01 『面白い』がアバウト
このサイトの、ランキングに並んでいる作品を読んだ。
それだけ評価されているなら、さぞ面白いのだろうと期待して、クリックないしタップした。
しかし読んでみて、面白いと思えない。なぜ評価されているのか、理解できない。感想欄で『面白かったです』などと賛美されているが、到底そんな風には感じない。
このサイトを利用されている方ならば、一度や二度は経験あるのではないだろうか。
同じ作品を読んでいるのに、誰かが『面白い』と賞賛しているのに、自分は到底思えない。
なぜ、こんなに温度差があるのか。
これを語ると、『好みの問題』という結論になりがちだ。
だが、それでは面白くないので、もう少し考えてみた。
『面白い』という言葉は、意味がものすごく曖昧だ。
よく言えば応用範囲が広く、悪く言えばテキトーな使われ方をする。
○ ○ ○ ○ ○ ○
① 興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。「何か―・いことはないか」「仕事が―・くなってきた」「この作品は―・くなかった」
② つい笑いたくなるさま。こっけいだ。「この漫画はなんとも―・い」「―・くもない冗談」
③ 心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。「夏休みを―・く過ごした」「無視されたようで―・くなかった」
④ 一風変わっている。普通と違っていてめずらしい。「―・い癖」「―・い声」
⑤ (多く、打消しの語を伴って用いる)思ったとおりである。好ましい。「結果が―・くない」
⑥ 風流だ。趣が深い。
(出典:デジタル大辞泉)
○ ○ ○ ○ ○ ○
『面白い』という言葉を辞書で引いたら、上記のように意味が列挙される。
そして『面白い』という言葉の意味を問うと、おおよその人は①②④あたりを回答するだろう。
だが日常生活では、当人も気づかないまま、違う意味で使っている場面が結構ある。気づいていないのだから、『ない』とは断言できない。
打ち消しの意味を持たせることなく、⑤の意味で使う人も、結構な割合でいるはず。もう少し正確に言うなら、③と⑤を一緒に感じて使っている。
わかりやすく言い換えれば、『面白い』=『普通』『無難』だ。
根拠もない上に個人差が大きいので断言はできないが、人に見える評価をすぐに出す人は、この認識をする傾向が強いのではないかと思える。
対して、なかなか評価しない人は、『面白い』を①②④の意味で認識している。
わかりやすく言い換えれば、『面白い』=『すごい』だ。
並以上のものでなければ、『面白い』と感じない。
なかなかの暴論ではある自覚はあるが、『面白い』という感覚は、普通なものか特別なものか、二分して考えたとしよう。
『①興味深い』『④一風変わっている』の意味は、特別側に属する。変わってなければ、興味なんてないはずなのだか。
同様の理由で『⑥風流』は、特別側に属する感覚だと考えたほうがいいだろう。人はどんな時に風流を感じるかを考えると、これまた難しい問題になるが、普通感よりも特別感のほうが強いと考えるべきだろう。桜が風流と感じたとすれば、四季のごく限られた期間にしか感じられない感覚だ。舞妓さんの歩く姿に風流を感じたとすれば、それは日本の限られた地域と状況でしか感じられない。
『②つい笑いたくなるさま』もまた、普通感によるものよりも、特別感が先に立つだろう。その言葉を使う状況次第ではあろうが、『なにか起こったから、つい笑った』は理解できるが、『なにも起こらないから、つい笑った』という状況はちょっと理解できない。
『③快く楽しい』については、正直微妙だ。
まず③は、『特別だから快い』という考え方と、『普通だから快い』という考え方の両方がありえる。特別⇔普通が言葉として相反していても、それに伴う感情まで相反しているとは限らない。
ただ、自宅とホテル、どちらがくつろげるかみたいな話をすれば、人間が心地よいと感じるのは、特別な状況下よりも、変化がない普通の状況である場合が多い。
どちらかと言えば、普通の側に立つ意味と考えたほうがいいだろう。
『⑤思ったとおり』は、特別さを感じないという意味なので、どう考えたって普通側に属する。
『面白い』が特別を表す:①②④⑥
『面白い』が普通を表す:③⑤
『特別』と『普通』は相反する言葉のように感じるが、こう考えていくと、絶対的に相反しているとも言えないらしい。
この考え方が正しいとすると。
いわゆる『テンプレ』と呼ばれる作品の評価が分かれるのは、納得がいく。
あくまでひとつの辞書に書かれていた内容の、しかも自分のなかなかな暴論による結果なので、条件が違えばまた変わってくるのだが。
『面白い』には特別さと普通さを表す意味、両方がある。
投票を行えば、特別さを表すのは4票、普通さを表すのは2票だ。
だから『面白い』は特別さを表す、としよう。あくまでここでの結論として。
そしてテンプレ作品は、特別か?
作家や読者ひとりひとりは、その作品個々にオリジナリティを見出しているかもしれないが、ハッキリした特徴がなければ展開や設定がパターン化・普通化・平均化してしまって、特別だと思うことができない。
だが、その普通さを、心地よさを感じているから、『面白い』と評価する人もいる。
これが『この作品、面白い』『どこが面白い?』という温度差になる、と考えることができる。
○ ○ ○ ○ ○ ○
なぜこういう認識の違いになるかは、簡単な話だ。
その人その人の、人生経験の差が表れるのだ。
評価者がどれほど多くの物事に触れて、比較対象や判断材料が豊富かどうかで、なにが普通でなにが特別かが違ってくる。
例えば、母親の家庭料理しか食べたことがなければ、それがその人にとって最高にして唯一の味だ。比較対象が存在しないのだから、『おいしい』も『おいしくない』もない。絶品だろうとゲロマズだろうと普通だろうと、その人にとってはその味しかない。『おいしい』と評価しても『普通』のニュアンスが強い。
給食や余所の家庭料理やコンビニ弁当や店の味を経験することで、『オカンのほうが上』『家と比べものにならない』などと比較して、自分の中にランキングを作っていく。ようやく『うまい』『普通』『まずい』の違いを認識し、他人が参考にできる評価を下せるようになる。
更に経験を積んでいくと、『味だけで考えるなら、やっぱり高級レストラン』『量と値段を考えたら、チェーン店もあり』『だけど毎日食べるなら、慣れ親しんだ家の味がいい』などと、判断基準が多様化して、評価に幅が出てくる。
『面白い』も同じことが言える。判断能力や審美眼、いわゆる読者レベルの高低で、たった一言の『面白い』でも意味が違ってくる。
低レベル評価者の『面白い』は漠然としている。『面白い』と思ったから『面白い』と言った。それだけでしかない。
高レベル評価者になれば『(文章は稚拙だけど、キャラクターのやり取りが)面白い』とか『(展開はありきたりすぎるけど、ここまで王道を突っ走ってると一週回って)面白い』など、そういう認識になる。
○ ○ ○ ○ ○ ○
ちなみに蛇足だが。
『好みの問題』という評価は、本来この最終段階に到達した評価者が、優れた評価対象に対して使うべき言葉だ。
同じ条件で評価する対象が一定レベルを超えて優れていたら、評価者によって優劣が変わってくる。
『甲乙つけがたい』と称される状態だ。
普通ならば『どちらもいい』で終わることだが、コンテストなどで優劣を決めない状況であれば、そうもいかない。
その時、優勝と準優勝の差はなにか?
審査をする個人個人の、評価基準の微妙な違い――つまり好みの差になる、という話だ。
安直に使う人もいるけど、ゲテモノしか知らない人間が、キワモノの評価に使っても、白い目で見られるだけだからな?