寺田屋事件<1>
安永2年10月9日 山城 伏見港
時は数日遡る。
国鉄副総裁、神庭幸太郎は国鉄本社から上方における調整役として大坂鉄道管理局へ派遣され、この日は視察先であり、京都所司代井伊掃部頭直幸との会見場所である伏見奉行所へ向かっていた。
晩秋の伏見は紅葉が見頃であり、彼は良い機会と考え、紅葉の名所である東福寺を拝観し、その後伏見稲荷大社へ参拝し国鉄の隆盛を祈願した。
参拝に際し、伏見稲荷大社へは1000両もの献金を行い、鉄道建設への協力を依頼することで京における社寺勢力の分断を図り、特に影響力が大きく、そして沿線開発に寄与する社寺の懐柔を行う先鞭とした。
洛中-伏見間に鉄道が建設されるときには鳥居前町に駅を造り参詣客輸送を期待するとの上々の反応を得ることが出来た。
大社側との提携成功に気をよくした彼は高瀬川を船で下り、伏見へ向かったのである。
だが、そこに落とし穴があったのだ。
彼はまさか鉄道建設反対派が伏見奉行所の目と鼻の先で跳梁跋扈しているとは夢にも思わなかったのだ。
彼を乗せた高瀬舟は酒蔵の立ち並ぶ濠川へ入り、伏見長州藩邸前に差し掛かった時、四方より10数名の黒装束の男たちが襲い掛かり、不意打ちを食らうこととなった。
非武装である幸太郎一行が黒装束の集団に包囲され拉致連行されるまで10数分の出来事であった。襲撃を受けた一行から逃げ延びた国鉄職員……彼曰く、「自分はわざと逃がされた、奉行所へ国鉄副総裁を拉致した事実を伝えるようにと言われた」……によって事態が伏見奉行所と先に到着していた京都所司代井伊掃部へと伝わったのである。
伏見奉行所はすぐに伏見市街地へ封鎖令を発布、動員をかけ捜査を開始したがこの日の捜索は失敗に終わったのであった。伏見には諸藩の藩邸がいくつかあり、犯行グループの潜伏先はいくつか浮上したが、しかし、奉行所の権限では各藩邸への捜査は出来ず、照会への任意返答が限界であった……。
各藩への影響、中央政界への影響も考えられ、長州藩邸前で起きた事件ではあるが、この事実は伏せられ、至近の旅籠である寺田屋を冠名として寺田屋事件と称されることとなった。




