2.悪役令嬢は考える
部屋を出ると、空には夜が迫っていた。
冬だから夜は足早にやってくるけど、時間的にはまだ放課後。行き交う生徒も多い。
見上げると、気の早い星がひとつ、夕暮れと夜の間で煌めいている。
その星に、思わず自分が重ねる。私もまた、不安と混乱に飲まれつつあった。
ゲームではNPCのリリアーヌ。もし彼女に選択肢があったとしても、バッドエンド必須の断罪イベント。
なぜかそれを生き抜いた。五体満足で解放されたばかりか、犯人捜しをすることになった。
「なんで……?」
わからない。
なんならアレク様の態度も分からない。
お茶を淹れたのは私だと知ってる。あの小瓶が私の物だと知ってる。瓶には私の魔力も残っている。
状況証拠は揃っているはずなのに、私は誰かに嵌められたと信じている。
いや、それは嬉しい。だって事実だ。
事実なんだけど……。
「どうしてこうなったのでしょう……」
もうさっきからこの言葉しか出ない。頭の中はぐるぐるするし、足元がおぼつかない気がする。
困惑と影を引きずって廊下を歩いていると、ぱたぱたと足音が近付いてきた。
「リリア様!」
聞き覚えのある、鈴を転がすような明るい声。足を止めて振り返ると、予想通りの人物がそこにいた。
「――ごきげんよう。アリアさん」
明るい茶色の髪をポニーテールにして元気に揺らしながら駆け寄ってきたのは、アリア=シャーリー。 このゲームの正ヒロイン。
彼女は私の数歩手前で軽くつまずきかけたが、「おっとと」とすぐに体勢を立て直し、にこっと人懐っこい笑顔を向けた。
私もそれに応えて微笑みを返す。
「大丈夫ですか?」
「はい! 心配ありがとうございます、リリア様」
少し垂れた大きな瞳をきらきらさせて、彼女は私の隣に並んだ。
微妙な距離の近さで、彼女は首を傾げる。
「リリア様は、どちらかへお出かけですか?」
「私は今から部屋に帰るところです。アリアさんは?」
「私は図書館に行こうと思って。課題で調べたいことがあったんです」
「そうですか。熱心ですね」
当たり障りのない会話を交わしていると、アリアさんは私の顔をじっと覗き込んできた。
赤みがかった焦げ茶の瞳が、私を映す。
「あの、リリア様……もしかして、どこか具合が悪いですか?」
「え?」
「なんというか、少し顔色が悪いなと」
思わず息が詰まった。動揺が顔に出ていたのかもしれない。
できるだけ平静を装って笑う。
「いえ、そんなことは……。少し考え事をしていただけですよ」
「そうですか? でも、なんだか元気がないように見えます」
アリアは心配そうに眉を寄せる。
こういう素直な優しさが、彼女がヒロインたる所以。
私自身も、その優しさに救われたことは多い。
「あの、もし何か悩み事とかあったら、私で良ければ相談に……って、私なんかじゃ、リリア様のお悩みを解決できることは少ないかもしれませんけど……!」
力になりたいけれど、自分の力不足も分かっている。そんな謙虚な申し出もまた、彼女らしくて微笑ましい。
「ありがとう、アリアさん。お気持ちだけで嬉しいですわ。本当に、大したことではないのです」
「そうですか。なら良いんですけど……。でも、リリア様、危ない目に遭われることも多いですし」
できることならずっとついてお守りできれば良いんですけど、と彼女はちょっぴり肩を落とす。
「その役目は私じゃ務まらないんですよねえ」
「ふふ。そこまで心配してくださるなんて。アリアさんだってお忙しいでしょう?」
アリアさんは時々、校内外で起きる不思議な出来事を片付けて回っている。
いわゆる好感度アップイベントとして描かれるものだと思う。私も現場に居合わせたら、一緒に対処したりもする。
そうでなくてもこうして足繁く図書室に通ったりして、割とぱたぱた動き回っている印象だ。
けど、彼女は「そんなことないですよ!」と首を横に振る。
「だって、この学園に入って一番優しくしてくださる方ですもの! 私で力になれることがあれば、いつだって呼んでください」
「ええ。ありがとう」
アリアさんはまだ少し心配そうな顔をしていたけど、私が重ねて大丈夫だと伝えると、ようやく納得してくれたようだった。
「それじゃあ、私はこれで。今日は早く休んでくださいね。また明日、お会いしましょう!」
ぱっと花が咲くような笑顔を残して、彼女は図書館の方へと駆けていった。
その元気な後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐く。
今はまだ、彼女もゲームでよく知る姿に見えた。彼女の言葉は優しく明るく、胸を温かくしてくれる。
でも。アレク様の変化が頭をよぎる。
あの尋問で聞いた言葉の数々。思い出すだけで眉が寄る。
彼女は……大丈夫よだね? うん、きっと考えすぎ。
そう自分に言い聞かせてみても、胸の奥にもやもやとした小さな不安が残る。
今はまだ、何も分からない。
寮に向かって再び歩き出したけど、絡まった思考はぐるぐると渦巻くばかりだった。
□ ■ □
「ただいまぁ……」
重厚な扉を閉めると、張り詰めていた糸が少し緩んだ。
けど、困惑はまだ抜けない。ついた溜息も、安堵というより困惑を一旦追い出す意味の方が大きい。
デスクに据え付けられた椅子に腰掛け、ぼんやりと天井を見つめて呼吸を整える。
「うぅ、今日はなんか情報が多かった……」
思わずぼやく。
特に、アレク様にあんなこと言われるなんて。
思い出すだけで恥ずかしくなる。昔の、屈託ない笑顔を向けてくれていた頃の姿に重なって、疑うことに躊躇いが生まれる。
もうひとつ大きく息を吐いて、机の引き出しから鍵付きの手帳を取り出した。
手に馴染む革表紙をそっと撫で、鍵を開ける。
この手帳は、プレイヤーだった「私」の記憶と、この世界の出来事を照らし合わせ、破滅フラグが立ってないか、生存に必要な条件を満たせているかを日々確認するための、欠かせない記録だ。
パラパラとページをめくる。几帳面な文字で綴られた記録は、私がこの学園に入学した日から始まっている。
あの日、アリアさんを見た瞬間に流れ込んで来た記憶は信じがたい物だった。
この記憶の主――「私」は、身体の弱い少女で、この世界の事をよく知っていた。
ここは、乙女ゲーム『Eternal Sunshine Melody』、通称『エタメロ』の世界で。
私――リリアーヌ・シルヴェストリは、悪役令嬢だった。
『エタメロ』は、魔法学園を舞台にした恋愛シミュレーションゲーム。
主人公のアリアが恋を育みながら、学園で起こる「不思議な出来事」を歌で解決していく物語。
リリアーヌは、主に王太子アレクの婚約者として、アリアの恋路に立ちはだかる。結果、アリアを狙った暗殺でアレクを巻き込み、断罪されて死ぬ。
そうでなくても、自滅したり破滅したり断罪されたり。基本的には死ぬ運命にある。なんなら、このゲームで一番死亡描写が多い。「リリア考察勢」と呼ばれる人達は、そこに着目して日々考察を綴っていた。「私」はそれを追っかけるのが好きだったらしい。
手帳には、ゲーム内で起きるイベントと、実際に起こった出来事が比較して記されている。
全部を覚えてるわけじゃないけど、アリアさんへの嫌がらせはしてない。数々の死亡フラグも、細心の注意を払って潰してきたつもりだ。危ないシーンもあったし、想定外もあった。けど、私はなんとか生きている。
けど、今日の出来事はこれまでの比じゃない。
ペンを取って、書き記す。
王太子アレクセイ毒殺未遂事件。容疑者になる。
公開尋問にて断罪、婚約破棄。
アリアの証言(選択肢)次第で投獄または処刑。刑の違いはあるが、基本的に破滅。
その隣に、今日あった事を並べる。
かりかりと響く音が心地良い。文字を綴るにつれ、少し落ち着いてきた気がした。
アレク様による個室での事情聴取。
容疑は完全に否定され、逆に協力を持ちかけられる。
「リリアがそんなことするはずがない」「君を守る」等の発言多数。
「……わぁ」
自分の書いた文字なのに、まるで他人事のように現実味がない。
アレク様……ゲームの彼はもっと冷徹で、証拠が揃っていれば私を容赦なく切り捨てるような人だったと思う。学園内で遠目に見るアレク様も、そのように見えていた。
なのに、今日の彼はまるで別人に見えた。
あの過剰なまでの信頼。なんなら「僕のリリア」とか言ってた気もする。婚約者という立ち位置を加味しても、あの態度の変化は一体……?
書いた文字を眺めても何も分からない。ただ、彼の変化はシナリオから大きく逸脱している気がする。攻略してても、そんな甘くなる人ではなかった。人によっては「解釈違い」だと頭を抱えるに違いない。現に私は困っている。同じくらい嬉しくもあるんだけど、困惑の方がちょっと大きい。
さらにページをめくり、既存の情報も確認する。
エタメロの攻略対象は7人。
先輩のアレク様。カイン様。側近のセドリック様。
同級生のレオン様にクラウス様。下級生のフィン君。
それからノア先生。
リリアは。「私」が目を覚ます前のリリアは、婚約者であるアレク様の事が好きだった。きっかけは政治的でも、ちゃんと彼のことを慕い、想っていた。
その様子が変わってきたのは、アレク様が学園に入る少し前からだったと思う。王太子としての自覚か、学業が忙しくなったからか。あるいは私への愛想が尽きたか。理由は色々あるだろうけど、僅かに距離が開き始め、彼の目が冷たくなっていった。
そして私は、入学をきっかけにそのまま距離を取った。
罪悪感はあるけど、婚約相手としての距離は保っているし、今でも嫌いじゃない。けど、断罪される未来を知ってしまったから、必要以上に近くにいるのが怖かった。
他の人達とも、全体的に親密でもなく敵対もしていない。程よい関係。
うん。波風立てない関係を築こうと頑張った結果が出ている。
そして、本日最大のなんか違う案件・断罪イベント。王太子アレク殿下の毒殺未遂事件の事情聴取。
扱いの大小はあれ、どのルートでも起きる事件だから警戒はしていたけど、ゲーム内では情報がほとんどない。結局、手を打てないままここまできてしまった。
こうなると、リリアがこのイベントを乗り越えるルートは基本的にない。
「でも、例外がある……」
手帳の最後のページ近くに記したメモを開く。
そこに記されているのは、エタメロの隠しルートに関する情報。
対象:リフィアス・ユーグィレイ(リフィ)
条件:リリアとの親密度を上げる
特徴:学園に現れる幽霊。何か特別な役割を担っていたらしい過去があるが、詳細不明。最終イベントで、アリアを守り消滅する。リリアの生存が唯一確認できるルート。
そう、リリアが唯一生きていると確認できるのが、この隠しルート。
リフィルートなら、事件が起きても断罪される前に解決する。真犯人は明かされないけど、リリアの疑いは晴れ、アレクとの後日談を聞くことができる。
私はこのルートを目指して過ごしてきた。ゲームでリリアと親密度を上げることが必要ならば、私がアリアさんと仲良くしても、同じような効果が出るかもしれない。
実際、アリアさんは誰のルートにも入っていないようだから、リフィルートの条件は満たせている可能性が高い。
けど、私はまだリフィに出会えてない。なのに事件は起きてしまった。
「……ん?」
なんかひっかかった。
「出会ってないのに、事件が起きて……でも、私は助かってる?」
なにかがおかしい。ページをめくり直す。
並んだイベントのメモと、今日の日付。
その時期が、大幅にずれている。
具体的には、季節一個分くらい違う。
「あれ……?」
いや、色々変わってるのはある意味では良い事だ。
私は生き残るために、ゲームとは異なる行動を起こしてきた。
イベントで違う結末になるように動いたこともある。その影響で、次のイベントの内容が微妙に変わったこともある。
それらが積み重なった結果、イベントの発生順序や細かな部分がめちゃくちゃになってるのかもしれない。
「となると。本格的な断罪イベントはこの後に待ってる、かも……?」
その可能性に思い当たった瞬間、背筋が一気に寒くなった。
この事件が発生する場合、流れは似通っている。
お茶会でアレク様が倒れ、状況証拠からリリアが犯人とされ、断罪される。
だから、このイベントがアレク様の暗殺未遂事件なのは確かだ。
あの個室でのやりとりは描写されてないだけで、どこかにあったのかもしれない。
リリアが毒を盛ったという自白をほのめかす台詞がないから、その前にアレクと話し合っていた、なんて考察もあった気がする。
となると、いつ状況がひっくり返されるかも分からない。
やっぱり回避できないのだろうか?
指から離れたページが、ぺらりと音を立てて落ちた。
震える身体を、ぎゅっと抱きしめる。
私はこの学園生活を気に入っている。
記憶の少女が、病弱で叶わなかった学生生活だというのもある。
アリアさんという友人ができたというのもある。
でも、それ以上に。「私」はリリアが生きていたらという未来を思い描いていた。それに応えたいし、そうでありたい。
無数にある無残な道を回避して、楽しく彩りたい。
好きな相手と結ばれて、笑顔で過ごしたい。
そのためなら、何でもすると決めて、ここまであがいてきた。
それを無駄にはしたくない。
彼らを信じて行動して、結局突き落とされるのかもしれないけど。
この事件が終わるまで、その警戒を捨ててはいけないのは分かってるけど
アレク様の深紅の瞳を。守ると言ったその声を。信じたい気持ちもある。
だからこそ。悲劇を回避するために。
「早くリフィに会わなきゃ……」
リフィは唯一、他の攻略対象との関わりが薄い。
暗殺未遂事件でも、アリアさんがリリアを助けたいと願ったから、事件解決の糸口を示してくれた。
ならば、私も誠意を示せば、味方になってくれるかもしれない。
リフィは古い遺跡や図書室の奥のような、静かな場所にいる。
月明かりがあると出会いやすい。
条件は分かってるし、今までも何度か足を運んで探したけど、出会うには至ってない。
「もっと、しっかり探さないと」
呟きは決意に変わっていた。 彼を見つけ出し、協力を仰ぐ。
それが、この状況から生き残るための、一番確かな道かもしれない。
いつのまにか濡れてた頬を拭い、ペンを取る。
手帳に新たな目標を書き記す。
私は死にたくない。生きていたい。そのために。
『次の行動:リフィに会う』
「……もうちょっと、がんばろう」
インクが乾くのを待ち、私は静かに手帳を閉じた。