているのであった。
が、彼らを放置しておくと余りある財力で碌な事を思いつかないのは三井・越後屋を見ていれば分かることで、早々に彼らの不満を解消する必要があると頭を悩ます日々であった。




