江戸政変秋の陣<30> 一橋治済、投降す
明和9年10月6日 霞が関 幕府軍総司令部庁舎ビル
尾張家世子徳川治休が使者として江戸城に籠る一橋治済を説得しに出向いて物別れとなり帰ってきた。しかし、すぐに総攻撃というわけにはいかない事情が幕府軍にはあった。
元々、江戸城近辺に展開する幕府軍は会津・井伊など1500、それに小田原の1000だけであり、江戸城を包囲するには兵の数が足りなかったのである。
動員しているとはいえ、北関東諸藩の兵5000は未だ輸送中、もしくは編成中であり、早くても未明までは戦力として機能しない。小田原の援兵2000も夜中に到着する見込みであった。
また、不穏分子としてマークしている長州藩、芸州藩、佐賀藩、薩摩藩への警戒も同時に行う必要があり、江戸城総攻撃どころではなかったのだ。特に芸州藩は三宅坂近くにありながら加勢もせず傍観していたため、状況によっては叛乱に加担した可能性もあり、要注意扱いで兵を差し向けて監視しないといけなかったのだ。
とは言っても、一橋兵団には圧力をかける必要があるので、桜田門から坂下門、桔梗門辺りまで兵を出し威嚇射撃を繰り返している。一橋兵団も砲兵を集めて反撃してくるが射程外からの攻撃に努めているためこちらの被害はない。
そんな風に時間稼ぎをしつつ、北関東諸藩と小田原の兵を待ち、彼らが到着してようやく総計が1万を超えた段階で坂下門、桔梗門に兵を集め門番に投降するように圧力をかけた。丁度その時に一橋治済が桔梗門から出てきたのであった。
投降した彼はそのまま捕縛され、江戸警視庁の留置場へ収監されたのであった。同時に水戸家徳川治保もまた留置場へ収監され、叛乱首謀者として大審院へ後日送られることになるのであった。




