第8話 目立ちたくないのに、あなたが心配で
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今回もフィオナとレオン先輩が中心のお話です。
二人にひとときのロマンスはあるのでしょうか?
早朝の柔らかな光が差し込む王立騎士学校の女子寮。
フィオナがルームメイトのリリィと朝の準備をしていた。
窓から入る陽光が部屋を優しく照らし、質素ながらも女の子らしい雰囲気が漂っている。壁には二人の時間割表が貼られ、机の上には整然と並べられた教科書。リリィ側のベッド周りには小さな植物や可愛らしい小物が飾られているのに対し、フィオナ側はシンプルで必要最低限の物だけが置かれていた。
リリィは鏡の前で赤い髪を整えながら、突然振り返って目を輝かせた。
「ねえ、レオン先輩と森に行ったって本当? 学校中の噂よ!」
リリィが朝から明るさ全開で興味津々な様子で「聖域の森での特訓」についてフィオナに尋ねる。彼女の瞳は好奇心で輝き、言葉の端々に含みを持たせるような口調だった。
「ただの魔力訓練だよ……大したことじゃ……」
フィオナは櫛で銀髪をとかしながら、何事もないかのように懸命にごまかした。
しかし、彼女の指先は少し震えており、内心の動揺を隠しきれていなかった。
「あの人、誰とも個人的には関わらないって有名なのに?」
リリィは意地悪く笑みを浮かべ、フィオナの反応を楽しむように彼女の顔を覗き込んだ。
「それに、あの完璧超人のレオン先輩が、一般科のEランク魔力の子に特訓を頼むなんて、絶対何かあるとしか思えないわ」
(噂になってる……これはまずいわ……)
フィオナは全力で冷静を装いつつ、額に冷や汗を感じていた。目立たないようにと努力しているのに、むしろ目立ってしまっている事実に焦りを覚える。
「本当に何もないわよ。レオン先輩はただ私の基本動作が気に入ったって言ってただけ」
「基本動作ね~」
リリィはニヤリと微笑んだ。
「まあいいわ。でも何かあったら、ちゃんと教えてよね。親友として知る権利があるわ」
リリィの言葉に、フィオナは複雑な気持ちになった。リリィは本当に自分の親友だと思ってくれているのだろうか。もし自分の正体を知ったら、どう思うだろうか。前世の記憶が蘇る以前は、フィオナも普通の友情を夢見ていたが、今はその可能性さえ恐ろしく感じることがある。
「ごめんね、リリィ……本当に何もないの」
フィオナの声には僅かな悲しみが混じっていたが、リリィがそれに気づくことはなかった。
◇
その日の午前中、王立騎士学校の一般科の教室では、マルレイン教官の「聖女史」の講義が行われていた。天井が高く、窓から差し込む光が教室内を明るく照らしている。
「大聖女セリアは、自らの命と引き換えに魔王を封印したとされます」
マルレイン教官は熱のこもった声で語った。金色の長い髪を後ろで束ね、知的な眼鏡をかけた彼女は、この科目を教える時だけは特別な輝きを放つようだった。
「彼女の最後の言葉は『光よ、我が命とともに闇を封じよ』だったとされています。そして封印の光が消えた後、彼女の姿は消え、代わりに無数の光の粒子が星空へと昇っていったという記録が残っています」
フィオナはマルレインが語る大聖女セリアの活躍する場面に既視感を覚えつつも、当事者として実体験をした身としての違和感も感じていた。歴史の記録と実際の記憶の間には微妙な相違があり、それが彼女を不思議な気分にさせる。
(私の最後の言葉は、確か「次は穏やかに生きたい」だったはず……)
歴史の中で美化され、英雄視される「聖女」の姿に、フィオナは複雑な感情を抱いていた。
「聖女の力は、最も純粋な光の魔法。闇を祓う唯一の——」
そのとき、ふとフィオナの目に窓の外で揺れる木々の枝に一瞬黒い霧がかかる気配がした。それは一瞬の出来事だったが、前世の記憶を持つ彼女の本能が警鐘を鳴らした。
フィオナは思わず席から少し身を乗り出し、窓の外を見て顔色が変わる。
「どうしたの? 何か見えたのかい?」
隣の席のマークが心配そうに尋ねた。彼の素朴な表情には純粋な心配の色が浮かんでいた。
「ええ、何でもないわ」
フィオナはそう答えるが、内心では不穏な雰囲気に気づいて警戒心を高めていた。あの黒い霧――瘴気の気配は、彼女の記憶の中で最も恐ろしいものの一つだった。
(聖域の森で見たものと同じ……でも、なぜ学校の敷地内に?)
講義は続いていたが、フィオナの意識は半分だけそこにあった。残りの半分は、窓の外の異変と、それがもたらす危険について考えていた。
◇
放課後、フィオナは王立騎士学校の長い廊下を歩いていた。窓から差し込む夕方の光が床に長い影を落とし、静けさが支配する時間帯だった。
そこでフィオナはレオンと偶然出会った。彼は窓際に立ち、外の風景を眺めていたが、フィオナの足音に気づいて振り返った。
「リース」
レオンの声は穏やかだったが、その目は鋭く、何かを探るように彼女を見つめていた。彼はさりげなく周囲を確認すると、フィオナに近づいた。
「昨日の黒い霧、気になることがあるんだ」
人目を気にしながらも自然な会話を装い、レオンが小声で言った。彼の眉間には僅かな皺が寄っており、その表情は普段の冷静さとは異なる緊張感を帯びていた。
「……あれは何だったんですか?」
フィオナは「知っている」という感情を抑えつつ、知らないふりをした。しかし、彼女の声には微かな動揺が混じっていた。
「調査中だ。あの霧は通常の魔力反応とは異なる特性を持っている。リース、君も気をつけてくれ」
レオンが緊張感に満ちた声で忠告した。彼の言葉には純粋な心配が込められているようだった。
「はい……ありがとうございます」
フィオナは小さく頷いた。二人の間には、森での出来事以来、言葉にならない理解と信頼が芽生えつつあった。
(瘴気……もし本当にそうなら、大変なことになる。でも、なぜ今になって?)
二人の間に生まれた「秘密の共有」という特別な雰囲気を心地よく思いながらも、フィオナは心の中で不安を拭うことができなかった。瘴気の出現は、彼女の平穏な「モブ生活」が脅かされる危険なサインだった。
「他に何か気づいたことはある?」
レオンが尋ねた。
「いえ、特には……」
フィオナは言いかけて止まった。
「でも、今日の授業中、窓の外の木々に一瞬だけ黒い霧のようなものが見えた気がします」
レオンの表情が引き締まる。
「場所は?」
「東棟の教室からです。森の方角に」
「わかった、調査してみる」
レオンは真剣な表情で答えた。
「気をつけて。何か異変があったら、すぐに知らせてくれ」
フィオナはレオンの真剣な表情に、少し安心感を覚えた。以前なら完全に一人で抱え込まなければならなかった問題を、共有できる相手がいるという事実が、不思議と心を軽くさせた。
◇
夕暮れ時、校舎は次第に赤い光に染まっていた。夕日に赤く染まる校舎が長い影を引き伸ばし、中庭には静けさが漂っていた。
中庭を横切るフィオナはふと異変に気がついた。中央の花壇の花が不自然に枯れていたのだ。昨日まで鮮やかに咲いていた花々が、まるで数週間も水をやられなかったかのように萎れ、枯れていた。
(何か良くないことが起こっている)
フィオナの直感が警鐘を鳴らした。彼女は足を止め、花壇に近づいた。花に触れると、その花弁はまるで灰のように崩れ落ちた。
フィオナが目をこらして花壇の方を見ると、黒い霧が地面から湧き上がるような異様な光景が見えた。それは淡いながらも、確かに瘴気の特徴を備えていた――生命の力を奪い、腐敗させる禍々しい力。
(空気が濁っていく……これは確かに瘴気だわ)
中庭の他の場所でも異変が起きていた。
「きゃあ!」
「あ、危ない!」
フィオナの耳に悲鳴が聞こえた。振り返ると、通路を歩いていた女子生徒が突然転倒していた。その近くでは別の生徒が持っていた本を落とし、また別の場所では噴水の水が一瞬濁ったように見えた。
学内のあちこちで不審な出来事――生徒の転倒、物の落下事故、不自然な腐敗――が起きていた。どれも単独では偶然に見えるが、これだけ同時に起これば明らかに異常だった。
花壇付近から湧き上がってきた黒い霧はまるで意思があるように蛇行しながらも、一定の方向へ流れていくといった不穏な動きをした。それは地面を這うように進み、草木に触れるとその生命力を奪っているように見えた。
フィオナがその流れの先に視線を向けると、遠くで何かを調査しているレオンの姿が目に入った。彼は学校の裏手、森との境界付近で何かを調べているようだった。
(レオン先輩、危険だわ!)
彼女はレオンが危険にさらされていることを悟った。
しかし、走って警告すれば、かえって二人とも危険な目に遭うかもしれない。どうすべきか迷う間にも、黒い霧は着実にレオンに近づいていた。
◇
レオンは学校裏手の森との境界辺りで何かを調べていた。彼の前には小さな装置が置かれ、それが微かに光を放っている。おそらく魔力の変化を測定する道具なのだろう。
彼は装置の読み取り値に集中するあまり、静かに近づいてくる黒い霧に気づいていなかった。霧は地面を這うように進み、レオンの足元まで迫っていた。
レオンに迫り来る黒い霧は徐々に凝縮していくと、突如として形を変え始めた。それは次第に輪郭を持ち、爪や牙を持つ小型の魔物の群れを形成していった。猫ほどの大きさだが、その赤い目は凶暴さを湛え、黒い体からは瘴気が滲み出ていた。
レオンがようやく気配を感じて振り返った瞬間、魔物たちは一斉に彼に襲いかかった。
「なっ——」
レオンは冷静に反応し、素早く剣を抜いた。彼は魔物の攻撃を剣で受け流し、隙を見て反撃を試みる。剣に魔力を込め、青白い光を纏わせて一匹の魔物に斬りかかった。
しかし、レオンの魔法を纏った剣技は無情にも効果がなかった。剣が魔物の体を通り抜けるように切り裂いたが、傷は煙のように元に戻り、魔物は傷ひとつ負わずに再び彼に襲いかかった。
「攻撃が全く効かない……」
レオンの表情が一瞬曇る。彼は立て続けに攻撃を繰り出すが、どの攻撃も魔物にダメージを与えないようだった。
そこにフィオナが走り寄ってくる姿が見えた。
「下がれ! 危険だ!」
駆け寄ってこようとするフィオナにレオンが警告した。彼の声には焦りの色が混じっていた。
(普通の魔法じゃ効かない……あれは瘴気の塊……光の力でないと浄化できない)
フィオナは中庭から走ってきて、しばらく離れた場所で立ち止まった。彼女の心の中で「レオンを助けたい」という衝動と「正体を隠したい」という葛藤が激しく戦っていた。
魔物たちの鋭い爪がレオンを狙って襲いかかる。彼は辛うじて剣で受け流すが、反撃が全く効かず、みるみるうちに傷が増えていくのが見て取れた。制服の袖は裂け、頬には小さな傷が付き、息も次第に荒くなっていた。
フィオナの心に「このままでは……」という恐怖が満ちてきた。
そのとき、フィオナの脳裏に魔物が放つ黒い波動がレオンを貫く光景が閃いた――まるで未来予知のように、これから起こる悲劇が見えた気がした。
聖女としての警鐘と、一人の人間としての選択。フィオナは決断した。
フィオナは近くの木陰に身を隠すと静かに目を閉じ、大きく深呼吸をした。彼女の心の中で、前世の記憶と現世の決意が一つになる。
(自分の平穏より、大切な人の命)
そう自分に言い聞かせ、フィオナは大きく頷くと、レオンを取り囲む魔物の群れを見て小さく囁いた。
「光よ、聖女フィオナの名をもって命じる。闇を祓え」
フィオナの全身が神々しく輝き始めた。それは太陽のような明るい光ではなく、月光のような優しい輝きだった。彼女の手から溢れ出した光が形を成し、光の弾となって魔物群れを貫いていった。
光の弾に貫かれた魔物たちは形を維持することができず、黒い霧の状態に戻る。そして光の弾とともに放たれた光の波が瘴気を浄化していき、黒い霧は次第に薄れ、消えていった。
浄化の波は花壇まで広がり、萎れていた花々にも再び命が吹き込まれるように、わずかながら色が戻り始めた。
すべての魔物が消え去ったとき、フィオナは力を使い果たしたように膝をつき、自分に向けられたレオンの視線に気づいた。彼は驚きと確信の入り混じった表情でフィオナを見つめていた。
「……やはり」
レオンは何かを確信したような表情をしていた。それは非難や驚きというよりも、ようやく真実を理解したという安堵の色が強かった。
「見ましたね……」
フィオナは諦めの表情で、そう答えるのがやっとだった。彼女の顔は疲労で蒼白く、銀髪はわずかに乱れていた。
しかし、その青い瞳には決意の色も宿っていた。
◇
夜が訪れ、星が輝き始めた頃。
学校裏手にある小さな東屋は、月明かりに照らされて静かな雰囲気を漂わせていた。周囲には誰もおらず、二人だけの空間が広がっている。
互いに向き合い真剣な表情のフィオナとレオン。彼らの間には言い尽くせない多くの思いが渦巻いていた。
「あの魔法は、光属性の上級魔法だった」
レオンが穏やかに、しかし確信を込めて呟いた。その声には非難や詰問の色はなく、単に事実を述べるトーンだった。
「……私を捕まえるの?」
フィオナは震える声で尋ねた。彼女の顔には恐怖と覚悟が混じり合っていた。聖女としての力を世に知られれば、再び利用され、縛られることになる――そんな前世の記憶が彼女を恐怖に陥れていた。
「いや、捕まえはしない。ただ、本当のことを少しだけでも話して欲しい」
レオンの威圧的ではない態度にフィオナは少し安堵した。彼は腕を組み、まっすぐフィオナを見つめていたが、その目には敵意ではなく、純粋な関心と心配の色があった。
「……あの黒い霧は〝瘴気〟――300年前、魔王が使った力です」
フィオナは静かに答えた。それは彼女が初めて誰かに明かした、前世の記憶に基づく真実だった。
「リース、君はそれを知っていた……どうして?」
レオンは極力冷静さを保つかのように尋ねた。彼の目にはただ純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「それは……まだ言えません」
フィオナが伏し目がちに答えた。彼女はまだ「聖女セリアの転生」という最大の秘密を明かす準備ができていなかった。
レオンはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吸い、フィオナに向き直った。
「わかった。無理には聞かない。だが、こうした事態は増えるかもしれない。その時は――」
「その時は……考えます」
レオンが尋ね終わる前に、フィオナは微かな決意を表情に浮かべて答えた。それは完全な約束ではなかったが、かといって完全な拒絶でもなかった。一歩ずつ、彼女なりに前に進もうとしている証だった。
二人の間には沈黙が流れたが、それは不快なものではなく、互いの存在を認め合うような穏やかな沈黙だった。
「今日は、ありがとう」
レオンが静かに言った。
「君がいなければ、危なかった」
「あなたが傷つくのを、見過ごせなかっただけです」
フィオナはそっと微笑んだ。その笑顔には久しぶりの自然さがあった。
フィオナは二人の間に生まれた「信頼の可能性」に望みを託すのだった。完全には心を開いていないながらも、彼女は初めて「一人ではない」という感覚を実感していた。
それは前世でも、そして現世の今までも知ることのなかった、新しい感覚だった。
お付き合いありがとうございました。
さずがに学園ラブラブ・ルートへの突入は厳しかったですね。
でもフィオナとレオン先輩の関係は「二人だけの秘密♪」によって親密になっている気が……。
次回もお楽しみに!