Another View 田沼意次
明和5年2月5日 江戸城神田橋門内 田沼意次邸
先日、有坂にやった書状の返事が届いたが思っていたよりも遅かった。あ奴ならば、怒鳴り込んでくるかと思っていたが、どうやらそんな暇もないらしい。ふむ、あ奴もあ奴なりに何らかの陰謀を張り巡らせているらしい。
奴の献策で老中阿部正右殿の福山藩の財政状況は好転したそうだが、越後屋のことだ。これを機会に他藩にも同じことをするだろう。ならば、先んじてあ奴を動かせてやろうと思ったが、思った通り、言外のそれを読み取って動いたようだな。
しかし、西国親藩を根こそぎ殖産興業させるとは、思い切ったことを考えたものだ。一筆書けと催促の書状とは、奴も余のことをこき使う腹積もりらしい。そして、余の役割まで事細かに書いて寄越すとは・・・。
仕方ない。今は幕府御用金を溜め込まねばならぬ。そして、老中連を味方につけて昇進せねばならん。幸いにして今は親藩老中が多い。そして田沼派と言っても良い。あ奴の進言に従って老中首座の松平武元殿、老中松平輝高殿との親交を深め、後日、あ奴か源内を出張らせて紡績機とやらを普及させることとしよう。
もう一通は源内からの書状か。
なに、長崎遊学を認めろ?この忙しい時期にそんな暇ないだろう。そもそも、源内よ、お前は有坂に高松、津山、松江と周旋しろと言われておるでないか。なに?周旋ついでに行くからカネ寄越せ?有坂に無心するが良い。余にはそんなカネはない。そもそも、我が相良藩2万石は、そなたらにどれだけ資金提供していると思うのか、ちっとはこちらに回すが良い。たんまりと儲けておるくせに。
さて、返事を書いてやるとするか。




