「代わりの者は用済みだ」と手当を十六年後回しにされたので、澱引きの控えを置いて酒庫を出ます。冬、瓶が濁ります
「——あれは前任者の代わりですから、手当は後でよろしいでしょう」
一、二、三。モルウェナは背中にその声を受けたまま、引き置きの瓶を木箱へ収めた。四本目を置く前に、親指が栓の焼き印をなぞった。
年を示す印は、十六度も冬を越せば角が消える。指の腹には、ほとんどただの丸だった。
「ですが、デシム。彼女の雇い札には、今年も同じ文言が?」
「仕事の区分を揃えただけでございます、奥様。家の支出を整えるには、曖昧な名目を増やさぬことです」
デシム・ブレアは、モルウェナへ向けては振り返りもしなかった。イムジェン・ヴァスティンへ答えるときだけ背筋を伸ばし、書類の端を丁寧に揃えている。瓶の本数より、ずいぶん扱いやすい背筋らしい。
「前任の酒庫番が亡くなってから、もう十六年でしょう」
「代わりとして不足なく務めております。それと手当を別にする必要はございません」
五、六、七。七本目は朝から冷えが鈍く、棚の右端へ寄せた。明後日まで待たせる瓶だ。
「モルウェナ、何かございますか」
イムジェンの問いに、モルウェナは木箱の蓋を合わせた。隙間はない。こういうものは、合うところへ置けば黙って閉じる。
「瓶は七本でございます、奥様。控え帳の数と合っております」
「ほら、ご覧ください」
デシムの声が一段高くなった。戸口には出入りの商人が二人、柱にはキースト・ネムが肩を預けている。
「与えられた数をこなす仕事です。私が入ってから、ようやく酒庫も管理らしくなりました」
「違いない。樽は口を利かんし、瓶は逃げんからな」
デシムが先に口元を緩め、キーストが続いた。モルウェナが次の木箱を抱えて両手を塞がれているあいだだけ、二人の声はよく通った。
雇い札は机の端にあった。今年の欄にも「前任者の代わり」と書かれ、手当の欄だけ白い。モルウェナは擦れた栓から親指を離し、八本目を数えた。
背中で聞くには、十六年はいささか長うございました。
* * *
壁の紙が、乾いた音を立てた。モルウェナが朝いちばんに留めた「今週の澱引き」を、デシムが釘から剥がした音だった。
「こういう日取りは、かえって混乱を招く」
紙には樽の列と日付、その脇に小さな丸が書いてある。昨夜の冷え込み、床石の湿り、澱の沈み方を見て付けた丸だが、デシムは二つ折りにして机へ置いた。
「毎週変わるものを貼るから、人が覚えられないのです。必要なのは一定の手順でしょう」
「今週は北壁の二樽を先にいたします」
「なぜです」
モルウェナは柄杓の先を拭った。北壁の樽は口元の匂いがまだ細く、南の樽は底へ落ちる澱が締まっている。だが、その話を一からしているうちに、冷えはまた一刻進む。
「今朝、見ましたので」
「それでは、あなたにしか分からない」
「はい」
デシムは、その返事を承諾と勘定したらしい。柱を顎で示すと、キーストが大きな紙を広げた。
樽十二。人足四人。一人につき三樽。
墨の太い本数表が、日取りのなくなった壁より目立つ柱へ打ち留められた。キーストは釘の頭を二度叩き、モルウェナへ片目をつぶった。
「これで誰でも回せる。あんたも楽になるさ」
「本数表があれば誰でも回せる」
デシムも柱を指で叩いた。商人たちの視線が紙へ集まると、その指はもう一度、今度は少し強く鳴らした。
「四人いれば、モルウェナ一人の四倍です。古いやり方に人を縛りつける必要はありません」
紙の下で、北壁の樽がひとつ低く鳴った。木が冷えて縮む音だった。
モルウェナは剥がされた日取りを取り上げ、折り目を伸ばさなかった。今週というものは、二つに折ったところで来週にはならない。
「わたくしは、前任者の代わりでございますから」
キーストが鼻を鳴らした。デシムは上着の裾を払い、柱の本数表を見上げた。
「そう理解しているなら結構です。控えは残してください。今後はそれを若い者に配ります」
「承知しました。数は、きちんと合っております」
その午後、モルウェナは樽の口を三つ確かめた。耳を寄せ、木肌に指を当て、栓を半分だけ回す。雨の続いた年の酒は澱の締まりが遅く、控え帳の日付より舌の奥に残る渋みのほうが当てになった。
帰りに近隣三軒の勝手口へ寄り、同じ言伝を残した。
「雨の年の樽は、晴れが三日続いても急がないでください。口を開ける前に、底を灯へ透かしてくださいませ」
「ヴァスティン家の酒も?」
「家令殿が本数をお決めになります」
女たちは互いの顔を見た。モルウェナはそれ以上を足さず、空になった籠を腕へ掛けた。
酒は口へ入るまで、よく黙っている。人より行儀がよいぶん、出す日を違えたときの返事が濁る。
* * *
モルウェナは北壁の二樽から澱を引いた。細い管を差し、澄んだ上澄みだけを受け、底の重さが動く前に止める。新しく入った若い衆は本数表と彼女の手を交互に見たが、デシムは机で雇い札を繰っていた。
「二樽で瓶が十一です」
キーストが数えた。
「十本と、半端が一本ございます」
「表には十二本とあるぞ」
「樽は二つでございます」
「なら、ひと樽六本だろう」
キーストは太い指で空の瓶を示した。モルウェナは半端の一本を持ち上げ、灯へ透かした。
「ここへ足せば十二になります。ただし明朝には、底へ指一本ぶん溜まります」
「売るわけじゃない。数を合わせるだけだ」
「酒庫の数は、飲める酒で合わせます」
デシムが控え帳を閉じた。商人がいなくなった酒庫では、声も控え帳の厚さほどしかない。
「モルウェナ。最後まで指示に従えないのですか」
「最後までいたします」
彼女は半端の瓶を引き置きの棚へ置いた。残りの十本を木箱へ収め、控え帳の本数へ線を引く。飲めない一本を足せば数字だけは丸くなるが、丸い数字は舌の上で澄んではくれない。
夕刻までに、南壁の樽も終えた。瓶の数を合わせ、床石を流し、細い漏斗から順に湯を通す。曇りの残った漏斗は布を替えて拭き、栓は年印ごとに浅い箱へ戻した。
机には十六年ぶんの澱引きの控えを積んだ。革紐を年ごとに変え、雨の多かった年は二重に結んである。日取りも、本数も、引き置きの日数も、残していないものはない。
「これだけあれば十分だ」
デシムは一冊を開き、すぐ閉じた。
「読み方まで説明しておきなさい」
「今年の樽は、今年の冷え方をいたします。去年の頁にはございません」
「だから経験を手順に直せと言っているのです」
「手順に直せるところは、すべてそこに」
デシムの口が次の言葉を作る前に、モルウェナは最後の漏斗を掛けた。布巾を畳み、柄杓を壁の釘へ戻し、戸棚の鍵を机へ置く。借りたものは、決まった場所へ返した。
浅い箱の隅に、擦れた年印の栓が一本あった。最初の冬、前任の老人が彼女の手へ載せた栓だ。モルウェナの指は、その丸くなった焼き印の上で止まった。
持っていけば、盗んだ道具になる。置いていけば、ただの古い栓で済む。
彼女は指を離した。
「家令殿」
「何です。今度は手当の話ですか」
モルウェナは一度、濡れた手を前掛けで拭った。布の端が指へ絡み、ほどくのに一息かかった。
「わたくしはこの一本を、十六年、わたくしの酒だと思うて引いておりました」
デシムの眉間に細い線が寄った。
「家の酒です。当然でしょう」
「はい。ヴァスティン家の酒でございました」
机の端にある雇い札を、モルウェナは裏返した。白い裏面が上を向き、手当の空欄も、例の文言も見えなくなった。
「ですから、本日でお返しいたします」
「何をです」
「代わりを」
キーストの手が柱の本数表へ触れた。外すでもなく、押さえるでもなく、太い紙の角だけが指の下で曲がった。
「急に辞められては困る」
「控えは十六年ぶんございます。本数表も、四人ぶん」
「モルウェナ」
イムジェンが戸口に立っていた。いつから聞いていたのか、片手にはまだ庭用の手袋がある。
モルウェナは奥様へ頭を下げた。深くすると前掛けの紐が軋み、その音だけが酒庫へ落ちた。
「長くお預けくださいまして、ありがとうございました」
「待って。私は——」
「本日の澱は、すべて引いてございます。北壁の半端一本だけは、明朝まで棚に」
イムジェンの手袋が胸元で重なった。モルウェナは返事を待たず、酒庫の戸を開けた。
外はもう薄暗く、庭の石に霜が白く浮いていた。十六年、夕暮れには必ず背負っていた酒と湿った木の匂いが、戸を閉めると向こう側へ残った。
* * *
三月、何も起きなかった。
引き置きの棚には、モルウェナが日を読んで残した瓶が並んでいた。若い衆は柱の本数表どおりに木箱を運び、客へ出すぶんはその棚から取った。濁りもなく、栓の浮く瓶もなく、控え帳の数は毎夕きれいに揃った。
デシムは商人を酒庫へ案内し、太い表を指で叩いた。
「人に頼る仕事から、仕組みで回る仕事へ変えました。以前は一人が抱え込み、ほかの者には分からないようにしていたのです」
キーストは隣で腕を組み、「今じゃ四人で四倍だ」と口を添えた。モルウェナの名を出す者がいても、デシムは控えの束を示した。
「必要なものは、すべて残させました」
一月目、棚の上段が空いた。二月目には中段が半分になり、三月目の末には擦れた輪染みだけが板へ残った。何も起きない棚ほど、よく働く在庫だった。
モルウェナはそのころ、近隣の女たちと大鍋を囲んでいた。雨の年の樽をいつ開けるか見てほしいと呼ばれ、朝のうちに底を透かし、栓を選び直したあとのことだった。
「ここで食べていきなよ。立ってたら鍋番と間違える」
丸椅子がひとつ押し出された。モルウェナは椀を受け取り、いつもの癖で壁際へ立ったまま匙を取った。
「座るんだってば」
「仕事中に座る癖がございませんので」
「じゃあ今日つけな。悪い癖なら鍋底に沈むけど、いい癖は上に浮くよ」
女たちの膝が少しずつずれ、輪の中にひとつぶんの場所ができた。モルウェナはそこへ腰を下ろし、椀を両手で包んだ。
豆のスープから上がる湯気が、冷えた指の節へ触れた。匙を入れると、豆と薄切りの蕪が底から持ち上がる。酒庫で立ったまま齧っていた黒パンより、ずいぶん食べるのに時間がかかった。
「塩、足りる?」
「はい。足すなら、わたくしの椀ではなく鍋へ少しだけ」
「酒も汁も、見るところは同じかい」
「汁は待ってくださいます。酒より話が通じますね」
椀の上で、女たちの口がそろってほどけた。モルウェナはもう一匙をすくい、今度は急がず口へ運んだ。
冬の宴を前にしたヴァスティン家では、棚の最後の一本が木箱へ移された。デシムは新しく届いた樽の本数を数え、四人の名を割り振った。
酒なんぞ、人を増やせば片づく。
その一文だけを胸に置き、彼は柱の表へ新しい数字を書き足した。
* * *
一本目の栓は、軽すぎる音で抜けた。
冬の宴の広間で、給仕が瓶を傾ける。はじめは灯を通していた酒が、杯の底へ落ちる途中で白く曇った。
給仕の手が止まった。客の一人が杯を持ち上げ、鼻先まで運ばず卓へ戻した。
「次を」
デシムが言った。
二本目の栓が抜かれた。細い泡が瓶の肩へ上がり、その下から澱が煙のようにほどけた。給仕は注がず、白布を瓶口へ当てた。
「別の樽から持ってこい」
「同じ樽で揃えるよう、本数表に」
若い衆の声を、キーストが肘で止めた。
三本目は、栓を抜く前から瓶の底に筋が立っていた。灯へかざした給仕の袖越しに、その筋がゆっくり広がる。並んだ客の杯が、一つ、また一つと卓へ置かれた。
銀の脚が卓板へ触れる音は、柱の表を叩く指より小さく、よく届いた。
「運び方が悪かったのでしょう」
デシムはキーストを見た。キーストは柱などない広間の壁へ目をそらした。
「同じ本数を、同じ手順で用意したはずです」
イムジェンが濁った杯を見た。
「はい、奥様。控えも確認いたしました。ですが、モルウェナは肝心の読み方まで残すべきだったかと」
「すべて残させた、とおっしゃっていましたね」
「それは記録についてでございます。まさか、当年ごとに判断が変わるとは——」
「先ほどは運び方と」
デシムの両手が腹の前で組まれた。商人を案内したときには柱を鳴らしていた右の人差し指が、左手の中へ隠れた。
「わたくしは、いただいた報告に基づいて判断いたしました。奥様にも、本数と人数で十分である旨はお伝えして——」
「私が任せたのは仕事です。言い訳ではありません」
イムジェンは杯を置いた。濁った酒が縁で揺れ、白い卓布へ一滴落ちた。
デシムの語尾から、音がひとつずつ減った。
「申し訳、ございません」
「本日をもって家令職を解きます。控え帳と鍵を置いて、広間を出なさい」
「奥様、いま私を退ければ、酒庫は」
「すでに止まっています」
デシムは口を閉じた。腰の鍵束を外し、卓の端へ置く。金具が二度跳ね、濁った杯の脇で止まった。
キーストは宴が終わるより先に酒庫へ戻り、柱の本数表を外した。釘から破れた紙の端を丸め、同僚へ低く言った。
「俺は言われたとおりにしただけだ。日取りを剥がしたのは家令だろ」
「留めた釘は?」
若い衆が尋ねた。
キーストは紙を脇へ抱え、釘を残した。答えも同じ場所へ置いていった。
翌週、春の宴への招き状を出しても、返事は半分しか戻らなかった。出入りの商人は酒庫の柱ではなく空いた棚を見て、荷車の向きをほかの家へ変えた。
イムジェンは自分で控え帳を開き、返ってこない招きの名へ細い線を引いた。デシムの署名がある報告書は一枚ずつ束ね、酒庫を任せきりにした年月の分まで、自分の印を押した。
* * *
ボルク・アッシュが訪ねてきた朝、モルウェナは借りた納屋の窓を開けていた。修道院から預かった樽が二つ、床木の上に間を空けて並んでいる。
「モルウェナさん」
修道院の使いは、控え帳の最初の行へそう書いた。家名でも、誰かの代わりでもない。モルウェナ・サルク、と続ける筆先を彼女は黙って見ていた。
「雨の年の樽はこちらです。引く日は、サルクさんにお任せします」
「冷えを二晩見てから決めます。明朝、底を透かしてもよろしいでしょうか」
「お願いします、モルウェナさん」
二度目は、聞き違えようがなかった。モルウェナは控え帳を受け取り、自分の名の下へ日付を書いた。筆を置いてから、墨の乾かぬ一行へ指が触れそうになり、手を引いた。
ボルクは空樽を積んだ荷車の横で待っていた。四十年樽を運んだ肩は片方だけ下がり、片手には小さな布包みがある。
「ボルクさん。朝からお待たせしました」
「奥さん。おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの目に売ってたんだ」
モルウェナは控え帳を閉じた。
「ヴァスティン家には、長くお買い上げいただきました」
「買う家はほかにもある。樽の機嫌を読める目は、荷車に積んじゃ来られん」
ボルクは布包みを開いた。掌に、年印の擦れた栓が一本転がった。
「空樽を回収したとき、棚の下に落ちてた。あんたが持って出たもんじゃないなら、おれが拾ったもんだ」
「酒庫の道具でございます」
「もう使えん。焼き印も読めん。薪にも短い」
「では、ずいぶん始末の悪いものですね」
「窓辺なら邪魔にならん」
差し出された栓へ、モルウェナの親指が伸びた。丸く擦れた印を一度なぞり、今度は手を引かなかった。
「頂戴いたします」
「そうしな」
ボルクの反応はそれだけだった。彼は空になった布を畳み、荷車へ戻った。
午後、近隣三軒の女たちが順に樽を運び込んだ。雨の年の言伝を残した家からで、誰もヴァスティン家の名を口にしなかった。
「モルウェナ、うちの樽も預かれる?」
「奥の冷える場所が空いております」
「値は?」
モルウェナは樽を見た。底板の乾き、縄の食い込み、栓の新しさを順に確かめ、控え帳の余白へ日数を書いた。
「七日見て、引くのは一日。瓶と栓は別にいただきます」
「それで頼むよ」
女が差し出した手のひらへ、モルウェナは自分の手を重ねた。契約は一度で済み、手当の欄も空かなかった。
夕方、イムジェンが一人で納屋へ来た。供も家の馬車も門外へ残し、入口で手袋を外した。
「モルウェナ。十六年、見ないまま任せていました」
モルウェナは樽と樽の間に立った。返事を急がせる酒は、ここにはない。
「デシムを退け、損の出た商人へは私から詫びました。あなたへも、私が詫びるべきです」
イムジェンは頭を下げた。モルウェナは窓辺の栓へ触れず、借りた納屋の鍵を腰へ差した。
「お言葉は承りました、奥様」
それ以上の受け取り方を、彼女は添えなかった。イムジェンも顔を上げると、雇い札も金袋も置かずに帰った。
朝、ボルクを見送ったあと、モルウェナは年印の栓を窓辺へ立てていた。擦れた焼き印は逆光で黒くなり、もう何年のものかは読めなかった。
その隣へ、新しい控え帳を置いた。表紙には、モルウェナ・サルク預かり、と自分で書いた。
* * *
戸を叩く音は三度だった。
モルウェナは小樽の栓へ伸ばした指を止めず、半分だけ回して木の戻りを見た。まだ早い。栓を元へ戻してから戸を開けると、デシム・ブレアが帽子を両手で持って立っていた。
家令の上着ではなかった。襟は雨を吸い、磨かれていた靴の爪先には乾いた泥がついている。
「少し、お話を」
「樽を見ております。短くお願いいたします」
デシムは納屋の奥を見た。五つの樽と、新しく組まれた引き置きの棚がある。棚には澄んだ瓶が三本だけ並んでいた。
「ヴァスティン家へ戻っていただきたい」
モルウェナは戸に片手を置いたまま、帽子の縁を見た。デシムの指はそこへ食い込み、白くなっている。
「酒庫の棚が空いたままです。新しい者を入れても、日を決められない。控えはあるのに、どの頁を今年へ当てればよいのか——」
「今年は今年の冷え方をいたします」
「分かっています。今は」
デシムの人差し指が帽子から離れ、空中で止まった。棚の段を数える形のまま、指す先を失っていた。
「読み方まで残すべきだった、などと申したことは撤回します。あなたが戻り、若い者へ教えてください。手当も出させます。雇い札も書き直すよう、奥様へ私から——」
「家令殿ではございませんね」
指が下がった。
「……デシム殿。奥様はすでに、ご自身でお越しになりました」
「ならば、なおさら話は早い。あの家にはあなたが必要です。私も職を失い、商人からは顔をそむけられた。十分なことは起きたでしょう」
モルウェナは窓辺へ目を移した。古い栓の横で、新しい控え帳が開いている。修道院の樽、近隣三軒の樽、引く日を待つ五本の線。そのどれにも、彼の名はない。
「戻ってくれ」
デシムは帽子を胸へ寄せ、頭を下げた。かつて柱を叩いた指が、帽子の陰へ隠れた。
モルウェナは戸をもう半分閉めた。
「わたくしは、前任者の代わりでございますから」
デシムが顔を上げるより先に、掛け金が木枠へ収まった。戸の閉じる音は一本の栓を戻す音に似て、それきり漏れなかった。
奥では、近隣の女たちが低い卓を囲んでいた。仕事を終えたボルクも丸椅子へ腰を下ろし、大鍋の豆のスープを前に帽子を膝へ置いている。
「冷めるよ、モルウェナ」
「ただいま参ります」
卓には人数ぶんの椀と、細い杯が置かれていた。今朝引いた酒は、灯の下でも底まで澄んでいる。
モルウェナは自分の椀を持って、空けられた場所へ座った。誰かの給仕を待つ席でも、立ったまま残り物を口へ運ぶ壁際でもない。膝が卓の縁へ触れた。
「塩は?」
「鍋へ少しだけお願いいたします」
女が塩を振り、ボルクが瓶の栓を抜いた。軽い音のあとにも澱は上がらず、注がれた一杯は明かりをまっすぐ通した。
モルウェナはまずスープの椀を両手で包んだ。豆と蕪の湯気が指へまとわり、窓辺の古い栓を白く隠した。
「今朝は、椀を置く卓までわたくしのものなのですね」
「置くだけじゃないよ。食べ終わるまで立つんじゃない」
「それは、なかなか難しい仕事でございます」
モルウェナは匙を取り、澄んだ杯を自分の右手へ寄せた。誰も本数を数えなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




