おかあさん
ピンポーン、と軽快なチャイムの音が部屋に響いた。
週休をダラダラと過ごしていた俺は、久しぶりの訪問に重い腰を上げて玄関へと向かう。
質の悪いセールスであれば居留守を使ってしまおうと音を立てないように慎重に小さな穴を覗きこんだ。
すると、そこにいたのはスーツを着た若いお兄さんでもなく、笑顔を張り付けた中年の女性でもなく、淡い水色のカーディガンを羽織った髪の長い女の人だった。
俺は首を傾げながらもチェーンを外し、鍵を回して扉を開けた。
「はい」
「…隣へ引っ越してきた堺と言います。ご迷惑をおかけしますが、これから宜しくお願いします。…これ、つまらないものですが……」
「え、ああ。どうも、上田です」
そう言って手渡された箱を受けとりながら、礼儀正しい人だと感心する。
しかし、いつの間に引っ越しの準備をしていたのだろうか。俺が鈍いだけだろうか?
受け取ったのだから帰ってもよさそうなものなのに、堺さんはじっとそこに佇んでいた。
前髪は目は勿論、鼻を隠しそうなほど長く、その表情は読み取りづらい。
手をだらりと下げて動かない堺さんに、少し不気味の悪さを感じ、目線を逸らす。
すると、堺さんの後ろに小学生くらいの男の子が引っ付いているのに気が付いた。
雰囲気は若そうなのに、息子さんがいるのだろうか。
こちらに覗かせる顔は中々に可愛らしいもので、堺さんの長い前髪を退ければ、もしかすると綺麗な顔立ちをしているのではないかと邪推する。
俺が暫く目線を外さずにいると、男の子が口を開いた。
「おかあさん」
いい加減、男の子も痺れを切らしたのだろう。
それに続くように俺も先程から動く気配のない堺さんに声をかける。
「あの、まだ何か?」
「………いえ、お邪魔しました」
自分の家へ帰るだろうと扉を閉めようとドアノブを引いた。
だが、あと数センチというところで、それは嫌に白い指に阻まれた。
突然の扉を掴む動作にぎょっと目を剥いて顔を上げると、その僅かな隙間から堺さんの顔がこちらを見ていた。
先程は見えなかった目が片方だけぎょろりと覗きこみ、口元が微かに笑った気がした。
「……よかったら、遊びに来てくださいね」
「……ありがとうございます」
俺はやっとそれだけ答え、指が離れた瞬間素早く扉を閉めた。
なんだ、あの不気味な女は。
じわりと全身を包む嫌な汗を拭い、俺はあの寒気のする視線を早く忘れようと、テレビのスイッチを入れた。
冷蔵庫の中身がある程度の調味料しかなくなっているのに気が付き、日が沈み始めたにも関わらず俺は近くのスーパーへと向かうことにした。
扉を開け、階段の方へ向きを変えると、堺さんがこちらを見て立っていた。
いつからそこにいたのか、全く気付かなかった俺は情けないことに短い叫び声を上げてしまった。
恥ずかしさを紛らわす為に、俺はわざと茶化した声色で堺さんに話しかける。
「…あ、堺さんですか。脅かさないで下さいよ」
「ふふ」
堺さんは笑ったあと、くるりと向きを変えて階段を降りていった。
その後ろをとことこと子どもがついていく。
はあ、と溜め息を吐いてきちんと施錠をし、堺さんと被らないよう、少し時間を置いて階段を降りる。
1階へと降りると、何故か大家さんが扉を開けてどこかを覗きこんでいた。
その先には、子どもと歩く堺さんがいた。
不思議に思い、俺は後ろから大家さんに声をかけた。
「あの、どうかされました?」
「ああ、上田くん。いやねえ、新しく来た人、変わった人だと思わない?」
「……ええ、少し」
振り向いた大家さんはちらりと堺さんの方向を見て、声を潜めて問いかけてきた。
俺は空笑いをしながら、控えめに答える。
大家さんは「少し、ね」と眉を上げて意味ありげに呟く。
「それにしても、あの部屋を借りる人がいるとは思わなかったわ。まあ、大分安くはしてたけど」
「…そうですね」
「上田くんもある意味被害者ですものね。災難だったわね」
「いえ。まさか、彼女が自殺するなんて思いませんでした」
「本当に。明るい良い子だったのにねえ。何があったのかしらね」
「…俺には見当もつきません」
「そうよね。嫌なこと聞いちゃったわね。出かける予定だったのよね、いってらっしゃい」
「いえ、大丈夫です。いってきます」
大家さんに送り出され、スーパーまでの数分の距離を歩き始めた。
もう、堺さんは見えなくなっていた。
堺さんが引っ越してくるほんの数日前、俺の隣の住人が自殺した。
彼女は桐谷遥と言い、笑顔が可愛く柔らかい雰囲気を持った人だった。
警察は彼女が自殺した原因を未だ突き止めることが出来ていないという。
友人たちも大きな悩みを抱えている様子は見られなかったと言い、人間関係で揉めているということもない。
充実した生活を送っていたのではないかと彼女を知る人たちは口々に言ったそうだ。
俺もその証言の1人ではあるのだが、本当にそう思う。
彼女自身に問題がないならば、もしかすると、あの部屋に何かあるのだろうか?
そう思わずにはいられない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、いつの間にかスーパーに辿り着いていた。
俺の目の前の自動ドアが開く。
何となく反射して写った自分を見ると、肩の辺りに黒いものが見えた。
髪の毛だ。
反射的に振り返ると、すぐ後ろに堺さんが立っていた。
ばくばくと煩い心臓を宥めるように胸に手を置いて息を吐く。
堺さんはにやりと笑って呟いた。
「…驚いた?」
驚いたなんてもんじゃねえよ、この根暗女!
出かけた言葉を呑み込んで「…やだなあ、堺さん。普通に声かけてくださいよ」と無理矢理笑う。
視線を下にずらすと、子どもがこちらをじっと見てぱかりと口を開いた。
「おかあさん」
お前はそればっかりかと子どもにまで悪態をつきそうになるのを抑えて、挨拶をしてスーパーへと入った。
後から何だか無性に腹が立ってきて、かごに食材を投げ入れたものだから、何を買ったかいまいち覚えていない。
帰って食材を確認すると、魚と納豆とカレー粉という確実に美味しい料理にならない三点を購入していた。
今日は散々な日だと、その日は早々に布団に入った。
ぱんっと傘を開いてコンビニから遠ざかる。
ざーざーと途切れることなく降り続ける雨に、些か苛立ちを感じざるを得ない。
昨日から止まないものだから、洗濯物が溜まっているのだ。
そろそろコインランドリーにでも行かなければならないか。
家路を辿りながら、そう言えば、あの時もこんな雨だったと思い出す。
その時も長く続いていた雨に舌打ちをして、早く帰りたくて駆け足で家へと向かっていた。
すると、目の前に薄い桃色の可愛らしい傘がぱっと目に入った。
あれは、桐谷遥の傘だ。
俺は社交的な彼女に好感を抱いていた。
声でもかけてみようと上がった気持ちが、傘から出ているもう1人のシルエットを見て、一気に下がっていった。
恋人は、いないと言っていたのに。
あの時俺は、何と思ったっけ。
「……上田さん」
近くから聞こえる声にびくりと肩が震える。
数メートル先に堺さんが立っている。
思ったよりは近くない。
それより子どもの方が前にいる。
人見知りしなくなったのだろうか?
「…悪いことを、してはいけませんよ」
いきなり何だ?
眉を潜める俺に気が付いたのか、堺さんは静かに指差した。
そこには、先程俺が捨てた空き缶が転がっている。
細かいなと舌打ちをしそうになりながら、雨水と泥でどろどろになった空き缶を拾う。
「すみません」
「……気を付けて下さいね。……次は、ないですから」
いつもは隠れている目が一瞬見えた気がして、ぶるりと寒気に震えた。
相変わらず子どもの方は俺の方をじっと見て、同じ言葉を繰り返す。
「おかあさん」
俺は無視して階段を上がっていった。
本当に、気持ちの悪い親子だ。
「よお、久しぶりだなあ」
「ああ」
明るい茶髪の男が片手を上げてニヒルな笑いをしている。
いかにも胡散臭いと思わせるこの男は、俺の高校の同級生の関山だ。
関山はすでにアイスコーヒーを頼んでいたようで、テーブルの上には空のグラスが置いてある。
近くの店員さんを呼び同じものを2つ頼む。
関山はニヒルな笑いのまま、頬杖をつく。
「それで、何か面白くないことでもあったんだろ」
何で分かったんだ。
その考えが顔に出ていたようで、関山は「何で分かったのかって顔してんな」と更に口角を上げる。
「お前が俺を呼び出す時は大抵何か愚痴がある時なんだよ。気付いてなかったのか?」
「……完全に無意識だった」
「はは!お前はそういうやつだよ。んで、何があったんだ?」
「…隣に新しい人が越してきたんだ。だけど、その女、何か変なんだよ。いきなり背後に現れたり、いつの間にか俺の近くにいたり、ストーカーみたいで気色悪いんだよ」
「…へえ、そんなやつが引っ越してきたのか。それは災難だったな」
「ほんとに嫌になる。早くいなくなって欲しいもんだよ」
「……不吉なこと言うなよ。お前の隣っていったら、自殺したっていう人の部屋だろ?てか、よくその人も借りる気になるよな。大家さんちゃんと説明してんだろ?」
「ああ。大家さんも同じこと言ってた。やっぱり頭おかしいんだよ。あの不気味な女を見ただけで何だか吐き気がする」
溜め息を吐く俺に、関山は肩を竦めて身を乗り出した。
「そんなにか。……不気味って言ったら俺、怖い話知ってんだけど、気分転換に聞いてみないか?」
「真夏にはまだ早いぞ?ま、どんなもんか話してみろよ」
「んな強気で、びびって小便漏らしても知らねーからな!」
「いいから話してみろよ」
「いくぞ。……昔な、どこかも分からない村で、ある子どもが殺されたんだ。それはそれは無惨な殺され方でな、その子どもの母親は、犯人を必死で探して、ある男を捕まえたんだ」
「おう」
「母親は、男に償いをするよう要求したんだと。だけど、男は全く反省しないどころか、子どもの最後の姿を面白おかしく話始めたんだ」
「最低な野郎だな。……んで、ここまで全然怖くねえけど」
「まあ聞けって。それを見た人たちは男を「禍い者」だと口々に言ったんだ。人の道を外した罪人だと。それからその村では、罪を犯した者を隠語で「禍」と呼ぶようになった。それは時代を刻むごとに「お禍」「禍さん」なんて少しずつ形を変えていったんだ。その一方で、無念を残した母親は、未だその「禍」を探して彷徨っているらしい。……どうした?顔が真っ青だぞ」
「…俺、一旦帰るわ」
「おいおい、本当にびびっちまったのか?話はこれからだっての……おい!」
「すまん、この埋め合わせは必ずするから」
俺は急いで店を出て家へと向かった。
そうだ、あの女、不気味過ぎると思ったんだ。
きっとあの女は、その母親だ。
まさか幽霊だったなんて、誰が思うだろうか。
あんなところに住んでいられない。
とりあえずでいい。あるだけの金を持って関山の家に転がり込もう。
あの女、俺のことを殺すつもりなんだ!
早く、早く逃げなければ……!
『…悪いことを、してはいけませんよ』
女の言葉が頭に残っている。
悪いこと?そんなのしていない。
そう、彼女は自殺だったんだ。
首を吊って、死んでいたんだ。
彼女が、遥が、俺のことを好きにならないから。
悪いのは、遥だ。
上がりなれた階段を駆け上がり、先の扉を目指す。
階段を上りきった俺は、ぞっと悪寒のようなものを感じ、後ろを振り返る。
階段の一番下に、いた。
にやりと笑う、女が。
俺は必死で逃げ場を探した。
自分の家へ入り、鍵を閉める。
閉めた瞬間、ガチャガチャガチャガチャ!と狂ったようにドアノブが動く。
「ひっ」
俺は転がるように走りながら物陰へ隠れた。
大丈夫だ。鍵が開かない限りあの女がここへ入ってくることはない。
いつの間にか煩い音はなくなり、しん、と部屋を静寂が包む。
ほっと息を吐き、壁に寄りかかる。
ガチャリ、と鍵の開く音がした。
どっどっ、と心臓の音が大きくなる。
嘘だ。何で。俺の部屋なのに。
ひた、ひた、と足音が近付いてくる。
俺は近付いてくる気配に意識を集中させながら辺りの物を探る。
硬い何かを掴んだ俺は、すぐ側まで来たやつにそれをふりおろす。
がっ、と重たい音が何度も部屋に響く。
俺は無我夢中で腕をふりおろし続けた。
気付くと、やつは倒れていた。
やった、俺が倒した。幽霊を倒したんだ。
覚束ない足を何とか踏み出し、大家さんの元へ向かう。
あの女は幽霊だったと、大家さんに言わなければ。
やっとのことで階段を下り、大家さんのインターホンを鳴らす。
はいはい、と大家さんの高い声に安心する。
扉を開けた大家さんは、俺を見てぎょっと目を剥いた。
「どうしたの上田くん!そんなに血だらけで、どこかケガでもしたの?!」
血だらけ?そんなはずはない。
俺が倒したのは幽霊だ。血なんか出るはずないじゃないか。
けれど、それならばどうして殴る衝撃があったんだ?あの生々しい感触は?
違う。俺は殺してない。誰も殺してない!
悪いのはあいつらだ!俺じゃない!俺じゃないんだ!
心配する大家さんが身体をずらした。
俺は思わず後退る。
何で。お前がここにいるんだ。
大家さんの部屋には、いつも俺を見上げていたあの子どもが佇んでいた。
「あ、ああ、子どもが、子どもが」
「子ども?」
「あれです、あの女、堺さんの子どもが、」
「何言ってるの上田くん」
子どもの顔が、歪んだ気がした。
「堺さんに子どもなんて、いないじゃない」
俺は大家さんの家から飛び出した。
再び自分の家の扉を開け、先程の倒した幽霊を見る。
髪の長い女が、血だらけで倒れている。
幽霊なんかじゃない。これは、歴とした人間だ。
俺が、殺した?
嫌だ。捕まりたくない。
俺じゃない。俺はやってない。
あ、金。金を持っていくんだった。確か、あの棚に通帳が。
辺りを見渡した俺は、そこが見慣れた景色でないことに気付いた。
ここは、どこだ?俺の部屋じゃない。
もしかして、堺さんの、部屋?
「あ、あああ、あ」
俺は、なんてことを。
嫌だ。逃げよう。誰にも知られないうちに。
玄関を振り返った俺は、膝から崩れ落ちた。
扉を塞ぐように、子どもが立っていた。
嘘だろ。扉が開く音なんて、しなかったじゃないか。
誰か。助けてくれ。死にたくない。
俺は震える手で携帯を取り出すと、画面を押した。
だが、上手く力が入らず携帯を手から滑らせてしまった。
子どもが俺に近付く。
俺が押したのは、留守電のボタンだったようで、メッセージがノイズと共に流れる。
「……上田?最後まで言わねえとスッキリしねえから、言っとくわ。さっきの続きだけどよ、怖いのはな、その子どもの方なんだよ。その子どもがな、出るんだよ。罪を犯したやつの前に。ある言葉を言いながら、殺すんだ。その子どもはな、こう言うんだよ」
子どもの口が開く。
その中は、墨を塗りたくったように真っ黒だった。
「お禍さんってな」
「それにしても怖いね。またあの部屋で人が死んだんだって?」
「ええ、しかも2人。男と女だったんだけど、女の方は頭を殴られて殺し方も分かるらしいんだけど、男の方は言葉に表せないくらい惨い死に方だったんだそうよ」
「怖すぎ。とうとう大家さんもあそこ取り壊すことにしたって聞いたわ」
「気の毒にね。怖い世の中になったものよねえ。……あら?貴女、子どもなんていたの?」
「いや、いないけど……」
「え、でも、その子ども、こっちを見て言ってるわよ」
「おかあさんって」