22.星が捧げられる時
転移の光が収束し、白く眩んだ視界に色が戻る。
ある程度の対策はしてたが、それでも頭の隅に残る目眩に似た意識の混濁は、移動距離がそれなりにあったことを示す。
まず感じたのは静謐な空気。空中に漂う淡い虹の靄は、この部屋に満ちる魔力が可視化されたものだ。しゃらしゃらとガラスが微かに触れ合うような音もする。通常の対策では遮断しきれないほどに純度が格段に高く、濃い。微かに頭痛がする。共感覚対策の強度をあげて靄も音も遮断する。
移動距離の感覚と、純度の高い魔力。ここは、聖樹ルミナの根が地表に近い場所――大樹の塔だろう。
おそらくはその地下。リフィ君が話していたエリアスの拠点だ。
そこは想像以上に広大な空間だった。
床も壁も白く、魔力の灯りが柔らかな光を満たしている。
一見、白くなめらかに磨かれた壁や床だが、よく見れば繊細な術式や魔法陣が隙なく施されている。魔力調整や空間の維持など、緻密な計算に基づいた配置はある種の美しさを湛えている。操るにもある程度の魔力量と技術が必要だ。
つい最近刻まれたと錯覚するほど劣化がないのに、文法や記法は古く、今となっては使われないものも多い。ざっと見るだけでも、エリアス独自の理論や記法の癖が見られ、この空間を作ったのは彼だと嫌でも分かる。
だとすると、かなりの年月が経っているはずだが……そのような形跡は見られない。彼の技術力の高さを感じる。
図書館の吹抜けよりも高い天井には、巨大な円窓のようなものがあった。端に朱を残した藍色は、転移直前に見た空と同じ色だ。窓を模して、空の色を反映させてあるらしい。
この部屋で最も存在感を放つのは、一段高い最奥にある重厚な扉と祭壇。あの向こうに何かが厳重に封じられているのが分かる。扉にも細かな呪文が刻まれているらしい。この部屋の構成から推測するに、あの奥に設備があるのかもしれない。
アレクとセドリックの姿を確認する。二人ともまだ移動の影響が残っているようだが、声をかけると返事はあった。この様子ならすぐ復帰できるだろう。ただ、この空間に長時間居続けるのは負担が大きいかもしれない。
扉の前に立つ少女――いや、エリアスは、扉の前にある台座に向き合っていた。
台座には動かないリリア君が寝かされている。
その背に向け、詠唱なしで攻撃魔法を放ってみる。複数の閃光が一直線に彼の背に迫ったが、全て弾かれ霧散した。
消え去った光の残滓が、僅かな空気の流れになって毛先を揺らす。
「背中を見せるんだから、それくらい対策してるにきまってるでしょう」
振り向きもせず彼はそう言った。声も仕草も少女のまま、取り出した手のひらサイズの宝石を弄ぶ。
濃い桃色に紫や緑が混じっている。複数の宝石を溶かし固めたものだろう。それぞれの石が持つ魔術的役割を複雑に絡み合わせてあるようだった。
「いつまで少女のフリをするつもりだ?」
「……ああ」
これ? と彼女は仕方ないと言いたげに溜め息をつく。
もう言葉遣いを取り繕う気も無いらしい。
「身体に紐付く記憶と人格を使ってるから、これが色々楽で」
「そうか。彼女の魂は?」
彼女は宝石を弄る手を止め、唇に人差し指を当てる。
「んー、結構無茶したし……もう使えるところは無いかなあ」
つまり、ほとんど残ってないということか。
想定内だが最悪の結果だ。思わず眉が寄る。
「それにしても、君は思ったより回復が早い」
「この手の移動には慣れてるんだ」
彼はそっかと楽しげに嗤った。その声にちらつく暗さに、シャーリー君の面影はない。
「でも、ここまで追いかけてくるとは想定外だった」
そう言いつつも。こちらに一切の注意を向けることなく。――ひとつ、踵を鳴らした。
かつん、と響く軽い音。
そこを起点にして、魔方陣に光が走る。
床を伝い壁の魔方陣に到達すると、そこに刻まれた文字が鞭のように飛びかかってくる。
捕縛の呪文。この部屋の防衛機能のひとつだろう。しかし、この程度なら問題ない。手袋を外して指をひとつ鳴らすだけで、触れる寸前だった文字は光を失い崩れ去った。
「ふうん。この程度簡単にあしらえる、と。でも、君にとって、彼女はそんなに大切?」
「いや、それはボクではなく――」
言い終わるより先に、横を黒い影が駆け抜けていった。
アレクだ。その答えは自分だと言うかのように床を強く蹴り、一直線にエリアスへ迫る。
エリアスは初めてこちらを振り返って、煩わしそうに顔を歪めた。
無言で指を小さく振る。空間を切り裂くように飛来する無数の攻撃を受け止めるのは、小さなシールド。後ろに立つセドリック君の防御陣だ。効果範囲を狭めて多数展開することで、数に物を言わせる攻撃を弾いていく。
シールドを破壊してなお迫る攻撃は、アレク自身が対魔の短剣でなぎ払う。彼を追うように伸びる捕縛の呪文は、ボクが相殺、無力化する。
アレクの腕が、エリアスを捉える。
瞳の赤に違わぬ熱でエリアスを睨め付け、その場から引き剥がそうと力をこめる。
「リリアを返してもらおう!」
「王太子殿下ともあろう人が、『聖別の星』の有用性を理解しないなんて」
残念。と、エリアスが腕を軽く振っただけで、アレクはあっさりと壁に叩き付けられた。
セドリック君の対処も間に合わない。しかし、アレクはその壁を蹴るようにして再びエリアスに迫る。
「うーん。ちょっと邪魔だなあ」
そんなぼやきと共に、アレクへ指を伸ばす。
「えっと。影は浅き垈となり、墸う足は力を垉す」
紡がれる呪文には、意味や発音が失われた単語が混在している。
強く興味をそそられるが、今はその脅威がこちらに向けられている。対処にかかる一手間が、そのまま相手のアドバンテージとなる。
「影融」
もう一歩で届きそうだったアレクの足が突然もつれ、膝から崩れ落ちた。
睨め付けるアレクの赤い瞳に眉を寄せ、指を掲げる。
「膤を結びて煌めくは、天より落つる鋭き薄氷」
ひやりとした風が集まり、パキパキとちいさな音を立てはじめる。
「――雪刃華雨」
「幽縛の糸」
「神盾連環!」
エリアスの動きを止めるボクの呪文と、セドリック君の防御魔法も同時に展開される。エリアスの指は不自然に動きを止めたが、アレクの周りに展開された薄い盾の隙間を縫って、白く薄い刃が降り注ぐ。傷ついた彼の身体から血が滴る。床に落ちた血は、描かれた魔方陣にすぐさま吸収されていった。
セドリック君が治癒の呪文を唱えながらアレクへと駆け寄るのを視界に留めながら、エリアスめがけて攻撃を放つ。次々と浮かび上がる防御陣を相殺しながら、幾重にも重ねた一撃は彼の手から宝石を弾き飛ばした。
おや、と彼は不思議そうに攻撃が当たった手を見た。
「多層構造の銃弾……現在の理論では3層が限界とあったはずだけど」
「表に出てる理論だけが最新じゃないんだよ」
「なるほど。でも、それを詠唱なしでやるなんて可能なの?」
「できるからやってる」
「――ああ、なるほど。君も色々やってるんだ」
彼は仲間を見つけたと言わんばかりに、口の端を釣り上げた。
細められた赤紫は確かにボクの目と同じ色だが、光も宿らない濁った色をしている。
不快な視線から目をそらす。
「一緒にしないでくれ」
「そう。君の態度はよく分かった」
くすくすと笑って手のひらを上に向けると、弾き飛ばしたはずの宝石が虚空から落ちてきた。
それを当たり前のように受け止めたエリアスは、感情を消し去った目でこちらを威圧する。
「じゃ、手伝わないんなら――邪魔しないで」
底知れない冷たさを宿した声と共に背を向ける。同時に、部屋に張り巡らされた魔方陣に光が走った。
ある物は障壁に、ある物は刃になり。ボク達めがけて牙を向く。
それらを無効化しながら、先程と同じ攻撃魔法を叩き込んでみる。あっさりと弾かれて霧散した。
「同じ物が二度通用すると思うのは、慢心じゃない?」
「ふむ。それもそうだな」
共感覚対策の術を緩める。淡く煌めく視界の中、魔力が射出される直前に走る導線を見極め、ピンポイントで無効化しながら2人の元へ向かう。
「アレク。傷は?」
「どれも浅い。処置も済んだが……身体に力が入らない」
「それは影が原因だ。一度影を消すといい」
「分かった」
「それから――エリアスの集中を乱せるか?」
「それなら俺が」
「うん。ボクがあの障壁を解除するから、それに合わせてくれ」
分かりました。と頷いた彼らに背を向ける。
エリアスが宝石を高く掲げてリリア君に翳す。
「眠れる依代。沈みし星は廻り。混沌の宮に祝福が還る――」
朗々と吟じる歌のようでありながら、砂を踏みしめて歩くような声。
単語を確実に刻んでいく、古く冗長な構文。仕草も細かく堅苦しい。古代魔術の中でも古い――エリアスが生きた当時の呪文だ。
もう一度魔術の弾丸を放つと、あっさり霧散した。先程の物とは比べものにならないほど強固な結界が、彼の向き合う儀式にどれほどの集中力を伴うのかを語る。
しかし。今の反響で強度はある程度把握した。
ならば、それ以上の技術と力を持って打ち砕くだけだ。
なにせボク達は、彼の作り出した魔術の先に立っている。問題ない。
「我が手より滴る雫は星を拾い、還るべき器を彁く結ぶ――」
「理を浸し、力を満たす。導に遮る物はなし」
エリアスの呪文は、手にした宝石の反応と確実に連動させる必要があるらしく、呪文の間に僅かな空白が生じる。
その間に、必要な構文を組み立て、唱える。できるだけ短く強い言葉を選び、障壁に繋がる魔方陣に触れる。反発する力を一度受け入れ、中和し、ボクの物にして流し返す。
「固き理は虚空に解け、厚き護りは塵と化す」
指先で床を叩く。
障壁を構成する魔力を、一気にボクの物に塗り替える。
馴染むまでの間に、もう一撃仕込む。
宝石が指を離れてふわりと浮かびあがる。宝石は液体のように溶け、1枚の薄い板を構成する。
「全てを砕き、虚無に帰せ!」
部屋中の魔力が一瞬密度を増し――砕け散る。
ボクの隣を、アレクが駆け抜けていく。
エリアスは背を向けたまま、浮かぶ宝石の板を見上げる。
「星が祝福する秩序は、……っ」
途端に、エリアスの声が詰まった。セドリック君の妨害だろう。
は、と苦しげな吐息。しかし、彼は立ち続ける。呪文を唱える声は止まらない。
「梣の、槞に満ち満ちて――」
宝石に向けて掲げた手は、ボクの放った一撃に撃ち抜かれた。
手のひらに浮かんだ魔法陣が一緒に吹き消される。
エリアスは崩れ落ちるように膝をついたが。俯いたままの彼は、嗤っていた。
それは、勝ち誇った笑み。全てを理解していない者への、憐憫と嘲り。それから、己がやるべき事は達成されたという確信。
詠唱は不完全だったが、必要な部分は終わっているのだと物語る。
薄い板に淡い光で刻まれた魔方陣が輝き。天井の丸窓と、目の前の扉に刻まれていた魔法陣が呼応する。
月明かりのような、静かで深みのある魔力が部屋中を満たす。
薄い宝石の板が艶やかに光る。飴のような柔らかさで、中央からとろりと溶ける。多数の色を溶かし込んだ雫は混ざり合い、黒い虹のような光沢を放ち、滴る。
魔術の儀式としては、これ以上無いほど美しい光景だが。そこに満ちているのは、古の魔術師の緩慢によって積み重ねられようとしている怨嗟だ。
その証拠のように、耳の奥に細い金属を差し込んだような。自分の中にある何かが軋むような音が響く。
セドリック君が、表情を歪めて額を抑える。
アレクもまた、その影響を受けている。
しかし、それを振り切るように、リリア君へ手を伸ばす。触れようとして弾かれ、よろめく。抜いた短剣を上空の板めがけて投擲するも、雫に触れた瞬間溶かされた。
「ちっ――エリアス! これを止めろ!」
エリアスへ掴みかかる。
しかし彼は、昏い目を細めて笑うだけだ。
「嫌ですよ。星は今再び器を満たす。世界の安定は、ここに成就するの」
「犠牲の上に成り立つ安定など――」
「そんなもの、たくさんあるでしょう? ああ。リリア様はあなたの婚約者でしたね。ならば」
ほら、と彼の指がアレクを示すと、がくりと崩れ落ちた。立ち上がろうにも力が入らない。
エリアスは掴まれた襟元を整え、アレクの前に立つ。細い指に似合わぬ力でアレクを祭壇に向き合わせ、その顎を上へ向かせる。
とろけた雫は纏う呪文を煌めかせ、糸を引きながら落ちていく。
ぽたり、と彼女の頬に落ち、薄い硝子のように張り付く。
「やめろ……」
「見届けてくださいよ。世界の安定という、名誉な役割を任される彼女を」
「――そんな、こと」
抗うにも力が入らないアレクが、苦悶の声をあげる。
守ると決めた少女が目の前で犠牲になろうとしている姿を見せつけられながら、彼女の名を叫ぶ。
セドリックの呪文はあっけなく弾かれ、ボクの解析も間に合わない。
絶望に満ちるアレクの声と、それを笑うエリアスの目の前で。
リリア君めがけて落ちてきた一際大きな雫は。
彼女に落ちることなく、何かに受け止められた。




