上京パルス302
面白いか面白くないか自分でも判らないので、是非楽しんでください。
俺の名前は東條唯斗……角豆市という田舎町から、都に憧れて神州都に上京した男、24歳。
今日は上京初日の午前中、今後暮らしていく住居を探さねば。早速近くの不動産屋に行くことにした。
駅を出てすぐのビル。自動ドアをくぐると、ひんやりとした冷房の空気が頬を撫でた。
「いらっしゃいませ。お部屋探しですか?」
カウンターの奥にいたのは、ピシッとしたスーツ姿の若い女性店員。都会の不動産屋って、こんなにシュッとしてるのか。
「あ、はい。今日、角豆から出てきたばかりで。……あ、角豆っていうのは、ここから電車で五時間くらいかかるんですけど」
「あー、はいはい。遠くからお疲れ様ですね」
店員の反応は、驚くほど事務的だった。
もっと「へえ!遠いところから大変ですね」なんて会話が弾むかと思っていたけど、ここでは俺みたいな上京者は珍しくもないんだろう。
「ご希望の条件は?」
「ええと、予算は五万前後で。できれば、駅から歩ける範囲が良くて……」
「五万、駅近……」
店員はキーボードを叩き始めた。その指の動きが速すぎて、俺の目には残像が見えそうだ。
「……お客様、このエリアで五万だと、かなり限られてきますよ。木造の築古か、駅からバス、あるいは……それなりの理由がある物件か」
「それなり?」
「ええ。まあ、とにかくいくつか出してみますね」
差し出されたのは、3枚の間取り図。
俺はそれを手に取り、じっと見つめた。
どれも、角豆市の実家の物置くらいの広さしかない。しかも、家賃は倍以上する。
「……これが、神州都の相場か」
俺は少しだけ、ごくりと唾を飲み込んだ。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。この狭くて値の高い部屋の向こうに、俺が憧れた都会の暮らしが待っている。
「この物件って、下見とか出来ますか?」
俺が指差したのは、3枚の中で1番安くて、広めの2LDKのアパートだった。
「え、まあ。はい、出来ますよ」
女性店員は目を逸らす様に返事を返して来た。
特に気になることはなかったので、そのまま下見の手続きを済ました。
「では、早速いきますか。……あ、社用車が今出払っているので、徒歩でもよろしいですか? ここから十分もかからないので」
「あ、はい! もちろんです。街の雰囲気も知りたいですし」
俺は元気に答えた。女性店員は「……そうですか」と短く呟き、カウンターから出てきた。名札には佐藤とある。彼女の歩くスピードは驚くほど速く、俺は大きなボストンバッグを肩にかけ直して、必死にその後ろ姿を追った。
店を出た瞬間、熱風が全身を包んだ。アスファルトの匂いと、大勢の人間が吐き出す熱気。角豆市の澄んだ空気とは正反対の、重たくて濃密な風だ。
「うわあ……」
見上げると、ビルが空を切り取っている。ガラス張りのビル、巨大なモニターで流れる広告、鳴り止まないクラクション。
角豆市なら、1台の軽トラックが通るだけで「あ、誰々の家の車だ」とわかるのに。ここでは、俺の人生に関わりのない数百人が数秒で通り過ぎていく。
「佐藤さん、神州都って本当に人が多いですね」
「……まあ、首都ですから」
佐藤さんは前を向いたまま答えた。
ふと見ると、交差点の信号待ちをしている人々の波が目に入った。全員がスマホを見ているか、無表情で一点を見つめている。
でも、よく見ると不思議なことに気づく。
これだけ多くの人がいるのに、誰一人として肩がぶつかっていない。まるで目に見えない糸で操られているかのように、流れるような動きで互いを避けていく。
これが、都会の阿吽の呼吸ってやつか。俺は少し感動した。
角豆市のスーパーなら、知り合いに会うたびに立ち話が始まって道が塞がる。ここでは、誰もが他人の領域を犯さず、それでいて完璧に動いている。これが洗練された都会の距離感なんだろうな。
しばらく歩くと、大通りの喧騒が少しずつ遠のき、古い雑居ビルが並ぶ路地に入った。
道幅は急に狭くなり、頭上を走る電線が網の目のように空を覆っている。
「ここです」
佐藤さんが立ち止まったのは、不思議な形をしたアパートの前だった。
3階建ての鉄筋コンクリート造り。でも、後から無理やり部屋を継ぎ足したような、歪な凹凸がある。外壁にはびっしりと蔦が絡まり、その隙間から見える窓はどれも異様に小さかった。
アパートの名前はメゾン・神州。
「ここが……ツーLDKで五万」
「はい。……あ、言っておきますけど、内見してからのキャンセルは早めにお願いしますね。ここは、すぐに埋まっちゃうので」
佐藤さんは鍵を取り出しながら、また少し目を逸らした。
「では、入りましょうか……」
佐藤さんが部屋の扉を開けると、外見とは裏腹にとても綺麗な部屋だった。
「なんで、こんな綺麗な部屋が五万何ですか……?」
俺の問いに、佐藤さんは窓の外、遠くのビル群を見つめたまま答えた。
「……このメゾン・神州がある地区は、神州都が指定する特別交流促進区域なんです。簡単に言えば、都からの助成金が出ているんですよ。その代わり、入居者にはいくつかの条件が課せられますが」
「助成金! さすが都、太っ腹ですね。ちなみに条件っていうのは、どんなやつですか?」
「ええと。定期的なアンケートへの回答や、地区の催しへの参加……それと、このアパート独自の見守りシステムへの同意など。まあ、他にもありますが、それは後ほど資料にてお伝えいたします」
「なるほどね……。角豆じゃ考えられないくらいハイテクだなあ」
俺は感心しながら、リビングに足を踏み入れた。
フローリングは鏡のように磨き上げられ、俺の履き古したスニーカーが映り込んでいる。
2LDK。角豆市の実家の俺の部屋よりも狭いが……まあ、ここに住めば早速この街に馴染むための第一歩なんだろう。そんな気がした。
キッチンに立ち、蛇口をひねってみる。勢いよく水が出た。
「……お?」
「どうかされましたか?」
佐藤さんが、すぐ背後に立っていた。いつの間に近づいたのか、物音1つしなかった。
「あ、いや。水の勢いが、なんだかすごく……すごいなあって」
そう。水の流れる勢いが、俺の住んでいた角豆とは段違いに強く、初めての感覚だった。不思議に心地よい音を出すもので聞き飽きる事がなかった。きっと、都会の最新の水道管は、水圧がしっかりと調整されているんだろう。
「……そうですか。そういえば田舎町から来たんでしたね、お客様」
佐藤さんの声は、少しだけ嘲笑っている様な気がした。
俺はベランダの窓を開け、外の空気を吸った。蔦の葉が揺れ、遠くで神州都の絶え間ない喧騒が、無数の音波をなすように響いている。
「ここにします」
俺は振り返って、佐藤さんに言った。
佐藤さんは初めて俺と目を合わせた。その瞳は、何かを測るような、あるいは何かを憐れむような、不思議な瞳をしていた。
「……後悔、しませんね?」
「はい! こんなに良い部屋、他にはないですから」
俺の答えを聞くと、佐藤さんは手元のバインダーに、淀みのない動きでチェックを入れた。
「わかりました。では、店に戻って契約の手続きを行いましょう。……ようこそ、神州都へ。東條さん」
彼女の微笑みは、冷房の風よりも、少しだけ冷たかった。
「はい!わかりました」
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2014年5月28日18:14 (視点、東條)
不動産屋の自動ドアを再びくぐると、外の熱気が嘘のように消え、乾燥した冷気が肌を刺した。
佐藤さんは迷いのない足取りで奥の接客ブースへ向かい、俺に座るよう促した。
「では、東條唯斗様。こちらの物件メゾン・神州サンマルニ号室の契約書類になります」
机の上に置かれたのは、電話帳ほどもある分厚いファイルの束だった。
角豆市の役場でも、こんなに大量の書類は見た事がない。
「うわ、すごい量ですね……。これ、全部読むんですか?」
「重要な箇所はこちらで説明いたします。まずはこちら、特別交流促進区域に関する同意書です」
佐藤さんが長い指で示したページには、細かい文字がびっしりと並んでいた。
「先ほども申し上げた通り、この区域は都の公的な支援を受けています。そのため、住民の方には街の安定に寄与していただく義務があります。例えば、指定された時間帯の外出抑制や、特定の公共イベントへの参加、そして……」
佐藤さんがページをめくる。
「こちらの居住者相互監視機関……通称ミマモリ・ネットワークへの接続許可です」
「相互監視、ですか?」
俺は思わず聞き返した。なんだか物騒な響きだ。
「ええ。ですが……言葉ほど大げさなものではありません。神州では孤独死や犯罪が深刻な問題ですから。お互いの部屋のバイタルデータ……つまり、心拍数や生活音、活動状況を匿名化しサーバーで共有して、異常があればすぐに警備員が駆けつける。現代的な隣人愛のデジタル版だと考えていただければ」
「なるほど、隣人愛のデジタル版……」
都会の人は隣に関心がないと聞いていたけど、実はこうして最新技術で支え合っているのか。角豆なら、回覧板を回したり、庭先で「生きてるかー?」と声をかけ合うようなものだろう。それがスマホやセンサーに置き換わっただけだと思えば、むしろ合理的で安心な気がしてくる。
「それと、こちらが一番重要な特約です」
佐藤さんが指差したのは、赤字で書かれた一行だった。
【第十七条:居住者は、都市のパルスを拒絶してはならない】
「パルス、ですか?」
「音や振動のことです。神州都は基本うるさい街ですから。地下鉄の音、工事の振動、あるいは他人の生活音。そういったものをノイズとして排除するのではなく、都市の一部として受け入れていただく。それがこの安さの最大の理由です。よろしいですね?」
「はい。さっき部屋で聞いた水の音も、むしろ心地よかったですし。俺、どこでも寝られるタイプなんで大丈夫です」
俺がそう言って笑うと、佐藤さんは一瞬、ピクリと眉を動かした。
「……そうですか。それは頼もしいですね」
佐藤さんは朱肉を差し出した。
俺は自分の認め印を手に取り、少しだけ震える手で、何枚もの書類に次々と印影を残していった。
「ポン、ポン、ポン」
静かな店内に、ハンコをつく音だけが響く。その音が、なぜか自分の心臓を直接叩いているような、奇妙な感覚に陥った。
最後の一枚に印を押し終えたとき、佐藤さんは満足そうに書類をまとめ、深々と一礼した。
「おめでとうございます。これで東條様も、今日から神州都の一員です。鍵の引き渡しは、明日の午前中となります」
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
佐藤さんに威勢よく返事をして不動産屋を出たものの、俺の足取りはすぐに重くなった。
夜の神州都は、昼間よりもさらに暴力的な光に満ちている。見上げるとビル群が、まるで発光する巨大な墓標のようにそびえ立ち、その足元を無数の人々が、血流のような速さで流れていく。
「ぐぅ〜……」
情けない音が、都会の喧騒に虚しく吸い込まれた。
そういえば、角豆を出てからまともな飯を食べていない。緊張と興奮で忘れていたが、俺の胃袋は限界を訴えていた。
「よし、まずは飯だ。神州都での初飯、豪華にいきたいところだけど……」
俺は良さげな飯屋を探すべく、街をプラプラと歩き始めた。
都に憧れていた頃の俺なら、オシャレなイタリアンや、テレビで見た行列のラーメン屋に飛び込んでいたはずだ。だが、目に映るお店のほとんどが、どぎつい色のネオンサインを掲げている。
「……なんだか、怪しい通りだな」
ピンクや紫の光がアスファルトを濡らしている。呼び込みの男たちの鋭い視線が、俺のボロボロのボストンバッグを射抜く。
いけない。こういう場所は、俺のような純朴な若者が来る場所じゃない。もっとこう、普通の……お惣菜の匂いがするような、温かい商店街を探そう。
俺は路地を抜け、少し静かな方へと歩を進めた。
ふと立ち止まり、念のために現在の戦力を確認することにした。ズボンのポケットから、使い古した革の財布を取り出す。
「ええと、明日の生活費も残しておかないとな……」
中を確認した俺の手が、ピタリと止まった。
千円札の姿がない。500円玉も見当たらない。
あるのは、鈍い光を放つ小銭がいくつか。
「七百……四十八……」
嘘だろ。
角豆を出た時は、もっとあったはずだ……。
あ、そうか。上京の切符代と、さっきの不動産屋への初期費用の振込、それから神州都に来て舞い上がって買った「都会の天然水」……。
「あれ……これ、詰んでないか?」
さっきまで、2LDKの家主になった気分でいた自分が急に恥ずかしくなった。
俺の手の中にあるのは、1食分の定食代にも満たない端た金。見上げた先にあるスカイタワーの光は、あんなに綺麗なのに、俺の手元にはそれを受け取る資格がないみたいだ。
結局、俺は商店街を見つけるのを諦め、煌々と光る大型スーパーへ逃げ込んだ。
冷房の効きすぎた店内で、俺が真っ先に向かったのは弁当コーナーだ。
そこには、俺と同じように今日という日を安く済ませようとする仕事帰りの男たちが、獲物を狙う鷹のような目で並んでいた。
20時5分。
店員が、黄色いシールをリズミカルに貼っていく。
半額
その文字が、今の俺にはどんなネオンサインよりも輝いて見えた。
他の人に取られる前に狙っていた獲物を素早く手に取った。
それは「幕の内弁当500円」に半額シールが貼られた「半額!幕の内弁当250円!」だ。何とコスパが良いのだろう。だが、記念すべき初日にこんな飯とは……
そんな文句を垂れてる場合じゃない、さっさと食べよう。
俺はそのまんま公園へ向かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014年5月28日20:39 (視点、東條)
公園の隅にある、塗装の剥げかけたベンチに腰を下ろした。
街灯がチカチカと不規則に瞬き、俺と幕の内弁当を頼りなく照らしている。
割り箸をパチンと割る。乾いた音が夜の静寂に響き、どこかで鳥がバサバサと羽ばたく音がした。
「いただきます……」
小声で呟き、まずは端の方に押し込められたポテトサラダを口に運ぶ。冷え切っていて、マヨネーズの味しかしない。でも、空腹という最高のスパイスが、それを神州都の絶品料理に変えてくれた。
ふと、胸ポケットのガラケーが気になり、俺はそれを取り出した。
使い込まれて角の塗装が剥げた、黒のガラケー。
パカッ、とガラケーを開く。液晶のバックライトが、暗い公園の中でやけに明るく感じられた。
アンテナは……1本。神州都のど真ん中なのに、ビルに囲まれているせいか電波が心許ない。
「……メール、来てないか」
角豆市を出る時、青年会の仲間たちには「神州都で一旗揚げてくる」と大見得を切った。母ちゃんには「着いたら連絡しろ」と言われていたが、今の俺の姿を見たらなんて言うだろう。
財布に残金498円。公園で半額弁当を突ついている24歳。
……いや、これは修行だ。明日からの2LDKの生活が始まれば、全ては笑い話になる。
俺は慣れた手つきでボタンを押し、新規メールの作成画面を開いた。
【無事に神州都に着いたよ。不動産屋で、すごい良い部屋を契約できた。明日は引っ越しだ。】
そこまで打って、親指が止まった。
「……すごい、何だろうな」
顔を上げると、公園の茂みが夜風に揺れていた。
俺はガラケーを閉じ、再び弁当に向き合った。
幕の内のメイン、少し硬くなった焼き鮭を口にする。
「……うん、いまいちだな」
独り言が、冷えた鮭の脂と一緒に喉を通る。
角豆のスーパーなら、半額でももう少し鮭の身がふっくらしていたはずだ。都会の魚は、なんだか疲れ切っているような気がする。
俺は最後の1粒まで米をかき集め、空になった容器の蓋を閉めた。
さて、腹は満たされたが、問題はここからだ。
「明日はどうするか……」
一番の問題は金だ。
財布の中の498円。明日の朝飯を買えば、昼には空っぽになる。
「そうだ、ハローワークに行くとするか……いや、ハローワークじゃ手続きに時間がかかる
な」
神州都のハローワークなんて、きっと俺みたいな奴で溢れかえっているに違いない。
それに、給料日まで待っていられない。今、この瞬間にでも、この財布の軽さをどうにかしないと、明日の夜にはこの公園で本格的に干からびてしまう。
「日払い……その日に金が手に入る仕事がいいな。力仕事なら自信あるし」
俺は再びガラケーを開いた。
iモードのボタンを押し、重たい通信速度にイライラしながら「神州都 日払い 即日」と検索をかける。
画面の中で、小さな砂時計がくるくると回る。
その待ち時間、ふと、アパートの契約書にあった一文を思い出した。
【居住者は、街の安定に寄与していただく義務があります】
「……街の安定、か」
もしかして、あの特別交流促進区域限定のバイトとか、あったりしないかな。
そう思っていた矢先、ガラケーの画面が切り替わった。
検索結果のトップに出てきたのは、生まれて初めて見るフォントで書かれた募集広告だった。
【神州都・特別保全清掃員募集:日給2万円。経験不問。即日払い】
「に、二万……?」
俺は目を疑った。
角豆市なら、3日間泥まみれになって働いてようやく手に入る金額だ。それが1日で?
募集要項を読み進めると
【夜間の簡単な清掃および、街のパルスチェック】
とある。
「パルスチェック……パルス……」
また、あの言葉だ。
不動産屋の佐藤さんも言っていた、都市のパルス。
怪しい。普通に考えれば、絶対に怪しいバイトだ。
でも、画面に反射する俺の顔は、あまりにも情けなくて、空腹で、明日への期待に飢えていた。
「背に腹は代えられない……よな」
俺は震える指で、そのバイトの詳細をクリックした。
【詳しい仕事内容:夜間の街の清掃活動】
たったこれだけか、
【応募方法:夜21時30分に神州都役所地下1階の特別室へお集まりください】
なるほど、今は……
時計を見ると現在21時04分……まだ間に合う
「あと二十六分……!」
俺は空になった弁当箱を近くのゴミ箱に押し込み、ベンチに置いていた重たいボストンバッグを肩に担ぎ直した。バッグのストラップが食い込み、右肩が悲鳴を上げる。
「神州都役所……ここからだと駅の反対側か!」
俺はガラケーの画面で簡易的な地図を表示させようとしたが、通信が遅すぎて使い物にならない。結局、近くの案内板に飛びつき、指でなぞるようにして都役所の位置を確認した。
走り出すと、夜の熱気が再び体にまとわりついてくる。
さっきまであんなに綺麗だと思っていたネオンの光が、今は俺を急かす不吉な火花のように見えた。
「どいてくれ、すみません! 通してください!」
人波を縫うように走る。
都会の人々は、ぶつかりそうになっても表情1つ変えず、流れるような動作で俺を避けていく。今の俺にはひどく冷たく、機械的なものに感じられた。
ようやく見えてきた都役所は、周囲のビルを威圧するようにそびえ立つ、巨大なコンクリートの塊だった。
昼間の窓口業務が終わった館内は、暗がりに沈んでいる。
「地下……地下一階の特別室……」
正面玄関は閉まっているが、脇に1つだけ、不自然に開かれた通用口があった。
その入り口の脇には、小さな看板が立てられていた。
【本日夜間清掃に従事される方は、こちらから地下へお入りください】
その文字を見た瞬間、俺の胸の鼓動は、走ってきた疲れとは別の理由で、激しく打ち鳴らされた。
「こ、ここだ」
恐る恐る階段を降りた。
突然、後ろから声をかけられた。
「あの、あなたも夜間清掃に?」
突然かけられた声に、俺は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにはボロボロの作業着を羽織った男が立っていた。自分と同じか、少し若いくらいだろうか。
「……あ、はい。そうです。今日上京したばかりで、そのぉ、日払いの求人を見て……」
俺がそう答えると、男は少しだけ目を細め、力なく笑った。
「ああ、やっぱり。あんた、顔にお上りさんって書いてあるよ。俺はカイ。ま、同じ穴の狢だ」
カイと名乗った男は、無造作に伸びた前髪の間から、俺の大きなボストンバッグを眺めていた。都会の人間にしては、どこか薄汚れていて、それでいて妙に落ち着いている。
「そんな大荷物で来る場所じゃないぜ、ここは。……まあいい、早く中に入れ。九時半を一秒でも過ぎたら、この扉は内側からロックされる」
「ロック? 掃除に行くんじゃ」
「あぁ大丈夫最初だけだから。……そうそう、この都会じゃ掃除にも色々あるって事を覚えておきな」
カイに促されるまま、俺は特別室の重厚な鉄扉をくぐった。
そこは、役所の地下とは思えないほど殺風景な、コンクリート打ちっぱなしの広間だ。窓1つない空間に、カビの臭いと強い消毒液の匂いが混ざり合って充満している。
中央には長いパイプ椅子が並べられ、すでに数人の男女が座っていた。
全員が押し黙り、視線は一点……部屋の正面に置かれた、古いブラウン管のモニターに注がれている。
「静かにしてな。もうすぐ清掃活動の説明が始まる」
カイが隣の椅子に腰を下ろすと同時に、部屋の蛍光灯がパチンと音を立てて消えた。
完全な暗闇。
その中でモニターだけが砂嵐を映し出し、ジリジリという、耳の奥を掻きむしるような不快な音を立て始める。
やがて、画面に青白い文字が浮かび上がった。
【神州都・特別清掃業務説明】
何ともよくわからない……清掃業務説明?
暗闇の中で、スピーカーから無機質な男の声が響いた。
「今から皆さんには、神州都におけるゴミの回収活動をしてもらいます。まず、神州都は全十四区に分けられていますよね。……えぇと、今日は二十七名か。では、各区に二人ずつ清掃員を決定いたします。……くじ引きで」
(きっとこの声の主は特別清掃業務の代表とかその類の人間なんだろう)
前方に置かれた古い箱を、1人ずつ順番に引いていく。
俺の手番が来た。中に入っていたのは、古びた真鍮のプレート。そこには第7区という文字、隣のカイが持っているものと同じ文字が刻まれていた。
どうやら、俺はさっき会ったカイという男と同じ区を担当するらしい。
「各区にはそれぞれ清掃監督担当がつきます。第一区の……第四区の……第七区の担当は、新田です。」
部屋の隅、暗がりに立っていた1人の男が、ゆっくりと前に、俺とカイの方へ歩み出た。
新田と呼ばれたその男は、眼鏡の奥の目を細め、事務的な、それでいて獲物を確認するような視線で俺たちをなぞった。
「清掃の具体的な内容については、現場へ向かう道中で説明する。では、第七区へ向かうとするか」
新田はそれだけ言うと、一度も振り返ることなく歩き出した。俺とカイは、急かされるようにその後ろをテクテクとついて行く。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014年5月28日21:36 (視点、東條)
地下から地上へ出ると、夜の神州都の熱気が再び肌にまとわりついた。しかし、新田が向かうのは煌びやかな大通りではなく、街灯の切れた薄暗い路地裏だった。
しばらくの沈黙を破り、新田が前を向いたまま口を開いた。
「……えっと、清掃活動とは言っていたが。まあ、実際の所は孤独死した人間の回収だ。そこのカイは過去に二回ほど参加しているから、知っているだろう」
「…………え?」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
耳を疑った。清掃活動。ゴミ拾い。ボランティアに近い何か。そう自分に言い聞かせて走ってきた足が、ガクガクと震え始める。
「は、はあ……死体、処理……ってことですか?」
裏返った俺の声が、狭い路地に空虚に響く。
新田は眼鏡の蔓を指先で押し上げ、相変わらず事務的なトーンで続けた。
「あぁ、そうだ。都会じゃ、これも立派な清掃の一部でね。まあ、そんな気に留めることじゃない。ただのモノを運ぶだけだと思えばいい。気楽に行ったほうがいいぞ」
「気楽にって……」
俺は、自分の大きなボストンバッグを握りしめた。
この中には、夢と希望を詰めて角豆から持ってきた荷物が入っている。それなのに、神州都での初仕事が、冷え切った誰かの人生の後始末だなんて。
今更ながら、猛烈な後悔が込み上げてきた。
ふと隣を見ると、カイはポケットに手を突っ込んだまま、退屈そうに空を見上げていた。
「……東條だっけか。新田さんの言う通りだ。ここでは、死んで時間が経った奴は、もうただのゴミなんだよ。さっさと片付けて、二万もらって帰る。それだけでいい」
カイの言葉は、新田の無機質な声よりも、どこか深く俺の心を逆撫でした。
都会は、人がこれほどまでに多くいるのに、死んだ瞬間にゴミとして処理されるのか。
「……着いたぞ。ここだ」
新田が立ち止まったのは、古びた賃貸アパートの前だった。
見上げると、その外壁にはびっしりと蔦が絡まり、夜風にザワザワと揺れている。
俺はその光景に、得体の知れない既視感を覚えた。
「ここは……」
「あぁ、メゾン・神州のすぐ裏手にある古い棟だ。今日の第一現場だよ」
新田が鍵を取り出し、鉄扉を開ける。
キィィィ……と、錆びついた音が夜の静寂を切り裂いた。
「ちなみに今日はあと七軒廻るぞ」
新田のその一言に、俺の膝から力が抜けそうになった。あと七軒? この、肺が腐りそうな匂いのする現場を、今夜だけであと七回も繰り返すというのか。
鉄扉の奥は、住人が消えた後の静寂が支配していた。
足元には散乱したチラシや、いつのものかわからないコンビニのレジ袋が転がっている。
俺はカイの後ろに隠れるようにして、慎重に部屋の中を見て回った。だが、リビングにも、生活感の失せたキッチンにも、人の気配はない。
「えっと……死体はどこに?」
「うーん、普通は風呂場か寝床が多いんだけど……」
新田が首を傾げながら、懐中電灯で押入れを照らした、その時だった。
ベランダの方を確認しに行っていたカイが、淡々とした、それでいてどこか冷めた声を上げた。
「新田さんたち! ここ、ベランダですよ。首吊りです」
「え……?」
心臓が跳ねた。
首吊りという言葉の響きが、鼓膜にへばりついて離れない。
嫌だ。見たくない。残酷だ。
角豆にいた頃、死体なんてじいちゃんの葬式で見た、綺麗に化粧された顔くらいのものだ。こんな、都会の片隅で打ち捨てられたゴミのような死体なんて、24歳の俺には刺激が強すぎる。
俺は逃げ出したい気持ちを必死に抑え、吸い寄せられるようにカイのいるベランダへと足を向けた。
神州都の夜風が、開け放たれた窓から吹き込んでくる。
「……うわっ」
月明かりの下、そいつはいた。
物干し竿に、無理やり引き伸ばして変形させたプラスチック製のハンガーが引っ掛けられている。その歪な首吊り具に、1人の男がぶら下がっていた。
足元には、漏れ出した尿がコンクリートを黒く染め、神州都の夜風に乗って、鼻を突くアンモニア臭が漂ってくる。
「ヒィっ……」
喉の奥で、情けない悲鳴が張り付いた。
テレビや映画で見る首吊りとは違う。そこにあるのは、重力に従ってだらりと伸びた四肢と、月の光を浴びて青白く、あるいはどす黒く変色した肉塊だった。
つい数日前まで、この男も俺と同じように、この街のどこかで飯を食い、夢を見たり絶望したりしていたはずなのに。
「よし、とりあえず降ろそうか」
新田が、まるで玄関に届いた荷物を片付けるような軽い口調で言った。
彼は手慣れた動作でカッターナイフを取り出すと、迷いなく物干し竿へと近づいていく。
「おい、東條。ぼさっとするな、足を持て」
「えっ……い、いや、無理です! 触るなんて……!」
「大丈夫だよ」
カイが、俺の肩を強く叩いた。彼の瞳には、恐怖も哀れみもなかった。ただ、今日という日を終わらせるための事務的な光だけが宿っている。
俺は震える手で、恐る恐る男の足を掴んだ。
……冷たい。
スニーカー越しでも伝わってくる、芯から冷え切ったその感触。そして、予想を裏切るような、ずっしりとした異様な重み。
「重っ」
「慣れちゃえば軽いもんよ……したらこいつを外に掛けてある袋に入れて次へ行くぞ」
「わ、わかりました……」
そんなこんなで七軒全ての死体を袋に回収して、焼却炉へ向かった。
「も、燃やすんですか?」
「まあね、これが一番手っ取り早いから」
7体の遺体を、1体ずつ焼却炉の赤黒い口へと投げ入れた。
ゴォォォ……という地鳴りのような音が、地下空間に響き渡る。炎の色は、薪を燃やすようなオレンジ色ではなく、化学薬品が燃えるような、不自然なほど明るい青白色だった。
後ろを振り返ると、他の区を担当したペアたちが、無表情で列を成している。誰もが、自分が運んできたゴミを早く処分して、この場を立ち去りたいというオーラを隠そうともしていなかった。
最後の1体を投げ入れ、俺は煤で汚れた手で、大きく息を吐いた。
「……終わったな」
カイが、俺の隣に並んで焼却炉の炎を見つめている。彼の作業着も、俺と同じように死臭と煤にまみれていた。
「ああ、新田さんから報酬を受け取ったら解散だ」
新田はといえば、焼却炉の脇にある無機質な事務机で、何かの書類に淀みない動きでチェックを入れていた。彼にとっては、7人の人間の死も、ただのデータの処理に過ぎないのだろう。
新田から渡されたのは、封筒にも入っていない、生々しい2万円札だった。
血と死の匂いが染み付いた手で受け取る、ピンと張った1万円札の感触。それは、角豆市で汗水流して稼いだ金よりも、ずっと重く、そしてひどく汚れているように感じられた。
事務手続きを終え、俺とカイは市役所の通用口から外へ出た。
時刻は3時を過ぎている。神州都の空は、ビルの明かりに遮られて星一つ見えないが、東の空がわずかに白み始めていた。
「……なぁ、東條」
通用口の階段を上りきったところで、カイが立ち止まった。
「また今度も、行かないか? この仕事」
「え……?」
俺は思わず、2万円札を握りしめたポケットの上から自分の太ももを叩いた。
嫌だ。二度とごめんだ。あんな残酷な光景、あんな肺が腐りそうな匂い、もうたくさんだ。
そう断ろうとした、その瞬間。カイの瞳が、月の光を浴びて、さっきの不動産屋の佐藤さんや新田と同じように、憐れむような、不思議な光を帯びていることに気づいた。
「俺、お前と一緒にこの仕事やって楽しかったからさ」
カイの言葉が、俺の胸に深く突き刺さった。
財布に残った、498円。明日、朝飯を買えば、昼には空っぽになる。明日から2LDKの主になるとはいえ、家具も家電も何もない部屋で、空腹に耐えながらハローワークに通う日々。
2万円。
この金があれば、少なくとも1週間は、まともな飯が食える。都会の天然水だって、心置きなく買える。
「……わかりました。是非また行きましょう」
俺の答えを聞くと、カイは少しだけ口角を上げた。
「よっしゃ。じゃあ、連絡先を交換しておこう」
カイがポケットから取り出したのは、俺のものと全く同じ機種の、黒いガラケーだった。角の塗装が剥げ、使い込まれている様子も、俺のものとそっくりだ。
「……あ、俺もガラケーなんです」
「おぉ!お揃いっすね」
カイはガラケーの画面を開き、慣れた手つきで操作を始めた。
「赤外線通信な。」
俺も自分のガラケーを取り出し、赤外線ポートを近づける。
チチチチ……という、電子的な音が、静まり返った都会の夜に響いた。
【受信完了:カイ】
画面に浮かび上がったその文字が、この街での初めての「繋がり」だった。
「じゃあ、またメールした日の夜。市役所の地下で」
カイはそれだけ言うと、迷いのない足取りで、まだ眠り続ける都会の闇へと消えていった。
一人取り残された俺は、大きなボストンバッグを担ぎ直し、さっき弁当を食べた公園へと向かった。
明日になれば、俺は2LDKのアパートの主になる。でも、今夜はまだ、帰る場所がない。
公園のベンチは、夜露に濡れて冷え切っていた。
俺はボストンバッグを枕にし、そのベンチの上に横たわった。
見上げると、公園の巨大な木が、夜の闇の中で黒々とそびえ立っている。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014年5月29日6:48 (視点、東條)
ザワザワ……ザワザワ……。
都会の木々が、まるで何かを囁き合っているような音で目が覚めた。
「……痛っ……」
首の後ろに鋭い痛みが走る。ボストンバッグを枕代わりにしていたせいで、首が嫌な方向に固まってしまったらしい。
体を起こすと、昨夜の記憶が泥のように頭の底から這い出してきた。
首を吊った男の足の冷たさ。プラスチックのハンガーがパチンと弾ける、あの乾いた音。そして、青白い炎に包まれて消えていった7つの死体。
俺は反射的に、煤で汚れたズボンのポケットを叩いた。
そこには、昨夜新田から手渡された、生々しい手触りの2万円札が確かにあった。
「……夢じゃ、ないんだよな」
独り言が、冷え切った朝の空気に溶けていく。
煤と死臭がこびり付いた作業着のまま、俺はゆっくりと立ち上がった。
公園の周囲を見渡すと、いつの間にか街は朝の顔に着替えていた。
ピシッとしたスーツに身を包んだサラリーマンや、規則正しいリズムでヒールを鳴らして歩く女性たちが、まるで巨大な血管を流れる赤血球のように、整然と駅へ向かっている。
彼らの誰もが、数時間前にこの街の地下で死体が焼かれていたことなんて、露ほども疑っていない。いや、たとえ知っていたとしても、彼らは立ち止まらないだろう。完璧な阿吽の呼吸で互いを避け、他人の死など最初から存在しなかったかのように通り過ぎていく。
俺は公園の公衆トイレに駆け込み、ひび割れた鏡の前に立った。
「うわ、ひでえ顔……」
鏡の中には、角豆市にいた頃の俺とは別人のような男がいた。目の下にはどす黒いクマができ、頬には煤が薄く残っている。
俺は蛇口をひねった。
ドッ、と恐ろしいほどの勢いで水が飛び出し、古い洗面台を激しく叩く。
「……そうだ。ここの水は、勢いがいいんだったな」
不動産屋の佐藤さんと内見した時のことを思い出しながら、俺は冷たい水で何度も顔を洗った。
手のひらに残っている、あの遺体の足の「芯から冷え切った感触」を、都会の強い水圧で無理やり削ぎ落とすように。
だが、どれだけ洗っても、鼻の奥にこびり付いたあの鉄臭い匂いだけは、どうしても消えてくれなかった。
身なりを整え、重たいボストンバッグを肩にかけ直す。
「よし。鍵、受け取りに行くか」
自分に言い聞かせるように呟き、不動産屋へと向かった。
昨日と同じ、駅前のビル。自動ドアをくぐると、ひんやりとした無機質な冷房の空気が、煤けた肌を撫でた。
カウンターの奥には、昨日と変わらず、1分の隙もないスーツ姿の佐藤さんが座っていた。
「おはようございます、佐藤さん! 鍵、受け取りに来ました」
俺が努めて元気に、都会の住人らしく振る舞って挨拶すると、佐藤さんはゆっくりと書類から顔を上げた。
その瞳が、俺の顔、そしてボロボロの作業着を一瞬でスキャンするように捉える。
「……おはようございます、東條様。随分とお疲れのようですね」
佐藤さんの微笑みは、朝の光の中でも相変わらず、冷房の風よりも冷たかった。
佐藤さんは、カウンターの下から一本の鍵を取り出した。
「こちら、メゾン・神州サンマルニ号室の鍵になります」
差し出された鍵を手に取ると、それは金属の塊とは思えないほどずっしりと重く、そして氷のように冷たかった。
「おめでとうございます、東條様。……今日から、あなたはこの街の一員です」
佐藤さんの口調は、新しい門出を祝う言葉というよりは、何かのに組み込まれたことを告げている様だった。
俺は「ありがとうございます」と短く答え、逃げるように不動産屋を後にした。
手の中の鍵が、微かに脈打っているような気がした。
俺はそのまま、昨日チェックしていたハローワーク神州へと向かった。
2LDKの主になったとはいえ、あの死体処理のバイトだけで生きていくのは、あまりにも精神が削られる。今日中に、もっと普通の、太陽の下で堂々と胸を張って働ける仕事を探さなきゃいけない。
母ちゃんに、「都会で死体を焼いて稼いでる」なんて、口が裂けても言えないからな。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014年5月29日15:17 (視点、東條)
ハローワークの自動ドアをくぐると、そこには俺と同じように、あるいは俺以上に疲れ切った目をした人々が、黙々と端末を叩いていた。
「次の方、東條様、三番窓口へどうぞ」
呼ばれて向かった先で待っていたのは、疲労を煮詰めたような顔をした初老の職員だった。
「東條さん、未経験で……特に資格もなし、と。この条件だと、神州都では厳しいですよ。精々手取りで十五、六万。このあたりの家賃を考えれば、生活はかなり苦しくなるでしょうね」
職員の言葉は、都会のビル風のように容赦なく俺を打ち据えた。
16万。
一ヶ月間、毎日朝から晩まで汗を流して働いて、たったの16万だ。
昨日の「清掃」なら、たった8日で稼げてしまう金額。
俺はポケットの中の2万円札の感触を、無意識に確かめていた。
あの冷たい、忌まわしい、けれど確かな重みのある2万円。
真面目に働くことの価値が、神州都の巨大な影に飲み込まれて、どんどん希薄になっていく。
「……検討します」
俺はそれだけ言って、窓口を離れた。
ハローワークの喧騒から逃れるようにして、俺は駅前のロータリーにある、塗装の剥げかけたベンチに腰を下ろした。
ボストンバッグの重みが肩に食い込み、昨夜の疲れがじわりと足首に溜まっていく。
目の前を、最新のスマホを片手に颯爽と歩く同年代の男が通り過ぎていく。彼はきっと、清潔なオフィスで、誰の死体にも触れずに、当たり前のような顔をして都会の対価を受け取っているんだろう。
俺は膝の上に置いたボロボロの手帳を取り出し、震える手で現状を書き出してみた。
【月収16万から3万天引きの手取り13万。
そこから家賃等で8万……残金5万】
「五万円……」
1ヶ月、満員電車に揺られて、愛想笑いを振りまいて、必死に働いて残るのが、たったの5万円。1日あたり、1600円ちょっと。
昨日の都会の天然水と半額弁当を買ったら、それだけで1日の予算が消える計算だ。
対して、あの地下の仕事はどうだ。
たった一晩。7つの死体を焼却炉に放り込むだけで、2万円。3日働けば、昼間の仕事の1ヶ月分の自由時間を超える金が手に入る。
「……真面目って、何なんだろうな」
角豆市にいた頃の俺なら、迷わず「昼の仕事」を選んでいたはずだ。母ちゃんに誇れる仕事。お天道様の下で堂々と歩ける道。
でも、この神州都の巨大なビルの影は、そんな素朴な正義感を冷たく笑い飛ばしている気がした。
空腹。孤独。そして、あの2LDKのガランとした部屋を埋めるための費用。
俺は手帳を閉じ、ポケットの2万円札をぎゅっと握りしめた。
その紙幣は、朝よりもさらに冷たく、そして抗いがたい重みを持って俺の指先に馴染んでいた。
「明日も頑張ろ……」
「あ」
布団ないんだ……
「床で寝るか」
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2014年5月19日22:14 (視点、東條)
俺は目を瞑って子供の頃を振り返った。
気がついたら、俺の周りに蛙が群がっていた。
数千、数万。計算などとうに放り出したくなるほどの、圧倒的な「個」の群れだ。
ここは角豆の田舎ですらない。水辺も、草むらも、湿り気もないはずの無機質な空間。それなのに、足元を埋め尽くす彼らは、絶え間なくその喉を膨らませ、奇妙な音を奏でていた。
「グェコ……ゲコグェコ……」
その鳴き声を聞いて思い出した……子供の頃、蛙の解剖をやった。友達と近所の湿地に行って蟾蜍を何匹か捕まえて、そのうち一匹だけを残し、他は焼いて食べたな。なんとも、楽しかったが、今思い出すと残酷な事をしていたな……
ていうか、その時の鳴き声とそっくりだ。
俺は、幾千と群がる蛙を押し避けながら、遠くに見える唯一橙色の灯りのある方へ歩いた。
一歩踏み出すたびに、足の裏にはグチャリという、生々しい肉を潰す不快な感触が伝わってくる。ぬるっとした、生ぬるい皮膚の感触が手に、足に、全身にまとわりつく。
それは、まるで昨夜触れた、あのベランダの死体の、芯から凍てつくような冷たさを、熱帯夜の湿度で煮詰めたような、暴力的な不快感だった。
振り返ると、さっきまで俺の足を掴んでいたはずの蛙は、影も形もなく消えていた。
踏み潰したはずの死骸さえ、そこにはない。ただ、俺の安いスニーカーの側面には、昨日見た焼却炉の底に溜まっていたものと同じ、どす黒い煤だけがべっとりと付着していた。
「うっ」
灯りに向かって踏み出したはずの俺の足は、いつの間にか、足首まで埋まるほどの深い草をかき分けていた。
「……なんだ、ここ」
見渡す限りの草原。だが、それは角豆の山々に広がるような、生命力に溢れた緑ではない。
月光を反射して銀色に光る、あるいは死者の髪の毛をより集めて編み上げたような、色の抜けた灰色の草原だった。
風が吹く。
ザワ……ザワザワ……。
草同士が擦れ合う音は、もはや自然界の音ではなかった。それは、数百万台のガラケーが一度に受信バイブを鳴らしているような、細かく、執拗な震えだ。
俺はさっきまで追いかけていたはずの「灯り」を探して、必死に辺りを見渡した。
しかし、水平線の彼方まで続く草原には、遮るものが何もない。
置いて行かれた気がした。
そういえば昔……家族で遠路し、都会のモールに行ったな。あの時も……いや、あの時はただ迷子になっただけだな。確か文房具店に勝手に行ったんだったな。それで家族を見失ったんだ。懐かしいな。
足元の草たちが、一斉に俺の足に絡みついてきた。
それは植物の蔓などではない。冷たく、無機質で、それでいて生き物のように脈打つ銅線のような感触。
「うわっ……やめろ、放せ!」
振り払おうとするが、動けば動くほど、それは俺の皮膚に食い込んでいく。
痛くはないが、この感覚は小学生以来だ、木から転げ落ちた時に地面にあった木の枝が俺の太ももを貫通したんだっけな。あれは相当痛かった……思い出したくもなかったのに。
不意に、目の前の空間が歪んだ。
空気が、熱に浮かされた陽炎のように激しく波打ち、色のない草原が、一瞬にして赤黒い回路のような模様に染まる。
突然、目の前に青白い霧が現れた。
それは、俺とほぼ同じ背丈のニューロンの構造をした何かだった。その見た目は、ガラス細工で何から何までを再現したかの様な、見事な異形。
半透明の管の中を、青白い光の粒が、凄まじい速度で流れていく。時々、その光が強くなる瞬間がある。それと同時に草原全体が、まるで巨大な生き物の肺のように大きく波打つ。
「なんだこいつは」
無数の神経線維の先端が、俺の体を突き抜ける。
すると、前に居たニューロン構造が段々と人の形を成してきた。
「うわっ」
最終的に半透明の裸の男になった。
その男は俺に手を伸ばしてきた。だが、流石に持ちが悪いのでその手を払った。すると、その半透明の男の周りの草から次から次へと別のニューロン構造の何かが生えてきた。そして、それらは俺の体にむけて神経繊維の先端を突きつけてきた。
運良く、体を突き抜ける前に目が覚めた。
「な、なんだったんだ……今の夢」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014年5月30日21:41 (視点、東條)
2回目の清掃……
今回もまたカイとだ、運が良い。俺らの担当は荒波という人だ。その3人で第2区の清掃をする事になった。
「ここだ」
荒波の後ろを歩いていたが、特に話も進まず、あまり楽しくはなかった。
1軒家の様だ。
廊下の電気はついたままだ。リビングの隅では、テレビの主電源が入っているのか、微かな電子音がピーと鳴り続けている。
誰もいないはずの家に、誰かの生活の残骸が漂っている。
浴室に向かうと、湿り気を帯びた空気が重く立ち込めていた。
湯船の中には、女がいた。
水面から覗く肩は白く、ふやけて、もはや生き物の質感ではない。
「暴れた形跡があるからおそらく入浴中に足を攣ったのだろう」
荒波の声には、同情も驚きもなかった。ただ、目の前の障害物をどう片付けるか、という算段だけが籠もっていた。
「ほら、さっさと湯船から上げて、体を拭いて袋にしまえ」
俺は震える手を、濁った湯の中に差し込んだ。
お湯はもう冷えて冷たくなっていた。
「……っ、重い」
溺死体は、水を吸って驚くほど重くなっていた。
湯船から引き上げた瞬間、ズルリ、という感覚と共に、女の右腕が肩口から外れ、俺の足元に落ちた。
「ひっ……!」
喉の奥で、短い悲鳴が弾けた。
タイルの上に転がった腕は、まるで精巧に作られたシリコンの塊のようだった。ふやけた指先が、俺の泥で汚れたスニーカーの側面に力なく触れている。
俺は、腰が抜けそうになるのを必死に堪えた。
視界の端で、荒波がスマホの画面を強く叩く音が
「カチ、カチ」
と浴室の壁に反響する。
彼は、足元に転がった腕など、最初から存在しないかのように無視していた。
震える指を伸ばし、その冷え切った腕を拾い上げる。
重い。
死人の腕一本が、水を吸うとこんなにも膨れて、重くなるとは……
触った時の感覚が肉ではなく、ふやかしたダンボールの様な感触。この世の物とは思えない。
「袋に入れたな、次に行くぞ」
そう言って荒波はスマホから目を離さず家を出た。
俺たちはそれに続いて死体の入った袋をトラックの荷台に乗せて、乗り込んだ。
車内には悪臭が充満していた。
荒波の体臭、水死体の腐った臭い、カイの甘ったるいガムの匂い。
2軒目の学生はどうやら学生寮に住んでいたみたいで、その学校の管理者から受け取った鍵は、使い古されて黒ずんでいた。
「……305号室です。あとの掃除は頼みますよ、業者の人」
管理人の男は、俺の煤けた作業着を汚物でも見るような目で見つめ、足早に去っていった。
荒波が先頭に立ち、寮の階段を上がる。
廊下には、まだ新しいスニーカーや、部活動で使うのかテニスラケットが置かれている部屋もあった。
10代の、輝かしい未来の音がするはずの場所。
だが、305号室の前に立った瞬間、空気の色が変わった。扉の隙間から、甘ったるく、それでいて内臓を掻きむしるような腐敗の臭いが漏れ出している。
「入るぞ」
荒波が鍵を開け、ドアを蹴るようにして開いた。
視界を埋め尽くしたのは、絶望的な量の「生活の死骸」だった。
積み上がったコンビニ弁当の容器、変色した麦茶のペットボトル。
そして、そのゴミの山の頂点から、力なく投げ出された、白く細い学生の手が見えた。
さらに、その周りを蠅や蛆がわんさかといる。
顳顬から虫に喰われたのか脳みそが少し見える。
死体の隣から「カサッ」という音と共に大きめのゴキブリが姿を現した。そのゴキブリが「シューッ」っと鳴いた。その声に驚いたのか、カイの叫び声が部屋中を轟かせた。
荒波はカイの背中を押して死体を袋に入れるように合図を送った。
カイは死体の前で立ち尽くし、俺の顔を曇り無き眼で見てきた。
俺は仕方なく手伝うとにした。
学生の死体は1軒目の女より腐敗が進んでいた。少し触るだけで潰れてしまう。それは、熟れすぎた果実のように、皮一枚で繋がっている肉の感触……
そんな地獄の様な空間でも、荒波は何食わぬ顔でスマホを叩き続けている。
俺達がこんなに嫌な思いをしながら掃除をしているのに「カチ、カチ」と、作業をしている後ろから鳴るものだからノイローゼになるところだった。
「やっとか、次に行くぞ」
この男、何もしていないのに上から目線で……かなりの嫌悪感を抱いた。
死体の入った袋が「ネチョッ、グチョッ」と、潰れ、擦れる音を鳴らすものだから吐き気がした。
玄関扉を開けると学生の鼻歌が聞こえてきた。
死体を外に出した時にすれ違い、目が合った。
「そ、それって……」
俺は学生の言葉を遮る様に、
「こ、これはゴミですよッ」
なんて言って誤魔化した。
「え、あ。そうっすか」
そう言って学生は通り過ぎて行った。
心臓がはち切れんばかりの緊張感に押しつぶされそうになったが、なんとか耐えて車に乗り込んだ。
3軒目につくとそこは日本家屋だった。
玄関の引き戸が軋む音を我慢しながら屋内に入った。電気をつけると目の前に仰向けの状態で倒れている白髪の老人を見つけた。
「……あー、この老人、ネットで有名な大学の元クソ教授じゃん。不謹慎レスバのネタにちょうどいいわ」
と言って、死体の顔をスマホで無造作に撮影する荒波。
俺はこの時、荒波とは関わらない方が吉と感じた。
そうして荒波は
「あとは任せた、自由にどうぞ〜」
と言い残し外へ出た。外から小さくスマホのタップ音が聞こえてくる。
それにしてもこの老人……
「へぇ、このおっさん優秀職員賞なんて取ってやがる」
なんてカイのつぶやきを聞いて思い出した。昔、中学生時代そんな賞を取っていた教員がいたな、と。確か名前は栗原伊三郎だったはずだ。
「イサブロウって、古すぎでしょ」
カイが笑いながら賞を振り回していた。
俺は驚きの老人をよくよく見た。
「……栗原、先生……?」
俺の口から、場違いに丁寧な言葉が漏れた。
そうだ。中学の卒業式の日、校門の前で俺に「もし都会に行っても、自分を見失うなよ」と、重たい言葉を投げかけてきたあの栗原伊三郎だ。
角豆市の、あの古臭い中学校。
生徒一人一人の名前を、名簿も見ずに呼んでいた熱血漢。
その彼が、今、神州都の隅っこにある埃っぽい日本家屋の玄関で、一塊のゴミとして転がっている。
「おい、東條? 知り合いかよ」
カイが不思議そうに覗き込んできた。
「……いや、昔の……中学の時の、先生だ」
俺の指先が、わずかに震えた。
さっき二軒目で、生きている学生に向かって「これはゴミですよ」と言い放った自分の舌が、急に熱を帯びて焼けるように痛む。
この人はゴミじゃない。俺に国語を教えてくれた、血の通った人間だ。
「マジかよ。世間はせまいな。でも、死んじゃえば一緒だって。ほら、荒波さんが戻ってくる前に袋に入れようぜ。あいつ、機嫌損ねると報酬減らすかもだし」
カイは悪びれる様子もなく、老人の遺体の脇に黒いビニール袋を広げた。
ガサガサというポリエチレンの音が、静かな日本家屋に暴力的に響く。
「……待てよ」
俺は老人の胸元に目をやった。
そこには、あの夢で見たあのニューロン構造が出していた青白い光の筋が微かに走っているのが見えた。
「おい、カイ。……これ、見えないか?」
「あ? 何がだよ。早くしろって、腰痛めちまうよ」
外から荒波の声が聞こえた。
「あー、マジでこいつの過去ログ、ゴミすぎて笑えるわ。お、反応来た。死体処理なうって呟いたら、フォロワー爆増してるし」
荒波の甲高い引き笑い……いやとなるほど聞いた声。
死体をトラックに運び、都役所へ戻った。
「前回より手際が良かったじゃねぇか」
カイが、ガムを噛みながら感心したように言う。その隣で、荒波は相変わらずスマホに指を叩きつけていた。
遺体は重い。
この遺体の中に先生が……と、自分の心で連呼しながらも、最後遺体を焼却炉へと運んだ。
ゴォォォ……という青白い炎の音が、心地よい子守唄のようにすら聞こえ始めていた。
「お疲れ様……はいこれ」
荒波から手渡された、2枚の1万円札。
俺はそれを、煤で汚れた手で、迷いなくポケットにねじ込んだ。
「なぁ、東條。これから一杯行かないか? 景気づけにさ」
カイが、ひどく親しげに俺の肩を組んできた。
「……いいですよ。俺も、少し飲みたかったです」
昨日、公園で震えていた自分はもういない。
ポケットには2万円。俺は今、この街で一番稼いでいる若者の1人だという、根拠のない万能感に支配されていた。
カイに連れられて入ったのは、駅裏の路地にある、赤提灯の居酒屋だった。
「いいか、都会の酒は、昨日の汚れを流してくれるんだよ」
カイはそう言って、ビール、刺身、煮込み……次から次へと高いメニューを注文していく。俺は、お金が入り、浮かれ調子に乗って杯を重ねた。
だが。
「あー……わりぃ。俺、今持ち合わせがなくてさ。東條、二万持ってるだろ? 明日必ず返してやるから、とりあえず頼むわ」
会計の瞬間、カイが放ったその一言で、酔いが一気に冷めた。
レジに表示された金額は、1万8900円。
俺が今日一晩、心を削って、死体の冷たさに耐えて稼いだ2万円。それが、たった数時間の無意味な笑い話と引き換えに、消えてなくなる。
「え……でも……」
「いいじゃんか、また明日稼げばいいだろ? 俺たちの繋がりの代金だと思えば安いもんだろ」
カイの目は奥で笑っていた様に感じた。
俺は震える手で、ポケットから今日稼いだばかりの2万円札を取り出した。
自動ドアが開いた瞬間、店内の油の匂いとカイの安っぽい笑い声が背中に張り付き、夜の冷気が、汗ばんだシャツを容赦なく冷やした。ポケットの1100円が、歩くたびに虚しい金属音を立てる。
「じゃあな、また明日。連絡するわ」
カイは千鳥足で闇に消えていった。
俺は1人、ネオンの光が反射する濡れたアスファルトを見つめて立ち尽くした。
結局、俺は奪われる側なんだ。この街は、死体も、希望も、そして必死に掴み取った金さえも、等しくゴミとして処理していく。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2014年5月30日22:56 (視点、東條)
今はただ、遠くを走る車の走行音だけが湿ったノイズのように鳴っている。
俺は街灯の下で立ち止まり、震える手でポケットの中を確認した。
1万円札1枚と、1000円札2枚と、100円玉が7枚。
たったそれだけが、俺の2日間の努力の賜物だった。10体の死体を運び、その重みに耐え、鼻にこびりつく死臭を無視して稼いだ金。それが、カイが注文した高い地酒や、たいして旨くもない刺身の皿へと姿を変えて消えた。
「バカだな。本当に……フッフフ」
乾いた笑いが口から漏れたが、それはすぐに夜の闇に吸い込まれた。
都会の夜は明るい。上を見れば巨大なビルの窓が宝石のように輝いているが、足元には街灯に照らされた汚れたアスファルトが広がっているだけだ。俺はその境界線を踏み外さないように、重いボストンバッグを担ぎ直し、一歩ずつ歩き出した。
1100円しかないのか、160円のカレーパンが7個も買えない……
大通りを抜け、街灯の数がまばらな路地裏へと入る。
昨日までは都会の裏道だなんて少しワクワクしていた景色が、今はただ、自分を飲み込もうとする巨大な食道のように見えた。
「……あ」
視線の先に、蔦が血管のように絡みついたあの建物が見えてきた。
メゾン・神州。
俺が夢見て、ようやく手に入れた家だ。
建物の前に立つと、夜風に揺れる蔦がザワザワと音を立てた。それは、新田さんの無機質な声や、カイの軽薄な笑い声よりも、ずっと親しげに俺を歓迎しているように感じられた。
俺はずっしりと冷たい鍵を鍵穴に差し込んだ。
キィィィ……。
錆びついた鉄扉が、この世の終わりを告げるような悲鳴を上げて開く。
共用廊下の蛍光灯は、古びた機械のようにチッチチ……と不気味な点滅を繰り返していた。俺は自分の足音だけが響く廊下を抜け、302号室の前に立った。
ふと、隣の301号室に視線をやる。
そこには、厚い埃にまみれ、長い間誰も触れていないような鉄の扉があるだけだった。
「……ただいま」
誰に言うでもなく呟き、俺は自分の部屋の鍵を開けた。
扉を開けた瞬間、部屋の中から押し寄せてきたのは、新しい生活の匂いではなく、どこか懐かしく、そしてひどく冷たい無の空気だった。
家具1つない、広すぎる2LDK。
自分の心臓の音が、コンクリートの壁に反射して、まるで見知らぬ誰かが隣の部屋で太鼓を叩いているように聞こえる
俺は靴も脱がず、そのままフローリングの上にボストンバッグを放り出し、壁に背中を預けて座り込んだ。
俺は一つのライトの下で、財布を握りしめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
都会の脈動が、床を通じて俺の体に深く、深く染み込んでいくのを感じながら。
「おい、起きろよ……起きろったら……」
何だろう、夢の中で誰かに声をかけられた気がする。一体誰の声なんだ。
「目を開けろよ……これは夢じゃないぞ……」
相変わらず声がする。夢の中で辺りを見渡しても誰もいない、今俺の夢には俺が1人、ポツンと居るだけなはず。
「……ん……誰ですか?」
俺は重いまぶたをゆっくりと押し上げ、暗闇の中で声をかけてきた人を探した。
月の光さえ届かないガランとした2LDK。その冷たいフローリングの上、俺のすぐ隣に、そいつは座っていた。
俺と同い年くらいだろうか。
安物のパーカーを羽織り、どこにでもいそうな風貌をしているが、その瞳だけが異常だった。濁りのない、鏡のように澄み渡った瞳。それが、暗闇の中で俺の顔を真っ直ぐに見つめていた。
「お前、大変だな……」
そいつは、まるでかつての親友かのような距離感で語りかけてきた。
「えっ……?」
心臓が跳ねた。鍵は確かに閉めたはずだ。窓だって開けていない。何より、この部屋には俺以外誰もいないはずなのに。
それなのに、目の前の男が笑うたびに、彼の輪郭がわずかにブラウン管のノイズのようにブレる。その辺を飛んでいたハエが彼の体を通り抜け、まるでそこには色がついた空気しか存在しないかのように見えた。羽織っているパーカーの繊維が、よく見ると無数の極細い光で編まれている。
「そんな驚かなくていいんだよ。俺はお前を助けにきた救世主なんだから」
男は、怯える俺をあやすように軽く手を振った。その動作には重力が感じられず、まるで水の中を泳いでいるような滑らかさがあった。
「まずな、この街……神州都では頑張った者が負けなんだよ。人生楽しんだもん勝ちって言葉、知ってるか?」
「いや、そんなことより、貴方誰ですか? どこから入って……」
俺は震える足で立ち上がろうとしたが、腰から下に力が入らない。まるで床に吸い付いているかのように、体が重い。
「俺の名前? そうだな……、三登とでも呼んでくれればいいよ」
男は三登と名乗った。
「頑張るから、疲れるんだ。真面目に死体を運んで、あんなゴミみたいな人間に金を奪われて、ハローワークで安い月給を見て絶望する。……そんなの、この街の餌になるだけの人生だよ」
三登は、俺の財布を指差した。中には、血と煤の匂いが染み付いた約1万2700円。
「その金を、何に使う? 明日のパンか? それとも、誰かのために残しておくのか? 無駄だよ。この街で生き残る方法は一つしかない。自分を捨てて、自由になること……ただそれだけさ。本当に」
三登の顔が、じわりと近づいてくる。
彼の瞳の中に、俺の怯えきった顔が映っている。
「そこで!……俺がお前を助けてやるよ。
お前が、俺と同じ自由を手に入れられるようにさ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2011年2月25日23:24 (視点、三人称視点)
神州都役所の巨大な影に寄り添うように建つ、神州都中央警察署。
その地下深く、窓一つない無機質な空間に「特別情報処理室」はある。壁一面のモニターには、特別交流促進区域の各部屋から吸い上げられたバイタルデータや盗撮・盗聴映像が、絶え間なく流れ続けていた。
高感度モニターを見つめていた若手刑事が、ヘッドセットを外し、青ざめた顔で黒澤警部補を振り返った。
「……警部補。メゾン・神州サンマルニ号室、音声に異常が発生しています」
「どうした」
黒澤警部補は、デスクの灰皿で短くなった煙草を押し潰した。その瞳には、長年の現場経験で培われた冷徹な光が宿っている。
「家主の男の声以外に、正体不明の音声が混じっています。……いえ、声というより、特定の周波数が言葉として構成されているような……。ノイズ除去を最大にしても、波形が人間の帯域から微妙に外れているんです。ですが、サーモグラフィに映る熱源は、男一人分しかありません」
黒澤は椅子を蹴るようにして立ち上がり、モニターを凝視した。
画面の中の男……数日前に入居したばかりの新参者は、家具一つないフローリングに膝を突き、虚空に向かって必死に語りかけていた。
「……これで自由になれるのだーッ!」
男は震える手で、空中に何かを差し出し、笑っている。だが、そこには何もない。ただの澱んだ空気があるだけだ。
「……見ろ。影だ」
黒澤が指差した先。男の背後で、床に落ちた「影」が物理法則を無視して蠢いていた。本体である男は動いていないというのに、影だけが鎌首をもたげ、耳元で何かを囁くように揺れている。
「幻覚が物理現象に干渉し始めていますね。幻覚干渉率、八五パーセントを超えました」
若手刑事の指が、キーボードの上で震える。
直後、画面の中の男が何かに突き飛ばされたように壁へ激突した。そこには誰もいない。だが、男の喉元には、目に見えない「手」で絞められたような、青紫色の指の跡が浮かび上がっていた。
「……死に至る一歩手前だ。様子を見る」
「監視班を派遣しますか?」
「ああ。だが潜入捜査官は使うな。あれの幻覚に当てられて、向こう側へ引きずり込まれるのが関の山だ」
「……それにしても、このパルスは一体どこから発生しているんでしょうか」
若手刑事がモニターの波形を凝視しながら呟く。画面上の数値は、男が虚空に怯えるたびに、人間の鼓動とは無関係な鋭いスパイクを描いていた。
「発生源を特定しようとするな。おそらくアスファルトの隙間、壁を這う蔦の導管、下水道の水の流れ……それか人間……とりあえずこの街のすべてが発信源だ。キリがないぞ」
黒澤は、男の喉に刻まれた指の跡を冷ややかに見つめた。
存在しないはずの幻覚が、現実の肉体を損壊させ始めている。
「幻覚が物理法則を上書きし始めているんだ。このレベルまで同調が進めば、もう元には戻れん」
モニターの中の男が、ついに白目を剥いた。何もない空間に向かって手を伸ばしながら、まるで巨大な胃袋に飲み込まれるように、部屋の隅の暗闇へと引きずり込まれていく。
映像に激しいノイズが走り、次の瞬間、男の姿は画面から完全に消失した。
「……消えた」
サーモグラフィの熱源反応もゼロ。
302号室には、最初から誰もいなかったかのような、冷たい静寂だけが残された。
「まずいな……今すぐに清掃局を!」
「えっ、もう手遅れでは?」
「馬鹿野郎、このパターンの神隠しは、残留パルスが残るんだよ」
若手刑事が聞き返すと同時に、モニターの映像が激しく乱れた。砂嵐の奥で、無人のはずの空間が熱せられたアスファルトのように陽炎となって揺らいでいる。
「今の男は消されたんじゃない。この街のパルスと完全に同調し、部屋そのもの……いや、この街の構造に取り込まれたんだ。だが、取り込まれた直後の空間には、そいつが最後に感じた恐怖や絶望が、高濃度の磁場となって残留する」
黒澤はデスクから計器を取り出し、コートを羽織った。
「これが次の入居者に干渉する。残留パルスが前の住人の末路として、新しい幻覚の形をとって現れるんだ。負の連鎖だよ」
「じゃあ、次の入居予定者は……」
「ああ、入居した瞬間にその洗礼を受けることになる。急げ、清掃局の新田に連絡しろ。次の男が来る前に、空間の中和を急がせるんだ」
パルスの事を表では音などと説明しているが……
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2011年2月26日2:30 (視点、三人称視点)
「全員、集まったか」
黒澤はモニターから視線を外さないまま、背後の若手刑事に確認を取った。
「ええ。新田さんと荒波さん、それに矢上さんも到着しています」
若手刑事は小さく頷きながら答えた。集められた面々の顔を一人ずつ確認するその指先には、隠しきれない緊張が滲んでいる。
「矢上……特別清掃業務の、現場統括責任者だったな」
黒澤が低く呟くと、若手刑事が補足した。
「はい。現場処理における最終判断を下す実力者です」
その言葉を受け、黒澤はゆっくりと首を巡らせた。視線の先には、一歩引いた位置で彫像のように佇む男、矢上がいた。彼は何も語らず、ただ深淵のような瞳で黒澤を見返している。
沈黙を破ったのは、苛立ちを隠そうともしない一言だった。
「……で、どうしてこんな夜中に我々を召集したんですかね、警察さん。こっちは明日の死体処理云々で忙しいんだが」
新田だった。
彼は顎に手を当て、わずかに眉をひそめながら黒澤を睨みつけている。その声には露骨な不満と、警察という組織に対する根深い警戒心が混じり合っていた。
黒澤は新田の挑発を無視し、無機質な声で本題を切り出した。
「メゾン・神州サンマルニ号室だ。先ほど、高濃度の残留パルスが確認された。前居住者は完全に向こう側へ持ってかれてる。放置すれば、空間のパルスが暴走を起こす」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が一段と冷え込んだ。新田の隣にいた荒波が、小さく舌打ちをする。
「お前たちには、それを処理してもらう。次にそこへ住まう人のためにな。前の男の思念を、根こそぎ削ぎ落としてこい」
黒澤は矢上の目を見据えて断言した。
「リーダーは矢上に任せる。期限は明日の夜までだ。それまでに残留パルスを完全に除去しろ」
矢上は短く
「承知した」
とだけ答えると、踵を返した。
新田と荒波も、気怠そうに警察から支給された特殊な除去道具を持ってその後に続く。
深夜二時。街灯がまばらな神州都の裏通りを、三人の男が横に並んで歩いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったアスファルトの上で、彼らの足音だけが不揃いに反響している。
「……矢上さん。これ、ぶっちゃけ面倒くさくないっすか」
新田が、首の後ろを掻きながら気怠そうに口を開いた。
「全くだ。正直、俺らからすれば残留パルスがどうのなんて、どうでもいい話なんだよな。原理なんて知らないし、いつも通り掃除すりゃいいんだろ……」
矢上が吐き捨てた言葉に、新田が小さく鼻で笑う。
そんな二人の無関心な会話を切り裂くように、先程まで石像のように黙り込んでいた荒波が、突如として堰を切ったように喋り始めた。
「……残留パルスっていうのはね、概念なんだよ。人間の思念が実体化して現れた、いわゆる現実干渉物に分類されるもの。それはウイルスみたいに人に伝播する特性を持っている。ただ、感染した人間から他者へ二次感染することはない。宿主となった人間から直接現実干渉物を取り除かない限り、除去できない。特殊で、実に面白いと思わない?」
「お、そうだな。詳しいんだな荒波は……」
新田が制止しようとするが、荒波の言葉の濁流は止まらない。彼は前を向いたまま、取り憑かれたような速さで専門知識を並べ立てていく。
「それにね、残留パルスには、それを発生させた人間が経験した記憶や思考が細胞レベルで凝縮されているんだ。だから、もしこれに感染して同調しすぎると、人格が別人に書き換わったり、肉体の造形すら変質したりすることもある。干渉率が閾値を超えれば、それは完全な実在物となって、僕たちの手で直接触れることすら可能になる。……個体差はあるけどね」
理路整然としているが、どこか狂気を孕んだ荒波の独白。
新田と矢上がその内容を理解する前に、気がつけば三人の目の前にはアパートがそびえ立っていた。
「……お、着いたぞ。講釈はそこまでだ」
矢上が、闇に沈む建物を指差した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2011年2月26日2:56 (視点、三人称)
メゾン・神州302号室。
つい数日前に一人の男が消滅し、そして何処かへ飲み込まれたその部屋に、矢上、新田、荒波の三人が足を踏み入れた。
「……うわ、湿気てるな。酒臭ぇ」
新田は部屋に入るなり、不快そうに顔を歪めてポケットからタバコを取り出した。ライターの火が暗い部屋を瞬かせ、不健康な紫煙が部屋中に蔓延する。
「おい、矢上さん。まずはアレ、やっといてくださいよ」
新田の言葉に、矢上は気怠そうにスマホを取り出し、警察の管理画面へアクセスした。
「……ああ。監視カメラの全チャンネル、一時停止。ログは
【中和作業中のノイズ干渉により通信機器の故障】
と。これでよし。
神州都警察が見守るはずの目が、指先一つで閉じられた。ここからは、彼らだけの自由時間だ。
「よし、仕事開始だ」
矢上が合図を出すが、誰も動かない。
荒波は部屋の隅に座り込むと、タブレットを取り出し、顔を青白く光らせながら猛烈な勢いで画面を叩き始めた。
「……あ、またこのスレ立ってる。パルスの存在を否定する奴ら、本当に論理破綻してるんだよね。ちょっと分からせてくるから、中和は適当にやっといて」
荒波は残留パルスの専門家としての知識を、現場ではなくネット掲示板のレスバに全て注ぎ込み始めた。
「ふぅ……」
新田は窓際でタバコを二本目に突入させていた。彼は残留パルスを浄化するどころか、灰皿すら持たず、フローリングに灰を落とし続けている。
「矢上さん、ゲームしていいっすか?」
「好きにしろよ。俺もやるから……これ、最近ハマってんだ」
矢上はバッグから、年季の入った携帯ゲーム機を取り出した。ピコピコという軽い電子音が、前の住人が命を落とした部屋に虚しく響く。
ふと、部屋の隅で男の声が、湿った空気の塊のような囁きが漏れた。
だが、矢上は眉ひとつ動かさない。
「……チッ、またこのステージで落ちたか」
矢上の指がボタンを叩くプラスチックの乾いた音が、男の声を無慈悲に上書きしていく。消えかかっているパルスは、救済を求めるように青白く明滅したが、それは矢上の液晶画面から漏れる安っぽい光に飲み込まれ、やがて力なく霧散していった。
中和装置はケースに入ったまま、一度も開けられることはなかった。
数時間後、東の空が温かみを帯びてきた頃。
部屋の中はタバコの煙で充満し、荒波はレスバの勝利に酔いしれてニヤついていた。矢上のゲーム機からはゲームオーバーの脱力感のある音が流れる。
「……おし、朝だな。終わったことにするか」
矢上は伸びをしながら立ち上がると、警察への完了報告書に淀みない動きで偽造のチェックを入れた。
【業務報告:第07-302号事案】
パルス中和剤照射:完了
現実干渉率:0.002%(基準値以下)
特記事項:特になし。次期入居者への影響なしと判断。
担当:矢上、新田、荒波
「完璧っすね」
新田がタバコを床で踏み消した。
「さて、帰って寝ようぜ」
三人は重い足取りで部屋を後にした。
中和されるどころか、彼らの怠慢とタバコの煙によってさらに澱んだ302号室。
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2014年7月9日23:10…… (視点、黒澤)
俺は恰もエロ本を読む如くモニターを凝視した。
モニターの右端の部屋で、男がゆっくりと駒を動かす。
対面には誰もいない。だが……
次の瞬間、誰もいない対局側の駒が、ひとりでに動いた。
黒澤の眉間に深い皺が寄る。
「……なんだ、これ」
男の背後。壁に伸びた影が、不自然に濃い。
光源と合っていない。
駒が、また一つ動く。
カチ、と小さな音。
その音だけがやけに鮮明に録音されている。
「王手……」
スピーカーから、ノイズ混じりの声が漏れた。
男の口は動いていない。
黒澤は再生を止めた。
部屋の空気が、わずかに冷える。
男が将棋盤を片付け、椅子に腰を下ろす。
……その手が、また動く。
何もない卓上を、指先がなぞる。
掴む。切る。置く。
「……」
黒澤の喉が、わずかに鳴った。
「……違うな」
あれは……将棋じゃない。
どちらかと言えば麻雀の様に見える。
「なんだ、増えたのか」
先程までは二人用の将棋遊んでいたが……
確かに、椅子に座る影が3つ……
「幻覚か?
幻覚が干渉し始めているのか……」
「どうしたんですか?警部補」
背後からの声に、俺は動揺してわずかに肩を揺らしてしまった。小声で呟いたつもりだった。
……だが、聞こえていたらしい。
面倒くさいな。
「おい、これを見てみろ」
そういうと若手刑事は俺に顔を寄せてモニターを除いた。
モニターの画面を将棋を始めたタイミングに巻き戻し、もう一度確認をした。
「これ幻覚なんですかね。確かこのアパートの、この部屋は結構前に全居住者の残留パルスの除去を行ったはずですが……」
俺はそう言われて少し動揺してしまった。
確かに、3年ほど前に残留パルスの除去をやってもらったはずだ。
「確かにそうだな」
でもなんでまた幻覚が少し干渉し始めているんだ……基本、除去した残留パルスが再生する事は無い。何かの作業を怠らなければだが……
怠らなければ……
「まさか!」
俺たちが色々と夢中になっていたあの時、とりあえずハンコだけ押した302号室の清掃報告書。……何も確認してなかったな。
現場の確認もせず「問題なし」と処理した、あの一件。
「おい!2011年のメゾン・神州サンマルニ号室の書類を持ってこい」
「えっ。は、はい承知いたしました……」
若手刑事は山積みの書類の中から3枚の書類を取り出した。
俺は三枚の書類をひったくるように奪い、舐めるように見た。
2011年。そういえばあの時、俺たちは隣の女子大生の部屋の生配信に色々と夢中で、この302号室の報告書には目も通さず、コーヒーの染みがついた手でハンコを突いたんだ。
【メゾン・神州302号室契約書】
三上の印?あぁそうか、この時の居住者は三上登夢か……
【残留パルスの膨張により通信機器の故障】
現在メゾン・神州302号室内の全通信機器が残留パルスによって故障を誘発しています。
あの清掃中、モニターに部屋が映ってなかったな。それに中途報告すらされなかった様な。
【業務報告:第07-302号事案】
パルス中和剤照射:完了
現実干渉率:0.002%(基準値以下)
特記事項:特になし。次期入居者への影響なしと判断。
担当:矢上、新田、荒波
【現実干渉率:0.002%】
嘘をつけ。あの時、モニターには何も映っていなかった。映っていないことを「異常なし」と決めつけて、俺たちは適当に処理したんだ。
これ、本当に中和剤の照射をしたのか……
モニターには何も映っていなかった。映っていないことを異常なしと決めつけて、適当に処理したんだ。
まずいな
「宮田、今の302号室の住人が不在の時にパルスチェックに行ってくれ」
若手刑事に向かって言うと彼は気怠そうな顔をした。
「承知いたしました……」
宮田はそう言ったが、
ほんの一瞬だけ……302号室のモニター画面から目を逸らした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月10日20:51 (視点、宮田)
俺の名前は宮田光一……どこにでもいる刑事さ。21歳だから若手刑事か。
とりあえず俺は警部補の命にしたがってパルスチェックをしにメゾン・神州に来ている。
今は302号室の住人が外出するのを待っているところだ。
一応モニターの過去のログを見ると、毎晩9時前後に家を出ているらしい。
「さてと、面倒くさいなぁ」
「あまりそう言う事を言うな」
ノイズ混じりの音声が耳に響いた。
そうだ、今警部補と無線を繋いでるんだった……
「は、はい。申し訳ございません」
どうしても行きたくない……だって、もし幽霊とかだったら恐ろしい……
寒気がする。
なんて事を考えていたら。
「さて、住人が出たぞ。宮田、入れ」
警部補のなんとも冷酷な指令。
仕方なく、302号室の部屋を開けた。
玄関はモニターで映らない範囲だから、普段見えない物が見えてちょっと楽しい気分と、薄気味悪い雰囲気が交差して何が何だか。
リビングのチェッカーガラスの扉にぼんやりと、人の影が映っている。
「……警部補」
思わず声が掠れた。
「……中に、人がいます」
だが、おかしい。さっき、住人は外に出たばかりだ。
「……おい、宮田。何を言っている」
無線の向こうで、黒澤の声がわずかに低くなる。
「……いや、その……」
目を凝らす。
影は、動かない。
ただ……こちらを向いている様に見えた。
呼吸が浅い……
腰を抜かして玄関扉に凭れ掛かっていると、リビングの扉が軋む音を立てながらゆっくりと開いた。
「いらっしゃぁい」
どこか見覚えのある顔の男がネットリした喋り方で迎え入れてきた。気持ちの悪い。
「警察の人ですねぇ……お茶でもいかがどすか?」
男の手から、音もなくコップが生えてくる。
白い液体が、わずかに揺れた。
「どうぞぉ」
差し出される。断ろうと、思った。だが……
手が、勝手に伸びていた。
俺はその流れでつい受け取ってしまった。
「貴方は誰なんですか?』
俺は男に問いかけるが、全く答えようとしない
ただ、俺の手にあるコップを口元に近づけた。
「とりあえず飲んでよ」
どうして俺がこの牛乳を飲む事を薦めるのか……でも、飲まないと話が進まなそうだな。
「何これお茶?」
お茶味の牛乳……本当に気持ち悪い。
口に含んだ瞬間、舌が混乱した。
甘い。苦い。ぬるい。
順番が、おかしい。
飲み込んだはずなのに、まだ口の中に残っている気がする。
「ありがとうねぇ〜じゃ、私が誰なのかを答えるゾ
私の名前は三登です、よろしこねぇ。この部屋のもう一人の住人だじょ」
さっきから語尾がコロコロ変わって気持ち悪い。この男の全て気持ち悪い。なんなんだ……
もう一人の住人……?何を言ってるんだ。
これは逃げるが吉か……
「どうだい、リビングで少しゆっくりしていくか?」
男は腰を抜かした俺に手を差し伸べた。
「あ、あぁ。いや、大丈夫ですよ。今日はこの家の安否確認に来ただけなので」
パルスチェックはもう終わっている。あとは帰るだけだからな。
「そうなのかぁ……麻雀あるよ、将棋もあるよ?」
男が情けない声と虚しそうな表情で俺に縋ってきた。なんだか、触られている感覚が薄い……
「じゃあ半荘だけ」
仕方なく、男に付き合ってあげる事にした。
時計を見るともう23時、半荘だけとは言ったものも、楽しくなってつい一時間も遊んでいた。
「すまない、そろそろ帰らないと、ここの家主が帰ってきてしまう。それじゃあ楽しかったよ」
そして俺はリビングを背にして、少しだけ後ろを見た。男は手を振っていた。
玄関から外へ出ると突然警部補の声がした。
そういえばこの部屋に入ってから無線が使えてなかった気がする……気のせいだろう。
俺はポッケに手を突っ込み、警察署へ向かった。
「ん?あ、やべぇ牌……持って帰っちゃった」
「おい、なぜ二時間一人で笑っていた!何をしていたんだ」
警部補に叱られてしまった。まあ職務放棄して遊んでいたから仕方ないか。でもどうして1人で笑ってたってなってるんだよ。俺の他に2人居ただろ。絶対、三登ともう1人。
「一人で? 何を言ってるんですか警部補。三登さんと、もう一人の……ええと、誰だっけな。とにかく、メンツは揃ってたんですよ。俺、東風戦でハネ満上がったんですから」
へらへらと笑いながら、自分のデスクに腰を下ろした。だが、警部補の顔は死人のように青ざめている。
警部補が見たモニターの映像では、俺は誰もいない座卓に向かって、空の手を突き出し、「ロン! 」と、聞いたこともない粘りつくような声で叫び続けていたらしい。
「あ、そうそう。これ、返し忘れた」
俺がポケットから取り出したのは、緑色の染料が剥げかかった、古い麻雀牌だった。
【發】
「……ドォォォォン」
牌をデスクに置いた瞬間、静かな都、全体にとてつもない轟音が鳴り響いた。
俺と警部補は急いでパトカーに乗った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月10日21:24 (視点、宮田)
都最大規模のガソリンステーションが、腹を裂かれたように炎を吹き上げていた。
爆風で飴細工のように捻じ曲がった高層ビルが、今にも瓦礫の山となって路肩へなだれ込もうとしている。
既に消防の放水が始まっていた。
段々と火柱が減っていき、最後に残ったのは二酸化炭素と水蒸気のみだった。
「仕事が早いな」
警部補は毒づきながら、パトカーを降りた。
「救助は消防に任せておけ。……俺たちは、この爆発事件の原因を探りにいくぞ」
「警部補……ここ何か変ですよ」
足元には薄く、青白く光る四面体が無数に転がっていた。
俺は地面に指を指し、警部補の肩を揺さぶった。
「ん、なんだよ。あんま揺らすなって」
警部補は足元を見ると慌てふためき腰を抜かした。
青白い蛇が警部補の脚に纏わりついていた。
「なんだよこいつ……」
俺は恐る恐る警部補の足に纏わる蛇を引き離そうとした。触った時の感触は、それはもうこの世の物とは思えない。なんというか、溶けたシリコンの様な感触。さらに、強く握り引っ張ると蛇の体が簡単に別れた。蛇の上半身と下半身がそれぞれ1匹ずつの蛇となり2匹に増えた。
「なんなんだよこれ。千切れると増えるのかよ」
警部補の顔面蒼白っぷりを見たのは初めてだ。
こんなにも血の気が引いて無言で立ち尽くす姿は一生物だ。
「それにして、この蛇達は何なんでしょうね。この世の物とは思えない」
この世の摂理が通用しない気がする。
「こいつは……現実干渉物だ」
現実干渉物……その言葉は3年ぶりに聞いた。そのせいか理解するのに時間がかかってしまった。
確かに、言われてみれば……
「では、どうしたら良いのでしょう。新田さん達を呼びます?」
警部補はため息と共に「うーん」と呟き下を見た。
すると、ズボンがドット絵の様に粗く変質していた。
「うわッ、やば」
警部補が変質した部分を叩いたが、その変質した部分が崩れ落ちるだけで、段々と脚が見えてきた。
俺は機転を利かせて車内からタオルを取ってきた。
戻った時にはパンツが丸出しになっていた。
咄嗟にタオルを渡したが、
「いや、大丈夫だ。それにしても綺麗だねぇ……」
謎に悟りを開いていた。
「いや、でも都の警察がこんな格好はちょっと……」
警部補が曇り無き眼で僅かに残る火柱を眺めていた。
俺はこんな悟りを開いている警部補を見たことがない、なんだか今日は良い日なのかもしれない。
とりあえず強引にタオルを巻いて万が一を逃れた。
「原因もクソ、こんな所にいたら早死にしますよ、絶対」
俺は警部補を抱き車へ押し込んで署へ戻った。
隣でボーっと無を眺める警部補を通常運転に戻すために色々と試行錯誤はしたけど……
机の端でパルスチェッカーの針が大きく振れていた。
「ん、これって」
俺は今着ている制服を外へ投げ捨てた。するとパルスチェッカーの振れ幅が小さくなった。
すぐに警部補の制服を脱がせ外へ捨てると、パルスチェッカーの針が殆ど振れなくなった。
「パルスに触れすぎていたのか」
それから数十分経ってようやく警部補が元に戻った。
「宮田……なんで俺は今パンイチなんだ」
まさかこんなすぐに元に戻るとは思わなかった。パンイチの警部補をカメラに納め、加工処理中に目が覚めてしまった。
「あ、いや。そのぉ」
お茶の間を濁そうとしたがダメだった。
「まあ良い、このくらいで許してやる。
ほら、さっさと書け……反省文だ。三十枚は余裕だろ……今回は特別にその二倍……九十枚で許してやる」
……三倍じゃん!
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月11日 08:30 (視点、宮田)
玄関ロビーは、まるで飢えた野獣の群れのようなマスコミの喧騒に飲み込まれている。
どうやら昨夜のガソリンステーション爆発事件の取材に来たらしい。
「宮田、顔を上げろ。……俺たちが狼狽えてどうする」
隣でマイクを握る警部補の声は、驚くほど冷静だった。
「警部補、昨夜の……ガソリンスタンドの件ですが」
記者の男が、鋭い目つきで踏み込んできた。
「現場周辺から奇妙な発光体や、気持ちの悪い動きをする生物を目撃した。との噂があります。あれは、単なる燃料の爆発によるものではないのでは?」
ロビーの空気が、凍りついた。
黒澤警部補の指先が、わずかに、本当にわずかに震えたのが見えた。彼はマイクを握り直すと、澱みのない声で切り返した。
「憶測でものを言わないでいただきたい。現場は現在も調査中であり、発光体や奇妙な生物等……その様な物は一切確認されていない」
その言葉の直後だった。
警察署の裏側で爆発音が鳴り響いた。
警部補と俺は走って向かった。その後ろをマスコミが付いて来る。
「警部補、次はパンイチにならないでくださいね」
俺は小声で警部補を嘲笑った。
目の前に広がるのは肉球の形をしたクレーターだった。
「何だよこれ……」
クレーターを前に唖然とする警部補が佇んでいた。
そんな警部補を横に鞄からノートパソコンを取り出し、防犯カメラの映像を確認した。
警部補とマスコミが俺のノートパソコンを覗き見る。
他の警察官にマスコミを退去させる様に促した。
防犯カメラの映像には……
巨大な、三毛猫の前足だ。
その質感はおかしい。肉眼で見えるビルや風景は2014年のハイビジョン画質なのに、その猫の足だけが、まるで90年代の3DCGかの様に低ポリゴン。そんな猫がビルを丸々一本踏み潰していた。
映像を1コマずつ確認する指先が、ノートパソコンのキーボードを透過しそうになる。画面の中の低ポリゴン猫がビルを踏み潰すたび、スピーカーからは「サッ……サッ……」という、紙やすりで何かを削るような電子音が漏れ出していた。ハイビジョンの街並みが、猫の足が触れた場所から順に、色彩が失われ、白黒に塗り替えられていく。さらにそこからカラフルな草まで生える始末……しかし、実際にはそれがない。監視カメラにしか映っていない。
突然、マスコミが悲鳴をあげて慌てふためき、逃げ出した。
俺はクレーターの方に目をやった。
すると、クレーターの底の方がピンク色に溶け出していた。
しかし、隣の警部補は何も言わず、ただ立ち尽くすだけだ。
何故、何もしないのかと、口を開こうとしたが、先に警部補の口が開いた。
「おい、よく見ろ……
あのピンクのドロドロが猫の様な形になってるぞ」
警部補の声が妙に遠くで響いた
俺はクレーターを見つめた。確かにピンク色のドロドロが、猫のような形を成している。……いや、本当に猫か? いや、猫だ。猫に決まっている。
突然……猫が声を出した。
「おい、よく見ろ……
あのピンクのドロドロが猫の様な形になってるぞ」
さっきも聞いたフレーズだ……
警部補の言葉を復誦しているのか。それに声の感じも警部補に似ている……だけど、何だか少し曇っている。
「何だあいつ……俺の真似をしているのか」
先程まで落ち着いていた警部補が少し焦っている様に感じた。
「何だあいつ……俺の真似をしているのか」
やはり……この猫……猫は警部補の言葉を復誦している。何か関係があるのか?
「警部補、どうしてあの猫は警部補の言葉を復誦するのですか?」
「お、俺に聞くなッ」
警部補が少し後ろに下がった。
その時ポケットから折り畳まれた紙が落ちた。
「お、俺に聞くなッ」
やはり猫は警部補の言葉を復誦する。
もう紛らわしいから聞かないようにしよう。
俺は落ちた紙を拾い、広げた。
その紙は、華やかなピンク色で刷られた猫カフェ新装開店のチラシだった。
警部補は焦り、俺から紙を奪い取った。
「じ、実はさっき早く猫カフェに行きたいなぁって考えながらクレーターを眺めてたら……」
警部補の妄想が形になったのか……
でも何故だ……別に警部補は残留パルス浴びた訳でもないのに。
…‥気がつくと猫が俺の足元まで来ていた。
目をやった瞬間、俺のポケットから三登の麻雀牌を取り出し走り、逃げた。
逃げる猫の動きは、生物のそれとは程遠かった。まるでコマ送りのように、一瞬で3メートル先にワープし、その軌跡にはオレンジ色の残像がバグのようにノイズを残していく。
俺は咄嗟に追いかけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月11日 09:54 (視点、黒澤)
俺は、宮田が角を曲がって消えていく背中を見送った。
あいつ、1人で行っちまったよ……
「黒澤さん……猫好きなんですね」
肩に手を置かれ、後ろを振り向くとそこには矢上と荒波が立っていた。
「どうしたんですか、三年ぶりですね……」
この2人は3年前とさほど変わってないらしい。
「政府からのお呼び出しですよ。黒澤さんと、その相方……そして我々。
では行きますよ、向かうは国防省です」
何がどうなっているのやら……
俺は矢上の軽自動車に乗り込んだ。
道中で3年前の話を挙げた。
「そういえば、三年前の残留パルスの除去の仕事…….あれサボったろ」
荒波は後部座席で縮こまっていた。
矢上は堂々としていた。
「そうですね。確かにサボりました」
やはり、それであの部屋があんな状態に……
「じ、実はですね……」
後部座席から震える声が聞こえてきた。
「あの時、除去しなかった残留パルスが膨張して、今現実干渉物を大量に生み出しているんですよ……あの現場のクレーターや、ガソリンステーションの爆発も、全て干渉物による物で……でも、その干渉物の発生源が未だに不明でして、ついさっきサンマンニ号室へ行ったのですが、誰もいないもぬけの殻で特に何もなかったのですが」
302号室に誰もいなかった……か。
うーむ……
なんて荒波の話を聞いてるうちに国防省へ到着した。
国防省に入るとカウンターの女性が
「黒澤様御一行ですね。こちらへどうぞ」
といい俺達を待合室へ案内した。
待合室席に着くと、明らかに偉そうな人が挨拶をし、会議室へ招いてくれた。
「よく来てくれた、
では早速本題に入る。
現在、我が国の首都である神州都にて、謎の巨大生物や不可思議な生物が暴れ回っていると……
勿論、君達はその原因がわかるだろう」
いや、全くわからない……
「だから、端的に説明しよう。
三年前の除去作業で……矢上は監視カメラを操作して虚偽報告を行った。荒波、君もそれを黙認した。
貴様らがサボった分だけパルスが膨張し、今、この街を物理的に荒らし始めているんだ。
だから、責任を取ってもらう。
貴様らは中隊を編成し、発生している現実干渉物を全て排除しろ。黒澤、貴様は発生源を突き止め、次なる干渉物の発生を阻止しろ
失敗は許さん。備品は支給する。中隊を組み、今すぐ神州都へ戻れ。……これは命令だ」
そう言って偉そうな人は部屋を出た。
「承知致しましたッ」
綺麗なお辞儀をする矢上を見て荒波も咄嗟にお辞儀をした。その流れで俺もお辞儀をした。
男が去った後の部屋には淀んだ空気が充満していた。
俺達は静かに国防省を出た。
後ろから大量の木箱を持った職員が、矢上の軽自動車にその木箱を詰め込んだ。
「まだ備品はありますので、もう一度お越しください」
俺達は軽く会釈をし、国防省を後に警察署へ向かった。
「荒波、八人集めておけ」
矢上が荒波に強い口調で命令した。
あと8人か……残りの4人は矢上と荒波、それに俺。これで三人。残りの一人は……考えるまでもない。今ごろ低ポリゴン猫と追いかけっこをしている。
うぅ、俺もやらなきゃいけないのかよ……
そんな事を考えながら、警察署の地下……俺と宮田の部屋へ物資を運んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月11日 14:45 (視点、黒澤)
揺らすたびに、木箱の中からは液体が揺れるような音や、金属が擦れるような電子音が響いた。一つの木箱には「対干渉物用鎖閂式減衰器」という、およそ警察の扱う備品とは思えない物々しいラベルが貼られている。平和だった俺たちの部屋が、一瞬で得体の知れない武器庫に書き換えられていく。
「よし、今日からここは中隊の本基地だ」
矢上が勝手なことを抜かすものだから
「ちょ、それは困るぞ」
俺は反抗をしてみた。
「うるさい、お前は俺の隊の隊員だ」
どうやらこの一瞬で立場が逆転した様だ……
荒波が次の物資を受け取りにもう一度国防省へ向かった。
「おいおい、これ見てみろよ」
矢上が運び込んだ木箱には「幻撒簡易砲」と書かれていて、如何にも危険物だ。そんなのを宮田の飲みかけのコーヒーが置かれたままの机の上に、ドスンと置いた。
「矢上……こいつは一体……」
矢上は迷いなく木箱のラッチを弾いた。
ギギギ、と金属が擦れる音が部屋を響かせた。
箱から出てきたのは砲というか、対戦車ロケットランチャーのような無骨なシルエットに、繊細なガラス細工を無理やり埋め込んだような……何だかとても複雑な形をしていた。砲身の先端は、まるでロマネスコのように複雑なフラクタル図形を描き、その奥は何も見えない。
透明な配管には謎の青白い液体が微かに拍動しながら溢れそうになっていた。
「幻撒簡易砲……。国防省が開発した、対干渉物用特殊兵器だ」
矢上は、その悍ましい銃身を素手で、まるでおもちゃのように愛おしげに撫でた。
「なんか、カッコいいな。この青白い光と言い……
説明書があるじゃん」
【幻撒簡易砲取扱説明書】
この装置は大変壊れやすいです。少しの刺激で壊れる可能性がございますので、使用の際は細心の注意を払ってください。
「こいつ壊れてんじゃないの」
俺は矢上に冷たく言った。
矢上がめくった二ページ目には、「射撃時、使用者の身体一部が現実干渉物と融合する恐れがあります」や「引き金を引く際、一時的に身体の一部が一時的に多次元空間へ飛ぶ可能性がございます」といった、物理法則を無視した注意喚起が並んでいる。
矢上はそれを読んでそーっと箱に戻した。
「矢上さん八人集まりましたよ」
入口の方から荒波の声がした。
「先に行ってるぞ」
俺はそう言って部屋を出ようとしたが、矢上が俺の手を引っ張り部屋にとどめた。
矢上はパルスチェッカーを俺に見せ、針の振れが異常なことを伝えてきた。
「あれは荒波じゃ無い、干渉物だ」
俺は恐ろしくゾッとした。
干渉物は人間の声をそのまんまコピーすることができる様になっている……のか?
どうする事も出来ずに立ち尽くしていると、
9発の銃声が鳴り響いた。
「大丈夫ですか?八人集めて連れてきましたよ」
荒波が8人の精兵を集めて部屋に入ってきた。
「こんな早くに八人集めるなんて……」
「簡単だよ、ネット掲示板で募集をかけたのさ」
【都に蔓延るモノに苛立つ武士を集う】
時給は発生しないが、武器装備は支給する。
条件はやる気のある武士のみ。
7人限定。
参加させる方は警察署前へお集まりください。
「こんな感じでね」
荒波の見せた募集文を読むと7人限定となっている。
「後一人は?」
荒波は防護マスクを着た男を指差した。
彼はマスクを外し会釈をした。
「あ、どうもカイっていいます」
こんな時代にカイなんていうシンプルすぎる名……まるで、ゲームの適当なデフォルトネームだな。
集まった精兵一同は部屋に大量の木箱を運び込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月11日 20:21 (視点、三人称視点)
「よし、一通り運び込んだな。それじゃあ一人ずつ自己紹介をしよう。」
矢上は10人の精兵を見渡して右端の巨漢を指差した。
11人の呼気が、地下室の冷たい空気を湿った熱に変えていく。
「まずお前から」
「杉原潤と言います。二十三歳でサラリーマンをしています。
ここに応募した訳は自分の母親がアレのせいで死んでしまったので仇を打つためです。
よろしくお願いします!」
「おっ、そうか。じゃあ次、応募した訳は話さなくていいぞ……」
次に自己紹介をしたのは学生の様だった。
「はい!十七歳、原田一郎。学生です」
自己紹介は無機質に続いた。元格闘家、ITエンジニア、フリーター……。彼らの名前や動機は、地下室の湿った熱気に溶け、すぐに忘却の彼方へ消えていく。
彼らは従順だが、銃の構え方すら知らない者も混ざっている。
「最後は俺か」
矢上が椅子から立ち上がった
「三十九歳、矢上右太と言います。
前職は神州後藤寺の住職です。」
地下室の空気が一瞬、さらに重くなった気がした。復讐に燃える杉原の目が驚きに揺れ、肩紐をいじっていた原田の手が止まる。人を救うはずの僧侶が、なぜ今、鉄の塊を握っているのか。
矢上は10人を見渡した後、満足げに微笑んだ。
「自己紹介は終わりだ」
矢上は机の上に並んだ拳銃を、まるでお経を唱えるかのような滑らかな手つきで分解し、組み立て直した。次いで、精兵たちに持たせる。杉原の震える指がトリガーガードに触れた瞬間、地下室に「カチリ」という金属音が響く。
「……それじゃあ今から指導をするぞ、銃の扱い方から、人命救助までこの一夜で全てを叩き込む」
そう言って幻撒簡易砲を手に取り、「悪速斬」の鉢巻を頭に巻いた眼鏡の男に渡した。
「撃ってみろ」
「えッ……」
眼鏡の男(32歳)は完全に頭が真っ白の様だ。
突然ロケットランチャー擬きを渡された人間は皆、彼と同じ姿になるだろう……
「撃ち方がわからないのですが……」
「俺もわからない……だからそれはお前のだ。……名前は、小林ッ……大林……林……」
「井森です」
場が凍りついた。
「いいか、井森……もう一度言う。撃ってみろ」
矢上の冷徹な命令が、再度地下室の湿った空気を切り裂いた。
井森の中で、幻撒簡易砲が低く唸る。
それは機械の稼働音ではなかった。まるで腹の底から響く、巨大な何かの喉鳴らしだ。
配管の中の青白い液体が、井森の心拍に合わせて激しくのたうち回る。
「うッ、動いた!」
井森は自分を鼓舞するように小さく呟いた。
震える指が、複雑な形状の引き金にかけられる。
その瞬間、全員の視界が歪んだ。
井森の指先と兵器が接触した場所から、まるで古いフィルムが焼き切れるように、空間の輪郭がボロボロと剥がれ落ちていくのが見えたのだ。
「待て、やめろ……!」
黒澤が叫ぶよりも速く、井森の人差し指が深く引き金を絞り込んだ。
「ズォン」と部屋の空気が圧縮され、膨れ上がる。
砲身の先端……ロマネスコのようなフラクタル構造が、一瞬だけ万華鏡のように激しく回転した。
「ドォンッ」という乾いた音ではなく、何かが空間そのものを啜り込むような湿った音が響く。
放たれた光は、銃弾などという生易しいものではなかった。
それは、この世の物とは思えない青白い楔となって、正面のコンクリート壁へと突き刺さった。
コンクリートが、壁画のような砂絵となってサラサラと崩れ去る。
だが、異変はそれで終わらなかった。
「あ……が……ッ」
引き金を引いた井森が、引きつった悲鳴を上げた。
彼が支えていたはずの幻撒簡易砲の銃身が、彼の腕と融合し始めている。
男の皮膚が、青白い液体と接触し異臭を放っている。みるみる井森の体は溶け、あのフラクタル状の銃身とズブズブに同化していた。引き金に食い込んだ指先からは、爪が剥がれ落ち、代わりに青白い液体が血管に逆流して、彼の腕を内側からパンパンに膨らませていく。
「あぁああああああ!!!」
地下室に、男の絶叫が木霊した。
矢上の指示通り、たった一発。
だが、その代償は死にも等しかった。
中隊一同の顔は蒼ざめており、喉が詰まっていた。
「あぁあああぁぁぁぁぁ……あぁぁぁ………ゴゴッ…」
井森の最後であろう断末魔が溶けた肉体で遮られた。
井森の顔半分以上が溶けてしまい、その半分は砲の一部としてそのまんま同化していた。さらに、肌の質感などは、もはや肉ではない。使い古された安物のプラスチックのような、光沢のない、無機質な何かに書き換えられていた。彼が流しているのは涙ではなく、あの配管を流れていた青白い液体だ。……彼は、生きたまま兵器の部品へと成り下がってしまった。
今の幻撒簡易砲は元の姿とほぼ100%別物になってしまった。青白い液体を溜めていたタンクには井森の脳みそであろう物がパンパンに詰められている。
それを見て矢上は、改めて取扱説明書を読んだ。そこには、
【注意事項】
現実干渉物以外の物へ撃つと、その物が非現実的な挙動を見せる可能性があります。
しん、と冷え切った地下室に、聞き慣れない音が響き始めた。タンクに詰められた井森の脳が、青白い液体の中で「ピチャ、ピチャ」と不規則に揺れ、配管を通るたびに「ズ、ズズッ」と肉片が詰まるような湿った音がする。それはもはや機械の稼働音ではなく、死にきれない肉塊の喘ぎ声だった。
一同はその光景が生理的に無理だったのか、幻撒簡易砲が入っていた箱に押し入れた。
「え、えっと……なんかアレだな。普通の銃を使うか」
矢上が引き攣った声で口を開いた。
「……外へ行こう」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月11日22:42 (視点、黒澤)
「ガシャン」と乾いた金属音が夜の静寂を切り裂いた。
警察署の裏手にある、古びた射撃訓練場。矢上が精兵たちの前に放り出したのは、使い古された四四式騎銃……先ほどの兵器に比べれば、あまりにも華奢で、頼りないほどに昔の歩兵銃だった。
変異した井森を箱に詰めてから二時間。
杉原の指先はまだ小刻みに震えており、原田は虚空を見つめたまま立ち尽くしている。他の者もみな無の顔をしている。
矢上は、彼らのトラウマなど最初からなかったかのように、冷たい銃身を撫でて言った。
「……これなら、大丈夫だ。安心しろ
あ、すまない。黒澤用の四四式が無いから」
そう言って矢上が俺に渡したのはモーゼルM721と書かれた機関拳銃だった。
「なんで日本軍の銃器があるんだよ」
俺が矢上にツッコミをした。
「あぁ、どうやら署長さんがコレクターらしくてな。
ちなみに、俺が使う銃は九六式軽機関銃ってのだ。かっこいいだろ」
そう言って重たそうな機関銃を持ち上げた。
矢上は九六式軽機関銃を地面に据え置き、四四式を手に持つと、精兵たちにボルトの引き方を教え始めた。
「よし。いいか、一発ごとに正確に放てよ。自動で連射できると思うな」
その指導は、まるで、軍人の様な威風があった。
現実干渉物によって静かに、そしてどんよりした都で数発の銃声が夜空を響かせる。
俺の手の中にあるモーゼルM721……
20連発のマガジンを差し込み、セレクターを連射に入れる。引き金を引いた瞬間、俺の右腕は制御不能な跳ね馬を抑え込むような衝撃に襲われた。
「ダダダダダダッ!!」
マズルフラッシュが暗闇を切り裂く。その閃光に照らされた精兵たちの顔は、もはや恐怖を通り越し、 半ば絶望していた。
その中で一人、市川という男が倉庫からロシアのAK-102を取り出してきた。
「こんないい物があるじゃ無いですか。これ使ってもいいですよね」
矢上がその声を聞いて市川の方に振り向いた。
「あぁ、多分いいと思うぞ」
「うお、やっぱりこれですよ。あんな骨董品、当たる気しませんもん」
市川は30連マガジンを叩き込み、セレクターを解除した。井森の末路を目の当たりにして凍りついていたはずの精兵たちの間に、もしかしたら強力な現代兵器なら勝てるのではないかという、根拠のない、しかし甘美な希望が伝染していく。
市川は浮かれながらトリガーに指をかけた。
「シュババババババ」
瞬時に激しい煙幕が市川を覆った。
その光景を見た一同は急いで倉庫に向かい、残っているアサルトライフルを探り始めた。
10分後……
皆がウキウキにライフルを抱きしめる中、杉原と原田が顔を下にして出てきた。
どうやら丁度6挺しかなかったようで2人分たりなかった様だ。
その後も中隊一同は黙々と訓練を続けた……
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月12日 5:05 (視点、原田)
矢上さんが訓練終了の合図を出した。
僕は四四式だったが、意外と使い勝手が良く、他のアサルトやらを使ってる奴等よりも命中率が高かった。もしかしたらこの四四式が正解だったのかもしれない。
「訓練終了だ。地下の部屋へ戻るぞ」
そのまま僕達は矢上さんの背中について行った。
部屋に入った時…….井森の顔を思い出してしまった。それに、井森の溶けた肉が地面にこべりついている。異臭もするし、正直早くこの部屋から出て行きたかった。
「それではこの後の作戦を練るとしよう。
今日中にあの干渉物を除去する」
そこで、矢上さん取り出しのは対干渉用鎖閂式減衰器というラベルの貼られた木箱だった。
鎖閂式とは……何だ?
矢上さんが木箱のラッチをリズムよく開けた。
中から出てきたのは20挺の四四式によく似たライフルだった。
「このライフルは鎖閂式……ボルトアクション式だ、杉原と原田は使い慣れているだろう、2挺ずつ貰え。
で、次にこいつだ」
矢上さんが次に取り出したのは対干渉用自動連射減衰器(たいかんしょうようじどうれんしゃげんすいき)と言うラベルが貼られた木箱……きっとこれはAKの事だろう。
「はら、杉原と原田と黒澤以外はこいつを1挺ずつ受け取れ」
……なんで僕だけ。横を見ると、サラリーマンの杉原さんは、僕と同じように時代遅れの長い銃を抱えて、幽霊みたいに青ざめた顔で立ち尽くしていた。黒澤さんはと言うと唖然として口が開きっぱなしだった。
AKを手に入れた市川さんたちは、まるでおもちゃを買い与えられた子供みたいに浮足立っている。
僕達の、この対干渉用鎖閂式減衰器は重い。肩に食い込むストラップの感触が、これから行く場所がFPSゲームじゃないことを、嫌なほど僕に教えてくる。
対干渉用鎖閂式減衰器って呼び難いから鎖閂式って呼ぶことにしよう。そう杉原さんと話した。
そんな中カイという男が……
「矢上さん、俺鎖閂式の方がイイっす」
そう言って対干渉用自動連射減衰器を矢上さんに突き返して、自分から鎖閂式を手に取っていた。
カイは、僕の鎖閂式の銃身を指先で弾くと、まるで「いい買い物をしたな」とでも言いたげな、薄い笑みを浮かべた。
僕は気になりカイに近づいた。
「どうして自動連射の方じゃなくて、鎖閂式にしたんだよ」
僕がカイにそう言うと
「いや、だってアレ臭いんだもん。モーターが逝かれちまってんだろうな」
「それじゃあ今から十二人のこの中隊を四人ずつの小隊分けるぞ……あぁ、一つだけ三人の小隊ができるな、まあいいか。」
「第一小隊。俺、カイ、原田、杉原。お前らは俺についてこい」
矢上さんの指が僕を指した瞬間、心臓が跳ねた。鎖閂式を2挺背負わされた僕と杉原、そして銃の異臭を見抜いたカイ。……連射を捨て、あえて不便な単射を選んだ、あるいは選ばされたメンバー。
矢上さんの九六式軽機関銃が、鈍く光っている。この班だけ、装備が明らかに重くて、古い。
「第二小隊。市川、お前がリーダーだ。……あとの三人は適当に組め」
市川達は、AK-102のストックを愛おしそうに撫でながら頷いた。彼らから見れば、僕達はハズレの装備を押し付けられた可哀想な連中に見えているんだろう。
「残りの三人は第三小隊だ。宮田がまとめる」
唖然としたままの黒澤さんが、重い口を開いた。
「……矢上、本気か? まだ宮田は帰ってきてないし、それにあいつは銃を一回も触ってませんよ」
「あぁ……まあ、大丈夫だよ。代理で……尾形よろしく」
矢上さんの背後から進み出た尾形さんは、表情一つ変えず、ただ機械的に頷いた。
「あ!そうだそうだ」
そう言って矢上は井森と同化した幻撒簡易砲を尾形に渡した。
尾形は震える手で幻撒簡易砲を抱き、時々聞こえる唸り声をビクつきながらも背中に背負った。
矢上さんは厄介払いできて清々したのかとてもニコニコしていた。
時計の針は5時を回り、地下室の冷たい湿気が、井森の死臭をより濃く、重く、僕の鼻孔に押し付けてくる。
「準備はいいな。……地上の景色は、昨日までとは少し違うぞ。吐くなよ、余計なことをするなよ。俺らがやるのは除去だけだ、良心などは捨てて良い」
矢上さんが、九六式軽機関銃の銃床を床に叩きつけた。
ゴン、という重い音が、地下室のコンクリートに響き、僕の心臓を物理的に押し潰した。
心臓の鼓動が今までに無いほどに速い
僕達第一小隊は第1、2、3区の干渉物を除去するらしい。
第二小隊は第4、5、6区で、第三小隊は7区との。黒澤さんは一人で発生源を探すらしい……あの人も大変なんだなぁ
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月12日 6:58 (視点、黒澤)
「黒澤は1人で干渉物の発生源を突き止めろ」か……もう2時間ほど経つが忘れられんな、ほぼ死刑宣告の様な物だからな。
それにしても、たった1日でこんなにも都が変わるのか、青空から……なんだ、鯨が飛んでいるのか、鮫か?よくわからんけど大型魚だな。それにノイズがかかっている部分があるのはなんだ……?
車に於いては……タイヤのついた白熊とか、本当に気持ち悪いな。
俺は愛車の原動機付自転車に乗り、動く干渉物が来た方向の逆へ向かった。道中様々な干渉物を見た。鑿サイズからシロナガスクジラほどの大きさまで、それはもう色取々。
原付のエンジン音だけが、ノイズまみれの街に響く唯一のまともな音だった。
スロットルを回すたび、掌に伝わる振動が懐かしく感じる。
進めば進むほど、空気の味は焦げたパンと消毒液を混ぜたような、吐き気のする独特な臭いに変わっていった。
ふと、脳裏に一つの光景がフラッシュバックする。
一週間前、パトロール中に立ち寄ったメゾン・神州302号室だ。
今の住人である東條という男。あいつは、誰もいない壁に向かって、熱心に、楽しそうに幻覚と話し続けていた。あの時はただの精神疾患だと思って報告書を流したが……今、空を泳ぐクジラや、タイヤのついた白熊を見ていると、あいつは一足先にこの光景を見ていたんじゃないかという確信が、冷たい汗となって背中を伝った。
「……あそこだ」
第七区。干渉物の流れの最上流。
その場所に、メゾン・神州は建っていた。
俺は原付を路肩に止め、サイドスタンドを蹴り出す。エンジンのアイドリングが、震える自分の心臓の音と重なった。
階段を上がり、302号室の前に立つ。
ドアをノックしたが、返事はない。静かだ。……静かすぎて、耳の奥でキーンという電子音が鳴り続けている。
俺は腰のホルスターからモーゼルM721を抜き、警察用マスターキーを鍵穴に差し込んだ。
「カチリ」という乾いた音が、世界の終わりを告げる号砲のように響いた。
ドアを開けると、リビングの真ん中に、一人の男がうずくまっていた。東條だ。
あいつは頭を抱え、まるで巨大な重圧に耐えるように小さく、小さく縮こまっている。
「……東條、聞こえるか。一応警察だ」
声をかけながら一歩踏み出した瞬間、部屋の空気が変わった。
東條の周囲に、どろりとした黒い霧のような、異様なオーラが渦巻いている。
「……あ、あ……サ、サテ、サテ……」
あいつは小声で、何かを呟いている。日本語のはずなのに、一文字も意味が読み取れない、バグった文字列。
不気味さに鳥肌が立った。俺は東條の肩を揺さぶり、目を覚まさせようとした。
「おい、しっかりしろ、東條!」
その瞬間だった。
リビングの壁面、あるいは空間そのものから、無数の白い手が植物のように生えてきた。
その手は意志を持っているかのように、俺の腕や足に絡みつき、東條から引き離そうと力任せに引っ張る。
「う、うわッ! 離せ、この……!」
俺は抗うようにモーゼルを連射した。
銃声が密室に爆裂し、無数の手が肉片ではなく、デジタルな火花となって散っていく。
だが、混乱の中で放った一発が、床を跳ねて東條の左腕を掠めた。
「……あ、ぐっ」
東條の意識が、苦痛によってこちらの現実に引き戻される。
彼の目が、ゆっくりと俺を捉えた。
「……警、察……? あぁ、助けて、ください……。空から、魚が、降りてきて、口の……無くなって……つかない……」
会話が出来そう。そう思ったのも束の間。
あいつの瞳から、光が消えた。
「……アァ、空の、覇者……地を刺す……トライデントの、雨ガ降ル……」
日本語が、ぐちゃぐちゃに成り始めた。
東條の顔が、スマートフォンの画面が割れるようにピキピキと裂け、その割れ目から、肉体ではない別のモノと胃液と混ざった血液が溢れ出し始める。
彼はもう、人間という形を維持できてい様だ……
「カッイヨォ……ウォユル……シィエイ……クァサイ」
砕けた顎から漏れ出る言葉は、もう日本語の体をなしていなかった。
東條の体は、物理法則を無視して膨張を始める。四肢はあらぬ方向にねじれ、皮膚の下で何かが蠢き、骨が砕ける音が密室に響き渡った。
「……チッ、化け物かよ!」
俺は反射的にモーゼルM721の引き金を引いた。
「ダダダダンッ」
至近距離から放たれた四発の銃弾が、変異していく東條の胸部に着弾する。
肉が弾け、風穴が開く。……だが、そこから血は流れなかった。
開いた弾痕の縁が、まるで古いビデオテープのリロードのようにチカチカと明滅する。
次の瞬間、傷口は盛り上がってきた家具の混じった肉によって、瞬く間に塞がった。再生どころではない。それは、一度削除したファイルを復元するような……途轍もなく不気味な光景。
「……嘘だろ」
気がつくと顔から血の気が引いていた。
再生した弾痕からは、さらに不整形な肉塊が、まるで癌細胞のように急速に増殖し、巨大化していく。
リビングの天井を突き破り、壁を押しつぶし、302号室そのものが東條の体内に取り込まれていく。
圧倒的な質量と、この世の物とは思えない異形のオーラ。
俺は恐怖のあまり、膝の力が抜け、その場に崩れ落ちてしまった。
モーゼルを取り落とし、床を這うようにして後ずさる。だが、背中はすでに、東條の一部と化した壁にぶつかっていた。
「……あ、あぁ……」
見上げれば、そこにはもう、天井も東條の顔もなかった。
ただ、肌色をした肉塊と、無数に生えた白い手が、俺を値踏みするように蠢いている。
その時だ。
東條の胸部、さっき俺が撃ち込んだ4発の弾痕があった場所が、不自然に裂け始めた。
それは、傷口ではない。
裂けた皮膚の裏側から、疎に生えた鋭利な歯が覗き、どろりとした舌が這い出てくる。
弾痕が、巨大な口へと書き換えられたのだ。
「……嘘、だ……俺が、撃った……所じゃ」
俺が最後に見たのは、自分の放った弾丸が作り出した気色の悪い口……いや、死への入り口だった。
その口が、獲物を定めるように大きく開かれる。
その時、目の前がブラックアウトした。なんだか懐かしい記憶を見ている気がする……
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
2014年7月12日 11:36 (視点、三人称視点)
カイがふと振り返った時、都の空を裂く紫色のノイズよりも悍ましい光景が、目に飛び込んできた。
ビル群の彼方、第7区の方向から、空間そのものが盛り上がるようにして、何かが生成され続けている。
それは肉塊であり、瓦礫であり、ビルであり、そしてモノでもあった。
その巨大なモノは、歩を運ぶたびにアスファルトを食らい、隣接するビルをテクスチャごと飲み込み、指数関数的に巨大化していく。
「矢上さん!矢上さん!あ、あそこ!巨大な干渉物がッ! ……こっちに近づいてきますよ!」
カイの悲鳴に近い報告。
矢上は、その巨大なモノを眺め、軽機関銃の残弾を確認した。
「全員、第一区中央広場へ集結。……総力戦だ。掃除を始めるぞ」
矢上は無線を使い、全小隊へ集合命令を出した。
中隊の全小隊が、第1区に集結した。
自動小銃、擲弾銃、そしてカイたちが持つ歩兵銃。ありとあらゆる火器が、巨大なモノへ向けて一斉に火を噴いた。
弾道が空を切り、爆炎が巨体を包む。
だが、攻撃を加えれば加えるほど、そのモノは巨大化し、より攻撃的な形へと変形を重ねていった。
銃弾が着弾した場所からは、街の一部が混じった肉塊ではなく、銃口を生やした無数の腕が生え揃い、中隊へ向けて反撃を開始する。
この巨大な干渉物……巨大なモノは、攻撃を学習し、即座にアップデートしていた。
カイが突然射撃を止めた……
「……東條……東條は大丈夫なのか」
カイは、震える手でスマートフォンを取り出し、東條の番号へかけた。
「おい、今は仕事中だぞ」
カイは矢上に怒鳴られるが、それを無視し発信を続けた。
が、繋がらない。
だが、カイが電話をかけた瞬間、巨大なモノが、まるで強力な電波干渉を受けたかのように、ピクリと痙攣した。
「おい、今の!」
杉原が叫ぶ。
「カイ、もう一度かけろ!」
カイが再ダイヤルする。巨大なモノは、今度はより大きく、咆哮を上げるように震えた。
中隊一同は、確信した。あの巨大なモノの正体は、東條だ。
「荒波! あのスケール、どうにか戻せないか!?」
カイが無線で叫ぶが、荒波の声はパニックに陥っていた。
「知るか! こんなスケールの干渉率、過去に一度もない! 物理法則もデータ整合性も、全部破綻してる! 解析なんて、無駄だ!」
使い物にならない荒波。
一同は、せめて会話を試みようと、巨大なモノの表面に、言葉を聞き取る「耳」や話す「口」を探した。
だが、見つかるのは銃口の生えた腕と、無数に広がる肉塊だけだった。
その時だ。
突然、カイのスマートフォンが繋がった。
ノイズの向こうから、東條の声が聞こえる。
「カイ、カイなのかッ!」
そこから数分間、二人は、世界の崩壊など忘れたかのように、過去の思い出を語り合った。
日本語はぐちゃぐちゃだったが、確かに会話は成立していた。
「そういえば、あの時の借りで寿司奢っただろう。そん時お前一万八千九百円より五千円多く食ってたじゃねぇか!その分しっかり返せよ」
「あぁ、勿論さ」
「それじゃあ……東條。今助けるから、待ってろよ!」
最後にカイが言うと、東條の声は、ノイズに消え入りそうになりながら、
『……こっち、も……なるべく、抑える、よ!』
と言い、電話は切れた。
一同は、彼を助ける方法を必死に考えた。だが、何も思いつかない。
絶望が漂う中、巨大なモノの影に、逃げ遅れた小さな影があった。
水色の、鯨のポンチョを着た幼女。土埃で汚れきったその服は、空を泳ぐ悍ましい鯨とは違う、かつての普通の日常の象徴だった。
巨大な肉塊の足のような部位が、彼女の頭上へ振り下ろされようとしていた。
幼女はしゃがみ込み、小さな両手を胸の前で強く組み合わせた。
「……神様、どうか」
震える声で、ただひたすらに祈りを捧げる。
純粋で無垢な神への祈り。
「道を開けろ!」
無線の静寂をぶち破り、荒波の叫び声が響く。
彼がいかにも戦車という形をした、しかし装甲がノイズで明滅する異質な乗り物に乗ってやってきた。
「射撃許可!」荒波の号令。
物凄い轟音と共に、戦車の砲身から、異質な弾丸が放たれた。
その弾は、物理的な破壊ではなく、巨大なモノを細胞ごと貫通し、内部から炸裂させた。
爆風に触れたモノは、瓦礫や肉ではなく、砂塵のような粉物と化して、風に舞った。
「やったか……?」
だが、その砂塵も時間と共に巻き戻り、巨大なモノは再び再生した。
巨大なモノは、物理的な最強すらも無効化した。
そこへ、幻撒簡易砲を持った尾形が遅れてやってきた。
「撃ちますよ」
尾形が砲撃する。
その砲撃音は試し撃ちをした時とは全くの別物……井森が痛み感じ、泣き叫ぶ様な音となっていた。
砲撃した、その結果は先程の戦車とほぼ同じ。炸裂し、砂塵となり、そして巻き戻る。
やはり。あの巨大なモノは、どの様な攻撃だとしても再生してしまうのか……
一同が、どうする事も出来ずに唖然としていた、その時だ。
後ろから、物凄い勢いで、この深刻な地獄にはあまりにも不釣り合いな叫び声が響いた。
「ソォォォォレッ!!!」
振り返ると、そこには宮田がいた。
彼は中隊の誰もが絶望している中で、一人だけ、満面の笑みでグッドサインをしている。
宮田が全力投球した、小さなコマの様な何かが、巨大なモノへ向かって飛んでいった。
よく見ると、それは緑色の文字が刻まれた麻雀牌だった。
なぜ宮田が麻雀牌を持っているのか、一同は皆目検討がつかなかった。
その麻雀牌が、巨大なモノと触れた、次の瞬間……。
「ドゴオオォォォンッ」
と、物凄い風が巨大なモノと中隊を襲った。
その風に触れた巨大なモノは瞬時に弾けるようにして霧散した。
戦車も、簡易砲も、祈りも通用しなかった現実干渉物が、ただ一発の牌によって、何かから解放されるように、全てが放たれ、弾け、消え去っていった。
巨大なモノが消え去った跡地。
そこには、井森の最期と同じように、ドロドロになった東條だったモノであろう液体が、広がっていた。
そして。
その液体に浸るように、黒澤が、横たわっていた。
服も体も、傷一つない。ただ、そこには魂の抜け殻だけがある。
その後、病院で黒澤は、脳内出血による死亡が確認された。
だが、その原因は、外傷も、基礎疾患も、何一つない。……不明。
突然、外で、うっすら見えていた空飛ぶ鯨が咆哮が鳴り響かせ消えていった…………。
最後までご拝読頂き誠にありがとうございます。
この一ヶ月、他の作品の筆を止めて、全ての時間を注ぎ込んで書き上げた作品です。
面白くなかったら面白くなかったでいいのですが……本作は面白かったですか?
以下は暇だったら是非読んでみてください
この話、最初に構想していた物語と別物になっちゃってるんですよ。
• 【起】 角豆市から希望を胸に上京。街で出会う人々との「絆」を喜ぶ。
• 【承】 絆が「メガ」化し、重圧とトラブルに変わる。警察に追われ、精神の限界で「東條」が誕生。
• 【転】 警察に捕まり、三登の存在を主張。しかし、警察の調査では「三登なんて男はどこにもいない」。
• 【結】 真犯人は「メガリアン(都市そのもの)」なのかもしれないが、真相は闇の中。東條は檻の中で、今も三登と語り合っている。
これが最初に考えてた起承転結なのですが、今見返すとやはり別物になっちゃってるんですよ。それと、この話のプロトタイプもあるのですが、それも全くの別物になっちゃってるんですよ。
プロトタイプだとタイトルが「妄想と幻想」で、
少しだけ本文をここに載せますね。
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背後から迫るのは、足音ではない。
「キィ……ギィ……」と、手入れのされていない自転車のギアが回転する音が、湿った夜道に悲鳴を上げる。
コンビニで買った夕飯のカレーピラフを片手に、フラフラと歩道を歩いていると、自転車のギアの音が段々と近づいてくる。気になり、後ろを振り向くと、そこには工事現場から引き抜いてきたような、無骨な鉄パイプを握った自転車乗りの男が、鉄パイプをアスファルトに擦り付け、火花を散らし「ガリガリ」と不快な音を立てながらこちらに近づいてくる。
矢上は背後の火花から逃れるように、高架下の暗がりに飛び込んだ。
必死に空気を吸い込むたび、肺の奥に雨と鉄の匂いが混じって突き刺さる。背後のギアの音は、逃げれば逃げるほど、なぜか懐かしい声が聞こえ始めた。
(なんだ、これは走馬灯か……)
矢上の視界は突然真っ白になり、過去の記憶が三人称視点で映し出された。
「唯斗……どうしてお前は勉強ができないんだ……」
三年前に他界した親父の声だ。懐かしい……
「せんせー!これ」
子供の声がした。
あぁ。そうだ、俺は昔教員だったな。あの子らは今大人か……
「お前は何をやってもダメだなっ!無能社員はうちに要らないんだよ。どうする?退職でもするか?」
会社の上司の声だ。これは……今日の記憶か、なんだか遠くに感じるよ……
と言うか、
(なぜ走馬灯が……?俺は今、死の瀬戸際なのか?)
そんな事を考えていると、視界が元の高架下の暗がりに戻った。
急いで後ろを振り向くと、そこには何もなかった。
無機質なコンクリートの柱と、雨に濡れたアスファルトが街灯を反射しているだけだ。
「……幻覚か?」
いや、そんなはずはない。
手に持ったカレーピラフの容器は、強く握りしめたせいで無惨にひしゃげ、指先には冷めた油の気持ちの悪い感触が残っている。
『ガリッ……』
真後ろで、石を噛むような音がした。
矢上が凍りついたまま視線だけを動かすと、高架下の太い支柱の影から、ゆっくりと人の影が突き出してきた。
街灯の灯りで顔が見えると……
俺は血の気が引いた……
叫ぶ間もなく、考える間もなく、思い出す間もなく、突然全てがシャットアウトした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「こりゃ、ひでえな」
遺体の惨状を見下ろし、俺……仁田綾人巡査部長は、低く吐き捨てるように呟いた。
「私、初めて見ましたよ……。こんな、一方的な……」
隣で、堀内来海巡査が喉の奥まで込み上げてくる不快感を必死に抑え込み、遺体から目を逸らすように答えた。
つい先ほど近隣住民の通報を受けて、現場に彼ら警察が到着した。
高架下の冷え切ったコンクリートの上に横たわる遺体には、死斑がはっきりと出ている。
「こいつは昨晩だな、殺されたの。だいたい深夜のいい時間だ」
俺は現場の空気から答えを導き出し、名推理を披露して鼻を高くした。
「……どうしてそんなことが判るんですか?」
同行していた堀内が、不思議そうに問いかけてくる。
「そんなの……俺はこの街の巡査部長だからな! 当たり前よ!」
俺は少し汚れた制服の襟を正しながら、死体の横にしゃがみ込んだ。おどけては見せたが、俺の鋭い眼光はすでに被害者の周辺をミリ単位でスキャンしている。
「堀内……これ、証拠になるかな。それとも、ただのゴミなのか」
仁田さんが、泥にまみれた指先で地面を指差した。
その先にあるものを確認して、私は思わず首を傾げた。
「カレーピラフ、ですね。コンビニの一番安いやつ」
「そうだ……カレーピラフだ。具がほとんどなくて、黄色く染まっただけの、虚しい飯だ」
(……だから、何なんだろう。この仁田さん、お腹が空いているのかな?)
先輩の意図が全く読めない。けれど、ここで聞き返してもまた「巡査部長の勘だ!」と煙に巻かれるのがオチだ。私はよく判らないながらも、とりあえず「そうですね、あまり美味しそうじゃないですけど」と、明らかに的外れな相槌を打っておいた。
現場の空気は、高架の隙間から朝の光が差し込んでいるというのに、凍りついたように冷たい。
ピラフの米粒が、アスファルトの割れ目に挟まって、死体の血を吸い込みながら不気味な色彩を放っている。
彼ら警察は、黙々と証拠品の採取と現場写真の撮影を進めた。
記録を終えると、この凄惨な殺人事件の情報を、速やかに署の上層部へと通達した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それから約七時間後。
現場の湿り気が肌に張り付いたまま、先の事件に関する連絡が来た。
「仁田巡査部長! 上の者から連絡が届いています」
私は、パイプ椅子に深く腰掛けていた仁田さんの横へ駆け寄り、自分のノートパソコンを差し出した。
画面には、受信したばかりのメールボックスが開かれている。
【この事件を徹底的に洗え】
【差出人:首都警察捜査本部】
「そうか……」
俺は、短く、重い声を出した。光を吸い込むような瞳で、メールの文面を真剣に見つめた。
(これは大事になりそうだな……)
画面を凝視する彼の横顔から、そんな思考が漏れ出しているようだった。
だが、現実はあまりに空白が多い。
被害者の身元は割れたが、それ以外、犯人の指紋も目撃証言も、そして何より「なぜあんな殺し方をしたのか」という動機が一切見えてこない。情報が少なすぎて、今はまだ、闇の中に手を突っ込んで虚空を掻き回しているような状態だった。
「だけどよ、堀内。何も出来ないと嘆くことはない」
仁田さんは画面から目を離さず、独り言のように続けた。
「ああいう輩は、自分だけの理屈で動いている。そして、その理屈を完結させるために、必ずまた同じようなことをするもんだ」
仁田さんはデスクに置かれた、現場写真の一枚を指で叩いた。そこには、血溜まりの中で無機質に光る、黄色いカレーピラフの粒が写っている。
「は、はぁ。そうですね」
私はまた、仁田さんに無愛想な相槌をしてしまった。
「とりあえず、この事件は私たちに任されたので、しっかりと解決していきましょう! 仁田巡査部長!」
「……おう。やってやるか、堀内」
二人の警察官は、互いの覚悟を確かめるように強く拳と拳を合わせた。
乾いた音が室内に響き、反響が消え切るよりも早く。
『リリリリリリリッ!』
無機質な受話器のベルが、静まり返った署内に悲鳴のように鳴り響いた。
つい数秒前、私たちが解決を誓って拳を合わせた、その熱を冷ますような、あまりに早すぎるタイミング。まるで誰かが壁の向こうで私たちの会話を盗み聞きし、嘲笑いながらダイヤルしたかのようだった。
「……はい、神州署。仁田です」
仁田巡査部長は、まだ拳を固めたまま、受話器を耳に押し当てた。
数秒。
受話器の隙間から漏れ聞こえる声は、雨の夜に迷い込んだ子供のように、ひどく上ずり、焦燥に駆られた主婦のものだった。
「……何? そうか」
仁田巡査部長の声から、温度が消えた。
隣に立っている私の肌に、静電気のようなビリビリとした緊張感が伝わってくる。
「場所は。……あぁ、分かった。すぐに行く」
受話器を置く音が、コンクリートの底に鉄球を落としたように重く響いた。
仁田さんは弾かれたように立ち上がり、背もたれに掛けていた上着をひったくるように掴んだ。その目は、つい先ほど私を勇気づけた熱血刑事のそれではない……
「堀内、出たぞ。通り魔事件だ。」
「……え? 本当ですか……? まだ数時間しか経ってないのに」
「ああ。だが、何だかなぁ……」
彼は、重い足取りで出口へ向かいながら、独り言のように呟いた。
「通報の内容だ。犯人はどうやら、自転車に乗った大人で、鉄パイプを振り回していたそうだ……今時そんな通り魔は流行らねえよ」
自嘲気味に、少しだけ笑いを取るような口調。
だが、仁田さんが扉の前で足を止め、私を振り返った時、その瞳は一切笑っていなかった。むしろ、無理に作った冗談の裏側に、どす黒い困惑が透けて見えた。
「それと、今度の現場……被害者の口の中に、出来立てのアツアツおでんのちくわが突っ込まれてるんだとよ」
(ちくわ……?)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
現場は、立体駐車場の7階。その吹き抜けに面した、一番端の区画だった。
周囲に車はなく、夜の冷たい風が吹き抜けるはずのその場所には、場違いな、甘ったるい出汁の匂いが不気味に淀んでいた。
「……本当に、ちくわだ」
仁田巡査部長の低い声が、無機質なコンクリートの壁に反響する。
そこに横たわる遺体の口には、通報通り、コンビニで売っているようなちくわが一本、無造作に、だが喉の奥深くまで暴力的なまでに突っ込まれていた。
被害者の顔のすぐ側には、場違いな小道具たちが、まるである種の儀式のように「展示」されている。
使い込まれた小型ガスバーナー。そして、封を切られたおでんの詰め合わせパック。
パックの中の汁は、この寒さの中にあって、まだ微かに湯気を立てていた。それは犯人がつい数分前までここで、丁寧に、あるいは事務的に調理をしていたことを無言で物語っていた。
「仁田巡査部長……これ、あいつがここで温めたってことですか?」
犯人は、鉄パイプをアスファルトに擦り付けながら自転車でここまでやってきて、男を襲った。その直後、逃げることもせず、悠々とガスバーナーに火をつけ、おでんを温め、死体の口に突っ込んだのだ。
「ああ、きっとな。わざわざ、おでんをアツアツにする必要が……」
俺は、犯人の底知れない執着に背筋が寒くなるのを感じた。だが、その思考を遮るように、足元から声が漏れ出した。
「あ、あぁ……」
その震える呼気とともに、口に突っ込まれたちくわから、じゅわりと温かい汁が溢れ出した。
死体だと思っていた肉体が、泥のような声を漏らす。
「ひっ……!」
堀内巡査は悲鳴を飲み込み、反射的に数歩後ずさった。
「仁田巡査部長、……生きて、ます……」
「ああ、分かってる。……おい!しっかりしろ!」
俺は、困惑を押し殺して被害者の男の肩を掴み、抱き起こした。
男の目は、カッと剥かれたまま、立体駐車場のどこかを必死に追っている。
助けに来た俺たちの姿など、もうその網膜には映っていないようだった。
「……あ、……あつ……い……」
男は必死に喉を鳴らし、何とかして喉元にある異物を吐き出そうとしている。
俺は意を決して、男の口に深く突っ込まれた、まだ熱を持っているちくわの端を掴んだ。
「……抜くぞ。我慢しろ」
ズルリ、と不快な湿った音を立ててちくわが引き抜かれる。
その瞬間、男の口から漏れたのは、助けを求める言葉でも、犯人の特徴でもなかった。
「……まだ、……ガリガリって……、鳴って……る……」
「……何だと?」
俺の眉間に、深い皺が寄る。
「……火花、が、……消えないんだ……、あつい、……火花が……」
男は、ちくわを抜かれたことで余計に苦しそうに、自分の喉を両手で掻きむしり始めた。
指先が喉元に食い込み、まるで喉の奥にこびりついた熱を力ずくで引き剥がそうとしているようだった。
「……っ、堀内! 救急車を急がせろ! 意識が飛ぶぞ!」
私の耳に、仁田さんの叫び声が、立体駐車場の冷たい壁に弾けて響いた。
被害者の男は、最後まで「熱」と「音」のことしか口にしなかった。
きっと犯人に鉄パイプで執拗に追い回され、無理やり熱いものを流し込まれたことで、脳の芯まで恐怖に焼き尽くされてしまったのだろう。
のちに、夜を引き裂くようなサイレンと共に救急車が到着した。そして、被害者の男は意識不明の重体のまま、近隣にある神州救急病院に緊急搬送された。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
署に戻り、色々と情報を整理した。
第一被害者である矢上唯斗48歳は会社からの帰り道、近くにあるワンデーマートというコンビニエンスストアで、カレーピラフ178円(税込)を購入し、夜道を歩いていた。
彼の現職はサラリーマン、旧職は神州市第一小学校の教職員……
犯人との接点は特に……不明だ。
第二被害者である双葉智樹24歳は、ペオンモール神州店にて買い物後、車に乗るために立体駐車場を歩いていた。
彼の現職はフリーター、旧職は無職でヒキコモリ。
犯人との接点は特に……不明だ。
どちらも関わりがある様には思えない。つまり無差別殺人、殺人未遂なのか?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
神州救急病院の廊下は、深夜特有の重苦しい消毒液の匂いに満ちていた。
処置室から出てきた医師は、額の汗を拭いながら、俺と堀内に向かって首を横に振った。
「肉体的な損傷……えぇ。つまり、鉄パイプによる打撃そのものは命に関わるものではありません。ですが、問題は精神状態です」
医師の言葉は、冷たいメスのように俺たちの期待を切り裂いた。
「彼は今、強烈なトラウマによる重度の解離状態にあります。脳が現実を拒絶している。……本人の意識の中では、今もまだ暗闇の中で鉄パイプに追いかけ回されている様で、精神状態が、」
「幻覚……。だからあんなに、何もないところを怖がっていたんですか」
堀内が、震える声で窓の外の暗闇に視線をやった。
医師は重苦しく頷く。
「ええ。残念ですが、今の彼からまともな証言を引き出すのは不可能です。彼は精神状態が異常なまでに狂っているので……」
「そうか……明日の朝また来る」
俺は短く答え、医師に背を向けた。
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まあ、こんな感じでミステリー小説を書いてたんですよ。ですが、どうしても筆が進まない、進まない。それで、少し路線変更したのが本作です。
話は変わりますが、最後にこの作品の見所を説明します。
本作は……なんか、世界観を練り過ぎて、自分でも訳が分からなくなったりとかってのが多くなった作品です。今度、これと同じ世界観で別の作品を作りたいなぁって思ってますね。そのための伏線とかも色々と張ってますよ。




