『お前の父親は殺されたんだ』
「お前の父親は殺されたんだ」
私は雷に打たれたように体が固まり、冷や汗が背筋を伝った。
「真実が欲しければ、黒崎グループに潜れ」
私は画面をじっと見つめ、スマートフォンを握り締める指が震える。何度も文字を追いかけるが、意味が頭に入ってこない。無機質な文字列があまりにも直接的で、冷徹な確信が込められている。偶然のいたずらには思えなかった。
差出人不明。署名もない。ただ謎めいた警告文だけだった。
「……綾音? どうしたの?」
同僚の高山理香の心配そうな声が、私の思考を覆う霧を切り裂き、現実に引き戻してくれた。
「何でもないわ」
と私は言い、作り笑いで誤魔化しつつ、スマホを鞄に押し込む。だがメッセージの余韻が脳裏にこびりつき、思考を麻痺させる。
深く息を吸い込み、胃のあたりに絡みつく不快感を押し殺そうとする。
まずは、目の前の仕事を片付けなければ。
黒崎グループ本社タワーは、私が想像していた通りの空間だった。磨き抜かれたガラス張りの会議室が並び、40階からの眺めは渋谷スクランブル交差点を小さな蟻塚のように見下ろしている。
私は目の前の散らかった書類の山に目を落とす。
開いたノートパソコンの画面では、未作成のプレゼン資料が空白のままだ。インターンとして潜入して三週目——私は今も「便利な雑用係」という立場から抜け出せずにいた。
私は今、黒崎グループの中心に立っている。
父が——殺された。
その言葉が頭の中で何度も、何度も繰り返される。
誰かが父の失踪について何かを知っている——そして、それを私に探らせようとしている。
なぜ今? 誰がこんなものを送ってきた? そして——どうしてその人が父のことを知っている?
父を最後に見たのは、もう何年も前の遠い記憶だ。
私の父、橘 隆一博士。
私がまだ12歳だった時、父は突然と姿を消した。痕跡すら残さずに。別れの言葉も警告もなく、すべてを飲み込むような虚無だけが広がった。
答えは得られなかった。ただ警察からの空虚な約束と、解決には至らない囁かれる憶測だけが残った。
周囲の誰もが——母でさえも——父を探すことを諦めたのだ。
だが、私は違う。
「綾音、あの人たちには絶対関わらないで」
母の声が頭の中にこだまする。その言葉には、いつも震えが混じっていた。彼女がこの場所を警戒する理由を、私はずっと理解できなかった。
「黒崎グループの人間は絶対信用してはダメ。特に、頂点にいる者たちは」
——それでも、私はここに来た。
黒崎グループ。
父が最後に痕跡を残した、この場所へ。
せめて父の失踪の真相に近づくことさえできれば——。
「また白石がやらかしてるよ」
キーボードを叩く音を響かせながら、理香ちゃんがクスクスと笑った。
「え? どういうこと?」
私は首をかしげた。理香ちゃんは、ここで数少ない、気軽に話してくれる相手だ。
「また白石が黒崎社長に取り入ろうとしてるんだって」
彼女は皮肉っぽく笑い、肩を軽くすくめてみせた。
「この前なんて、エレベーターで待ち伏せしてたんだって。想像できる? あの人、本当に白石のしつこさにうんざりしてるのにさ」
その名前を聞いた瞬間、胃の奥がぎゅっと掴まれるような痛みに襲われた。
黒崎 徹也——黒崎グループの社長。
彼の名前は、誰もがひそひそと口にするものだった。彼の存在だけで、部屋全体が静まり返るほどの男。
彼の評判は聞いていた——冷徹な経営者、氷のような眼差しで人を圧倒し、黒崎グループを鉄の拳で率いる容赦なきリーダー。
「それで、うまくいきそう?」
私がそう聞くと、理香ちゃんはくすっと笑った。
「まぁ、色々やってるみたいだけど……社長には効かないね。あの人、そういうのに興味ないし。仕事一筋って感じ? なんていうか……別格よね」
「橘さん!」
突然の鋭い声に、私は思わず肩をびくりと震わせた。
顔を上げると、白石京子部長がデスクの向こう側に立っていた。鋭い視線がまっすぐこちらに向けられている。
三十代半ばの彼女は、レイヤーカットのボブが完璧に整えられて、かすかに高級な香水の香りが漂っている。
「はい、部長!」
私は息を整え、努めて落ち着いた声で答えた。
彼女は舌打ちをすると、細めた目で私を値踏みするようにじっと見つめた。
「まだここにいるの? 上のフロアが資料を待っているわ。本来ならもうデスクに届いているはずよ。無駄に時間を取らせないで、橘さん」
白石部長の声は冷たく、その奥には鋭い棘が潜んでいた。
私は素早く頷き、デスクの上の資料をさっと掴む。
「すぐにお持ちします」
「いい心がけね。でも覚えておいて。ここでは、あなたみたいな人間が生き残れるほど甘くはないのよ」
そう言い残すと、彼女は踵を返した。鋭いヒールの音が、大理石の床に冷たく響き渡る。
私は深く息を吸い込み、気持ちを仕事に集中させようとした。
これは単なる職務ではない。父の失踪に繋がる、唯一の手がかりなのだ。ここで失敗するわけにはいかない——どんなことがあっても。
腕に抱えた書類の束を崩さないよう注意しながら、私は足早にエレベーターへ向かった。紙の端がバラバラと揺れ、今にもこぼれ落ちそうになるのを必死で抑える。
そして、最上階の会議室の前で立ち止まり、息を整えてから、静かに扉を押し開ける。
わずかに開いた隙間から、低く響く声が漏れ聞こえた。それは、重要な話し合いらしい。
だが——
私が扉を開けた瞬間、室内の音がぴたりと止んだ。
まるで部屋の空気が、一瞬で吸い込まれたかのようだった。
視線が一斉に私に集まった。
冷たい、鋭い目つきが私を突き刺す。半円形に並んだグループの幹部たち——この会社でキャリアを一言で左右する権力者たちが、無言のまま私を見つめている。