04 総体と個別
総体と個別。
全部と一部。
マクロとミクロ。
みんなとひとり。
相反している言葉だ。
これ、区別つく?
そう訊くと、バカにされているように感じる人もいるだろう。
事の大小や多少、正反対のことだと、誰でも理解できるはず。
だが実生活で感覚的なものでは、いつどんな時でもこれを区別できる人こそ、ほぼいないと考えたほうがいい。
○ ○ ○ ○ ○ ○
前項で加点方式・減点方式で、評価方法が違うというのは、語ったとおりだ。
ならば仮に、この評価方式を統一すれば、皆が『面白い』と思う作品が同じになるかというと、そんなことはない。
『面白い』だけの評価だと、なにを見て評価しているのかだけでなく、一部を見ているのか全体を見ているのか、他人には伝わらないからだ。
これは日本語の特殊性ではないだろうかと思う。
日本語の特徴として挙げられることはいくつかあるが、その中に『主語を省略できる』というのがある。(そういう言語は他にもあるけど)
主語を省略する、ということは、意味が不明確になる、ということでもある。
だから会話をする時には、その不明確さを埋める能力――要するに空気の読み方が重要となる。
○ ○ ○ ○ ○ ○
物事の評価は、大抵の場合、最終的な評価結果――総評を指し示す。
そこに至るまでの部分的な評価は、あまり参考にされないことが多い。参考にする人はするが、どうしても総評に比べると価値が下がっていると思うしかない。
例えば大手通販サイトの商品や、飲食店評価サイト、アプリのレビュー。
個人の感想よりも、五段階評価でいくつか、というのが重視されがちだ。真っ先に見るところは、やはりそこだろう。
数字というのは、それだけインパクトがあり、理解しやすい。
だが実際のところ、それだけが結果ではない。評価者は部分部分パーツごとに評価して、まとめを導き出すのが普通だろう。
このサイトでもそうだ。
個人が作品を評価する場合、感想やレビューで文章はやや敷居は高いと、『文法・文章評価』と『物語 (ストーリー)評価』と、ポチるだけでいい二種類のポイント評価システムが設置されている。
しかし作品の評価を見ようとした場合、『文法・文章評価』と『物語 (ストーリー)評価』の各五点満点×評価人数にプラスし、お気に入り人数が加算された総ポイント数で、その作品がいかほどのものであるかを判断しているはずだ。お気に入り数くらいは見たとしても、誰がその作品に文法・文章評価に何点入れてるかなんて、どうでもいいはず。
だから『評価=総評』と見る傾向がある、と思っていいのではなかろうか。
より正確に言うならば、自分が評価をつける時と、他人の評価を見る時には、違う視点で見ている、となるのだが、ここで言いたいこととは少し違う。
人によって評価基準が違う、とも言えるが、ここでは少し違う言い方をしよう。
全体と一部、総体と個別、安易に区別できなければいけないはずの認識が、ごちゃ混ぜになるのだ。
この手の話は、『最近の若者は……』などという愚痴を例に挙げられる。
これは詭弁だ。多くの場合、理屈が成り立っていない。
だがすぐに詭弁であることを理解できる人は、どれくらいいるだろうか?
愚痴がこぼれるような、無礼や非常識な『最近の若者』が、存在していることは間違いない。実際にその人は接した体験を持つのだから。
しかし全体のうち、無礼な若者がどれほど存在するか? 10代から20代までの若者の生活実態を統計的に調査しなければ、わかるはずがない。
なのに『最近の若者は……』という言葉は、全ての若者が非常識であるかのような印象を与える。その人が接した若者の無礼さ加減が、世界唯一レベルだとしても、だ。
全体と一部、総体と個別が、たった一言でごちゃ混ぜになっている。
小説の評価でも同じだ。
仮に『この場面が面白かったです』と、作品の感想に書かれていたとしよう。
その読者が、その場面を面白いと思った。それは否定のしようがない事実だ。
しかし、『だから、この作品は面白い』という結論にはならない。
ある部分が突出して面白くても、他が全体的にダメならば、その作品の総合評価は低くなるに決まっている。
評価を発する側も、聞く側も、個別評価か総合評価か判然としないまま、言葉を発したりやりとりしているから、これまた『面白い』の温度差が生まれる。
ちなみに同様に、逆のパターン、『ここがダメだ』と指摘されていても、作品そのものがダメな理由にはならない。
流行っているけど、『なにが面白いのかわからない』と言われるものは、大抵これだ。
評価するその個人は、評価ポイントを見つけられないだけの話だ。他の人はなんとなくでも見つけている。まぁ、大抵は流行で、つまらないと思っても周囲の人に同調している、なんてパターンも多いが。