暗示
今日も今日とて登城しているアルシェリーナだが、本日は前回の顔合わせとは別の目的が合った。
“王子妃教育”
本来ならルーカスの母である側妃マリアが行うのであろうが、脳内も尻も軽いと評判の側妃が他者に教育など施せるわけもなく、早々に王であるダートンの指示でラガン伯爵夫人がその教育に携わることとなった。
その初日が今日である。
アルシェリーナは何故王子妃教育が必要なのか全く持ってよくわからないと思っていた。
何故ならどう考えてもルーカスは後に臣籍降下されるはずで、何時かは王子ではなくなる。
それなのに⋯王子妃って。
この婚約がアルシェリーナにもドルチェ家にも不本意である為、いつまで経っても往生際が悪いアルシェリーナは、まだまだ諦めていなかった。
いつかルーカスのやらかしで彼有責の婚約破棄ないし婚約の白紙撤回に持ち込みたいと思っていた。
アルシェリーナの祖母であるエスカリーナがされた事と同じ事をルーカスにもするのだと密かに意気込んでいた。
王宮の侍女に案内された部屋はとても王宮とは思えない殺風景な部屋だった。
長机が一つ部屋の中央に設置され向かい合わせに椅子が二つ置かれていた。
壁は全て本棚で、所狭しとぎゅうぎゅうに本が並んでいた。
長机の端には何枚も重ねられている紙、インク瓶、ペン軸。
まさに教育の為の部屋であった。
立って待つように言って侍女は下がって行った。
アルシェリーナは部屋をぐるりと眺めて本の背表紙を眺めて待ち時間を潰した。
半刻程経った頃、二つのノックの音と共にガチャリと扉が開いた。
入室の許可などは出していないが、そもそもここはアルシェリーナの部屋ではなかったと思い直した。
「ご機嫌よう」
そう言って入ってきた女性は焦げ茶の髪をきっちり纏めてアップにしており、ボトルネックの濃紺のドレスは、淑女というより修道女の印象を受けた。
「ご機嫌よう」
アルシェリーナは初めて会う教師の名前は聞いていた。
ルーカスとのすっぽかされた初顔合わせの帰りにアプローチですれ違ったラガン伯爵子息の母親だと。
同じクラスで共に学んでいるトゥール様のお母上様。
だけど前回すれ違った時にアルシェリーナはトゥールの印象が180度変化してしまった。
“あの”無礼な侍女によりトゥールも碌でもない子息だと感じたからだ。
王宮に出入りしていただけで、こんな誤解をされているなど当の本人のトゥールは思いも寄らないことだろう。
挨拶とともにカーテシーで挨拶をしたアルシェリーナが頭を上げようとした時、教育が始まった。
ラガン夫人がアルシェリーナの肩を自身の扇で押さえて言い放った。
「深くなりすぎております、そのまま腰に力を加えて伸びてくださいませ」
言われた通りに何とか体を起こしていた途中で、肩に当てられた扇がポンと弾んだ。
「ここです、カーテシーで下げるのはここまでです、それ以上は態とらしい」
ラガン夫人から指摘された位置で挨拶を維持するのは相当に脹脛がピリリと痛む。
厳しい王子妃教育をアルシェリーナが実感した瞬間であった。
初日の王子妃教育がカーテシーの補正のみだったアルシェリーナのその後の予定は、お約束の婚約者とのお茶会である。
たっぷり二時間カーテシーに費やし下半身が端なくもヨロヨロと老婆の様に⋯可愛く言えば生まれたての子鹿のような、力の入らない不格好さで何とか側妃の住む宮へと足を運んで、やっとの思いで案内された椅子に腰掛けたアルシェリーナ。
出された紅茶は王宮で扱われていいのか?と思われるほど信じられない様な粗悪な味だった。
一口くちに含んで眉を顰めたアルシェリーナを目の前で控えていた侍女が、してやったりと顔に出してほくそ笑んでいた。
やっぱり侍女の質が良くないわね
アルシェリーナの感想は前回と同じであった。
きっとずっとここに来る度に変わらないんだろうなと諦めて、含んだお茶を喉に流し込んだ。
苦い苦いお茶は、これから先のアルシェリーナの行く末を暗示している様だった。