崩壊と契約
「ゼイド、しってる?ずうっといっしょにいる人のことを、おヨメさんっていうのよ」
俺が鮮明に思い出せる最古の記憶は、その声から始まる。
「おヨメさん…?ずっといっしょにいられるの?」
「うん、いっしょう。だからね、ゼイド。わたしのおヨメさんになって!」
「うん。おれ、シアのおヨメさんになる!それで、シアとずっといっしょにいる!」
とても小さい頃から共に育ってきた少女と、馬鹿な約束をした。
嫁や結婚の意味も知らず、ただぼんやりと、この子と過ごすのはいいなあと思って、承諾した。相手もそうだったのだろう。
少し物が分かるようになってから、あれは婚約というのだと知って、漠然と彼女との結婚生活を想像して、楽しそうだな、幸せだななどと期待に胸を膨らませていた。
それが打ち砕かれたのは五歳の時、求婚してきた張本人によってだった。
彼女の騎士候補に選ばれ、彼女が複雑な表情をしているのに気づかず、呑気に振る舞っていたら食ってかかられた。
「ゼイド、キシって守るものなのよ。たたかったら強いのよ。ないちゃいけないのよ。ずっとおひめさまのそばで、守らなくちゃいけないのよ。おヨメさんじゃだめなのよ。それが…」
「え?うん。ずっとシアと遊べるね」
「…なよなよしいっ!」
急にキレた彼女は俺をぶん殴り、俺が床に倒れて白目を剥いた後もポカポカと叩き続けていたという。
「キシになれなかったら、もういっしょにいられないかもしれないのよ…」
彼女からの一発のおかげで、俺の前世の記憶の蓋は開かれた。
しかし前世の人格も今世の俺もそれほど我が強くはなかったので、「どうぞそちらが主にやってください」「いえいえそちらが」「じゃあ一緒にやりますか」「そうですね」といった感じでうまいこと人格はミックスされた。
まず考えたのは彼女のこと。彼女は攻略対象であり、異世界からやってきた勇者に娶られる可能性がある。
だがあの姫らしくない姫が、勇者の目に止まるだろうか?
ないな。
バッサリ切り捨て、俺は何も心配することはないと結論付けた。
ただ、可愛らしい彼女を呼び捨てにするのは何だか気恥ずかしくて、「姫さん」と呼ぶようになった。彼女は「ひめさま…わたしが?お、おひめさま…」と赤くなって喜んでいたので一石二鳥だ。
何も変わらない日だった。
いつも通りに起床して、朝ご飯を食べて、剣の稽古をつけてもらって、騎士の心得を学んで。
そのあとは姫さんと一緒に遊ぶ。
姫さんの部屋で、二人だけの隠れんぼ。姫さんは隠れるのが下手で、毎回髪の毛や服の端を覗かせていたけど、それに気付いてない振りをして「どっこでっすかーい!」なんて声を出して。
何も変わらない日常だった。
前世の記憶は頭の奥に存在していたけど、姫さんが俺以外を選ぶなんてありえない、と思い込んでいたから、俺は焦りも悲観も、していなかった。
隣国のいけ好かない水色の騎士候補への対抗心は育っていたけど、姫さんが「騎士って言うとゼイドしか思い浮かばない」って言ってくれてたから、深く悩むこともなかった。
あと一年もしたら俺と姫さんは学園に行くことになるが、特に問題はないだろうと思っていた。
姫さんのことが好きだった。
彼女の騎士として一生を過ごせれば、幸せだった。
それだけだった。
「ほう、これか?」
長い白金髪の男は、俺の夢も希望も、全て破壊していった。
その日俺は、姫さんの着せ替え人形と化していた。
姫さんの可愛らしいドレスを着せられたり華美な冠やベールを被せられたりで辟易していた俺は、姫さんに猛抗議。審議の結果、隠れんぼで姫さんを見つけられたら、俺の服を返してもらって外に遊びに行く、ということになった。
瞬殺してやるぜ、とにやけながら目を閉じていた俺は、百を数え終わるまで、そいつが部屋に入ってきていたことすら気付かなかった。
「ほう、これか?」
固まる俺を背の高いその男は値踏みするように眺めた。
窓が壊れて風が入ってきている。人が登ってこられるような高さじゃないのに。
「うん。早く連れて帰ろう!」
男は一人じゃなかった。その肩の上に、黒髪の女の子が居座っていた。
「ここで殺せば良いではないか」
「い、嫌だよ、そんなの。いいから急いで!」
俺は咄嗟に、床に転がっていた剣のおもちゃを取り、男に向けた。姫さんを狙う不届き者が城に侵入したのだと思った。
姫さんに、出てくるなという意思を伝えるべく、俺は叫んだ。
「動くな!ここにいるのは…」
最後まで言うことは許されなかった。
男はあっという間に間合いを詰めると、俺の胸をとん、と押した。
次の瞬間、体は壁に叩きつけられていた。
息が出来ずに、俺はただ痙攣する身体を目に映していた。
「こ、殺さないでってば!」
「分かったから喚くな」
男は動けない俺を担ぎ上げ、窓から跳躍し空に躍り出た。それらを一呼吸もしない内にやってのけていた。
遠くなる城を見ながら、俺はほっとしていた。
部屋の中では、俺が壁にぶつけられたと同時に隠れ場所から飛び出した姫さんが、一瞬で姿を消した俺達を探して、大声を上げている。
姫さんは、無事だ。
安堵して、俺は意識を失った。
「キミ…シアじゃ、ないよね。ゼイド、だよね」
目を覚ますと、黒髪の女が泣きそうに顔を歪めていた。
生で見るのは初めての牢屋。その中に俺は裸で鎖に繋がれていた。女は外から俺を見ていた。痴漢よ。
「何で思い通りにならないんだ。違う、ワタシは悪くない。生きたいと思うのは罪じゃない…」
ぶつぶつと呟いた後、女は心を決めたのか、俺を睨みつけた。
「ワタシの名前はメラ。魔王の娘だ。ワタシの目的は青の姫を殺すこと。キミには人質になってもらう」
俺は混乱した。
何でメラが姫さんを殺すんだ。そんなのギャルゲーになかったじゃないか。
何も言わない俺に、非難されているとでも思ったのか、メラは顔を俯かせた。
「仕方ないじゃないか。こうでもしないと、ボクは生きられない」
生きられない?何で。ゲームでメラが死ぬ展開なんて…。ああ、そうか。魔王を倒すと魔物が統率を欠いて仲間割れ、というか内戦が始まるんだっけ。その関係か。
「ボクは生きたい、だから殺すんだ。勇者なんてアテにならない。ルートに入ってくるかどうか、それで毎日心乱されるなんて嫌だ。ボクは確実性のある方法を選ぶ。悪く思わないでよ」
ふざけるな。それで何で姫さんが犠牲にならなくちゃならない。姫さんは何も悪くないのに。ボクっ子だろうが許されるもんじゃないぞ。
「ごめん…ごめんね。でも、もう決めたんだ。ボクは生きる。そのためなら、人だって殺してやる」
こいつは強そうには見えない。
でも、こいつの父親は、チートだ。反則だ。思い出すだけで体が震える。
あんな奴に、敵う筈がない。どんな人間でも、勇者でも、奴には勝てない。
でも、そしたら、姫さんが。
姫が、死ぬ?
あの、子供っぽくて怒りっぽくて、優しい彼女が?
「お願いします、姫を殺さないでください」
俺は恥もプライドも捨て、頭を固い床に擦り付けた。
「なっ…」
「俺は転生者です。多分同じ境遇です、役に立ちます。協力します。だから姫を見逃してください。助けてください。お願いします」
メラの薄い金の瞳が、揺らいだ。
「そんな…ボクはもう覚悟を決めて…でも、でも…人殺しなんて…ワタシには…」
しばらく、メラは逡巡していた。
やがて、顔を上げて、彼女は言った。
「…分かった。別の方法を、考えよう…キミには、ボクに従ってもらうよ」
そうして、俺はメラの協力者となり、魔王の下で動くことになった。
メラが提示した作戦はこうだ。
魔王が倒されたら自分は死ぬ。
かと言って勇者が魔王に殺されるのも、後味が悪い。人は誰も殺したくない。
だから、どちらも死なせない。
魔王と勇者を、魔王城で戦わせ続けるのだ。
魔王は強者と戦っていればそれで満足だ。
勇者は魔王との戦闘で傷を負うだろうが、死ぬ直前に回復の魔法をかけてやり、エンドレスで戦わせる。
食事も部屋も支給するが、勇者は魔王城から絶対に出さない。
勇者が寿命で死ぬまで、自分も生きていられる。
馬鹿だと思った。
そんな穴だらけの作戦が上手くいく訳ない。勇者は何だ?地獄か?死なない地獄に来たのか?年老いた勇者が魔王と対等に戦えるとでも?
だがメラは、強力すれば姫さんと、アッズーロ王国には手を出さないと言う。反対する理由はなかった。
姫さんが生きていてくれればそれでいい。
誰を利用しようが、俺は、彼女を守る。
そう決めたのだ。
メラは俺の右手に魔法陣を刻み、俺を王国へ帰した。
目撃者は姫さんしかおらず、俺も有耶無耶な言い訳をしたので、俺の誘拐事件は次第に皆の記憶から消えていった。
姫さんは五体無事の俺を見て、泣いた。
決意は固まった。
苦悩の日々が、始まった。
学園に入り、攻略対象の姫達と騎士達の存在を確認。異世界から勇者が来るまで残り一年になると、同じクラスになったそいつらの信用を得るべく立ち回る。
道化になって、くだらない茶々を入れ、弱さを示し、無害な者であるとアピールする。
疑いなく俺を受け入れたそいつらに、醜い感情を抱きながら、俺は生活していた。
カーナとゴルドは弱く惨めな俺を見下していた。こいつらはクラスの中で一番戦闘力の高いペアだったから、こいつらが勇者に選ばれればいいのにと思った。
スノゥとアーシュは愚かで頭の足りない俺を軽蔑していた。こいつらはクラスの中で一番賢いペアだったから、こいつらが勇者に選ばれればいいのにと思った。
オレットとライムは滑稽な臆病者の俺を気に留めなかった。こいつらはクラスの中で一番固い絆で結ばれたペアだったから、こいつらが勇者に選ばれればいいのにと思った。
だけど、誰も選ばれて欲しくないとも、思った。
勇者は現れずに、平穏な現状が維持されればいいと思った。
考えれば考えるほど、決心は鈍る。俺はごちゃごちゃした思考を全部心の奥底に押し込んで、余計なことは何も考えないように、生活するようになった。
やがて勇者が召喚された。
ただし、魔法陣から出てきたのは二人だった。
俺の知っている筋書きが、滅茶苦茶になり始めた。