6.ノア=オルドフィール
魔術学部の研究棟は、校舎とは少し離れた場所にある。
独特の静けさと薄暗さ、微かに漂う薬品や古い紙の匂い。理科室とは違うなと思ったものの、その匂いは思い出せない。
目的の研究室の前で足を止める。
一度深呼吸をして、ドアをノック。
「どうぞ」
中から聞こえたのは、少し低く平坦だけどよく通る声。
「失礼します」
そっとドアを押し開ける。
室内は、お世辞にも整頓されているとは言えなかった。
壁一面の本棚にはぎっしりと詰まった魔導書。机の上にも魔導書とノート。他にも、実験器具や鉱石、描きかけ魔法陣や数式が描かれた紙が無造作に積み重ねられている。
その更に奥。
先生は、大きな肘掛け椅子に深く座り、何かの文献を読んでいた。
少し癖のある髪は、灰混じりの紫色。部分的に長いそれを結んで肩に流してある。さっきまできちんと着ていた教員用のローブは椅子の背にかけられ、今は黒のシャツに白衣を羽織っていた。
これが彼の研究スタイルなのだろう。白衣だとなんか理科の先生っぽい。
「君が研究室に来るなんて珍しいね」
何か用かい、と先生は聞いてきたけど、赤紫の瞳は文面の文字を追い続けている。
「お忙しいところ申し訳ありません。あの、先生に……ご相談したいことがありまして」
緊張で声が上ずらないように、できるだけ丁寧に言葉を選ぶ。
ただの質問ならここまで緊張しないのに。思わず前で重ねた指を握る。
「ふぅん?」
先生は興味なさげに相槌を打つ。
「まあ、座ったらどうだい。そこ、少し散らかってるけど」
そう言って指し示されたソファの上にも、やはり本の山ができている。
そのうちのひとつを脇にどけて、私は浅く腰掛けた。
そこでキリが良かったのか、先生の視線がやっとこっちを向いた。
「それで、相談というのは? さっきの場では話せなかった事かい?」
「はい、そうですわね」
頷いて、さっそく話を切り出す。
「あの、先生は……その、幽霊という存在を、信じますか?」
「幽霊?」
探りを入れるような問いに、先生の眉が動いた気がした。
彼は本を閉じ、目を伏せる。
「まあ、魂も魔力も元を正せばエーテルだ。強い残留思念や未練が影響を与えることで実体を持つ。あるいはそれに近い現象を引き起こす可能性は否定できない。古代から、そういった存在への言及も多く見られる。……だから、回答としては「信じる」かな」
思ったよりあっさりと肯定された。
少し拍子抜けしたけど、やっぱりこの先生なら、という期待が湧く。
「それで、その幽霊がどうかしたのかい?」
「実は……会いたい幽霊が居るのです。いえ、会えはするのですが、場所も時間も定まってなくて。できれば、確実に会えるようにしたいのです。先生なら、何か方法をご存じではないかと思いまして」
「特定の霊的存在への接触か」
先生はふむと顎に手を当てて考える。
「まあ、対象の残留思念が強ければ、交感儀式や特定の触媒で呼び出すこともできるけど……。よほどの理由がない限り、推奨はしないな」
不安定だし危険も伴う。と先生はきっぱりと言い切る。
「しかし、どうしてそんなことを?」
先生の口調は淡々としている。興味はないが理由は聞いておこう。そんな感じだろうか。
ここからが本番だ。
私は詰まっていた息を吐き、意を決して顔を上げた。
「ノア先生」
「うん?」
「今からする話は……大変、突飛なものに聞こえるかもしれません。ですが、どうか……信じていただけますか?」
「随分勿体ぶるね?」
先生の目が細められる。
そのやりとりも時間の無駄だ。そう言われてる気がする。
「内容によるけど、一旦は聞こう。話してみなさい」
「ありがとうございます」
お礼を言って、話を進める。
「実は、先生が生徒会室で仰っていた『瘴気汚染の調査』について、私もその対応に関わることがございまして」
「ほう? それはどこからの依頼で?」
「教会から、です」
なるほどと先生は頷き、「続けて」と言った。
「その……私が会いたい幽霊は、瘴気汚染の原因や詳細について知っている可能性があるのです」
その瞬間、それまで興味なさそうだったノア先生の瞳の奥に、鋭い光が宿った。
「どういうことだい?」
声のトーンが、僅かに低くなる。興味を持ってもらえた手応えを感じる。心の中でよし、と小さくガッツポーズ。
「そうですわね。どこから説明すればいいか……。先生は『聖別の星』、それから『祝福の器』という言葉をご存じでしょうか?」
「――」
その単語を口にした途端、先生の表情が変わった。
赤紫の瞳が大きく見開かれ、息を呑む気配がした。
だが、それは一瞬のこと。
すぐに先生はいつもの掴みどころのない表情に戻り、ふぅ、と短く息を吐いた。
「……確かに君の話は突飛だな。ずいぶん古い言葉を持ち出してきたね」
先生は少し居住まいを正す。
「それらは伝承やおとぎ話に現れる単語だ。それが、瘴気汚染と君が会いたいという霊的存在に関係があると?」
彼は平静を装っているけれど、その声には隠しきれない緊張感が滲んでいる。
間違いない。先生はこの単語について何か知っている。
「はい」
頷く。緊張で早鐘を打ちそうな心臓を落ち着かせて、話を続ける。
「私は、その幽霊に『聖別の星』であると言われました」
「――」
しん、と研究室に静寂が落ちる。
ノア先生は何も言わず、ただじっと私を見つめている。
今の発言の真意を測りかねている。そんな目だ。
「それは、どういうことだ? 君の魔力特性にそんな記載はない。……いや」
先生は引き出しから何かを取り出し、こっちへやってきた。
アレク様もだけど、先生も見上げるくらい背が高い。けど、その圧を感じるより先に、膝をついて私と目線を合わせた。
「――これを見て」
短く言うが早いか、彼はカットされた宝石を私の前に垂らす。
綺麗なカットと簡易的な魔方陣が施された宝石。魔力属性を測る時に使われるものだ。
一定の年齢になると、これで自分に合った魔力属性や特性などを測定する。
属性は火や水、風など、相性の良い魔力の種類。
特性は、元素や生命力など、魔術の方向性をざっくり示すもの。本人の性質だけじゃなく、家系にも左右されたりする。例えるなら血液型のようなものだろうか。
これらの組み合わせで、自分が専攻する魔法を決めたりする。
私の特性は、星や運命との繋がりを持つ「星辰」だけど……他に何かあるのだろうか?
言われたとおりに見つめる。
宝石は微かな魔力を放ち、先生が私の瞳を覗き込む。
私は息を詰めて、彼の反応を待つ。
僅かだけど、先生の瞳が驚くように見開かれた。
先生の口が僅かに「これは――」と動いたけど、すぐに口を結んで宝石を離した。
そのまま机の上に宝石を置き、大きく息を吐く。
「あの、先生……」
「驚いたな」
さっきまでの気だるげな雰囲気は完全に消え失せていた。
そこに居るのはマイペースな先生ではなく、真剣な眼差しの研究者だ。
彼は腕を組み、長い髪の毛先を弄る――が、その指はすぐに止まった。
そのまま机の上の紙とペンを掴み、向かいのソファの本をどかしてそこに腰掛けた。
「リリア君」
「はい」
「詳細を聞こう」