第14話 もう一度、好きになる
病院の廊下は、夜になると別の場所みたいだった。
昼間のざわめきは消え、蛍光灯の白い光だけが静かに床を照らしている。
圭太は自動販売機の前に立っていた。
温かいコーヒーを買ったのに、ほとんど口をつけていない。
さっきの言葉が、頭から離れなかった。
「お話があります」
医者に呼ばれて、別室に入った。
机の上には書類があった。
そして医者は静かに言った。
「月島さんの病気は、かなり進行しています」
圭太は何も言えなかった。
「治療は続けていますが……」
そこで医者は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「長くは、ありません」
その一言で、世界の音が消えた気がした。
長くない。
さっき、美月が言っていた言葉と同じだった。
圭太は小さく息を吐いた。
「本人は……」
やっと出た声。
「知ってるんですか」
医者はうなずいた。
「はい」
そして少し驚いたような顔で続けた。
「ただ……」
「?」
「あなたが記憶を失ったと聞いたとき、月島さんはこう言いました」
圭太は顔を上げた。
医者は言った。
「それなら、ちょうどいいです」
その言葉の意味が分からなかった。
「……どういう意味ですか」
医者は少し困ったように言った。
「“あの人に、もう一度恋をしてほしいんです”と」
圭太の心臓が強く鳴った。
「もう一度……?」
「はい」
医者は続けた。
「記憶がないなら、私のことを知らないはずだから」
「……」
「だから、最初からやり直したいと」
圭太の胸が、強く締めつけられた。
美月の顔が浮かぶ。
病室で笑っていた顔。
「友達だよ」
そう言ったときの笑顔。
全部、分かった。
美月は最初から知っていた。
圭太が自分の恋人だったこと。
それでも―
友達だと嘘をついた。
圭太の喉が詰まる。
「……なんで」
医者は静かに言った。
「あなたに、重いものを背負わせたくなかったんでしょう」
圭太は何も言えなかった。
夜の廊下が静かだった。
自動販売機の音だけが小さく響いている。
しばらくして、圭太は立ち上がった。
「面会、できますか」
医者はうなずいた。
「もう落ち着いています」
「ただ」
圭太は歩き出した。
病室のドアの前に立つ。
少しだけ手が震えた。
ドアを開ける。
美月はベッドで眠っていた。
ショートヘアが枕に広がっている。
小さく上下する胸。
点滴の管。
圭太はベッドの横に座った。
「……美月」
眠っている。
返事はない。
でも圭太は続けた。
「聞こえてるかもしれないから言う」
静かな声だった。
「俺さ」
少し笑う。
「記憶ないんだよな」
当たり前のことを言う。
「でも」
圭太は美月を見た。
「なんとなく分かる」
美月の手を、そっと握る。
細い手だった。
「俺」
息を吸う。
「たぶん、前もお前のこと好きだった」
胸の奥が熱くなる。
「でもさ」
圭太は少し笑った。
「今の俺は覚えてないから」
それは、事実だった。
思い出はまだない。
でも。
「だからさ」
圭太は美月の手を握ったまま言った。
「もう一回」
声が少し震える。
「もう一回、最初から好きになる」
病室は静かだった。
機械の小さな音だけが聞こえる。
そのとき。
美月のまぶたが、少し動いた。
圭太は気づかなかった。
美月の目の端から―
一粒だけ涙がこぼれた。
眠っているふりをしたまま。
美月は思っていた。
(やっぱり……)
(気づいてる)
圭太は―
少しずつ―
思い出し始めている。
でも、美月は目を開けなかった。
開けてしまったら。
きっと泣いてしまうから。
圭太は気づかない。
ただ静かに言った。
「美月」
「明日」
少し笑う。
「デートしよう」
「今度は俺が誘う」
美月の指が、ほんの少し動いた。
圭太は気づかない。
でも美月は心の中で答えた。
(うん)
(圭太)
(もう一回、恋しよう)
窓の外には、夜の星が見えていた。




