海軍教育の開始
安永2年1月20日
この日、海軍兵学校、海軍機関学校が開校した。横須賀軍港にほど近い追浜の地に開設された。
もっとも、開設されたばかりの現段階では軍人養成の学校というよりも水夫の訓練所というべき様相を呈している。なぜなら、この時代の日本に軍艦と言えるものはどこにもないからだ。用意された船は有坂海運が使用していた木造バーク船2隻だ。
バーク船……ミズンマストのみに縦帆を装備し、残りを横帆とした形式の帆船であり、現在も活躍する日本丸や海王丸と同じ仕様の船だ。勿論、この船にも蒸気機関が搭載されており、帆走、機走の両方に対応している。
2隻寄贈した理由は、1隻では補修の間船を用いた実習が出来ないため、予備を確保するという意味合いがあり、同時に紅白模擬戦を行うためでもあった。
幕政改革で今まで無役だった旗本や御家人の子息が幕府中央官庁、国鉄、陸軍、海軍とそれぞれ割り振られ、放り込まれてきたのだ。また、同時に町民、農民からも希望者は受け入れていた。
彼ら海兵見習いへは有坂海運の先任水夫などが出向して教官役としてみっちり鍛えることになるのだが、当初は身分の違いを盾に抵抗する者が多かったが、次第に従うようになっていったのだ。
また、機関学校へ放り込まれた者たちはまずは体力づくりと投炭訓練をひたすら繰り返され、毎日脱落者が続出する様相だったが、日に日に鍛えられた結果、教官役の運転助士などの教えを理解し罐の炊き方を覚えていったのだった。
それぞれ役割を分けてそれぞれのやるべきことを覚えていった彼らは一年後に第一期生として新造されたばかりの軍艦へと乗り込むことになるのであるが、それはまた別のお話。




