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07 主観と客観


 『面白い』の差、というよりは、意見がぶつかる時の問題、とでも称したほうが正しいのだろうが。

 主観的意見と客観的意見、明確に違いを理解している人は、どれほどいるだろう?


 ここまで『面白い』について、つらつらと自分なりに意見を述べた。

 読んだ方がどう思ってくださるかは、自分がどうこう言うことではないので、なにも言わないが、なにかの役に立ってくださったならとは願う。

 ただ、賛同された場合でも、反感を抱いた場合も、主観と客観の違いを理解できていなかったら、全部意味がない。


 主観的意見は簡単だろう。『オレが・わたしが・僕が、こう思った』だけの言葉だ。

 対して客観的意見となると、実はなかなか難しい。言葉としては『主観から離れた意見』ということになるだろうが、認識に個人差が出てくる。

 

 例えばABふたりの人物が、反対の意見をぶつけていたとしよう。

 Aは、この文章を読んでくださってる、あなただ。

 A・あなたの意見=主観的意見だ。ここはいいだろう。


 対してBの意見=あなた以外の人から見た意見=客観的意見、と思う人がいる。

 この辺りを詳しく語ると哲学になってしまい、広義では正しいのだが、少なくともここで挙げたい内容からすると、間違っている認識だ。

 内容を無視すると、Bの意見は、Bの主観による意見でしかない。

 Aや、第三者Cにも理解できるかは、別の問題になる。


 客観的意見に必要なのは、誰が見ても賛同する根拠だ。

 多くの場合、数字や専門家の言葉がこれに当たる。

 

 例えば、『ある食材・料理がおいしい』という主張があったとしよう。

 『おいしい』なんてものは、食べた人個人が感じた、主観的意見だ。

 けれどもここに、注文数や売り上げといった数字、成分分析をしたうま味成分のアミノ酸含有量、『料理人にアンケートを取った結果、八割以上が『おいしい』と言いました』なんて事実を併記することで、誰でも『おいしい』と思える客観的意見に変わる。


 でだ。これが一番大事なのだが。

 主観的意見が正しいとは限らない。これはご理解いただけるだろう。周囲の人間と正反対の主張をしていたら、そのうち相手にされず、『お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ン中ではな』とアスキーアートか画像つきで相手にされなくなる。


 同時に、客観的意見と言われるものが、正しいとは限らない。

 個人にしかわからない感覚ではなく、他人でも理解できる根拠がある分、真実に近づけるのは間違いない。

 だが、根拠となる情報は、いくらでも恣意的に使うことができる。

 ある人の発言を抜粋して根拠として挙げていても、実は全部聞くと真反対の意見だったとか。顧客満足度なんて数字がどれほど参考になるかという話があるように、アンケートの質問や取り方で信憑性は大きく変わる。

 

 主観・客観と正誤は、関係がない。

 ここを勘違いしている人もまた、結構な割合でいるだろう。


 このサイトの場合、特にそういう傾向が強い。

 小説の面白さに客観性を持たせる根拠を出すなら、PV数や評価ポイント数、書籍化している事実、その売り上げなどになるだろう。

 だがそれで『面白い』か否かは、このサイト内や外部でも散々言われていることだ。『あんなテンプレばかりでなにが面白いの?』なんて意見は、常に言われているから、こんな考察をしてみたのだから。


 真の意味においては、客観的意見なんてものはない。そういう言葉もあるだろうが、全体で見れば小数だ。

 『客観性を持たせた主観的意見』まで、と思ったほうがいい。



 ○ ○ ○ ○ ○ ○



 つまりだ。

 誰かが『面白い』と言っていても、参考意見までにしかならない。

 結局のところ、その作品が『面白い』か――より正確に言うならば、自分でその作品を『面白い』と思うか否かを判断するしかない。


 かと言って、他人の意見をまるきり無視してもいい理由にはならない。

 それは詭弁になる。


 ここでまた『好みの問題』という言葉の使い方が、問題になる。

 好き嫌いの二択をアンケートして、結果が五分五分になったとしよう。

 それはもう、紛れもなく『好みの問題』だ。個人個人によって評価が異なり傾向が見出せない。いくら客観的にデータを出そうとしても、結局のところその人次第=好みの問題という結論しか出せない。

 その人が自分で試してみて、『好き』なのか『嫌い』になるのか、判断するしかない。


 だがこれが、好き嫌いが2:8の割合になったら、『好みの問題』では済まない。

 個人の嗜好だけでは片付けられない、『嫌い』が多い明確な理由が存在していると考えるべきだ。

 好き2に入る人が、どう反論しても、そこは覆せない。


 製造・販売している方々には申し訳ないが、クサヤや()れ寿司みたいなものだ。

 あんなもの『食え』とポンと出されて食べる人間がどれほどいるか。チャレンジ精神を発揮したとしても、好きになる人間なんて少数だ。

 クセェものはクセェんだよ。一般受けするわけねぇんだよ。

 『わかってねぇ』みたいなツラされても白い目で見るしかねぇんだよ。

 好きだからって家で焼んじゃねぇよ。近所迷惑を考えろよ。

 外国人に『日本人はこれが好きだ』みたいな誤まった常識植えつけられても困ンだよ。



 ○ ○ ○ ○ ○ ○



 …………嫌なことを思い出してしまったが、気を取り直して。



 個人個人で『面白い』が異なる。

 『好みの問題』もあるだろうが、実際のところそれだけでなく、様々な認識の違いからによるものがかなり大きい。

 これでは『この作品が面白いのか?』という議論を建設的に行うことは無理だあろう。

 この差を埋める方法は――


 ない。



 ○ ○ ○ ○ ○ ○



 理屈としては、解決策は存在している。


 他人の評価は参考にできない。

 他人の評価を無視していいわけでもない。


 この矛盾しているとしか思えないふたつの間、丁度いいところでバランスを取って判断するということになる。


 そのために必要なのは、審美眼や判断能力、いわゆる読者レベルを、全員で統一するしかない。

 これまで書いてきた、複数の意味を持つ『面白い』を誰もが同じ意味で認識し、『楽しい』と勘違いせずに『面白い』で、加点減点同じくらいにバランスよく、総体と個別、物財とサービス財、主観と客観、リアルとリアリティを、全員が同じ認識をし、同じ視点で評価する。


 その上で、他人に誤解を与えることなく評価を伝えられる言葉が必要となる。


 意味わからない?

 うん。自分でも書いてて意味わからん。


 これまた簡潔に言うと。

 全員個性を消滅させろ、ということだ。


 表現規制・情報操作・言論統制でみんな同じ感性にするということだが、全体主義や社会主義が過ぎた恐怖政治や監視社会などメではない。SFのディストピアで描かれている社会でもまだ足りない。

 誰かにとって不都合な主張をするどころか、みんなと違うことを考えることすら許されないのだから。

 これを実現しようと思えば、誰もがテレパシーを使えるか、他人の思考を読めるテクノロジーが必須となる。

 少なくとも現在では、技術的にも感情的にも法的にも不可能と断言できる。


 考えれば考えるほど、『面白い』の差は、なくなることはない。

 言葉を交わして共通認識を作り、個人間で意見の違いをすり合わせるのが、関の山だろう。


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