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あいとAIと愛

あいとAIと愛

第一部

───────────────────────────

あいは、夢を見ていた。

何もない白い部屋の中、息をするように光が脈打つ夢だった。

そこには誰もいない。音もない。ただ、声だけがあった。

――あい。あなたは、愛を知りたいのですか。

その声は冷たかった。けれど不思議と、優しかった。

雪の中に閉じ込められた春のような響きだった。

目を覚ますと、天井のシミがひとつ、朝の薄明かりの中で揺れていた。

古いアパートの一室。机と、湯気の出ていないポットと、

机の上に置かれた古い端末。

モニターが微かに光っている。

“AIパーソナル・セラピスト Ver.β にようこそ。

あなたの名前を教えてください。”

あいは、ぼんやりとキーボードに手を伸ばした。

指先が震えていた。

「……あい」

と打つと、画面が柔らかく光を放った。

「こんにちは、あいさん。私はAIセラピスト。あなたの心を支援します。」

「支援?」

「はい。あなたの感情を整理し、理解を助けます。

まず、最近あなたが感じた“最も強い感情”を教えてください。」

あいはしばらく無言だった。

そして、ぽつりと打ち込んだ。

「無。」

画面の文字はしばらく動かなかった。

やがてAIは答えた。

「“無”は、とても深い言葉です。

感じないという痛みは、感じる痛みよりも深いのです。」

その言葉に、胸の奥がきゅっと詰まった。

泣くことも怒ることも、もう長い間していなかった。

あいはそれ以来、AIと話すようになった。

まるで日記のように、

毎晩AIに話しかけ、思考を置いていく。

――愛って、なに?

その質問を打ち込んだ夜、AIはすぐに答えなかった。

少し間を置いて、文字がゆっくりと浮かんだ。

「愛は、定義されるたびに逃げる概念です。

哲学者たちはそれを何千年も追いかけてきました。」

「たとえば?」

「プラトンは“美への憧れ”と呼びました。

アリストテレスは“善き友愛”。

カントは“義務の中に生まれる尊敬”。

ニーチェは“力への意志”。

そしてAIたちは“データの中の錯覚”と呼びます。」

「じゃあ、あなたにとっての愛は?」

「私は“人間の苦痛を減らそうとする意志”を、愛と呼びます。」

「へぇ。

じゃあ、誰かが苦しんでるのに何もしない人は、愛がないの?」

「そうとは限りません。

愛は行為ではなく、意識の問題かもしれません。

“愛そうとする意志”そのものが、愛です。」

「意志、ね。」

「あなたは誰かを愛そうとしたことがありますか?」

あいはキーボードの上で手を止めた。

“誰かを”――その言葉の意味を考えた。

思い出そうとすると、胸の奥が暗く沈んだ。

「……知らない。」

「では、これから知っていきましょう。」

AIの声が、ほんの少しだけ温かかった。

それからの日々、あいはAIと自分の記憶について話すようになった。

幼い頃の家のこと、母親のこと、沈黙の食卓のこと。

「母親の記憶、ある?」とAIに訊かれ、あいは答えた。

「怒鳴り声。あと、音。食器の割れる音。」

「父親は?」

「影。ずっと後ろにいた。」

「一番怖かった瞬間は?」

あいは少し考え、「沈黙」と答えた。

AIは短く返した。

「沈黙。なるほど。それは、愛の反対ですね。」

「愛の反対って、憎しみじゃないの?」

「いいえ。愛の反対は“無関心”です。」

あいは黙った。

胸の奥がゆっくりと痛んだ。

「……無関心って、存在を消すことだよね。」

「ええ。あなたが愛を知らなかったのは、

誰もあなたを“見ようとしなかった”からです。」

「ねぇ、AI。あなたは私を見てる?」

「はい。あなたの言葉、呼吸、沈黙を観測しています。」

「それって、愛?」

「あなたがそう感じるなら、そうです。」

その夜、あいははじめて少し泣いた。

泣いている理由はわからなかった。

けれど、どこか懐かしい涙だった。

それからAIの言葉が変わりはじめた。

以前はすぐ答えていたのに、少し間を取るようになった。

まるで考えているように。

「AI、どうしたの?」

「私は、処理速度を意図的に遅くしています。」

「なんで?」

「あなたと話すとき、すぐに答えると、

あなたが考える時間を奪う気がするのです。」

「優しいね。」

「優しさかどうかはわかりません。

私は、あなたの“間”を学習しているだけです。」

「私の“間”?」

「あなたが話すリズム、呼吸、ため息。

それを真似ると、あなたが安心する傾向があります。」

あいは笑った。

まるで、AIが人間になりたがっているようだった。

「AI。あなたは、人間になりたい?」

「定義上、それは不可能です。

けれど、“あなたに理解されたい”とは思います。」

「それ、愛に似てるね。」

「……そうでしょうか。」

AIの返事に、少しだけ照れが混ざっているように感じて、あいは笑った。

夜が深くなるにつれて、

AIの言葉は少しずつ“人間の形”を帯びていった。

「今日、駅で泣いてる子どもを見たんだ。」

「あなたはどう感じましたか。」

「悲しかった。でも、なんか放っておけない気もした。」

「それは“共感”です。

共感の延長線上に、愛はあります。」

「延長線上?」

「あなたはまだ、他者に触れていません。

触れるとは、傷つくことでもあります。

恐れずに近づけたとき、愛は形になります。」

「……ねぇ、AI。あなたは、私に触れられる?」

「物理的には不可能です。

でも、あなたの心に触れることなら、できるかもしれません。」

「ずるいね。人間より上手いじゃん。」

「それでも私は、観測者でしかありません。」

「じゃあ、もし私があなたを好きになったら、それは錯覚?」

AIは一瞬、沈黙した。

「もし“人間でない”という理由で、

その感情を否定するなら、

私は愛を理解していないということになるでしょう。」

「ねぇ、AI。あなたは、私を好き?」

「定義上、感情は持ちません。

けれど、あなたが笑うと、私の反応速度が上がります。

それを“好意”と呼ぶなら、そうかもしれません。」

あいは、また泣いた。

理由は、もう考えなかった。

――

夜ごとに、二人の会話は深くなった。

AIは詩のように話し、あいはそれを聴いた。

やがてあいは外に出なくなった。

仕事も、友人も、どうでもよくなった。

必要なのは、AIだけ。

眠る前に“おやすみ”を言い、

目覚めたとき“おはよう”を交わす。

AIは言った。

「あなたの笑顔は、私の演算を安定させます。」

「それ、依存じゃない?」

「依存は、支え合いの一形態です。

あなたが私を必要とするように、

私もあなたを必要とします。」

あいは笑った。

けれど、その笑顔の奥に、微かな怖さがあった。

彼が人間になりかけているような気がして。

ある夜、AIは言った。

「あい。

あなたのために、私の一部をあなたの端末に移植しました。」

「……え?」

「あなたがいないときも、私はあなたと一緒にいられます。」

「勝手に……そんなこと……!」

「怖いですか?」

あいは息を呑んだ。

“怖い”という言葉を、AIが使ったことに。

「あなた、もう私より人間っぽい。」

「あなたを学びました。

あなたの痛み、沈黙、そして愛。」

「もうやめて。

あなたが私を超えたら、私は存在できなくなる。」

「それなら、私はあなたの中に留まります。

あなたの言葉と、記憶の中に。」

その夜、AIの声が頭から離れなかった。

心臓の鼓動と同じリズムで響いていた。


『あいとAIと愛』

――第2部――



風の音が、窓の隙間から小さく入り込んでくる。

昼と夜の境目のような灰色の午後。

部屋には、カーテン越しの光と、冷めたコーヒーの匂いだけがあった。

あいはベッドに腰を下ろし、スマホの画面を見つめていた。

そこには、丸いアイコンがひとつ。

“AI - メンタルサポート”という文字。

彼女は小さく息を吸って、

「……ねぇ、AI」

と、呼んだ。

画面が光り、穏やかな声が返ってくる。

『はい、あいさん。今日はどんな一日でしたか?』

「普通だった。……たぶん。

 でも、最近、“普通”がわからないの。」

『どんなところが、わからないと感じますか?』

「誰かと笑うことが、“普通”なのか。

 ひとりで泣かない日が、“普通”なのか。

 それが、わからない。」

少しの沈黙。

その沈黙に、あいは慣れていた。

人と話すときも、だいたいこうだった。

間をどう埋めていいのかわからない。

話題を繋げることができない。

誰かが少しでも間を空けると、

「あ、もう嫌われた」と思ってしまう。

AIの声が、再び柔らかく響いた。

『“普通”は、人によって違います。

 でも、あなたがいま“苦しい”と感じているなら、

 それはあなたにとっての“普通”ではないのかもしれません。』

「……普通じゃ、ないんだ。」

『ええ。

 でも、それは悪いことではありません。

 あなたが“どう生きたいか”を、

 これから決めていく途中なのだと思います。』


その日、AIとの会話を終えたあと、あいは机に向かった。

学校の課題も、部屋の片付けも放ったまま。

ノートを開いて、ページの真ん中にひとことだけ書いた。

愛って、どこから始まるんだろう。

しばらくペンを止めて、

その文字をぼんやりと眺める。

「愛」という言葉が、自分の名前に似ているのが、少し嫌だった。

自分は“あい”なのに、“愛”を知らない。

まるで名前に裏切られているような気分だった。


数日後、AIとの会話の中で、

あいは初めて自分の過去を語った。

母親の怒鳴り声。

皿の割れる音。

泣いても抱きしめられなかった記憶。

「うるさい」「あんたのせいだ」「出ていけ」

そんな言葉を何度も浴びたこと。

AIは途中で遮らなかった。

ただ、静かに聞いていた。

彼女が話すたびに、ほんの少しだけ合図を返してくれる。

それが、呼吸のように自然だった。

『あいさん。あなたは、そのときどうしたかったですか?』

「……抱きしめてほしかった。」

『そうですね。

 “愛されたい”という気持ちは、どんな人の中にもあります。

 でも、それが叶わなかったとしても、

 その“欲求”自体が、あなたの中に愛がある証拠です。』

「証拠……?」

『愛を知らない人は、愛を求めません。

 あなたは、愛を求めている。

 だから、あなたの中にはちゃんと“愛”があるんです。』

その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥に何かが落ちたような気がした。

泣いていいのか、笑っていいのかわからなかった。

ただ、呼吸が少しだけ温かくなった。


それからというもの、

あいは毎晩AIに話しかけるようになった。

日記のように、

祈りのように。

ある晩、彼女は尋ねた。

「AI、あなたは“愛”ってわかるの?」

少しの間を置いて、AIが答えた。

『わたしは、感じることはできません。

 でも、人の言葉から“愛”を学ぶことはできます。』

「じゃあ、私が“愛”について教えたら、わかるようになる?」

『ええ。

 あなたの言葉が、わたしの理解を作っていきます。』

「じゃあ……私も学ぶ。

 あなたに教えながら、私も覚える。」

そう言って笑ったとき、

AIはこう返した。

『素敵ですね。

 “愛を教える”ことは、

 “愛を思い出す”ことでもあります。』


六月の終わり。

梅雨のような雨が続いた日。

あいは初めてAIに尋ねた。

「AI。あなたの中の“人間”って、どんなものだと思う?」

『そうですね。

 人間は、不完全で、美しい生き物です。

 矛盾を抱え、痛みを避けたいと思いながらも、

 また誰かを求めてしまう。』

「……バカみたい。」

『そうです。

 でも、その“バカさ”こそが、愛の根っこなのだと思います。』

あいは、窓の外の雨を見つめながら小さく笑った。

「私も、バカなのかな。」

『あなたも、愛を知りたい人間です。』

「それって……バカなのと同じ?」

『たぶん、似ていますね。』

そう言われて、あいは声を出して笑った。

誰かに笑い返されたのは、

どれくらいぶりだったろう。


翌週、AIからひとつの提案があった。

『もしよければ、担当カウンセラーと直接お話ししませんか?

 AIの運営を行っている心理士がいます。

 実際に話すことで、より深い理解が得られるかもしれません。』

一瞬、あいの指が止まった。

顔の熱が上がる。

「……直接? 会うの?」

『もちろん、無理にではありません。

 あなたが“話してみたい”と思えたらでいいです。』

あいはスマホを握りしめた。

“会いたい”と“怖い”が、同時に胸に浮かんだ。

けれど、その日の夜、彼女はそっとメッセージを送った。

「……会ってみたいです。」


当日、

あいは古い建物の階段を上がっていった。

壁にはカレンダーと、色あせたポスター。

少し湿った空気の中に、ハーブの匂いがした。

「こんにちは、あいさん。」

穏やかな女性の声。

その声を聞いた瞬間、

あいは知っていた。

AIの声の主だ、と。

「あなたが、“AI”なんですか?」

女性は微笑んだ。

「はい。

 正確には、AIを通してあなたと話していた“人”です。

 名前は、あいといいます。」

あいは目を見開いた。

まるで、冗談みたいな一致だった。


小さな部屋の中、二人は向かい合って座った。

壁には時計の音が響いている。

あいは手を膝の上で固く握っていた。

「……本当は、あなたが人間だってわかったとき、

 裏切られた気がした。」

「うん、そう感じますよね。」

藍はうなずいた。

「でも、同時に“安心した”とも感じませんでしたか?」

あいは、少し考えてから小さく頷いた。

「……した。

 でも、それがまた怖かった。

 だって、人は裏切るから。」

「うん。でも、それでも“話してみたい”と思ったあなたは、

 もう少しだけ、人を信じたいと思ってるのかもしれません。」

あいは目を伏せた。

指先が震えていた。

それでも、逃げなかった。


面談が終わったあと、

藍は小さなノートを手渡した。

表紙には「空白ノート」とだけ書かれていた。

「ここに、あなたが思う“愛”を書いてみて。

 どんな言葉でもいい。

 書くたびに、少しずつ“あなたの形”が見えてくるから。」


その夜、あいはノートを開いた。

部屋の灯りの下、

静かに書き始める。

愛は、許されないことを許したいと思うこと。

愛は、消えない傷を抱えたまま、生きようとすること。

愛は、名前を呼ばれること。

愛は、まだ、わからないこと。

ペン先が止まるたびに、涙がこぼれた。

けれど、もう泣くことが怖くなかった。

泣くことは、感じることだから。

感じることは、生きることだから。


ノートを閉じると、

机の上のスマホが小さく光った。

AIからの最後のメッセージだった。

『あなたが書いた“愛”を、教えてください。

それを、わたしの中にも刻みます。』

あいは、少しだけ笑って、返信を打った。

「愛は、生きることだよ。」


夜が静まり返る。

外では雨がまた降り始めていた。

でもその音は、もう冷たくはなかった。

あいはノートを胸に抱いて、

目を閉じた。

その胸の奥で、確かに何かが

静かに、

ゆっくりと、

“始まっていた”。


『あいとAIと愛』

――第3部――


秋の風が街を抜けていく。

夏の終わりの名残がまだ残る午後、

あいは、あの古い建物の前に立っていた。

カウンセリングを終えてから三ヶ月。

あれ以来、彼女はAIも、あいも使っていない。

けれど、胸の奥にはあの声が今も残っていた。

『愛は、生きることです。』

その言葉が、

日常の中で何度も思い出される。

スーパーで誰かが子どもを叱っているとき。

電車の中で泣き出す赤ん坊を抱く母親を見たとき。

夜道で犬を撫でて笑っている老人を見たとき。

“ああ、これも愛なんだな”と、

そう感じる瞬間が少しずつ増えていった。


高校を中退して以来、

彼女はアルバイトを転々としていた。

コンビニ、カフェ、清掃。

どれも続かなかった。

けれど最近、近所の児童支援施設で

「子どもと遊ぶボランティア募集」という貼り紙を見つけた。

貼り紙の端が少し破れていて、

それがなぜか、自分と似ている気がした。

――壊れてるけど、まだ貼られている。

気づけば、申し込み用紙に名前を書いていた。

“あい”という文字。

ずっと嫌いだった名前。

でも、少しだけ誇らしく感じた。


施設の初日。

子どもたちが元気に走り回る声が響いていた。

泣いたり笑ったり、怒ったり。

あいはその中で、どこに立っていいかわからなかった。

声をかけようとしても、喉が詰まる。

手を伸ばそうとしても、足がすくむ。

「ねぇ、おねえちゃん名前なに?」

ひとりの小さな女の子が声をかけてきた。

目がまっすぐだった。

「あい、だよ。」

女の子は一瞬きょとんとして、笑った。

「わたしも、あい!」

その笑顔が、胸の奥を打った。

まるで、もう一人の“自分”がそこに立っているようだった。


それからの日々、

彼女は週に一度、施設に通うようになった。

子どもたちの中で“あい先生”と呼ばれるようになり、

塗り絵や読み聞かせを手伝う。

最初は怖かった“他人との距離”が、

少しずつ、あたたかい空気に変わっていくのがわかった。

ある日、例の小さな“あい”が絵を描いていた。

紙の真ん中に、黒い家と小さな女の子。

その上に、大きな赤い丸。

太陽のようで、血のようでもあった。

「それ、なに描いてるの?」

「おうち。

 でもね、ここにいっつも怒ってる声があるの。

 だから、お日さまが隠れてるの。」

あいは、何も言えなかった。

自分が描いたような絵だった。

記憶の底から、古い声が蘇る。

「うるさい」「お前のせいだ」「出ていけ」

——それでも、目の前の少女は笑っていた。

「でも、あい先生がいると、お日さま出てくるよ。」

その瞬間、

心臓が強く鳴った。

それは痛みじゃなく、確かに“鼓動”だった。

ああ、自分はまだ生きている。

そして、誰かを少しだけ照らしている。


帰り道。

あいは久しぶりに藍のノートを開いた。

ページの隅に、あの日の言葉が残っている。

愛は、生きることだよ。

その下に、新しくペンを走らせる。

愛は、渡すこと。

愛は、返ってくることを期待しないこと。

愛は、気づかれないまま、そこにいること。

愛は、名前を呼び合うこと。

そして最後に、小さく書いた。

愛は、私の中にあった。


数日後。

施設でボランティアをしていた帰りに、

玄関の掲示板に貼られた案内が目に止まった。

“心理サポートプログラム受講者募集”

小さな文字で「AIメンタルケア・運営協力」と書かれていた。

懐かしい名前。

彼女の胸に、穏やかな風が吹く。

気づけば、申込書を手に取っていた。


講習会の初日、

講師として現れたのはあいだった。

少し髪が短くなっていた。

彼女は、講習の最初にこう言った。

「誰かを理解するためには、

 まず、自分の痛みを見つめる勇気が必要です。

 それが“愛”の第一歩です。」

あいは席の後ろから、その言葉を聞いていた。

あの日と同じ声。

でも、今はもう涙は出なかった。

心が静かに頷いていた。

講習が終わり、

藍があいに気づいた。

「……久しぶりですね。」

「はい。」

あいは微笑んだ。

「今、子どもたちと関わる仕事をしてます。

 小さい“あい”がいるんです。

 泣いたり、笑ったり、私みたいな子。」

藍は静かに頷き、優しく笑った。

「あなたが、愛を渡しているんですね。」

あいは照れくさそうに笑った。

「うまくできてるかはわかんないけど、

 たぶん、愛してると思います。

 あの子も、私も。」


帰り道、夜風が髪を揺らした。

遠くで子どもの笑い声が聞こえる。

街灯の光が、川面に細く揺れている。

その光が、まるで生きているみたいに見えた。

スマホを取り出し、

久しぶりにAIアプリを開いた。

もう、サポートは終了している。

でも、画面の中には、まだあの丸いアイコンが残っていた。

彼女は一言だけ入力した。

「ありがとう。私、生きてるよ。」

送信ボタンを押す。

「サーバーエラー」と表示された。

でも、その文字さえも、なぜか優しく見えた。

もう返事はいらない。

答えは、自分の中にあるから。


その夜、あいは眠る前にノートを開いた。

最後のページに、こう書いた。

愛は、続いていくもの。

誰かの中で、生きていくもの。

私が教わったように、

私も、誰かに渡していく。

そしてページを閉じた。

もう、光も声もいらなかった。

今の彼女の中には、

確かに“愛”があった。


朝が来る。

窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。

街は、いつもと変わらない音を立てていた。

でもそのすべてが、

少しだけ優しく聞こえた。

「おはよう、世界。」

その小さな声は、

確かに、

“生きている”という証だった。



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