来訪者
気がついたとき、目の前には不思議な空間が広がっていた。
すぐ目の前には瓦屋根の家々がならんだ道があるのだけれど、その奥の方を見ると日本家屋のような大きな屋敷があったり、中世ヨーロッパ風の建築物があったり、現代日本でみるような洋風家屋がある。さらに奥にある山の頂上には西洋の宮殿のような建物も見える。そんな和洋折衷甚だしいこの状況を不思議だと思いながらも同時に妙に懐かしいような感覚もした。
「ここ…どこだろう」
その道を歩いてみると、そんな疑問が口をついて出る。ただ、そうして歩いていくうちに少し不気味にも感じ始めた。なにせ、人がいない。なにかがいる気配はするのだけれど、それは人のものでも、獣のものでもない。そして、私は無意識にこの正体を知っている。これはたぶん『ヒトならざるモノ』の気配だ。
「…大丈夫?」
すると後方からそんな優しい声がした。振り向くとそこには和服姿の女性がいた。
「えっと…あの」
「もしかして、迷い込んじゃったの?」
私が思案していると彼女は優しい笑みを浮かべて言う。
「迷い…込む?」
「…違うの?」
「わ、解りません…」
「うーん。じゃ、とりあえずついてきて」
そう言うと彼女は私の手を掴み歩き出す。ただその手には明確に触れたという感触が無かった。
「あの、あなたは?」
「ん? 私は栗花落房代。気軽に名前で呼んでもらって構わないわ」
房代さんは微笑みを向けながら言う。
「そうだ、名前は解る?」
「え、私の名前はーー」
言おうとしたけど、音が出なかった。というより思い出せなかった。
「別に構わないわよ。それに、ここでは思い出さないほうがいいかもね」
房代さんは相変わらずの笑みを浮かべる。
そして、それから少し歩くと、モダン調の二階建てほどの建物の前に着く。房代さんはそこのドアを開け、私を中に招き入れる。
「裡杏さんいる?」
房代さんがそう呼びかけると奥から一人の女性が出てきた。
「あら、珍しいわね。何かご用?」
彼女は柔和な笑みを浮かべ落ち着いた声音で言った。
「私というより、この子かしら」
房代さんはそう言って私を手で示す。
「…此岸の子? 迷い込んじゃったの?」
裡杏と呼ばれた彼女は私を見据えて言う。その瞳は魂の奥深くを見通すかのようなものだった。
「たぶんね。なんとかしてあげてもらえる?」
「そうね、やれないことはないわ」
「そう、なら、お願いできる?」
「えぇ、もちろん。ただ、対価はその子が支払うことになるけどね」
不思議な笑みを浮かべて裡杏さんは言う。
「やっぱり私じゃ無理なのね。解っていたけど少し寂しいわね」
「しょうがないわ。それにあなたにはアレからの依頼があるでしょ」
「そうね。じゃ、申し訳ないけど私はこのへんで」
そう言うと房代さんは私を残して建物の中から出て行った。去り際、私の耳元で「頑張ってね」と囁いた。
「さて、あなたを本来の場所に返す依頼だけれど、あなたはどう?」
「どう…って、そりゃ帰りたいです」
「そう。もちろん、あらゆる事象には対価がいることは知っているわよね」
「はい…知ってます。で、私の対価はなんですか?」
「そうねぇ、ここで私のお手伝いをしてもらえるかしら?」
「え、すぐに帰してくれるんじゃないんですか?」
「そりゃそうよ。だって、あなたを帰すためには魂をもらわないといけないくらいなのよ?」
彼女は少しいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「薄々感じてはいたけど、やっぱり…」
すでにここがどこなのかはなんとなく想像が付いている。たぶんそれは、
「あと、もう感づいているとは思うけどここは彼岸。一般人が言うところのあの世とかってやつかしらね」
「…はぁ」
私は思わず深いため息を吐く。
「じゃ、これからよろしくね」
裡杏さんはそう言って笑顔を向ける。
「はい。あの、裡杏さんがお名前でいいんですか?」
「そうねぇ、イッパイアッテナでも構わないわよ」
「猫じゃないんですから」
「いや、猫かもしれニャいニャよ」
突然、ロシアンブルーのような猫になって妙な語尾になる裡杏さん。
「…、えっと、それで、私に名前とかは…」
「もう、スルーしニャいでほしいニャ。ま、実際いっぱい名前があるからニャんでもいいニャんけど、やっぱり、裡杏ってのが多く使われてるからそれがいいかニャ」
「あの、どうでもいいことなんですけど、その語尾やめてもらっていいですか?」
「…しょうがないわね。そうだわ、それよりあなたのここでの名前を決めないとね」
「名前…」
確かに房代さんも言っていたようにこの彼岸で、生きた者が本名を名乗るのは避けたほうがいい。大概よくないことしか起こらない。ま、今は自分の名前自体思い出せないのだけれど。
「そうね。杏捺がいいかしらね」
「杏捺、ですか」
「そう。可愛らしい名前でしょ。それに、あなたの此岸での名前には結びつきにくいから」
裡杏さんはそう言ってにこやかな笑みを私にむける。
そして、ここから私の彼岸でのバイトが始まるのだった。