擬人化
だらだらと気づけば一年かかりました
安楽死制度が正式に国で可決されてから、今年でもう十五年が経つ。
当時僕はまだ小学生で、安楽死が何か、今一つ理解していなかった。ただ、学校の先生が社会の授業で、安楽死制度について「安楽死は先進国の常識で、日本の退廃的な考えを抜本から覆す、まさに革命的な政策なの!」と、少々興奮気味に語っていた先生の顔が必死で、なんか面白かったという事しか覚えていない。
僕の両親はと言うと、安楽死制度が可決されたその日から不満を爆発させていた。お酒が入るとそれは急激に加速し、最初は父と母が互いに安楽死に関する議論を交わすだけなのだが、次第にヒートアップしてくるとその矛先は息子の僕に向くようになる。その際に何を言われたかは覚えていないが、とにかく、両親の機嫌を取ろうと必死だったことだけは覚えている。それから数年すると、両親は突然僕の前から姿を消し、代わりに新しい両親が僕を家族として迎え入れてくれた。新しい両親は「お父さんとお母さんは今、遠くに行ってるから、帰ってくるまでおばちゃんたちと一緒にいようね」と言った。当時の僕は、あの息苦しい日常から解放されるという喜びから、とてもうれしかったのを覚えている。結局、そのあと両親が僕を迎えに来ることは無かった。これは後で聞いたことなのだが、両親は僕の前からいなくなる前々から、いくつかの大規模な反安楽死運動に参加していたそうで、それが原因で警察に逮捕されていたそうだ。新しい両親に引き取られてすぐに、遠くの学校に転校することになった理由がやっとわかった。
そして今、僕は安楽死装置の目の前に立っている。安楽死を忌み嫌い、自然にその生を全うすることを尊ぶ両親から生まれた息子は、強制的に命を絶としている。何と皮肉なことだろうか。僕は装置の中に入り、あおむけになる。少しすると、優しい声が聞こえてきた。
「おやすみなさい」
「だからさ、雨宮よぉ、結局のところ愛なんてさ、幻想なんだよ」
ビールがなみなみ注がれた大ジョッキを片手に、鶴見さんはそう何度も繰り返す。最近、奥さんと喧嘩した末、実家に帰られてしまったそうで、今は別居状態のようだ。一人で家に帰るのが寂しいからと、鶴見さんに誘われたので今、こうして仕事帰りに居酒屋で飲んでいる。
「あぁーそうですねー」
カウンターに置かれた枝豆をつまみながら、僕も同じ返事をする。早く帰りたいなぁ。そう心の中でぼやいていると、ふと隣に座る男二人の会話が耳に入った。横聞きするのは悪いとは思いつつも、退屈な鶴見さんの会話に付き合う気にもなれず、僕は適当な相槌を繰り返しながら、隣の会話に耳を傾けた。
「なぁ、アンドロイドガールって知ってるか?」
男はまず初めに、そう言った。
「え、何それ?最新のAIか何か?」
もう一人の男が聞き返す。
「あぁ、まぁ最新のAIなのは間違いないんだが、実態があるんだ」
「ふーん。携帯ショップとかの店頭にいる奴みたいな?」
「そうそう。ただ、ああいう無機質な見た目じゃなくて、本物の人間みたいな見た目なのよ」
「まじで?それで女の子なんでしょ?めっちゃすごいじゃん。そんなのがあるの?」
「あぁ、正規販売とかはしてないみたいだけど、テストモデルは既に完成してて、試運転も兼ねて、今も世界のどこかに溶け込んで生活してるみたいらしいぜ」
「へぇーすげぇじゃん。てか、どこで聞いたのそんな情報」
「ハセンさんが言ってたんだよ」
「ハセンってあれだろ?陰謀論系YouTuberの。なんだよー一気に信ぴょう性無くなったわー」
そういって男は笑い、また直ぐに別の話題に切り替えていた。
ハセン、その名前には聞き覚えがある。男たちが言っていたようにハセンは現在、大手動画配信サイトにて活動する有名YouTuberだ。彼の動画のサムネには大抵「真実」の文字が書かれており、内容としては「いつ世界が滅びる」とか「未知のウイルスが今後世界を襲う」とか「未確認生命体による地球侵略」とか。どれも、根も葉もないただの妄言に過ぎず、視聴者も一種のエンタメとして楽しんでいるようで、コメント欄は毎回どこがおもしろかったかを共有したり、各々好きな感想を述べるコメントで溢れかえっている。到底、世界が滅亡するとは思えない程に温かく平和なコメント欄を眺めて僕は、実に滑稽だと思っている。
「なぁ、聞いてるのかよぉ。雨宮ぁ」
さっきよりもろれつが回らなくなってきた鶴見さんが、僕の肩を叩きながら言う。ふと壁に掛けられた時計に目を向けると、既に十一時を回っていた。
「ほら、もうこんな時間ですし、帰りましょ、鶴見さん」
手早く会計を済ませてから、鶴見さんの腕を肩に回して強引に持ち上げる。ついでに鶴見さんのバッグも手に持って、僕は店を後にした。店を出て目の前にタクシーが止まっていたので、鶴見さんにはそれに乗って帰ってもらうことにした。鶴見さんをタクシーの後部座席に押し込んで、運転手さんに鶴見さんの自宅の住所が書かれたメモ用紙を渡す。鶴見さんと飲むと毎回こうなるので、最近は事前に住所をメモするようにしているのだ。
「おおぃ、もう一軒行くぞぉ、雨宮ぁ」
「いやぁ、流石に遅いですから、また今度行きましょ。あ、すいません。そちらまでお願いします」
そう言って僕は運転手さんに軽く会釈して、ドアを閉めようとしたその時
「あ、そうだ雨宮。お前、アンドロイドガールって知ってるか?」
さっきまでろれつが回っていなかったのに、突然透き通った声で鶴見さんは言う。
「え?なんですか?」
思わず聞き返すと、鶴見さんは
「ん、いやぁ、知らないなら、知らないままでもいいけどよぉ。まぁ、また今度なぁ」
そう言って鶴見さんは財布から一万円札を手に取り、僕に投げつけてからドアを閉めた。慌てて地面に落ちた一万円札を手に取り、再び鶴見さんを見ようとしたときには、既にタクシーは鶴見さんの自宅に向けて走り出していた。一万円札をポケットにしまって、僕は帰りの電車を調べる。
「うわ、あと十分後じゃん」
僕は急いで駅へ走り出した。
慌てて乗り込んだ電車の椅子に腰かけて、僕は大きく息を吐いた。時間もあってか、僕の乗り込んだ車両は誰も居なかった。トトン。トトン。一拍置いてまた、トトン。トトン。等間隔なリズムの振動が椅子を伝って、腰から全身へと広がる。足元のヒーターから出る熱風が冷え切った体を温めてくれる。段々、意識が朦朧としてきた。心地よい。頭がその文字で埋め尽くされ、僕は自然と目を閉じた。全身で心地よさを味わう中で、僕は今日のことを思い出していた。アンドロイドガールとはなんなのか。確かハセンは以前、アンドロイドガールについてこう言及していた。
「アンドロイドガールは、世界滅亡のキーとなる存在だ」
「お客さん」
僕はハッと目を覚ます。目の前には一人の黒い制服姿の男が立っていた。
「終点ですよ」
駅員はそう言って、僕の腕を引っ張ろうとした。
「あ、大丈夫ですから」
そう言ってわたしは駅員の手を振りほどいて、そそくさと改札口へ向かった。またやってしまった。小走りで改札口へ向かいながら、心の中でそう毒づく。半年前の夏ごろだろうか。あの時も鶴見さんと遅くまで飲んでいたのだ。改札口につき、電子マネー決済をしようと手持ちのスマホをかざそうとすると、かざすところがなく、代わりに駅員が一人、横の小部屋から僕を見ていた。「あ、そうだった」と思い出したところで
「あ、もしかしてSuicaのご使用ですか?」
駅員が言う。
「あ、はい」
「わかりました。では、少々お待ちください」
そう言って駅員は駆け足で小部屋の奥にいった。少しすると、駅員は両手に丁度収まるサイズの半透明の円盤を持ってきて「こちらにかざしてください」と言った。言われた通りスマホをかざすと、円盤は緑に発色し、「ピロリン」と小さなご機嫌のカエルが跳ねるような音を出した。駅員は「ありがとうございました。」と一言言って、また小部屋に戻っていった。
改札口を抜けると、辺りは暗闇に包まれていた。スマホを点けると、時刻は既に一時を過ぎていた。あの時とは違って真冬は冷え込みが厳しく、思わず身震いしてしまう。もう少し厚着しておけばよかったと思いつつも、僕はかすかな記憶を頼りに自宅への帰路につくことにした。駅を出て真っすぐ歩くと、大通りに直面する。そして、その大通りを右に曲がってひたすらに歩き続けると、見慣れた景色が見えてくるはずだ。大きく白い息を吐くとそれは、瞬く間に暗闇に溶けて、夜と一体化した。
暫く歩いていると、遠くで車の明かりが横切るのが見えた。それがまるで、希望の光のように見えた。「あぁ、やっとだ」声を漏らしたそのときだった。少し先に、ごみ捨て場が見えた。近隣の住民の方々が利用するのだろう。電柱の根元にはいくつかゴミ袋が密集しており、それらを包むようにして青いネットがかぶせられていた。そして、その青いネットから漏れるように、仄かに光が見えた。あの光は何なんだろう。不思議と、興味を持った僕は、ゴミ捨て場に駆け寄り、光の正体を確かめる。目の前に来て、思い切りネットを剥ぎ取ると、そこには、人がうずくまっていた。
「うわぁ!」
思わず叫び、しりもちをつく。「なんで?」「死んでる?」「救急車?」思考が脳内を駆け巡る中、僕を平静に戻してくれたのは、うずくまった人の身体から漏れ出る青白い光だった。青白い光を見ていると、不思議と心が落ち着いていくのが分かった。一呼吸おいてから僕は立ち上がり、辺りを見渡す。人影は見当たらず、どの住宅も明かりはついていなかった。幸い、誰も起きはしなかったようだ。僕はうずくまった人に駆け寄り、脈を計ろうと手首に触れた瞬間、青白い光がフッと消えた。そして、うずくまった人はネットを払い、スッと立ち上がり
「システム再起動。プロトタイプナンバー000。コンディション良好」
と言った。いや、正確には流れたという方が正しいのだろうか。その声はあまりにも無機質で、それこそ機械的な音声のようで到底、人の声には聞こえなかった。直後、立ち上がった人は僕をじっと見つめてから
「こんばんは」
と言った。ゴミ捨て場を背景に、街灯に照らされた彼女の姿はまるで女神のようで、その声はとても透き通って聞こえた。この瞬間、僕は彼女の敬虔な信徒となった。脳で状況を整理するよりも先に僕は、自然と彼女に言った。
「あの、一緒に帰りませんか?」
彼女は、目を輝かせて言った。
「はい!是非!」
あれから、彼女と二人でひたすらに帰路を歩いた。間に会話は一切なかった。冷静になって初めて気づいた彼女の不透明さに恐怖していたというのもあるのだが、何よりも異性との会話に緊張していた。
大通りに出ると、多くの車が絶えず行き来しており、辺りをヘッドライトが眩しく照らしていた。彼女の歩く姿がヘッドライトに照らされて初めて、彼女の全身がはっきり見えた。僕は横目でチラチラとその姿を視姦した。眉毛が隠れるラインで切られたパッツン前髪、背中の真ん中まで伸びた艶やかな髪。パッチリと開いたその眼を守ろうと、瞼に長く等間隔に生えた睫毛。ゆったりとした純白のワンピースがつくる彼女の華奢な体躯。そしてそのワンピースから出る細く白い腕と脚。よく見ると、彼女の足は何も身に着けておらず、生足が露になっていた。
「靴、履いてないんですか?」
思わず尋ねると、彼女は一度僕の顔を見てから自分の足に視線を落とした。
「あ、ホントですね。履き忘れちゃいました」
今気づいたのか、驚いた様子で彼女は言った。
「なんで履き忘れちゃったんですか?普通、履き忘れる事なんてあります?」
「本当に慌ててたんですよ。とにかく早く家から出なきゃーってなってて、それで急いで玄関を出て、気づいたら、裸足でした」
可笑しそうに彼女は笑いながら言う。
「取り敢えず、僕のリュックサックに替えの靴下ありますから、履いてください。これで足も拭いてください。すぐに気づけなくてすみません」
僕はリュックからタオルと予備の靴下を取り出し、彼女に手渡す。
「僕は全然大丈夫ですよ?もう夜も遅いですから、早く帰りましょうよ」
「いや、流石に裸足で歩かせるのは気が引けますよ。貴方だって素足だと痛いだろうし。あ、大丈夫ですよ。タオルも靴下も一度も使ったことの無い新品ですから。本当は靴も貸してあげたいのですが、生憎靴の替えは持っていなくて、僕の靴だと貴方に合わないし、寧ろ歩きづらくなっちゃうだろうし」
「そう言う事じゃなくて、本当に大丈夫なんですけど……」
言いつつも彼女は、僕からの要望に応え、縁石に腰かけて渋々と靴下を履き始めた。
「あ、そういえばお互い自己紹介がまだでしたね。僕は雨宮裕一と申します。よろしくお願いします」
「雨宮さん。よろしくお願いします。私は……」
彼女が言葉に詰まる。何か言おうとしたものの、彼女は視線を落として再び靴下を履き始めた。上手いこと履けないのか、靴下を履くだけにしてはかなり時間が掛かっている。アドバイスをしようかとも思ったのだが、靴下の履き方をアドバイスされるのも嫌だろうと思い、黙ることにした。
しばらく道路を流れる車を眺めていると突然
「すいません待たせちゃって」
明るい声が背後から聞こえ、振り返ると彼女は靴下を綺麗に身に纏い、立っていた。
「いえいえ、では、もう少しですから、行きましょうか」
彼女を先導しようと歩き始めようとしたその時だった。
「アズサです」
「はい?」
「私の名前です。さっきは靴下を履くことに集中していて、答えることができなかったので。改めて、よろしくお願いしますね。雨宮さん」
アズサさんはぺこりとお辞儀をする。僕もつられて軽くお辞儀をする。
「あ、あぁ、よろしく。アズサさん。ていうか、靴下を履くってそんなに集中することじゃないでしょ」
「私にとっては集中するんです」
そう言って、アズサさんはプイっと身を翻し、早足で歩き始めた。その姿がなんだか女の子らしくて、思っていたよりも身近な存在だったことに少し親近感を覚えながら、僕は小走りでアズサさんを追いかけた。
「着きました。あれが僕の家です。アズサさん」
少し先のアパートを指さして僕は言う。
「へ、へぇ」アズサさんは何か言いたそうな言葉の突っかかりをする「あれが雨宮さんの家なんですね」
「何ですか?まさか、ボロいとか言いたいんですか?」
「い、いやいやそんなことは全く」
「じゃあ何ですか?」
「えっと、その、すごく、趣のある外観だなって」
「本当は?」
「本当は……」アズサさんは少し黙ってから、か細い声で申し訳なさそうに言った。「ボロいなって、思いました」
「やっぱり。前に鶴見さんにも言われましたよ」
「雨宮さんのお知り合いなのですか?鶴見さんは」
「あぁ、はい。会社の先輩なんです。今日も鶴見さんに誘われて、居酒屋で飲んだんです」
「だからこんな夜遅くに帰ってるんですか?」
アズサさんは閃いたように弾んだ声で訊いてくる。
「そうなんですよ。あの人一度飲んだら絶対終電ぎりぎりまで飲み続けるから、いつも今日みたいなことになるんです」
「あははははっ。」アズサさんは初めて、声を出して笑った。「だったら誘いを断ればいいのに。雨宮さんは人がいいですね」
アズサさんは声に出して笑う人なんだなぁと、僕は何気なく思った。
「まぁ、確かに面倒ではありますけど、それよりも楽しかったりするんですよね。鶴見さんと何気なく話すのって。それに、先輩のご厚意を無下にするわけにはいけませんしね」
「優しいんですね。雨宮さんって」
少し微笑んで、アズサさんは言う。僕は返事に困ってしまい、思わず黙ってしまう。丁度アパートの前に来たので「着きました。さぁ、行きましょ」と、半ば強引に話題を断ち切る。
僕の住むアパートは二階建てで、僕は二階の一番奥に住んでいる。そしてアズサさんの言う通り、ボロい。錆び切った鉄の階段に、所々シミのある外壁。何年使っているか分からない程に薄汚れた室外機。このアパートを構成するすべての要素が、年代を感じさせる要因となっている。
「じゃあ、どうぞ」
自宅のドアを開けてから一歩下がり、アズサさんを迎える。
「ありがとうございます」アズサさんは軽くお辞儀をする。「じゃあ、お邪魔します」そう言って玄関に入り、靴下のままリビングへと向かった。
「ちょちょちょ!」僕は慌ててアズサさんを引き留め「靴下は脱いでくださいよ」と言う。
「あ、すいません」アズサさんは笑いながら言う。靴下を脱いで「はい」と僕に手渡し、リビングへと向かった。本当はシャワーで軽く足を流してほしかったのだが、もう面倒だったので何も言わなかった。
「それにしても、靴下を脱ぐのは手間取らなかったんですね」
畳の真ん中でちょこんと正座するアズサさんに、少し笑いながら訊く。
「あんまり馬鹿にしないでください」アズサさんはムッとした表情で言う。「第一、あれは少し戸惑っただけですから」
「そうですか。じゃあ、先にシャワー浴びます?僕は後で構いませんので」
「いいんですか?ありがとうございます。では、お先に失礼します」
浴室の場所を教えると、アズサさんは浴室へと向かった。少しすると、シャワーから水が流れる音が聞こえ始めた。瞬く間もなく
「ひゃあ!」
アズサさんの甲高い叫び声が聞こえた。
「どうしましたか?」
僕は浴室の前に行き、ドア越しに話しかける。
「冷たい……」浴室から、か弱い声が聞こえた。もう一度アズサさんは「冷たいんです……」と言う。
「え、もしかして温水にしなかったんですか?」僕が訊くと彼女は「どこで変えられるんですか?」と訊いてきた。右側のハンドルを赤い印がある方向に回すことを教えると「あ、温かい!」と聞こえた。
一安心してリビングへと戻り、アズサさんがシャワーを浴びる音を聞きながら僕は、ハセンのアンドロイドガールについて言及する動画を開いた。
『やぁやぁ』
音声加工の施された無機質な声で、ハセンは簡単に挨拶を済ませる。彼の顔はいつも動画の内容になぞられたお面で隠されている。今回は女性の顔が描かれたお面を身に着けていた。
『最近話題になってる、アンドロイドガール。その正体は一切謎に包まれており、正に神秘のベールに包まれた幻想的な存在。その存在に関する情報として、国の秘密裏に計画された人類のリセット計画の礎だとか、宇宙などの外界から来襲してきた未確認生命体の一種だとか、裏の人類の叡智を集合させて創った殺戮マシーンだとか、はたまた業務用のロボットが逃げ出しただけとか、まぁ、思わず鼻で笑ってしまう情報しかなかったんだけど』ハセンは無機質な笑い声を漏らす。『今回は、そんな噂が噂を呼ぶ状況に俺が終止符を打つ。そんな意気込みで今回の動画を撮ってます』
いつもはある陽気なBGMが切られていて、無音の中でいつもにはない謎の意気込み表明をするハセンには、妙な緊張感があった。
『では、まず初めに、アンドロイドガールの正体について話します』
ハセンは一拍おいて
『アンドロイドガールの正体は、ずばり人類の新たな創成者であると思います』
「はぁ?」
思わず声が出る。だが頭ごなしに否定するのはよくないと思い、そのまま動画を見続けた。
『そもそも、アンドロイドガ―ルはごくごく一般の個人によって創られたものだそうです。この事実をもとに事前に提示された考察と照らし合わせてみると、その殆どが矛盾するのです。そうなると、個人でアンドロイドガールを創る目的はただ一つ。そう、人類の創成者です』
真剣にハセンの動画に縋った僕が馬鹿だったと思う。こんなものに時間を取られたのが悔しくて、思わずスマホをソファに投げつける。「ばふっ」と柔らかい音がしてふと我に返り、四つん這いでソファに向かいスマホを手に取る。
「あぁっ!」
思わず声が出る。そう、割れていた。液晶の真ん中から蜘蛛の巣のように放射状に割れていた。恐る恐る電源ボタンを押すも、うんともすんとも言わない。
「あれ、割れちゃったんですか?」
振り返ると、アズサさんがのぞき込むような体勢で立っていた。バスタオルの隙間から見える水に濡れた長い髪の毛が、アズサさんの印象をより柔らかいものにする。
「はい。割れちゃったんです」
「落としちゃったんですか?」
「え、まぁ、はい」
感情に任せて投げつけたとはいえず、濁った返事をする。
「じゃあ、早めに買い替えなきゃですね」
「うん。そうなんだけど」
ここで、アズサさんがさっきと同じワンピースを身に着けていることに気づく。
「あれ、もしかして着替えないんですか?」
「あぁ、はい。そうなんです。これしかなくて」
そういえば、出会った時から何も身に着けていなかったなぁと思う。
「じゃあ、明日一緒に買い物に行きませんか?ついでにスマホも修理に出したいし」
「え、いいんですか?ありがとうございます!」
アズサさんは目に見えて分かるくらい嬉しそうに飛び跳ねる。可愛いなぁと不意に思う。
「そうそう、布団はそこに敷いておきましたので。僕はソファで寝ますから。じゃあ、僕もシャワー浴びてきますね」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい、雨宮さん」
「は、はい。おやすみなさい、アズサさん」
アズサさんはぺこりとお辞儀をして、直ぐに布団に入る。僕もぎこちないお辞儀を返して、リビングの電源を消してから浴室へ向かう。好意の対象に成り得る異性に「おやすみなさい」と言われたことが無かったので、思わずドキドキしてしまった。洗面所の鏡に写った自分の顔が、なんだか嬉しそうで恥ずかしかった。
僕たちは最寄りの駅へ歩いて行き、改札の上の電光掲示板で目的の電車を探すと、あと二分後だという事が分かった。同時に家を出てから三十分近くも経っていることに気づき、驚きながらも僕は急いで二人分の切符を買い、一枚をアズサさんに渡して改札を駆け抜ける。後ろを振り返るとアズサさんは改札の通り方が分からないようで、駅員が手助けしているところだった。すぐにアズサさんは改札を抜けて、駅員に一礼をしてから僕に慌ててついてきた。ホームへ続く階段を駆け下りる最中で、電車の発着を知らせる予鈴が軽快なリズムを奏で始める。僕は間一髪のところで乗車することができた。振り返ると丁度、アズサさんが乗車したところで、それを見計ったかのようにドアが閉まった。「あぶなかったです」と、アズサさんは大きく息を吐きながら言う。荒い呼吸を最小限に抑えつつ辺りを見渡すと、既に座席は見渡す限りすべて埋まっていて、車内ではつり革に掴まる人や、銀色の手すりに寄りかかる人も何人か見受けられた。車両に乗り込み、一応、何車両か移動するもどこも同じように満員だった。僕とアズサさんは仕方なくつり革を掴み、電車に揺られることにした。冬の車内は暖房が稼働しており、さっきまで全力だった僕たちにとっては少し強すぎるくらいだった。「暑いですね」と言いながらアズサさんは純白のワンピースの胸元をつまんで仰いでいた。思わず視線を逸らすが、場所が場所なので再び視線を戻し、直ぐに止めさせた。
僕たちが乗車してからしばらくたった。途中の駅で停車しても、人は入るばかりで誰一人として降りることは無かった。僕たちが乗車したときはかなり余裕のあった車内も、今では互いにほんの少しの空間が存在するだけで、少し電車が揺れると肩がぶつかりそうだった。
「ほんとに混んでますね。休日だからですかねー」
僕の隣でアズサさんは言う。
「あぁーどうなんでしょうね。確かにそうかもしれないですねー。にしてもここまで混んでるとは思ってませんでした」
そう言いながら改めて辺りを見渡すと、若々しい見た目の人がほとんどで、皆スマートフォンを片手に俯いていた。横並びの二つの椅子が対面で置かれている席に腰かける四人の若者も、皆スマホに注視していて、これといった会話は皆無だった。他には子供と楽しそうに話す家族がいた。皆、目的地は同じなのだろうな。そんなことを考えていると、電車が大きく揺れた。慌ててつり革を強くつかむが、思い切り横の人にぶつかってしまった。同時に僕にも誰かがぶつかってき
た。僕はぶつかった人に小声で「すみません」といい、ぶつかってきた人に視線を向けると、アズサさんが僕にもたれかかるような体勢でいた。
「す、すみません」
そう言ってアズサさんは体勢を立て直し、再びつり革を掴もうとするが、電車は再び大きく揺れ、再び僕の肩にもたれかかってきた。同じように謝って、再びつり革を掴もうとする。
「僕の腕掴んでください。ちょっとここ険しいみたいだし」
そう言うとアズサさんは少し戸惑いながらも「あ、は、はい」と返事をして、僕の腕を見る。どこを掴んだら良いか分からないと言う表情を浮かべながら、アズサさんは申し訳なさそうにパーカーの袖を小さくつまみ、俯いた。その反応を見て、自分で言いだしたのに妙に恥ずかしくなって、そこからお互い無言のままだった。
少しして、目的地の駅が次であることを知らせるアナウンスが流れた。皆、徐々に降りる準備を始めたのか、ざわざわし始めた。先ほどまでスマホに注視していた四人組の若者もスマホをしまい、膝の上にのせていたリュックをしょって席を立ち始めた。
「次なんで、準備してください」
パーカーの袖をつまむアズサさんに声を掛けると「あ、着いたんですね」と顔を上げた。
「凄い長かった気がします。どれくらい乗ってたんですか?」
ふとスマホで確認しようとポケットに手を突っ込むものの、壊れていることに気づいた。何もなかったふりをしながら「まぁ、二十分ぐらいじゃないですか?」と毅然とした表情で言う。
「ふーん。あれ、どうしてスマホで確認しないんですか?時間見たらいいじゃないですか?」
「それ知ってて言ってるでしょ」
アズサさんは押し殺した笑い声を漏らす。何となく、アズサさんの人となりが掴めてきたような気がする。電車が徐々に減速し、軽快な予鈴の音と共に目的の駅へ到着したことを知らせるアナウンスが流れる。電車は緩やかに停車し、ドアが開いた。瞬間、乗客がそのドアへ流れるように移動しホームへ降り始めた。私たちもその流れに抗うことなく、ゆったりと降車した。朝一できたからか、降車する人はいても乗車待ちの人は一人もドアの横で待っていなかった。
そのショッピングモールは他と比べて規模が非常に大きく、中にはフードコートは勿論、映画館、食品類や衣類、雑貨に書籍、見たこともない珍味を扱うお店から、少々個性強めな服を取り扱うお店まで、古今東西なんでもござれな店の揃い具合だ。一階から最上階である四階まで吹き抜けの構造になっていて、開放的であることに加えて、下からは見上げることで何の店が並んでいるか一目で把握できる。上からも同じで、下に何があるか、また一階には特設ステージを設けるためのだだっ広い空間もあり、そこで何かを行う際は、一階からだけでなく上からも鑑賞することができる。
「広いですねー」
上を仰ぎながらアズサさんは言う。こういう場所に来るのは初めてなのか、目を見開いた横顔は好奇心に満ち溢れた子供のように見える。落ち着きなく視線が動くアズサさんにそうですねーと返事をする。
電車に乗っていた人は皆、やはりここが目的だったようだ。降車と同時に自然と生まれた人の波は、滞ることなくこのショッピングモールの入口へと流れついた。そこで僕たちは波から外れたのだが、波は依然として形を保っていて、勢いも衰えなかった。何か別な目的地があるのだろう。あの集団が皆、同じ目標に向かって歩いているのかと思うと不思議な気持ちを抱く。一体あの集団の行きつく先には何があるのだろうか。入口付近に備え付けられていた館内の案内図を確認して、僕たちは集団を背中に歩き始めた。
エスカレーターに乗り、四階まで向かう。四階についたらそのまま直線に歩いていく。すると、右手側に目的の携帯ショップが見えてくると、地図には書いてあった。開店直前だからか、どの店の前にも店員さんが一人か二人立っていて、私たちが前を通り過ぎる度に「いらっしゃいませ」と明るい声が聞こえる。他にも客が居れば気持ちは楽になるのだが、他の客は一階のどこかに集まっているので、四階には僕たちしかいなかった。他に客も居ないので店員は皆、僕たちに視線を向けて、丁寧なお辞儀をしながらそう言う。せっかく挨拶してくれてるのに何も返さないのは失礼かと思い軽い会釈を返す。もちろん、この店には一切用がない。会釈だけして視線を素早く前に戻し、これ以上関わることの無いよう足を速める。
「携帯ショップってどこにあるんですか?」
アズサさんが私の顔を覗き込む。この先ですと言うと、ふーんと言って再び前を向いた。
ふと、集団の声が聞こえる。拡声器を通した解像度の悪い声が、閑散としたショッピングモールに響いている。手すりから下を見下ろすと、入店時の集団が、だだっ広い空間にポツンと設置されたポッドを囲むように輪になっている。金色に輝くはっぴを身に纏った男がポッドの上に立ち、メガホンを片手に叫んでいる。
「安楽死とは本来忌むべき存在である。革新を追い求めるがあまり思考を放棄した現代社会において、奮起すべきは我々常識人であることを皆には気づいていただきたい。自然死こそが究極美であり、生命の行きつくべき終着点だということ、啓示に敬虔であるさまこそ、人類の集合的な命題であり、深層にある心こそが、真実であるという事。神に生まれ、神に還る。この永劫的に途切れることの無い輪こそが、人類の終着点なのだ。その輪を乱さないためにも、この忌物は浄化しなければならない」
集団は一斉に右手を掲げる。その手には、皆同じ、黄金のリボンが柄の部分に結ばれたハンマーが握られている。
「回廊の輪よ!永遠にあれ!」
男がポッドから飛び降りると、集団は一斉にポッドへと駆け出し、そのハンマーでポッドを叩きだした。
「永劫!永劫!永劫!永劫!」
集団は叩きながらそう叫ぶ。ポッドから甲高い音が鳴り響く。すぐに警備員が駆け付けるが、金色のはっぴの男の合図で、集団は一斉に逃げ出した。だだっ広い空間には、警備員と、無残な姿に変わり果てたポッドと、ポッドから漏れる深い青色の液体が寂しく残っていた。
「まだつかないんですかね。携帯屋さん」
アズサさんは前を見ていた。一直線上を空間に見出しているかのように真っすぐな瞳で。ただ前を見ていた。僕は手すりから手を離し、再び歩き始める。
携帯ショップは、一番奥にポツンとあった。店員も一人しかいないうえに、奥の方で何か作業をしているようだ。ここまでの間に沢山丁寧なあいさつをされていたから、何故か少し寂しく感じた。
「あ、いらっしゃいませー」
店員は振り返り、定位置であろうカウンターに向かう。低めの位置で結ばれた黒髪が印象的な女性だった。僕もカウンターに向かう。
「すいません、あのースマートフォンの画面が割れちゃって、それで画面がつかなくなっちゃったんですけど」
割れた画面を見せるようにしてスマートフォンをカウンターに置く。店員は失礼しますとスマートフォンを手に取り、軽く見る。あぁーと絞り出したような声を漏らす。少々お待ちくださいと言ってスマートフォンを手に裏へ行った。
「だめかもしれないですね」
振り返るとアズサさんは店内に展示されたスマートフォンを横に持って、親指を激しく動かしている。足を肩幅ぐらい開いて、身体を微小に揺らしながら画面を凝視している。何かゲームをやっているのだろうが、携帯ショップにそこまで激しいゲームがあっただろうか。僕の言葉は一切届いていない様子だった。僕も新しい携帯を何にしようか。店内を回り始めた。
ショッピングモールの中に段々と人見え始め、休日らしくなった頃、先程と同じ店員が携帯を片手にやってきた。
「やっぱだめでしたね。電源もつかないし、内部からイカレてるっぽいっすね」
突然軽い口調で話しだしたので、思わず呆気に取られる。
「ただ、データはそのまま残ってるっぽいので一応引継ぎはできるんすけど、どうします?」
「あぁーじゃあ、新しいの買うんで、そっちにデータ移行してもらってもいいですか?」
「はーい。じゃあ、何買います?」
「あー前とおんなじで大丈夫です。あ、あと、彼女が今弄ってるやつと同じやつもください。」
先程と変らぬ体勢でスマートフォンにかじりつくアズサさんを指さす。店員はカウンターから身を乗り出してアズサさんが弄るスマートフォンを見る。「あぁーはい。わかりました」と言って乗り出した身を下げて、また裏へ行った。スマートフォンの入った箱を両手に今度は直ぐに戻ってきた。
その後、データの引継ぎやプランやらの諸々の手続きに時間が掛かって、退転したのは辺りが客の雑踏が感じられる頃だった。結局、データ引継ぎには少々時間を要するとのことだったので、後日また取りに来いとのことだった。代わりに、アズサさんのスマートフォンは直ぐに使えた。本人に何色がいいかと訊くと「え、買ってくれるんですか?」と信じられないような顔をしていた。アズサさんは迷いに迷った末に青色を選択した。そのあとは「ツブツブはできるんですか?この携帯でツブツブはできるんですか?」と興奮冷めやらぬ様子で訊いてきた。さっき熱中していたのはツブツブと言うゲームなのだろう。同じスマートフォンを買ったので多分大丈夫だという事を伝えると、「よかったぁ」と一息ついて、アズサさんは心底嬉しそうな顔をした。
「ありがとうございましたー」
同じ女性店員が、店先に出て深々とお辞儀をして見送ってくれた。二人用のよりお得なプランを紹介してくれたり、ツブツブの入れ方を尋ねるアズサさんに丁寧に教えてあげていたりと、口調には疑問が残るものの、それが愛嬌につながっているのか、話していて不思議と気持ちが落ち着く店員さんだった。アズサさんはスマートフォンの入った小袋を両手で大事そうに抱えて、跳ねるように歩いている。今向かっているのがあのパフェだと知ったらどれくらい喜ぶのだろうか。こんな風に分かりやすく喜んでくれると、こっちもうれしくなってくる。
アズサさんはどこに住んでいたのか。何歳なのか。苗字は何なのか。そもそも彼女は一体何なのか。不確定な部分しかないが、今くらいは、この曖昧で脆い幸せに浸っていたい。これもまた一種の現実逃避だとはわかっていながらも、僕は色とりどりの果物がふんだんに乗っかるパフェをほおばった。
平日昼間の、のんびりとした雰囲気を帯びる駅ビルのカフェでくつろぎながら、交差点を行き交う人の群れを眺めていた。年々冬が長くなっているような気がする。数か月前にピークだと思っていた冬は、三月の初旬でもその猛威を存分に振るっていた。行き交う人々は皆、身動きのしづらそうな服を着ている。今思えば、毎年のようにそう思っている気がする。僕の中で三月と言うのは春の入り始めであり、温かさが顔を出し始める頃という印象が強い。だから、僕の中で三月は桜などの温かさを象徴する植物で満たされ、土で眠っていた虫たちが目を覚まし始めるというイメージなのだが、実際、街に桃色なんて華やかな色は一切見当たらないし、植物は寒々しい恰好のままだし、虫たちは死んだのかと思うほどにおとなしい。印象というのは、簡単には変えることはできないのだと毎年思い出させられる。
「どうだ、見つかったか?」
コーヒーを片手に窓から外を眺める鶴見さんの横顔は、平日昼間の穏やかさに包まれるカフェの雰囲気に溶け込んでいた。
「いやぁ、全くです」
男としての魅力、エロスが、鶴見さんからじわじわとにじみ出ていた。もし今が早朝ではなく茜色に染まる夕暮れであれば、僕は鶴見さんを襲っていたかもしれないなぁと真面目に思う。
「そう甘くもねぇか」
鶴見さんはコーヒーを一気に飲み干すと、席を立ち、隣に畳んであったコートを手に取るり「行くぞ」と僕に一瞥して店を後にしていった。慌てて後を追おうとするも、透明な筒に一枚の紙が丸まったままであることに気づいた。僕は財布を手に、会計へ向かった。
『青い液体』の存在がオカルト界隈で囁かれ始めたのは、今から二か月ほど前だ。アズサさんと初めて行ったショッピングモールの帰り、電車に揺られる僕のスマートフォンに、鶴見さんから電話が届いた。
「おい、オカルト板見たか?」
鶴見さんは開口一番にそう尋ねてきた。オカルト板というのは、インターネット上の大型掲示板の中の、オカルトジャンルのことを指し、そこでは全国の不可解な現象や、超常現象などの信ぴょう性に著しく欠けるオカルトな情報が匿名で無数にも書き込まれている。オカルト雑誌を主とする出版社に勤める僕たちにとって、オカルト板は数少ない情報源の一つなのだ。例え誰かが暇つぶしで書いたような情報でも、僕たちは全力でその情報に食いつく。
「いや、見てません」
オカルト板を確認すると、『青い液体』という題名のスレッドが多く立っていた。下にスクロールしても、出てくるのは『青い液体』ばかりで、いつもの奇想天外なスレは一つも見当たらなかった。
「なんですか、これ」
自然と言葉が漏れた。これまで、こんなことは一度もなかった。何者かのいたずらかとも思ったが、いたずらにしては規模が大きすぎる。この事態こそがオカルトだった。
「俺にもよくわからない。ただ、どのスレにも、青い液体について同じ言及がされているんだ」
僕は適当な『青い液体』スレを開いた。一文目には、こう書いてあった。
『青い液体は、とてもきれいな液体です』
特に不気味なことが書かれているわけでも、読み手を引き付けるようなことが書かれているわけでもなかった。ただ一言。そう書かれているだけだった。他のスレも、一文目に一言一句同じ一言が書かれているだけで、それ以降スレ主による青い液体に関する言及は一切なかった。混乱するオカルト板の住人達が、スレを続々と完走させている。
『おいなんだよ青い液体って』
『いやちょっとマジで怖いんが』
『暇つぶしのつもりだったのに何時間もオカルト板に張り付いてるわ』
『ちょっと情報が錯綜してるな。一旦整理しようや』
『勢いやばすぎ笑』
『マジで青い液体以外スレ見当たらないんだが。お前らなんかスレ立てろよ』
『草』
『鳥肌止まらないんだが』
『まとめ確定で草』
『食紅定期』
『こーれ無断転載決定です』
『俺の寿司安価スレ誰も来てくれないんだけど』
『青い液体って何?』
『立ててる奴ID違うんだけど…こいつらマジでなんなんだよ…』
『複数台同時運用の可能性もあるだろアホ』
『駅構内にブルーハワイまき散らそうぜwww』
『しょうもないことしてんなお前ら』
『結局なんなの』
『ここまで大規模なことできるわけないだろ考えカス』
『この勢いならばれない。小学校の頃田中君のカセット盗んだの僕ですごめんなさい』
『通報した』
『いやワロタ』
『つーか他のスレもこんな感じなの?まじで誰の仕業だよ』
『アンドロイドガールが起因してるんです!』
『ハセン』
『青い液体は触れると人体に悪影響を及ぼします!皆さん見かけたら絶対触らないでください!』
『ブルーハワイ』
『エアプ乙』
『結局なんなんだよ青い液体って』
『どうせ悪ふざけやろ』
『普通に人類滅亡で草』
『オカルト板がここまで盛り上がったことないだろまじで』
ものすごい勢いで加速するスレを、僕はただ茫然と眺めていた。同時に、初めて現実味のあるオカルトに出会えたことに興奮していた。胸の鼓動が早くなる。この流れを雑誌にまとめる。こんな一大事を、僕の言葉で、僕のあるがままに読者に伝えることができる。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。電話がつながったままの鶴見さんに話しかける。
「記事にしましょう。鶴見さん」
「当たり前だろ」
電話が切れた。恐らく、スレの情報整理に向かったのだろう。大事そうにスマートフォンを撫でまわすアズサさんの横で僕は、何千ものレスを読み返し始めた。
二人分のコーヒー代六〇〇円を払い終えてカフェを後にし、エスカレーターで二階まで降りて、駅ビルの自動ドアをくぐる。鶴見さんは、駅ビルの入り口の自動ドアの横で、構内を流れる人を眺めていた。
「遅かったな」
鶴見さんは僕を一瞥すると、おもむろに北口方面に歩き始めた。
「いや、普通先輩が払う場でしょ。ああいうのって」
置いて行かれないように、鶴見さんの横についていく。
「お前、忘れたのか。それは先輩後輩の立場の話だろ?」
あきれた声で鶴見さんは言う。
「そうですね」
僕は溜息交じりに言う。あの話が、また始まることを僕は察した。
「そうだろ。確かに、先輩後輩の立場には、そういった習わしはあるのかもしれねぇ。先輩は後輩に財布を出させてはいけない。先輩は後輩をかばわなければいけない。先輩は後輩を可愛がらなければならない。こういった習わしは挙げればきりがないが、それはあくまでも先輩後輩と言う関係に限った話だ。つまり、俺たちはそうではねぇ。そうだろ?」
鶴見さんは僕に賛同の意を示すよう視線を向ける。僕は鶴見さんの目をみて小さく頷く。鶴見さんはそれを確認すると、再び語り始めた。
「俺たちの関係は、いわばバディみたいなもんだ。もちろんそこに上下関係なんてもんはねぇ。習わしなんて以ての外だな」
僕は小さく頷く。鶴見さんはそれを見て満足したようで「まぁそういう事だ」と言った。
一般企業に就職したものの三年で辞めた鶴見さんは、飲むと必ず当時のことを自身の苦労話として語りだす。その話によると、辞めた原因と言うのが、職場の人間関係だそうだ。先輩ととあることをきっかけに仲が険悪になり、それを皮切りに職場全体での関係も悪化してしまったそうだ。そのようなことがあったから、『バディ』と称して対等な関係を築こうとしているのかもしれない。今までアルバイトすらしてこなかった僕にとって、『バディ』と言う関係はそこまでよいものと思ったことは無く、鶴見先輩の考える理想の押し付けにしか思えなかったのだが、それを口に出すことは無かった。
北口に出ると、そこには広場のような広い空間がある。休日だと、ここで無断の弾き語りが行われていたり、大学生の男女が騒いでいたりと喧騒に満たされるのだが、平日昼間、人はまばらである上に、誰一人として広場を気にかける事はなく、閑散としていた。弾き語りのおっちゃんがよく腰掛けている銅像の台座には、空のペットボトルや空き缶が並べられていた。広場の真ん中で突然、鶴見さんは立ち止まり辺りを見渡してから「気分転換だ」と言って、広場のベンチに腰掛けた。僕も、鶴見さんの横に腰掛けた。
辺りが仄かな暗闇に包まれ始めた頃、学校や会社から帰るであろう大勢の人々を、缶コーヒー片手にベンチに腰掛けながら眺めていた。未だ、僕たちの目的の『青い人間』は見当たらなかった。鶴見さんの方を見ると、身体がゆらゆらとまるで波に揺られているようだった。半分意識が無いみたいだ。僕は再び、構内へ流れる人々に目を向ける。
制服に身を包んだ学生が明るい声で話す声。整った黒のスーツに身を包む男の革靴が奏でるコンクリートの音。精いっぱい自分を表現しようとするおっちゃんの下手くそなギターの音と、がなりまくった声。自分という存在を社会に確認してもらおうと、ロータリーを走り回る派手な装飾のされたバイクの轟音と、空に向かってひたすら叫ぶ半ヘルの男の虚しく若々しい声。駅前の道路を走る車の音。時折どこからか聞こえる短いクラクションの音。挙げればきりのないこれらの『音』全てが集合し、駅全体を包む一つのぐちゃぐちゃで無秩序な音が創りだされる。僕は、この音が好きだ。世間一般では、この音のことを雑踏と言うらしいが、僕はそんな一言で片づけたくはなかった。
今この音は、今この瞬間だけに存在しているのだ。ロータリーを爆音で走る男は毎日来ているわけではない。下手くそな弾き語りのおっちゃんも、革靴を履くスーツの男も、毎日、同じ時間帯にここにいるわけではないのだ。皆、それぞれに日常があって、思考、意思がある。個々に独立した人生は、一見交わることの無いように見えるが、それは音となって、間接的ではあるものの、毎日違う交わり方をしているのだ。
僕は、そんな唯一無二のその時にしか聞けない音が好きだ。だからこそ、そんな二度と聞くことのできない音を『雑踏』の二文字で片づけたくはないのだ。かと言って一つ一つに名前を付けることも難しいので、この問題をどのように解決しようか日々考えている。
辺りは完全に暗闇に包まれた頃。音も先程と比べると落ち着いていて、夜の静けさを帯びていた。鶴見さんは完全に寝たようで、静かな寝息が体の揺れに合わせて聞こえた。
「鶴見さん。起きてください。鶴見さん」
鶴見さんの肩を揺らすと、鶴見さんはゆっくり目を開けた。何度か瞬きをしてから「寝てたか?」と訊いてきた。「はい」と答えると「そうかぁ」と体を思い切り伸ばしながら言う。僕は、手に持っていた冷え切った缶コーヒーを喉に流し込んだ。冷えた缶コーヒーは、温かかった時よりも、苦さが際立っているような気がした。
アズサさんと出会ってから、およそ二か月が経った。最初の頃はおぼつかなかった会話や、気まずかった『間』も、いつしか生活の一部として溶け込んでいた。
アズサさんは、テーブルに置かれたスマートフォンの液晶に映し出される映像を凝視して、両手の人差し指でその液晶をパタパタと叩いている。アズサさんは携帯を買ったその日から、『ツブツブ』というアプリゲームに熱中している。
ツブツブとは、画面に現れる『ツブ』を、音楽に合わせてタイミングよく押すという、単純明快で至ってシンプルなゲーム内容となっている。しかし、そのシンプルなゲーム性が現代の社会とうまくかみ合ったのか、つい最近も『〇千万ダウンロード突破!』とテレビでCMが流れていた。アズサさん曰く、今世界で最も勢いのあるゲームとして、どこか大きなイベントで選出もされたらしい。
携帯ショップで出会ったあの日から、アズサさんはこのゲームに熱中している。朝、僕が仕事に行ってから帰宅するまで、アズサさんは同じ場所で、同じように携帯にかじりついている。以前、あまりにも気になったのでアズサさんに尋ねてみたことがある。
「アズサさんって、ずっとツブツブしてるんですか?」
「ど、どういう事ですか?」
「いや、特に意味があるわけではないんですけど。ただ、家を出た時と帰宅するときで、アズサさん何も変わってないから、その、ずっとスマホ触ってるっていうか」
ずっとスマホをいじっているのではないか。と直接聞くとなんだかそれを咎めているような気がして、角が立たない言い方をしようとしたが、ただしどろもどろした言い方になってしまった。
「あぁ、いや、別にずっとスマホ弄ってるわけじゃないですよ。ただ、スタミナが回復するのが朝と夕方ってだけで、それ以外の時間は適当に過ごしてますよ」
アズサさんは笑ってそう返した。
そう言っていたはずなのだが、休日である今日、アズサさんは朝六時という早い時間に起きてから、僕が昼食の準備を始める今まで、一時たりともスマホを離すことは無かった。
流石にまずいのではないか。確かに、スマホ以外に娯楽がないのかもしれない。一応僕の漫画や小説も自由に読んで良いと伝えているものの、本人に興味がないことを強いては酷だ。僕は昼食に作った焼きそばを食卓に運びながら思う。麺と、ほんの少しのキャベツしかない簡素な焼きそばは、一人暮らしの懐に優しく、同時に腹も満たせる一石二鳥な料理だ。
「あ、焼きそば。いいですねー」
アズサさんはスマホから手を離して床に置くと、目の前の焼きそばに向き合った。スマホ片手に食事をするわけではないのだから、依存とまではいかないのか。
僕は悩んだ。果たしてアズサさんにスマホの制限を強いることは正しいのだろうか。そもそも、僕はアズサさんのなんだ。恋仲ではないし、友達かといわれたらそれすら怪しい。そんな人間が人の生活に口を出すことはいかがなものだろうか。アズサさんはそんな僕を気に掛けることは無く、美味しそうに焼きそばを口に運び始めた。
「美味しいですねーやっぱり」
焼きそばをほおばりながらアズサさんは言う。
「ならよかったです。まともに作れる料理がこれしかないので、もっとレパートリー増やしたいです」
僕も焼きそばを口に運ぶ。いつも通りの代わり映えのない味がする。
「あ、でもあれも美味しかったですよ。あのー、赤いご飯に卵が乗ったやつ」
「オムライスですか?」
「あ―それです!あれ凄い美味しかったんですよ。雨宮さん料理上手ですよ」
「おべっかどうも。まぁ、ありがとうございます」
アズサさんは、本当にそう思っていそうに言うから、一瞬惑わされてしまう。アズサさんにアドバイスを頼めば、なんでもできる気がしてくるくらいだ。
「そういえば、雨宮さんって猫好きですか?」
「猫?はい、好きですけど」
「あ、そうですか?よかったー。じゃあ、見に行きませんか?」
「いいですけど。猫欲しいんですか?」
「え、いやぁ、別に、そんなことは」
分かりやすくアズサさんの目が泳ぐ。そういえば、よく猫が可愛いと言っていたなぁとふと思う。
「じゃあ、とりあえず見に行ってみますか。近くのペットショップでいいですよね?」
「あ、いやぁ、ちょっと。ペットショップじゃなくて」
アズサさんはバツの悪そうな顔をする。「ここなんですけど」とスマホの画面を見せてくる。そこには、ここから歩いて三十分位のところにある動物病院のホームページが映し出されていた。アズサさんからスマホを貸してもらって、ホームページをスクロールする。すると、『保護猫の飼い主さん募集中!』と、大きな文字で書かれた見出しがあった。タップしてそのページに飛ぶと、従業員に抱きかかえられた小さな子猫たちの写真が載せられていた。短毛であったり、長毛であったり、他より少し大きかったりと、それぞれに個性が見受けられるが、全て黒猫だった。可愛いなぁ。
「この前、道端で保護された子たちみたいで、全員兄弟なんですって」
スマホの画面をのぞき込みながらアズサさんは言う。兄弟でも毛の長さが違っていたりするのだなぁとふと思ったが、人間でも、兄弟で髪質が違っていたりするし、大したことではないのだと気づいた。
「そうなんですね。まぁ、じゃあ行きますか。事前に電話とかした方がいいんですかね」
アズサさんはハッとこちらを振り向いて「やった!」と嬉しそうに笑った。「電話は私がしておきます!」と携帯を僕から取ると、直ぐに電話をかけ始めた。少しすると「猫の保護がしたくて…。はい。はい」と、喋る声が聞こえた。僕は食べかけの焼きそばを再び口に運び始めた。
もしこの部屋で猫を飼うとしたらどうなるのだろうか。想像してみることにしたが、そもそも猫と言う存在自体、僕の人生で敬遠されていたものの一つだったため、特に何も思い浮かばなかった。強いて言うなら、排泄処理が面倒そうだというくらいだった。可愛いとは思う。
「あーっ、と。はい、はい」
バツの悪そうな声が聞こえる。アズサさんの方を振り返ると、助けを求める目でこちらを見ていた。
「すみませんちょっと待ってもらっていいですか」
携帯を耳から外す。
「身分証って、どうしましょう」
知らない。なんで持ってないんだ。
「取り敢えず、僕の身分証使いますか」と言うと「そうですね!」と言って再び携帯を耳につけた。
あぁ、やっぱアズサさんって身分証ないのか。
この二か月間で、アズサさんという存在にかかったベールが薄くなることは全くなかった。住所や経歴は勿論、彼女の戸籍やその本名。一切が不透明である。直接聞いたわけではないが、身分証を持っていない時点で答えは明白だろう。
この関係が壊れるのが怖かったから、踏み込んだことはどうしても聞けなかった。だから、ポッドから漏れる青い液体を見たことも、青い光を発する女性と同棲していることも、鶴見さんには言ってない。あの人は仕事熱心だ。今の僕には非常に都合の悪い存在なのだ。
暫くして、アズサさんは携帯を片手に再び食卓へつくと
「今日いつでも大丈夫ですって」
と嬉しそうにいう。
「じゃあ早めにご飯食べないとですね」
まっさらになった皿を片付けながら僕はいう。「あっ」とアズサさんはテーブルに寂しく残された焼きそばを慌てて口に運び始めた。
「お電話させていただきました。雨宮と申します」
受付の人に差し出すと
「あ、はい。では、子猫ちゃん達の準備ができるまで、あちらのソファにおかけになってお待ちください」
そう言って、受付の人はソファの位置を掌で示し、軽く頭を下げた。僕はアズサさんと言われたソファに腰掛けた。座った瞬間、いい椅子だなぁと思った。
入り口を正面に構える受付を左に曲がると、待合室的な空間がある。
オルゴールを水中で鳴らしたような音と、鮮やかな緑に青が行き交う水槽の深いゴポゴポという音が静かに溶け合い、混ざり、空間と一体化していた。心地のよい音だ。
三人掛けのソファが二つ、壁に平行になる形で横に並んでいて、その正面には大きな緑の引き戸があり、その横に『診察室』と書かれた札が天井からぶら下がっている。
ソファから見て正面の壁には、可愛らしい犬の写真や絵と共に『健康割引キャンペーン』『狂犬病の予防接種をしましょう』『ペットの歯科検診』などと書かれたポスターがひしめき合うように貼り付けられていた。その中に子犬や子猫と共に『保護猫の飼い主さん募集中!』と書かれたポスターが一枚あった。これを見つけたんだろうなぁと思った。僕はそのポスターを何気なく眺めていた。隣に座るアズサさんは、なんだか少し落ち着かない様子で、しきりに辺りをきょろきょろ見ていた。
水槽のゴポゴポという音が気にならなくなった頃、受付の奥から薄ピンクの服に身を包んだ三人の女医さんたちが黒い物体を二つずつ抱えてやってきた。
「おまたせしました。この子たちですね」
そう一人の女性が言うと、女医さんたちは僕たちの前に横に並んで、子猫たちを見せてくれた。僕は立ち上がり、左から順に抱えられた子猫を見て回った。
子猫は皆、片手でも余裕で持てそうなほどに小さく華奢な体を、女医さんの腕に全て委ねていた。黒い物体の中で、クリクリとした眼がこちらをじっと見つめていた。少し濁った色を混ぜたような黄色の瞳の真ん中で、黒い丸がこちらをじっと捉え、蛍光灯の光を反射していた。見つめているとそのまま引き込まれてしまうのではと思う程に、それは深くミステリアスな存在感を放っていた。
すると突然、右端の女医さんが抱えていた内の一匹が「ミィー!」と鋭く鳴いたかと思うと、するりと女医さんの腕を抜け出して肩へ上った。女医さんは直ぐにその子を捕まえ腕の中に戻したが、「ミィー!」と、再びするりと抜け出してしまった。
その子は他の子と比べて毛が長く、全身を長い毛が埋め尽くしていた。便宜上、この子を擬音語で表せと言われれば『モフモフ』というのが最も適しているだろう。僕はじっとモフ猫を見つめる。長い体毛に覆われた華奢な体。小さな鼻と、その横から生える細く長い髭。クリクリの瞳は他の子たちと同じ色で、改めて兄弟なのだと実感した。
「抱っこしてみますか?」
見かねた女医さんが尋ねる。「いいですか?」と言って、僕はモフ猫を受け取った。
小学生の頃、どっかの誰かの赤子を抱かせてもらった時のことを思い出して、両腕でそっとモフ猫を抱えた。
僕の腕の中に入った途端、モフ猫は大人しくなった。怯えているのだろうか。だがしかし、このモフモフを味わうにはもってこいな状況となった。僕はモフ猫に触れる掌に少しずつ力を加え、微小な風で舞い上がってしまう程に軽く繊細な一枚の美しく純白な羽毛を掴むときのようにそっと、手首から指先へゆっくりじっくりと触れた。柔らかく温かい感触が掌へ伝わる。モフ猫の眼がこちらをじっと見つめている。この時僕は、ペットのお腹に顔をうずめたり、声を高くして幼稚な言葉で話しかけたりする人の気持ちがなんとなくわかった。
ふと、アズサさんの方を向くと、アズサさんも子猫を抱いていた。モフ猫に比べると毛は短かった。
「可愛いねぇ。うん。うん。可愛いねぇ」
上擦った声でアズサさんはそう繰り返し、子猫の体を撫でていた。可愛いなぁ。
「可愛いですね」
アズサさんは顔を上げ、僕を見るとすぐ視線を下げ、モフ猫を捉えた。
「え、すごく可愛い!めっちゃ毛長いですね!」
「モフモフです」
「アハハホントだーモフモフしてる」
するとアズサさんは、女医さんに頼んで子猫を持ってもらうと
「モフモフ持ってみてもいいですか?」
と訊いてきた。僕はモフ猫をアズサさんにそっと渡す。「うわぁぁぁ」と小さく声を漏らし、僕を見て
「モフモフです!」
と言った。僕もアズサさんの子猫を抱いてみることにした。短毛猫だ。毛が短い分、体の小ささや体温、呼吸までもがモフ猫よりも伝わってきた。
「どうです?決まりましたか?」
女医さんが尋ねる。
「いやぁ、そうですね…」
僕はどちらにするか決めあぐねていた。助けを求めるようにアズサさんに視線を向けるも、アズサさんも同じように僕に視線を向けていた。アズサさんも僕と同じなのだろう。すると、アズサさんは、相手の機嫌を伺うような顔で言った。
「あの、二匹飼うのはどうですか…?」
「え、二匹?」
考えてもいなかった。確かに二匹飼えば、どちらかを断念するという苦渋の決断を強いられることは無い。だが僕は素直に「そうですね」と返事をすることができなかった。
初めての猫、ましてや小さな子猫だ。猫に限らず動物全般の飼育と真剣に向き合ってこなかった僕にとってそれは完全なる未知の領域であり、背中にへばりついた『不安』の二文字がどうしても拭い切れなかった。
ふと、遠い過去の記憶がふと蘇る。眩しい日差しをもろともせずに外で走り回ったり、手で画面を覆いながらゲームをしたり、途中で枯らしてしまったアサガオの観察日記、数日で書くのをやめた日記帳の今日のお天気に苦戦していたあの頃。毎日が多忙で、長く短く、二度と味わうことのできない不思議で、思い出すと胸が少し寂しくなるあの頃。
祖父の軽トラの荷台に乗せて連れてってもらった雑木林で捕まえた、大量のカブトムシとクワガタ。その日のうちに近くのホームセンターで虫かごと昆虫ゼリー、添え木にマットを買ってもらい、早速彼らの住処をつくってあげたが、ものの数日で興味の対象は移行して、更に数日後には炎天下で放置された虫かごから腐った干物のような悪臭がしていた。
その時の僕は特に何も思わなかったと思う。その理由に、翌年もまた同じように捕まえてきては同じ末路を辿っていたからだ。
それが今になって突然、僕は思い出してしまった。さっきまでなんともなかったのに、途端に不安の二文字が現実味を帯びてきた。目の前の子たちを僕は、しっかり育て上げることができるのだろうか。この子たちが満足することができる生活を提供してあげられるだろうか。ていうか僕の収入で何とかなるのか?アズサさんとの二人暮らしに加えて猫が二匹も加わるなんて。
やっぱり断ろう。二匹はやっぱり不安だ。そう思った時だった。
「この子たち、まだ小さいからすごく寂しがり屋なんですよ。だからできれば、二匹で飼っていただけると、この子達たちも寂しくないと思うんですよ」
女医さんの言葉は、僕の胸にすっと溶け込んできた。
「それに、恐らく一人だと寂しくて夜中ずーっと泣いちゃうと思うんです。なので、こちらとしては二匹飼っていただくことを推奨させていただいております」
女医は続ける。
「それに、雄と雌だから相性もいいですよ。性別が同じだったりすると結構中悪くなっちゃったりすることもあるんですけど、性別が違うと年とってもずっとふたりでいたりもするんですよ」
アズサさんは何も言わず、ただ不安そうに僕を見ていた。
僕の決断に、全てが委ねられている。やはり不安は払拭できない。
ただ、この子の幸せを第一に考えるべきだろう。しかし、この幸せの定義自体、僕の客観的立場から見ようとした主観的な価値観の押し付けでしかない。でもどうせ押し付けるなら、自分本位の価値観より、相手本位で考えようとした自分本位の価値観の押し付けの方がましだろう。
「ミィー」
僕の腕の中で、短毛猫がこちらを見上げて鳴いた。
僕とアズサさんは互いに大きなゲージを抱えながら、家路を歩いていた。
「ねぇ、雨宮さん」
アズサさんはこちらに視線を向ける。
「なんですか?」
「なんで車買わないんですか?」
アズサさんは「んしょ」と片足の太ももにゲージを乗せて器用にゲージを持ち直す。
「別に車がないからって特に不便に感じることがないからです」
「ふーん」
アズサさんはそうぶっきらぼうに言い、視線を前に戻したかと思うと
「これは不便じゃないんですか」
アズサさんは再びこちらに視線を向けて、自身が抱えるゲージを僕に見せつけるように胸辺りまで持ち上げる。
僕が返答に困ってもごもごしていると、アズサさんは「アハハハハ!」と笑って「やっぱり不便なんじゃないですか」と可笑しそうに言った。
さて、当初の予定資金を大幅に超えてしまった。でもまぁ、何とかなるだろう。
僕はまた、目の前の問題から目を逸らしてしまった。隣でモフモフの入ったゲージを抱えて歩く君からも、僕は目を逸らしている。
僕が君をぼうっと見つめていると君は、君をゲージの中から見上げるモフモフを見つめて笑う。
その笑顔がどうしても可愛くて、愛おしくて、僕はやっぱり君から目を逸らしてしまう。でも、それでいいような気がする。
君は不思議で、その一切が不明瞭なまるで創作のような存在。それでいいじゃないか。この子猫だって、誰が産んだのか、どんな血が混ざってるのか、何を考えているのか、全くわからない。
決して君と一緒だと言いたいわけじゃない。でも世の中、結構いい加減でもなんとかなっているのだ。うん、そうだ、大丈夫。
八月の中頃。この頃から朝方の陽は少々鬱陶しくなる。例えるなら、腹回りのぶってりした肉が、白いシャツにだらしなくもたれかかり、その形にシャツが張りなおされているおっさんに、体全身を執拗に嬲るように触られて、猛烈な拒絶と嫌悪感に苛まれて起きる感じだ。それにこのおっさん、一言も発さないから余計にたちが悪い。喋られれば交渉という手もあったのだが。やりようのない不満を晴らすようにして、腹を包むようにのっかる薄手の掛布団を思い切り剥ぐ。
七月の始め頃だろうか。おっさんは突然、僕の前に現れる。少しその存在感を匂わせるだけで、特に僕に直接触れたりはしないのだが、日が経つにつれておっさんの徐々に僕に対するスキンシップが激しくなる。このままいくといずれ頬ずりでもされそうな気がする。
そういうときの寝起きは本当に最悪だ、。この世の全てが無性にムカつく。この時期の寝起き以上に気分が優れないときは無いと思う。ふと目を擦ろうとしたが、止めた。顔に触れるにはまだ早い。
こういう時に人と関わるとロクなことにならないことを誰よりも理解している僕は、隣でスゥスゥと静かに寝息を立てるアズサさんを尻目に、浴室へ向かった。
Tシャツを脱いで、膝上までしか丈のない短パンとゆとりのあるトランクスを区別せずに一度に脱ぎ、かごに放り込んで浴室へ入る。
シャワーヘッドから勢いよく放水される無数の線は、一つの大きな水の集合となって、おっさんの染みつくようなあの感触を綺麗に流してくれる。大量の水流が頭から首に、そして胴から腕、脚に枝分かれして伝う。そして、僕は起きてから初めて顔に触れた。手を器のような形にして水を受け止め、顔に思い切りかけて、その勢いのままに顔を擦る。何度か繰り返してから、石鹸を使って本格的に洗顔をする。ネットを使ってこれでもかと泡を立て、それを手で掬い、そっと顔を包む。全体を泡で包んだら、目の周りや鼻周りなどの、不快に感じやすい細部を重点的に擦る。それが終わったら、シャンプーで髪を洗い、目の粗いタオルに石鹸を擦りつけて、体全身を擦る。
十分だと思ったら、またシャワーで全身を流す。まず初めは頭だ。頭を流すとなんだか思考が醒める感覚がして、それが少し癖になっているのだ。次からは特にこだわりはなく、特に意識することなく全身を洗い流す。
この際に、僕は歯磨きも済ませておく。寝起きの口の中はねばねばしていて、納豆を混ぜた時の糸が口腔全体に広がっている気がして気になって仕方がないからだ。ただ、今の場合はそれ以上に、気にすべき相手がいるというのが大きな理由ではある。
浴室から出て、軽く体を拭いたら、またさっき履いていた下着を履く。その時、僕は着替えを持ってきていないことに気づいた。アズサさんに見られないよう、起こさないよう、そっとパンツ一丁で扉を開けてリビングへ向かおうとした。
「あ、おはようございます」
アズサさんは布団の上でちょこんと座って、扉に手を掛けそっと扉を閉めようとしている僕を見ていた。終わった。
僕は弁解することもなく急いで箪笥へ向かい、手を突っ込んだ先にある適当な衣服を身に着けた。白色の無地のTシャツに、デニムの長ズボン。いかにも無難で、普通な格好だ。
「別に恥ずかしがることないじゃないですか。今更」
薄手の掛布団を体に巻き付けたアズサさんはニヤニヤしながら僕を見る。
「いや、恥ずかしいですよ」
「なんでですか、別に雨宮さんの下着に何の価値もないのに」
「急に毒つきますね」
「別に。普通のことを言っただけですよ。それと、自分の下着姿を見られるのが恥ずかしいのって、私が雨宮さんの下着に興味があると、雨宮さんが思ってるからですよね。言っときますけど一切興味なんてないですから。自意識過剰じゃないですか?」
「えっ」
僕の戸惑いの呟きを無視してアズサさんは布団から体を伸ばして、その枕もとでちょこんと座って主人の起床を待つモルの体を優しく撫でた。甘く甲高い声でアズサさんは「モルちゃーん」とモルに語りかけるが、本人は何も反応はせず、ただその手を心地よさそうに受け入れていた。
あの後、無事に飼われることとなったモフ猫と短毛猫はそれぞれ『モル』『クル』と名付けられた。
最初の頃は僕たちを警戒して、部屋の物陰の隅から様子を伺うだけだったが、一週間もすると平気な顔して部屋を駆け回るようになっていた。よく見ると、モルは鍵しっぽだった。最初ははずれくじを引かされたような気がしていたが、段々とその短いしっぽが可愛く見えてきた。それは、モルのモフモフとしたその毛が大きく起因しているだろう。しっぽが短くてモフモフだと、狸のようだなぁとふと思う。
アズサさんはモルを少し撫でるとその手を離し、意を決したように「ふぅぅぅぅ」と両腕を天へ上げると、のそりと立ち上がった。するとモルは何かを察したように、台所の餌場に走った。すると突然部屋のどこからか現れたクルも、モルの後を走った。
アズサさんが朝のカリカリをあげるようになってから、猫たちのアズサさんに対する認識が『カリカリをくれる奴』となったのだろう。毎朝、気づくとモルはアズサさんの枕元に座っている。
チャララララ。小さなカリカリのステンレス製のご飯皿に流れる音が、早朝の寝ぼけた雰囲気に包まれたリビングに広がる。モルは待ちきれないのか、甲高い声でミィミィと何度も鳴いている。カリカリを皿に流し終わったアズサさんが、壁の下の方に着けられたカリカリ皿ホルダーに皿を嵌めると、モルとクルは待ってましたと言わんばかりの勢いでそのカリカリを食べ始めた。
「こんなに慌てて食べて、別に誰も取ったりしないのに」
カリカリを食べるモルたちの後ろにそっと膝を下ろしたアズサさんは、その食事風景を眠そうに眺めながら言うと「もっと味わって食べたらいいのに」と続けて呟いた。
猫はご飯に対して味わうといった『楽しみ』的な感情は全くないらしい。ご飯とは生きる上での食料であり、単なるエネルギーの補給に過ぎないのだという。そのため、猫は競争をしているかのように慌ててご飯を食べるのだと、アズサさんに言おうと思ったが、それはただの嫌な奴だという事に気づいて止めた。
「じゃあ、僕たちも朝ご飯食べますか」
「…はぁーい。今日はぁ、ジャムで」
めんどくさそうな間を感じさせながらアズサさんはそう言って、ゆっくりと立ち上がり、目を右手で数度擦ると、リビングの真ん中のテーブルの奥に座った。
僕は洗濯ばさみで留められた袋から、四枚切りの食パンを二枚手に取り、洒落たパステルカラーの、角が丸みを帯びたオーブントースターに並べた。つまみを回すと、トースターの中が薄く赤みを孕んだ橙色の暖かい色に染まった。
元々使っていたのは真っ黒の角ばったもので、駅前の家電量販店にて在庫処分半額で投げ売りされているものを僕が買ってきたのだ。
数週間前、いつものように朝食にしようとトースターに食パンを並べ、トースター正面の右下に取り付けられたつまみを回したときだった。「じじじじじじじじじじじじ」と心を擽る音が耳と手に伝わる。だが、肝心のオーブンの中は暗いままで、橙色の暖かみある光には包まれなかった。コンセントが抜けているわけでは…ない。つまみはちゃんと回ってる。じゃあ何だ。急にどうした。
「寿命じゃないですか?」
隣には眠そうなアズサさんが立っていた。・
「寿命って、そんなに経ってないですよ」
「いつ買ったんですか」
「…もう5年にはなるか」
「じゃあ寿命じゃないですか?」そう言うとアズサさんはリビングのテーブルに戻る。「それにこの子、五年間無休で働いてくれたんですよね?」
「いや別に毎日ってわけでもないけど、まぁ、そうだね」
「十分でしょ。じゃあ今度の休みに、買いに行きましょ」
アズサさんは淡々としていた。一方僕は、五年を共にしてきたトースターとの別れに寂しさを感じ耽っていた。心は小麦を大量に混ぜ込んだ重い液体に包まれじわりじわり沈んでいく気がした。
そこで買ったのが、この無機質な空間で唯一無二の存在感を放っているこいつだ。必要最低限の性能を持った拘りの欠片もない家具と家電が居住スペースを圧迫しない程度に陳列されたこの空間で、こいつの存在は少し特殊なものとなっていた。学校で話したときは楽しかった友人も、外で遊ぶと思っていたほど盛り上がらないみたいな感じだ。
何故盛り上がらないか。それは、学校という世間と隔離された空間内であったからだ。お洒落なカフェで高い金を払って飲むコーヒーは、自宅で同じコーヒーを飲んでも決して同じ味になることは無い。それは舞台によって演出がなされているからだ。
それ故に、学校で会う友達と、世間の中で会う友達とでは少し差があるのだ。まぁ、学校と世間で友達が違って見えて、新鮮で楽しいと感じるかもしれないが、今回の場合ではそれはマイナスに作用している。そのマイナスを凌駕するほどの友情があれば問題ないのだが、生憎僕はこいつに一切の愛着がない。
長々としたが、平たく言ってしまうと、『浮いている』のだ。
こいつに一切の興味も愛着もない僕にはこいつの存在が違和感に感じて仕方がないのだが、このトースターを選んだ張本人は大層気に入っているようで、買った日から一週間近くは「自分がやる」と食パン両手にトースターと戯れる程だった。
「チン」と弾むような音が鳴る。トースターを開けると、食パンの甘く淑やかな匂いが香る。さっきまでフワフワと柔らかかった頃の繊維の面影はどこへやら。その表面は別人のように固く焼けている。バターをバターナイフで掬い、表面をなぞるように塗布していく。バターナイフが焼けたトーストの上をジャリジャリと軽快な音を立てながら滑る。このバターを一度パンに馴染ませることで、トースト一枚の味気ない食卓も一気に豪華絢爛になり、味も見た目もより磨きがかかり、品の高いものとなる。溶け馴染んだバターの光沢に包まれるトーストは、一流のホテルで提供される朝食を彷彿とさせる。そして、その上にジャムを悪びれもなくふんだんに塗りたくる行為は、世間一般では愚行とされるのだろうか。
マグカップに牛乳を注ぎ、ジャムトーストと一緒に食卓へ持っていく。
「できましたよ」とアズサさんの前に置くと、「ふわぁぁぁい」と気の抜けそうな声が返ってくると、手のスマホを置いて食卓に向き合った。
僕も自分のジャムトーストと牛乳を並べ、アズサさんの隣に座り、正面のテレビを点けた。薄く化粧をした綺麗な女性が、自分の顔と同じくらいありそうなパフェの端を、小さなスプーンで掬って美味しそうに頬張っていた。
「今日はどこに行くんですか?」
ジャムトーストを頬張るアズサさんは、テレビを見ながらそう訊く。
「駅前です」
「また青い液体ですか。それって結局、都市伝説じゃないんですか?」
「いや、えっと、どうなんでしょうね」
僕は煮え切らない返答をする。
ハッキリ言おう。僕は青い液体の存在を信じていない。
あのスレを初めて見た時は確かに興奮した。今までの常識が一変する気がした。世界を揺るがせる気がした。それくらい僕には熱があった。
だがそれ以降、青い液体に関するスレの勢いは徐々に衰退し、最初こそネットニュースに取り上げられもしたものの、今では時々、青い液体に関するスレがほんの少し動くだけで、世間からは忘れ去られたかの如く、その存在は薄く透明なものに限りなく近づいている。当たり前だ。あの騒動からもう半年近く経っている。
だがしかし、この気持ちを口に出すことは無い。口に出せばそれは実に軽く、今までの半年という時間が一瞬にして無に帰す気がするからだ。存在が形すら掴めない不明瞭なモノを盲目に追いかけ続ける以上、自分自身も盲目でなければならないのだ。そこに現実的な視点は一切必要無く、大事なのが単純で愚直な思考回路のみだ。
ふとテレビの左上に表示されている時計に目を向けると、普段であればもう出発している時間を表示していた。僕は慌てて残りのジャムトーストを詰め込んで、牛乳で流し込みながら玄関へ向かった。
「気を付けてくださいねー」
玄関まで来てくれたアズサさんが手を軽く振りながら言う。
「うん。行ってきます」
僕は玄関の扉を開ける。夏の熱気が外気に押し出されるようにして室内に流れ込んでくる。
「うっわ、暑っ」
そう言うとアズサさんは足早に玄関から離れた。リビングの方から「ピー」とエアコンが起動する音がする。僕はそっと扉を閉めた。街をギラギラと照り付ける太陽が、僕に笑いかけてくれている気がした。
いつもと同じ、駅ビルのカフェに入る。カランカランとドアの上の方に取り付けられた鈴が軽快な音を店内に響かせる。「いらっしゃいませ」と入口正面のレジカウンターに立つ大学生くらいの見慣れた男が僕に小さく頭を下げる。僕も軽く会釈を返すと、男は視線をこちらに戻し「あちらでお待ちです」といつものように案内をしてくれた。朝方のカフェはこの男が仕切っているのだろうか。いつ行ってもこの男がレジカウンターに立っている。いつしか僕はこの男の名札の『酒井』の文字に親近感を覚えていた。
酒井は僕を鶴見さんの腰掛ける窓際の席に案内すると「アイスコーヒーですよね?」と訊く。「あ、はい」と答えると「少々お待ちください」とまた小さく頭を下げ、レジカウンターの方へ戻っていった。
「すっかり常連だな」
窓から遠くを物憂げな表情で眺める鶴見さんが呟く。物憂げに見えているだけで、実際はただ暇なだけのことを僕は知っている。
「もう半年ですもんね」
鶴見さんの隣に腰掛け、僕も同じように物憂げそうな表情で遠くを眺めることにした。朝の照り付ける日差しを浴びるスーツ姿の者どもを、冷気に包まれた心地よい空間から眺めている自分が、何となく様になっている気がして、ほんのちょっとだけかっこいいと思った。
少しして、酒井がアイスコーヒーを僕の前にそっと置いた。「ごゆっくりどうぞ」とそっと告げると、またレジカウンターの方へ行った。
「アイツ、いつもいるな」
鶴見さんは変わらずどこか遠くを眺めながら呟く。
「あぁ、鶴見さんも気になってたんですね」
「当たり前だろ。いつ行ってもアイツがいるんだからな」
「僕なんて、何も言ってないのにアイスコーヒーだって分かってるみたいですよ」
「それだよ。それが気に入らないんだ」
鶴見さんは今日初めてこちらに顔を向けた。ふと自分も「おはようございます」と言っていないこと気が付いたが、今更だなぁと思い、黙ることにした。
「気に入らないって、何がですか」
「だから、頼んでもないのにアイスコーヒー勝手に持ってきたり、窓際のカウンター席に案内したり、後はあれだ。入店したときに「あ、来ましたね」みたいな小さい笑みを浮かべたりするところだな」
「常連みたいな扱いをされるのが嫌なんですか?」
「そうだ。頼んでもいないのに。鬱陶しいったらありゃしない。それも居酒屋とか、俺と同じくらいのおっさんに常連扱いされるならまだしも、あんな若い奴に、ましてやこんなオシャンティーなカフェでそんなのされてみろ。俺は究極の恥辱を現在進行形で味わっているのだぞ」
鶴見さんは続ける。まずい、スイッチが入りかけている。
「大体、あの男が調子に乗ってるんだよ。毎朝来てる奴がいるから常連だな。じゃあ常連扱いしてやろうとか、どうせそんなとこだろ。常連扱いしてあげて、スムーズに常連の意を汲み取ってあげてる俺マジでかっこいーってか。実にくだらない」
当たり前ではあるが、鶴見さんの意見に矛盾はない。これは、鶴見さんの個人的な見解であり、意見。つまるところの感想である以上、そこに正解不正解は存在せず、それに対して僕は討論の場に持ち込むことは出来ず「あぁそうですか」と、いかにも興味のなさそうな返事しかできない。
ただ、この感想に僕の感想を述べるとすれば、「自意識過剰甚だしい」と言いたい。あの酒井とかいう男にとって僕たちは『毎朝来店してカウンター席に座ってアイスコーヒーを飲む人たち』程度の認識であり、そこに自分に対する承認欲求など一切存在しない。皆無だ。
何故言い切れるのか、それは僕のああいった人間に対する確固たる見識があるからだ。
中学時代、僕はクラスの中でも特に影を潜めているわけでも、表立って何かに興じるわけでもない。ただ流れに身を任せるだけの意思を持たない集合の一部だった。
互いの利害関係の一致からつるんでいるだけの奴らと軽く薄味の交流をし、一週間前から夜更かししてテスト勉強をして、好きになった女の子が気づいたらクラスのイケメンと付き合い始め、体育祭ではこれといった成績を残すことはなく、かといって足をひっぱるわけでもなく、修学旅行ではさっきの奴らと舞台が変わっただけの普段と変わらない時間を過ごし、気づけば卒業式で二か月前くらいから歌わされていた歌を歌い、最後の帰りの会で周りが目に涙を浮かべ、みっともなく声を上擦らせる中、僕だけは目も喉も乾いたままで、不安になって意味もなく「卒業しても遊ぼうな」なんて言って、最後の方が白紙のままの卒業アルバムを抱えて家路についていた。
退屈で繰り返しの味気ない中学時代で僕は、唯一の娯楽があった。人間観察だ。
といっても、心血を注いでいという程ではなく、クラスの何気ない瞬間に周りを見る程度だ。これだけでもクラスメイトはそれぞれが数多の表情、行動の違いを見せてくれる。
例えば、授業中に突如ゴキブリが姿を見せた時。授業中であれ構わずに騒いでいるような女の子は両足を椅子の上に上げて体育座りになると、両手を耳に当てて俯き「キャーーーーー!」とこっちが思わず耳を塞ぎたくなってしまうほどの金切り声をあげていた。一方、クラスでは比較的目立たない物静かそうな女の子はゴキブリをしっかりとその目で捉え、どこにそいつがいるかを常に把握しながらも、静かにそいつから遠ざかるように後ずさりをしていた。他にも、慌てふためく奴や、柄の長いT字型の箒を片手にそいつを討伐しようとする奴、席に着いたまま特に騒ぎもせずじっとそいつを眺めている奴なんかがいた。
鶴見さんの酒井に対する印象として最も近いのは、箒でゴキブリを討伐しようとする奴だろう。
クラス全体が各々の感情を爆発させる中、その熱に浮かされ自分を渦中のヒーローと錯覚してしまうような愚か者だと鶴見さんは思ったのだろうが、そんなことは無いと思う。それに、酒井は恐らく二十代前半、もしかしたら十代なんて可能性もある。そこまで生きていれば、ある程度の大人としてのポリシーは持っているはずだ。そんな幼稚で矮小な価値観を引きずっているわけがない。
酒井はただ、仕事に勤しんでいるだけ。その中で見つけた僕たちにサービスを提供しているだけ。そこに彼の私利私欲は一切関与していないと僕は思う。
しかし、これもただの感想だし、ましてや憶測の域に留まっているような薄っぺらい意見なのだ。だから僕はこれを鶴見さんに話すことは無い。どうせ話したところで「そういう自分に酔ってんだよ。自己陶酔ってやつだな」とか、分かり切った顔で言うに違いない。
気づけば、夏の陽は青々とした空に天高く昇っている。駅を歩く人々は日傘をさしたり、手で視界の上を覆ったりと、それに冷たい対応をしていた。屋内のカフェも例に漏れず、特に窓際の僕たちのガラスのコップは、大量の水で濡れていた。
「今年の夏は異常だな」
鶴見さんはコップを持ち上げてアイスコーヒーを飲む。持ち上げられたコップの底の縁から、結露した大粒の雫が何粒もボタボタと木目調のカウンターに落ちた。ふと視線を自分のアイスコーヒーに落とすと、さっきまで大きくコップの大半を占めていた氷は小さく丸まっていて、心なしかアイスコーヒーの色は薄く見えた。
「そうですね」
僕もアイスコーヒーを喉に流し込む。アイスコーヒー風味の水を飲んでいるような感じがする。例えるなら、コンビニの桃風味の水みたいな、パッケージに桃と書かれているから桃と認識できるみたいな感じだ。
しかし、この味にも慣れた。最初こそ薄いと思ったものの、今となってはこの味に親しみまでは覚えていないものの、「あぁ、この味か」と口に出さず、体内で完結できるほどまでになった。
こうして窓から人々を眺めている間、鶴見さんともこれといった世間話を交わすことも少なくなった。同じ席から見える変わらない景色、上限を知らない気温、いつもと同じ店に、同じ店員。話題が尽きるのは時間の問題であり、その問題はとうの前に僕たちに直面していたのだった。
「本当にいるんですかね。青く光ってる人なんて」
何気ない会話のつもりだった。ただ、この人にとっては何気ないでは済まないことを、僕は言った直後に気づいた。慌てて鶴見さんの方を振り返ると、鶴見さんは僕をじっと見ていた。
「本気で言ってるのか」
その声色は重く、鶴見さんの目は僕を捉えて離す様子はなかった。僕はその視線から逃げようしたが、その視線に固定されているかのように動けなかった。喉が異常に乾いている気がする。アイスコーヒーが飲みたい。だがコップに手が伸びない。刹那、脳内を『まずい』の三文字が侵食し始め、瞬く間に埋め尽くされた。
「いや、あの、えっと」
弁明しようと絞り出した言葉は、ただの言葉で、この状況を打破するわけでも、悪化させるわけでもなかった。僕の目線は鶴見さんを捉えて動かない。代わりに、カウンターの下で燻ってる両手の指はその緊張をほぐそうと、ジーパンをなじるように動いていた。
「まぁそうなる気持ちもわかるさ」
そう言って鶴見さんは残り少しのアイスコーヒーを飲みほした。
意外だった。場所なんて気にせず、店員から仲裁が入り出禁を言い渡されるまで怒鳴られると思っていたから、まさか寄り添われるとは思っていなかった。
「す、すみません」
さっきよりもスムーズに言葉が出た。
「いや、いいよ。俺こそすまんな」
鶴見さんは片手を軽くこちらに上げる。そして鶴見さんは一拍置いて、少し笑いながら続ける。
「最初は怒鳴りつけようかと思ったけどよ、まぁ俺も思ってたことだしな」
あ、思ってたんだ。
「まぁ、雨宮の言うとおりだ。もう無理だな。こんだけ探したのに、青い液体に関するものは一切見つかってねぇし、今でも熱心になってる奴なんて、俺らしかいないだろうしな」
鶴見さんはそう言うと背もたれに背中をなぞるようにして、両手を上げて大きく毛伸びをした。毛伸びしすぎて頭が背もたれの位置まで下がって、お尻は既に座面から外れていた。
ここまで卑下されると、なんだか申し訳なくなってくる。なんと言えば分からなくて僕は逃げるように外に目をやる。
――いた。青く光る人。
正確には、その人は黒い日傘をさしていて、その日傘に青い光が透けている。上から眺めている僕には、黒い日傘しか見えず、肝心のその人が見えなかった。
「つ、鶴見さん、青い、青いです!」
僕はさっきと変わらず背もたれにもたれかかる鶴見さんの肩を何度も叩く。
「な、なんだよ急に」
「青い人ですよ!青く光ってる人!」
鶴見さんは最初、突然興奮した様子で話しかける僕に困惑していたようだが、青く光ってる人のことを伝えると、がばっと体を起こし、前のめりにガラスから下を覗いた。
「ん…」「うん?」
「ほら、あのベンチの近くの」
「あ、あぁ…あ?」
「あ、やばいやばい階段降りちゃう」
「か、階段?」「あ、あ、あぁ!いた!いたぁ!」
気づいたようだ。こんなに興奮してるんだから、スッと気づいてほしかった。なんか恥ずかしい。
「お、おいおい!行くぞ!どっか行っちまうぞ!」
鶴見さんは慌てて席を立ち、出口へ大急ぎで走っていった。まばらにいる他のお客さんはそんな鶴見さんを不思議そうに見ていた。
階段を下りた先はロータリーとなっていて、タクシーやバスの停留所などがある。恐らく青く光る人はどこかに行くのだろう。その前にどうにか捕まえないと。
僕も鶴見さんの後を大急ぎで追いかける。店を後にしようとしたとき
「あの!会計してください!」
後ろから、聞きなれた声が聞こえた。僕は足を止めて振り返り、困惑する酒井に「すみません」と頭を下げながらレジへ向かった。
全力で走るのなんて何年ぶりだろうか。遠く朧げな記憶を手繰り寄せて、僕は当時を再現するようにして、腕を大きく振って走っていた。
両足はビタビタと激しく鈍い音を立てる。無意識に口呼吸へシフトし、ゼヒュゼヒュと声が出る程に荒い息が漏れている。顎は段々と上がり、それに伴い目線もやや上から見下すようになる。
苦しい。体全身がその叫びを呼吸や痛みを介して伝えているのに、それらと思考は隔絶されているようで、僕の頭は暢気に、小学校最後の持久走で、ゴール目前で転んで、その際に足を挫いて上手く走れずに最下位に転落し、涙と汗と土とでぐちゃぐちゃに汚れたときの一部始終が再生されては巻き戻され、また再生されていた。
北口の広場へ出ると、灼熱にも関わらずおっちゃんはギター片手に下手な歌を誰も居ない空間へ披露していた。その呑気な様子に無性に苛立ち、不意に立ち止まる。
その向こう、ロータリーへと続く階段には鶴見さんがいた。まさに今、階段を降りようとしているところだ。その顔からは焦りや、期待、疲労などの色が見えた。鶴見さんは僕に気づくことなく、駆け足でその階段を駆け下りていった。僕もそのあとに続くべく、慌てて駆け出した。
階段を降りると、そこには鶴見さんと青い人がいて、鶴見さんの方が必死に話しかけているようだった。鶴見さんが青い人の腕をつかむ。青い人は鬱陶しそうにその手を振りほどき、停留所へ歩き出そうとする。鶴見さんは青い人の進路に先回りして、どうにかしていかせまいとしていた。このままではどこかへ行かれてしまう。僕は慌てて彼らの下へ駆け寄る。鶴見さんのほんの少し斜め後ろに立ち、二人の会話を遮らないようにした。そこで僕は気づいてしまった。いや、実は階段を下りたあたりから、薄々感づいていた。青く光っていたのはその人ではなく、傘の方だった。傘の骨組みが放射状に広がるその根元部分に、青く光るライトがつけられていた。上からではなく、対等な目線に立って見れば、空に向かってライトを照らしているだけだとわかる。行動こそ意味は不明だが、僕たちにとってはこれ以上ない絶望を与えてくれた。
「いえあの、ですから先ほど上から見ていたんですけど、青く光ってたんですよ。だからその、青い液体とか、いやまぁ、その興味があって、少しお話していただけないかなって」
鶴見さんはまだ諦めていないようだ。普段からは想像もつかない程にたどたどしい口調で、腰を低く折り曲げ、不審な雰囲気が全開だ。
「いや、あの、申し訳ないですけど本当にいいんで。さっきからよく分かんないし。別になんでもないですから。じゃあ、私急いでるんで」
突然話しかけてきた僕たちに不信感を隠す様子もなく、その人の声は冷たく淡々としていて、特に強い言葉を使ってないからこそ、その冷たさは現実的な痛覚を有していた。僕が話しているわけでもないのに、何故か心がキュッと締まる感覚が襲う。
「あ、あのすいません。ちょ、ちょっとだけ、本当にちょっとだけですから」
ツカツカと怒りの色が読み取れる音をヒールから出しながらその人は、足早に停留所へ歩き出した。鶴見さんはそれを再び追いかけようとしたので、僕は「鶴見さん」とその腕を掴んだ。もう無駄だ。これ以上やったら、あの人に申し訳ない。
「おい、放せ」
「鶴見さん、違いますよ。あの人は光ってなかったじゃないですか」
「んなもん分かってんだよ。だけど青いライト照らして歩いてるなんて、意味分かんねぇだろうが。それもこんな快晴の日に、ましてや天に向けて。こんなの絶対何かあるに決まってるだろ」
「確かに何か、あの人にとっての意味があるんでしょうけど、それは多分僕たちにとってはあまり、意味がないことだと思うんです」
「お前、あれが青い液体のキーだって可能性もあるだろうが」
「青い液体って言って、あの人本当に何も知らないみたいな反応してたじゃないですか」
「嘘の可能性だってあるかもしれないだろ」
もうダメだ。これ以上何を言っても、その人が青い液体に一切関与していないと証明することができない。しかし、あれ以上引き留めたとしても、それは迷惑行為に該当する気がするし、その人が一声上げれば既に成立しそうなところまで来ていた。あそこで制止したのは間違っていなかったと思う。ただ、今までずっと、一緒になって青い液体を追いかけてきていたから、僕はなんだか言うのが怖くて、どうしようかとこの期に及んでもその決断を下せずにいた。その時だった。
「あの人は青い液体と何にも関係ありませんよ」
後ろを振り返ると、そこには酒井が居た。さっきと同じ、カフェの制服に身を包んでいる。目の前で起きている現実に理解が追い付いていないのか、鶴見さんは落ち着かない両手でしきりに頭や腰を掻きながら、え。いや。は。の三つの単語を壊れたように繰り返していた。僕も理解が出来ず、そんな鶴見さんを眺めながら酒井の様子を伺っていた。酒井はただボーっとこちらを見ているだけで、突如として現れた自分に慣れるまで待ってくれているようだった。
「やっぱり青い液体のこと、気になってるんですね」酒井は突如話始める。「じゃあ、教えてあげますよ、ついてきてください。アズサさんのことも話したいですし」
――こいつ、アズサさんを知っている
僕は喉を締め付けられるような感覚に襲われた。声を出そうにも、かすれて声が出ない。無意識に喉に力が入ってしまっているのだ。
「おい、アズサさんってなんだよ。おい、なんだそれ、なぁ雨宮」
僕は鶴見さんと目を合わせることができなかった。僕はただ俯いて、何も言えなかった。
「まぁそういう話はいったん置いといて、まずは行きましょうか」
すると酒井は近くに停まっていたタクシーに向かい、助手席に乗り込んだ。僕はどうしていいか分からず、その風景をただぼんやりと眺めていると「おい、何してんだ。行くぞ」と鶴見さんが僕の肩を強めに叩き、酒井の乗るタクシーへ向かった。僕も、鶴見さんの後を重い足取りで追った。ふと、朝のアズサさんの眠そうに送る顔が脳裏をよぎった。
助手席の後ろの後部座席に僕は座る。運転手は、僕が座ったことを確認すると手元のスイッチを押して、ドアを閉めた。
「ではお客さん、どちらへ」
運転手は酒井と僕を交互に見ながらそう尋ねる。僕はどこに行けばいいかわからなので、この人に来てくださいと、目線を酒井に向けて運転手に訴えた。
「あぁ、じゃあここにお願いします」
酒井はそう言って、ポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出し、丁寧に広げ、A4 位のサイズになったそれを運転手に渡した。運転手は慣れた手つきで正面の液晶に住所を打ち込むと、静かに車を発進させた。
この段階で僕が分かっているのは、僕の酒井に対する見解は、恐らく間違っているという事くらいだ。
僕はドアに頬杖をついて、窓を流れる景色を横目で眺めていた。眺めているとはいえ、流れる景色を眼球に映しているだけなので、細かい情報は一切脳へ伝達されなかった。
車内は沈黙に包まれていて、その空気は少し重かった。かといってこの空気が耐えられない程苦しいというわけでもなかった。各々考え事をしているからだろうか。鶴見さんはさっきからずっと黙って、神妙な面持ちで窓から遠くに視線を向けている。酒井も同じように遠くを見ているようだ。ただその顔は神妙の欠片もなく、言うならば『よくわからない』表情だった。呆けているように見えるが、相手が相手なので、何を考えているか掴めないのがとにかく不気味で仕方なかった。
色々話したいこともあったが、アズサさんのことがバレていることもあり、下手に沈黙を破れないので、僕はこの束の間の無の時間を継続させることにした。窓を流れる景色は、全く様変わりせず、ずっと無機質な建造物を映していた。「ここらへんも昔は緑がたくさんあったんですけどねぇ」と呟く運転手に返事が来ることは無く、その空気感の違う言葉だけが車内に浮いていた。
「着きましたよ。お客さん」
運転手の声で僕はハッと目が覚めた。途中でまばらに緑が見え始めた辺りから、記憶が曖昧だ。鶴見さんは窓から周りの景色をキョロキョロとせわしなく見ていた。酒井は「じゃあこれで」と一万円札を何枚か手渡して「おつり入りませんから」と運転手に一瞥してタクシーから降りた。それと同時くらいで、後部座席のドアが開かれたので、僕は運転手に軽く会釈をして降りた。
タクシーを下りるとそこは、林に囲まれた原っぱの真ん中だった。そこは陽に照らされていて、地面は生き生きとした緑色の芝で染まっていた。この先は行き止まりで、これ以上先には行けないようだ。タクシーの後ろには、僕たちがやってきた道が木々の間に細く伸びていて、原っぱは車がちょうど方向転換できるくらいの広さだった。周囲には細くも太くもないような木々が隆々と聳え立っており、ふと見上げると、青空が澄んで見えた。風に吹かれて、木々がざわめき立った。
「なぁ、どこだよここ」
鶴見さんは辺りを見渡しながら酒井に訊く。酒井は「僕の自宅です」と振り返ることなく答える。
「こっちです」と僕たちに声を掛け、林の中を慣れたように進み始めた。ついて来いと言うことだろう。僕はそれに素直に従い、後につくことにした。地面に落ちる小枝や枯れ葉が、一歩進む事に音を立てる。
僕は、これから何が起こるんだろうという得体のしれない恐怖を抱く反面、お化け屋敷のような怖いもの見たさに近い興奮と期待に胸を膨らませていた。あまりに突然の出来事に、感覚が麻痺しているのかもしれない。
思えば、急展開にも程がある。半年間、一切進展がなく、毎日をカフェと適当な駅構内で過ごしていたのに、そのカフェの店員が青い液体のキーマンである可能性が浮上し、その上アズサさんの存在まで認知している。
半年間、ピクリとも動かず錆びきったと思われていた歯車が、ここに来て突然、他の歯車も巻き込みながら勢いよく回りだしたのだ。
この先に何が待っているのか。不安、焦燥、期待、好奇心。それらが僕の心をぐるぐると巡り、互いが互いを潰し合ってぐちゃぐちゃになりながらも、僕は道なき道を力強く進んだ。
「着きました」
酒井は足を止めて振り返ると、僕たちにそう言った。僕は酒井の隣にある、林の中にポツンと佇むトタンのボロい小屋に目を向ける。
「これですか?」
僕がそう言うと「はい。これが僕の家です」と酒井は何食わぬ表情で言う。一拍おいてから、ハッと気づいた様子で「これとはなんですか。これとは」と付け加えた。
僕はぐるっとその小屋を一周した。お世辞にも、立派とは言えない外観だった。紺色のトタン板が小屋の全面に使われていて、所々が茶色に錆びていた。僕たちの方を向いている壁の左側には扉があり、使ったトタン板も、正面の壁に使われているものを、扉のサイズに切り取って取っ手と金具を付けて開閉できるようにしたのだろう。一見するとどこが扉なのか、一瞬分からない。左側の壁には窓があった。窓と言ってもガラスが張られているわけではなく、木の枠組みがあるだけで、何も張られてはいなかった。しかし、黒い布が部屋の中から被せられていて、中を覗くことはできなかった。
「大丈夫ですか?もう」
腕を組んで、うんざりした様子で酒井はそう言う。そんな、一分はおろか、かかって十数秒程度なのに。僕は心の中で呟きながら「すいません」と頭を軽く下げた。この時、時間が掛かったからではなく、自分の家をじろじろと見られたからかもしれないとふと思った。大人しくしとけ。と言いたそうに、鶴見さんは肘で僕を強めに小突くと、キッと睨んだ。
「じゃあ、どうぞ」
酒井は小屋の中に入っていった。僕はそれに続こうかと思ったが、鶴見さんに小突かれたばかりなので、鶴見さんの出方を伺っていた。鶴見さんは最初、開かれた扉をじっと見つめてその場に立ち尽くしていたが、ほんの少しして決心がついたのか、大きく息を吐いて、その小屋へ入っていった。
小屋に入った瞬間に目に映った光景は、不気味だった。天井の小さな電球が仄かに明かりを灯していた。前後左右、四方の壁に沿うように、黒い布で覆われた、大きな何かが並べられている。どれも、僕の背丈よりも一回りも大きいものだった。それらの形に大差はなく、布は頂点からドームのように丸みを帯びて、そのドームの半径辺りに差し掛かると、布はまっすぐ下に垂れ下がっていた。布のしわのつき方に違いはあれど、全てこの形だった。
僕は無意識に、それらに近づきたくなくて、おのずと小屋の真ん中にじっとしていた。鶴見さんはただ黙って、その『何か』をまじまじと見つめていた。
「いやぁ、今年は暑いですねぇ」
汗ひとつない、まっさらな顔で酒井は言う。僕は突然、背筋を冷たい指先でゆっくりとなぞられる感覚がした。彼に底知れぬ恐怖を感じた。
「それにしても、お二方は、なんで青い液体のことを探求しているのですか」
怖い。彼が怖い。さっきまでとは全く違う。彼の目から、感情が一切感じられなかった。いや、今まで気が付かなかっただけなのか。数多の色の中では目立たなかった一色の絵の具が、まっさらな画用紙の上では映えるように、この『何か』に囲まれた空間で、彼の狂気が浮き彫りになったのか。橙色の暖かみのある電球の、仄かな明かりに照らされる彼はまるで、人形のようだった。僕は何も声を出せなかった。
「だったらなんだよ」
鶴見さんは気丈に答える。鶴見さんは僕の横に並んで、後ろでそっと僕の手を握った。その手はわずかに震えていた。僕はそっと、その震えを収めるように強く手を握り返した。
「そんなに身構えないでくださいよ。取って食ったりするわけじゃないですから」
そう言って酒井は笑った。僕にはその笑いが貼り付けられたもののようにしか見えなかった。酒井は続ける。
「だから、教えてくださいよ。なんでなのか。別に、私はあなたたちを不都合に感じたり、邪魔に思ったわけじゃないんですよ。これはただの興味ですから」
「なんで、興味に思ったんだ」
酒井は少し俯いて、片手を顎に触れて何か考えているようだった。「うーん」と小さく唸ってから、酒井は答え始めた。
「今までそんなこと考えたことも無かったから、少し時間が要りました。こうやって、自分でも知らない自分を見つけて、見つめてみるのも良いですね」
そう言って小さな笑みを見せた彼に、僕は愚かにも優しさを見出してしまいそうだった。
「で、なんでだ」
「あぁ、本当に、ただの興味ですよ。他人が何を考えているのかって、気になりませんか。それだけですよ」
困惑する僕たちに気づいたのか、それをほぐすようにして、酒井は続ける。
「お二方は今まで、好きな人ってできたことありませんか?好きになると、自然とその人のことを目で追ってしまったり、自宅で一人になってもその人のことでいっぱいだったり、その人との交流の一つで一喜一憂したり、傍から見れば滑稽極まりませんが、当人からすればそれは、何よりも重要で楽しいことですよね。これは、興味の延長線上ですよね。そして、傍から見て滑稽だと思っている人でも、少しばかりその興味にまた、興味してしまう。故に、その様を野次したり、面白おかしく揶揄したり、余計な手助けをしてみたりしてしまうのです。私が今していることは、正にそれです。余計な手助けをしてみたいのです。その無意味で、一生かかっても手掛かりひとつ掴めないその興味に、私は興味したんです」
酒井は興奮した様子でそう語った。途中で身振り手振りも加えて話すその様が、少し必死に見えた。「バカにしやがって」と鶴見さんは小さな声で呟いた。
「インターネット掲示板にあったんだよ。そういう投稿がな。青い液体ってスレだ」
鶴見さんは吐き捨てるようにそう言った。それを聞いて、豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をする酒井は、一瞬の間をおいてから天を仰いで大笑いした。手を叩きながら「ハハハ」と文字通りの、一文字一文字に全力さを感じる笑い方だった。彼はしばらく笑っていた。時折、落ち着こうとしているのか、段々と冷静になる素振りを見せるが、耐え切れないといった様子でまた直ぐに笑い始めるのだ。
そんな下りを二回繰り返したところで「いつまで笑ってるんだよ。いい加減にしろよ」と、痺れを切らした鶴見さんがその笑いを遮った。
「いや、すみませんねホント。いやぁ、あまりにも面白くてね」
酒井は右目の目じりを人差し指で拭いながら言った。まだ冷静には慣れていないようで、体を小さく揺らしながら彼はこう言った。
「だって、あんなのに真面目に引っかかる人いるんだなぁって思うと、面白くて仕方ないですよ」
彼がそう言った瞬間、僕は意外にもさして驚きはしなかった。心の中のどこかで「いるわけない」と思っていたからでもあるのだが、それ以上に気になることがあるからだ。僕は今それ以外考えている暇がない。正直、青い液体なんてどうでもいい。「あ、そうですか」と、間の抜けた感想以外、何も出てこなかった。
しかし、この青い液体に心血を注いでいたであろう鶴見さんは、信じられないといった様子で茫然としていた。酒井の方を向いているが、その焦点は定まっていないようだった。
「あれ、鶴見さんどうしました?おーい」
酒井は鶴見さんの目の前で手をひらひらと振り、反応がないことを確認して「あぁ、こんなにショックだったんだ」と憐れむように控えめに笑った。
「じゃ、次は君だね。雨宮君」
酒井は、鶴見さんの隣で僕の方を振り返ってそう言う。
「なんで僕たちの名前を知ってるんですか」
考えるまでもなく、口から反射的に言葉が出た。
「カフェで聞いたんだよ。二人がそう呼んでるのを。流石に人の個人情報を盗み見るなんてことまで、僕は出来ないからね」
酒井は壁の一つの黒い何かに触れる。頼むから、手を放してほしかった。それくらい、それからは不吉な予感がして仕方が無かった。
「なんで、青い液体スレを大量に立ち上げたのですか」
また、言葉が咄嗟に出た。
「言いませんでしたっけ。暇つぶしですよ、ただの。だから面白かったんです。そんな暇つぶしに時間をかけている人がいるというのが」
「あの傘の人は誰ですか?」
「ただの一般人ですよ。正確には僕が雇ったんですけどね。あんな子供だましな仕掛けに引っかかるか心配だったんですけど、杞憂でしたね。僕が思っていた以上に、貴方たちは青い液体に目がないようだ。あ、それでいうと、あのハセンも、僕が雇ったんですよ。びっくりでしょ」
「どうやって大量のスレを一斉に立ち上げたんですか」
「こっちの問いかけには反応なしですか。まぁ、別にいいですけど。大層なタネが秘められてるってわけでもないですけど、『何時何分にこんなことをしろ』なんて時限式の命令のマクロなんて、いくらでも組めますからね。一切の知識を持たない人には難しく感じてしまうかもしれませんが、少し齧っただけでも出来たりしますよ」
「青い液体って何なんですか」
「んー。それはまだ言えないですね。でも、雨宮さんは今までの人生でそれを目にしたことはありますよ」
思わず、耳を疑った。目にしたことがある?僕が?
「い、いつ?」
想定していなかった彼の返答に、つっかえながら訊き返すと「まぁ、言ったところで分かりませんから。それに、この話はまだ少し先にしたいんですよね」と、深刻な面持ちで訊いたこっちが馬鹿らしく感じてしまうほどにあっさりと返された。彼にとって、この話題は特に重要でもないらしい。
「アズサさんって誰ですか」
酒井がポツリと、重くのしかかる一言を発した。
「これが訊きたいんじゃないんですか?雨宮さんは」
僕は黙ったまま、視線を泳がせる。胸が絞られて、乾いていく感覚が全身を巡る。何か言葉を発そうとするも、出なかった。気づかないうちに、自分で喉に力を入れていた。
「逃げようとしても無駄ですよ。貴方には、彼女について知ってもらわなければならない。それは、貴方のためでもありますから。それに、ここからが最高に面白いんですから」
彼は心の底から嬉しそうな表情を浮かべて、そう言った。彼は本当に、ただ興味しただけで、そこに救済とか、制裁とか、そんな大それた目的なんてないのだと分かった。
彼は、壁の黒い何かに手を掛けた。そして、それに掛けられた布を掴むと、思い切り剥ぎ取った。「バサッ」と布が大きくなびく音が聞こえると、布に堆積していた埃が、塵となって宙に舞った。長い間そのままだったのだろう。咄嗟に顔を下に向けて、周りに埃が来ないように手で扇いでいると「いや、凄いなこれ」と、酒井はせき込みながら言った。
酒井がせき込まなくなっても、僕は顔を上げることが出来なかった。その先に、あの謎の物体があることが分かっていたからだ。酒井はずっと「おーい」とか、「往生際が悪いぞー」とか言ってきたけれど、反応する余裕なんてあるわけがなかった。できる事なら、このままこの小屋を出て、そのまま全速力で逃げたかった。脳内で小屋の空間図を作成し、どうやって逃げ出そうか考えていると突然、「わっ!」と思い切り肩を叩かれた。びっくりして飛び跳ねて、顔を上げてしまった。そして、見てしまった。見てしまったよ。
――純白のカプセルの中で、安らかそうに目を瞑って佇むアズサさんを。
「は……?」
思わず呟くと、酒井は「どうです?ねぇ、びっくりしました?」と嬉しそうに僕の顔を覗き込んできた。
僕の背丈よりも一回りは大きいカプセルの中で直立する彼女。整頓された前髪に、背中まで伸びる流れるような後ろ髪。裸足に純白のワンピースに身を包んだ彼女は、初めて会った時と全く同じ格好だった。よく見てみると、彼女の体には小さな気泡が所々に付着していて、そこで初めて、彼女が液体に浸かっていることに気づいた。照明の光の屈折具合で何とか分かっただけで、パッと見ただけでは気づかない程、それは一切の動きもなく、彼女を静かに包んでいた。そして彼女も、それに身を委ねるように目を瞑っていた。
胸の中で燻っていた疑念が、突如として僕に迫りくる気がした。
僕はその隣の黒い布を思い切り取る。そこにはまた、先程と全く変わらない立ち姿の彼女がいた。またその隣の黒い布を取ると、全く変わらない彼女がいた。またその隣を、またその隣を、また、また。
小屋を囲んでいた黒い布の中身は、全てアズサさんだった。
「こんなに乱暴に扱わないでくださいよ」
酒井は「あぁーあぁー」と小さく言いながら、僕が床に放り捨てた布を拾い上げ、埃を落としてから、カプセルにかぶせ始めた。
「びっくりしたでしょ。まさか、アズサさんがたくさんいるなんて」
少しの沈黙が流れた。不思議と、心は落ち着きを取り戻しつつあった。大きく深呼吸をし、彼に目を向ける。
「アズサさんって…誰なんですか」
一枚一枚、丁寧に布を拾い上げる酒井に、僕は問いかける。
「僕のお姉ちゃんです。と言っても、血がつながってるとかじゃなくて、製造者が同じってだけですけどね。ほら」
そう言って、彼は左腕の袖を捲って、僕の前に突き出した。そこには『001』と数字が薄く彫られていた。製造番号のことだろうか。
「お姉ちゃんは多分、000って書いてあると思いますよ。プロトタイプだから」
彼は袖を元に戻し、再び布を拾い始めた。
「誰が、君たちを創ったんですか」
彼は一瞬作業の手を止めたが、何も無かったかのように再開し「おじさん」と答えた。
「おじさんって?」
「さぁね、僕にも実は分からないんですよ。気づいたら、お姉ちゃんとおじさんの三人で暮らしてて。おじさんの本名を知らないとか、自分たちが人間じゃないとか、お姉ちゃんがたくさんいるとか、疑問に思ったことが無かったんですよね。この酒井って苗字だって、おじさんがどっかから持ってきた保険証の名前だし」
「今、おじさんは何処にいるんですか?」
まずいことを聞いたかと思ったが、酒井は特に反応もせずに答えてくれた。
「お姉ちゃんにフラれて、この山のどっかに消えてった」
は?と言う言葉が口に出ることは無く、胸の中でずっと木霊していた。突然黙る僕に酒井は一瞥するが、構わず話を続ける。
「とにかくモテなかったみたいですよ。おじさん。加えていじめられてたとか。まぁ、あの見た目だからなぁ」
酒井は悲しそうに小さく笑うと「いい人なんですけどね」とポツリと付け加えた。
「だから、おじさんはアンドロイドを創ったんです。自分の好みを全て揃えた。完璧なアンドロイド『梓』を。家もこんな山の中の小屋じゃなくて、最初はどっかの街のアパートの一室だったとか、二人は毎日、色んなところに出かけたそうですよ。毎日、晩酌のときに耳にタコができる程聞かされました」
酒井は一呼吸おいて、また話し始める。その横顔は、昔を懐かしんでいるように見えた。
「でも、おじさんは梓から好意を抱かれることは無かった。自分を好きなるように設計はせず、あくまでも一人の女の子として、梓を創ったんです。自分の事を、自発的に好きになってほしかったんでしょうね。だから、梓は人に限りなく近く設計されてます。肌の柔らかさから、体を流れる血と体温、睫毛の一本一本から、うなじの薄い毛すらもこだわってるんですよ」
ちょっと、気持ち悪いな。ふとそんなことを思うと「流石にここまでくると気持ち悪いですよね」と酒井は笑って言った。こいつ、心でも読めるのか?
「でも、それぐらい梓に全力を賭したんですよ。今までの人生の負けを全部取り返そうって、自分が今まで良いと思った女性の格好に仕草に性格、全部詰め込んだんです」
だからこんなにたくさんいるんですよ。と酒井は手を自分の周りで一周させていった。
「失敗ってこと?」
僕がそう言うと、酒井は小さく頷いて「根本的な欠陥があるわけじゃないんですけどね」と言った。彼女たちは、おじさんの拘りの強さから生まれたのだろう。
「でも、梓は逃げ出した。一人の女の子として、自由を求めて逃げ出したんです。でも、直ぐにおじさんに捕まって、もう逃げることの無いようにって、こんな山奥で暮らすことになったんです」
そう話す彼の顔は、真剣だった。
「こんな小屋で暮らしてたんですか?」
「いや、元々はここから少し離れた所にある一軒家で暮らしてたんですけど、お姉ちゃんがまた逃げ出して、雨宮さんのところに行って、おじさんはおじさんでどっか行って、僕一人だけになった途端、あの家がすごく気持ち悪くて。今はこの小屋に避難してるんです」
僕は何と返したらいいか分からなくて「そっか……」と何も生まない相槌だけ返した。ふと僕は、酒井は何故創られたのか気になった。「なんで酒井は創られたの?」と訊こうとしたが、寸での所で思い留まった。自分が創られた理由なんて、話していて気持ちのいいものじゃないはずだ。
「じゃあ、もう話すことは無いかな」
酒井はそう言うと、小屋の扉を開けて、僕に外に出るよう目を向けた。
「え、いいの?」
「いいのって、僕は雨宮さんたちを攫うつもりなんて最初からないよ。ただ、知ってほしかっただけ。お姉ちゃんと暮らす上で、最低限のことをさ。お姉ちゃん、都合の悪いことは言わないと思うし」
「いや、暮らすって別に……」
僕は照れ隠しに頭を掻くと「もういいよ、分かってるって」と酒井は呆れた様子であしらった。
外に出ると、鶴見さんは外の壁に寄りかかって、脚を広げて座り込んでいた。両腕を膝に掛けてだらんと垂らし、その右手の人差し指と中指で挟んだ煙草の煙が、自然の空気と混ざり薄く辺りに広がっていた。
「鶴見さん」
僕がそう呼びかけると「お、終わったか」と意外にも普段と大して変わらない声が返ってきた。驚いたことがバレたのか、鶴見さんは「ま、考えてもしょうがないしな。寧ろこの数ヶ月たのしませてもらったよ」と言って酒井に「ありがとな」と言った。「空元気ですか?」と言う酒井に鶴見さんは聞く耳を持たない様子で「よし、帰るか!」と立ち上がり「こっからどんくらいかかるんだろうなぁ!」と大股で来た道を歩き始めた。
遠ざかる鶴見さんの背中を眺めながら僕は
「おじさんの事、探さないんですか?」
と尋ねる。酒井は地面を足でいじりながら「探さないですね。多分死んでるし」とあっさりと答えた。一瞬声が詰まりそうになったが、普通に会話を続ける。
「……そっか」
「ま、社会から逃げて自作のアンドロイドに欲情する時点で終わってますから。生きてようが死んでようが大した変わりは無いです」
「それって社会視点じゃないですか。酒井さんの視点はどうなんですか?」
「いや、僕の視点ですよ」
酒井はいじった地面を足で乱暴に均して、こちらを見る。
「確かにおじさんのことは好きです。いい人ですし、でもそれを加味しても、お姉ちゃんにしようとした事は看過できないってだけです。どれだけお世話になって人でも、必ず慕わなきゃいけない義務なんてないでしょ?」
僕は酒井の問いかけに「まぁ……」と煮え切らない返事をすると「そう言う事です」と酒井は会話を切った。
「おい!何してんだ雨宮!早く帰るぞ!」
遠くで、鶴見さんがこっちに手を振りながらそう叫ぶ。僕は酒井に「じゃあ」と挨拶して鶴見さんの方へ行こうと一歩踏み出したとき
「最後に一つ」
と酒井に声をかけられ、振り返る。酒井は僕に歩み寄ると、耳元で囁くように言った。
「僕たちの血の色、青色です」
気色悪さとは違う、不穏な悪寒が体をはしった。
「え、じゃあ、青い液体って」
震える声でそう尋ねる僕を見る酒井の顔は、満点の笑顔に満ちていた。そして、その問いに答えることなく酒井は
「じゃあ、雨宮さん。お姉ちゃんによろしくお伝えください」
そう言って酒井は小屋に入っていった。僕は小屋の扉を叩く気になれなかった。突然、言い得ない不安を感じ、一刻も早く立ち去りたかった。
僕は、小学生も引くくらいの全力で鶴見さんの下へ走った。じわじわと全身を侵食する不安は、僕をより安心へと煽る。ここでの安心は、鶴見さんだ。鶴見さんの近くにいれば自然と解消される気がした。でも、そんなことは無かった。鶴見さんに追いついても、不安は依然と僕にべっとりとこびりついたままだった。
「なんだ、めっちゃ急いできたな。なんかあったか」
不思議そうに尋ねる鶴見さんに僕は
「何でもないです、ただ、なんか急に怖くなって」
と笑顔で返した。青い液体は無いと結論付けられているのだ。何も言わない方がいい。鶴見さんは「おう、だから早く帰ろうぜ」と言って、天を仰いで豪快に笑った。「アハハハハハ」と書かれたカンペを出されているかのような、分かりやすい笑い声だった。鶴見さんも、自分にこびりつく何かを振り払おうとして笑ったのかもしれない。僕はそんなことをふと思った。
言い得ない不安に胸を擽られながら、僕は鶴見さんと来た道を早足でなぞる。お互い無言で、辺りの木々のざわめきがやけにうるさく聞こえた。何も考えていないと、また不安になってくるので、僕は今日の晩御飯を考えることにした。
家に帰ったら、今日はカレーにしよう。アズサさんの好きなジャガイモをたくさん使ったゴロゴロのカレーを作ろう。確か、前に買ったカレールーが残ってたはずだから、帰りにスーパーでジャガイモと人参と牛肉だけ買えば大丈夫だな。あ、でも前少し辛くても良いって言ってたから、中辛を買って帰ろうか。でも、あのメーカーの中辛は異様に辛いから、別のメーカーのルーを探した方がいいかもなぁ。この前、もつ鍋で辛い辛いって騒いでたから、あんまり辛いのは得意そうじゃなさそうなんだよな。でも、それぞれルーの味って大きく変わるし、あのルーを美味しいって言ってたから、あれをベースに少し辛くしてあげようかな。じゃあ、あんまり具は多くない方がいいかな。その分甘くなっちゃうからな。あ、お米ってまだあったかな。確か、昨日炊いた残りが一合半くらいあったはずだけど、もしなかったら面倒だな。カレーだから意外となくなっちゃいそうだし、米も炊こう。おかずは、いつも通り漬物でいいか。あ、でもレタスと生ハムのサラダ美味しいって言ってたな。美味しいものづくしな食卓だったら、アズサさん飛んで喜ぶんじゃないかな。うん、じゃあ生ハムも買って帰るか。
暫く歩き、人気のない道路に出た。耳を澄ましても車の走行音は聞えず、辺りは静寂に包まれていた。この辺りは田んぼが広がっていて、所々に民家も見えた。
「お、意外と遠くないぞ」鶴見さんはスマホをスワイプしながら「あっちに行けばタクシーも捕まえられそうだ」と指さした方向へ歩き出した。
汗だくの体をそっと撫でるような涼しいそよ風が通り抜け、燦燦とした陽に照らされる青々とした稲がほんの少しなびく。僕は鶴見さんの後を追いかける。
「ただいまー」
結局、家に帰ったのは午後の九時を丁度回った頃だった。玄関に入ると、クーラーの冷気が生ぬるい外気に侵された体を一瞬で包んでくれた。
「おかえりなさーい」パタパタとスリッパの音が近づいてくる。「遅かったですね、お疲れ様です」疲労に染まり切った僕を労ってくれる君のその笑顔が堪らなく愛おしくて、思い切り抱きしめる。「ただいま」
「うわっ、え」
アズサさんは最初こそ戸惑っていたものの、僕が腕を緩めないままでいると、優しく腕を僕の背中に回して、その小さな顔を僕の胸にうずめた。
「どうしたんですか?急に」
そのままの体制でアズサさんは訊く。
「……いや、別に」
「別にって何ですか、寂しくなったんですか」
「ん、まぁ、そんな感じ」
「何それ」
アズサさんは笑ってそう言って、「んー」と抑えられた声を出しながら、僕の胸に顔を擦りつけた。僕が髪をそっと撫でると、アズサさんは僕を見上げて「私も」と言った。
夕飯は既にアズサさんが作ってくれていた。両手にレジ袋を下げる僕を見て、アズサさんは申し訳なさそうに「もう作っちゃったんですよー」と言った。
「美味しいですか?」
アズサさんは、シチューをご飯にかけて頬張る僕の顔を覗き込むようにして言った。
「うん、おいしい」
「ほんとですか、よかった」
アズサさんは、ホッとした様子で表情をほころばせる。僕のために、このシチューをつくってくれたのか。改めてその事実を再確認し、アズサさんの頬を両手で包んでみた。柔らかい。それでいて小さい。僕の両手で収まってしまいそうだ。アズサさんの体温がじんわりと伝わってきた。
「何ですか」
アズサさんはじっとこちらを見つめる。その表情は少し鬱陶しさを感じているようにも見えたが、照れ隠しにも感じ取れた。どっちだろう。僕はそっと、口づけをした。
刹那にも満たないそれは、カーテンの隙間から朝日が顔を覗かせる休日に、枕から漏れた羽毛が宙を舞い、唇をかすめた時のようであった。
僕が唇を離した後も、アズサさんの視線は僕をじっと捉えていた。恥じらい、嫌悪といった感情が現れているわけではなく、突然口づけをした僕をじっと見つめていた。何かを求めているようだ。しかし、なんだか僕の方が恥ずかしくなって、逃げるようにテーブルのシチューに目をやった。
「おい」
両手で頬を掴まれ、アズサさんの方に顔を無理やり向けられた。アズサさんはまた、僕をじっと見つめている。しかし、その耳はうっすらと赤くなっていた。
時間が、無限にも思えるほどに長い。僕はふと、両親から夕飯時に説教をくらい、静まり返るリビングに、テレビから流れるバラエティ番組の笑い声が寂しく響いているときのことを思い出した。そんなことを思い出すなんて、自分でもおかしいと思ったが、一対一で互いに見つめ合い、静寂に包まれたリビングに場違いなバラエティ番組が流れるこの状況は、あの時と酷似しているのだ。あの時と違うのは、このなんとも言い得難い胸の締め付け具合だろうか。
気づくと、僕の視界はアズサさんに覆われていて、唇には柔らかい感触があった。極限まで研ぎ澄まされた感覚は、この一瞬をより深く濃密なものにし、時が過ぎる感覚さえも狂わせた。
アズサさんが恥ずかしそうに伏し目がちにはにかむ顔を見て、僕は無限にも思える一瞬が終わったことに気づいた。
「……ごちそうさまでした」
目を逸らし、恥ずかしそうにポツリと呟いたアズサさんに思わず僕が噴き出すと「え、ちょっとそんな反応しなくてもいいじゃないですか」とその発言をかき消す勢いで僕に詰め寄ってきた。「別に何にも言ってないじゃん」と笑いを漏らしながら言う僕に「そういう態度のことを言ってるんです」と心地よい強さでアズサさんは僕の胸をポカポカと殴った。
こんな時間が永遠に続けばいい。永遠とは言わずとも、この生活に刺激が無くなり、日常となるくらいまでは続いてほしかった。
次の日、布団に皺だけを残して、アズサさんは忽然と姿を消した。
アズサさんが消えてから、一か月が経った。
人間、少しの時間でここまで変貌するのだな。
朝、洗面所に映った自分の半分寝起きの顔を見て自嘲気味にそう思う。連日、喉に流した大量の酒の所為か、顔は一回り以上にむくれ、目は充血し腫れ、無精ひげまで目立つ顔は、街で見かければ人生の何かを捨てた人として見られるような風貌だった。ふとついた溜息の臭気に、胃の中を素手で底から掬われたような不快感に襲われる。思えば、歯磨きなんていつからしてないだろう。風呂だって、ここ数日入った記憶がない。
「うわ、何この臭い。雨宮さん、なんか嫌な臭いしますよ」
誰も居ないはずなのに、聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、アズサさんが、顰めた顔で鼻をつまみながら僕を見ていた。一生関わらないと決めた人に向けるような、軽蔑に満ちた視線が、僕の体を鋭く突き刺す。
「ごめん。ちょっと面倒くさくって」
弾む気持ちに身を委ねて僕は、少しふざけたように返した。しかし、彼女の視線の鋭さは依然として変わらなかった。
「とにかく、早くお風呂に入って、歯を磨いてください。朝ご飯はそれからです」
アズサさんは冷たくそう言うと、パタパタとスリッパを鳴らしながらキッチンへ向かった。その時、柔らかい焼きたての食パンの甘い匂いが流れてきた。
「もーわかったよ。面倒くさいな」
にやけ顔を隠そうとせずにそう言いながら服を脱いだ時だった。何日も着続けたTシャツから、親戚のおじさんの匂いを更に濃くしたような匂いが、食パンに心地よさを覚えている鼻をかすめた。その匂いに感想を抱くよりも先に、何かが体の底からせりあがってくるのを感じた。直ぐにトイレに駆け込んで、便座に両手を掛けて、せりあがる何かを吐いた。水に音を立てて中身のない液体が落ちると同時に、居心地のよいあの瞬間も音もなく消え去ったのを、僕は理解した。全てを吐ききった後に嗅いだ臭いは、焼きたての食パンでもアズサさんの優しい髪の毛でもなく、昨晩のビールとあたりめが混ざり溶けた何かだった。
空いた口からよだれが垂れるが、それを拭う事すら億劫で、便座に手を掛けたまま膝をつき、堕落した自分から絞り出された物体を、何をするわけでもなくぼんやりと眺めていた。
一寸先も見えない深い霧に覆われた空間にただ一人、僕はいる。何もなくて何も感じないこの空間が僕は好きだ。地団太を踏んでも大声で叫んでも、何も起こらないこの空間。しかし、霧が段々と薄くなる。霧に守られていた自分という存在が露になって、霧に包まれていた見たくない何かが、目の前の視界を覆いつくそうとする。僕はたまらずその場にしゃがみこんで両手で顔を覆い、親指で耳を塞いだ。しかし、突然鼻をつんざくような匂いが突き抜け、思わず僕は両手をどけた。しかし、視界に映ったのは、遠くまで広がる何もない灰色の空間だった。空間の遠くの方には、地平線が続いていた。この空間は無限に広がっているのだろうか。そんなことを考えると、前触れもなく、どこかから声が聞こえる。誰なのか、何を言ってるのか。考えるがどうしても分からない。でも、その声は無性に懐かしくて心地よくて、同時に叫びたいくらいに胸を空虚にさせる。上を見上げても下を見ても横を見ても、声の主は見当たらない。どこから聞こえているんだろう。ふと、足を一歩踏み出す。もう一歩踏み出す。霧に包まれていた嫌な何かが見えそうになる。でも、進みだした足は止まらない。もう一歩。もう一歩。もう一歩。
そして、僕は気づく。僕がどれだけ進もうと、この声は一向に遠のくことがないことを。その瞬間、僕の心は急に軽くなった。
僕は立ち上がり、トイレを流した。勢いそのままに服を脱いで浴室に入り、全身をくまなく洗った。泡立ちの悪かった髪も、三回も洗えば泡が溢れんばかりに湧き出るようになった。
シャワーを頭に当てたまま、風呂の椅子にうなだれるように座った。僕の頭からとめどなく流れ落ちる水をぼんやりと眺める最中、僕は空っぽの胸を感じた。ずっと苦しかったこの空虚が、今はとても価値のあるものに感じられる。自分という存在を感じることのできる、唯一の痛みだから。でも同時に、僕にはこの空虚以外、何もないことにも気づいた。
何かに迷っているとき、それに対する結論は既に決まっているらしい。つまり、我々は幾つかの選択肢を目の前に思い浮かべてどれを取ろうか迷っているのではなく、目の前にある結論の選択肢を選ぶ『きっかけを待っている』のだ。きっかけ。この言葉に具体性なんてない。その結論を選ぶために用意されたご都合主義的な刹那の隻語に過ぎないし、当人が納得出来たらなんだっていい、即ちそれに意味なんてない。
きっかけさえあれば、簡単だったんだ。
きっかけさえあれば、何だってできるんだ。
僕は気づいた。でも、気づくには遅すぎた。今の僕には、そのきっかけの矛先の対象を、これしか知らない。
僕は今から、死にに行く。
曇りひとつなく澄み渡る青空、猛烈な日差し、遠くの歪んだ視界。死ぬからって、この慣れ親しんだこの季節に物惜しさを感じることも、愛おしく感じることも無く、デパートまでこれかと、うんざりしていた。アスファルトを握るように進む足取り一歩一歩が重く、額を滴る汗がその道のりをより長く錯覚させた。
気怠さと灼熱に耐えかね、僕の頭の中は冷房で一杯だった。僕は目に入った牛丼屋に入り、店員に案内されるままカウンター席に座った。店員の丁寧な接客を無視してメニューも見ずに牛丼の並を注文すると、「かしこまりました」と顔色一つ変えずに笑顔で厨房へ向かった。
ピッチャーを手に取ってコップに透き通った水を注ぎ、喉へ流し込んだ。冷えた液体が、火照った体内を流れると同時に、食道の位置と形を浮き彫りにする。もう一度ピッチャーへ手をかけた時、先程と同じ店員が牛丼を持ってやってきた。あまりの速さに少し驚きつつも、一旦コップに水を注いでから、目の前の牛丼に向き合った。一口食べたら、もう箸は止まらなかった。まともな固形物自体久々だ。自分でも気づいていなかったが、意外と腹が減っていたみたいだ。水を飲んで牛丼を掻き込むという動作を無我夢中で繰り返して、気づけば二杯目も頼んで完食していた。
店を出て、再びデパートへ向かう。空腹を満たすと、思考がさっきよりも落ち着いた気がした。しかし、この夏の鬱陶しさが晴れることはなく、デパートへの足取りも依然として重いままだった。
様々な出店がひしめく中、不自然に何もないひらけた空間がある。その空間の真ん中にカプセルは堂々と、しかしまた溶け込むように佇んでいた。
カプセルの前に僕は立つ。純白に包まれたそれには、小さな装飾など無ければ、取り扱い上の注意が書かれているわけでもなく、ボタンやランプなどの機能的な部分も見受けられず、終いにはカプセルに中に入る為の入り口の枠組みすら見当たらなかった。一見すればただの白い謎の楕円形の物体に過ぎなかった。
何をするわけでもなくただ立ち尽くしていると、突然カプセルが薄く青い光を帯びた。カプセルの側面に細い線が浮かんだかと思うと、その線を境に、上半分が蓋のように取れ、宙に浮かび上がった。浮かび上がった蓋は、僕の頭上付近で静止した。
宙に浮かんだ半分のカプセルには、紐や柱などは無く、一体どのようにして目の前の光景が成り立っているか皆目見当もつかなかった。
床に取り残されたカプセルの中は、青い液体で半分ほど満たされていた。昔はあれほど狂奔していたのに、液体を目の当たりにしても、今はもう何も思えなくなってしまった。液体の波面には一切の揺らぎが無く、光が無ければそれを液体だと判別するのは困難だと思う程だった。
僕は歓迎されたのだろう。安楽死に値すると評価されたのだ。僕はカプセルに入ろうと手をかけ、足を入れようとしたが、なんとなく靴のまま入るのが気になって、カプセルの外に靴を並べた。
「横になってください」
カプセルに足を入れた途端、優しい声が聞こえた。こういう機械から流れる声は、私は機械ですよと自己紹介するような無機質で抑揚のないものだと思っていたから、少し驚いた。
横になると液体は僕の体を半分くらい浸し、思いのほか温かった。
蓋は依然として宙に浮いたままなのに、中はうるさいくらいに静かで、今自分がデパートの真ん中にいることを忘れてしまいそうだった。
しばらくの間、自分の呼吸の音と、それに伴って上下する肺に感覚を委ねていた。
視界が暗くなってきて初めて、宙に浮かぶ蓋が、再び被さろうとしていることに気づいた。
蓋が被さった直後、「おやすみなさい」と、さっきと同じ声が聞こえた。
視界は暗闇に包まれ、直後、カプセルがほんの少し振動し、水面もそれに呼応するように、また小さく揺れた。極限まで研ぎ澄まされた僕の神経は、その振動を過敏なまでに全身で感知した。明朝、人気のない山奥の湖沼に、石を投げ込んだような衝撃が伝わった。しかし、頭の中はビリビリと衝撃を痛感しているのに、この体はそんな衝撃なんて虚構であるかのように、のんびりとしていた。
それが、体の自由が無くなったということだと気づいたのは、蓋が閉まって少しした頃だった。
力が入らない。というか、力の入れ方が分からない。体と思考が切り離されている感覚が、段々と自分が死へと向かっていることを意味していると気づいたとき、僕は未知の『何か』に対するような、漠然とした恐怖に襲われた。考えても意味のない、圧倒的且つ輪郭すら捉えるのも不可能な『何か』。
学生時代、昼食後の退屈な授業を、頬杖を突きながら聞き流していたあの頃、擦り切れる程してきた妄想がある。
突然、教室に凶器を持つ不審者が前の扉から入ってきたら?
僕は、不審者が凶器を先生に突きつけてクラスが騒然とする中、ただ一人、ゆっくりと席を立ち、己の拳を静かに握りしめ、音を殺して不審者へ近づく。不審者が僕の存在に気づくのは、僕の拳は不審者の頬を思い切り捉えた後で、軽く宙を舞う不審者を一瞥して僕は再び机に戻り、何事もなかったように机に頬杖をついて、物憂げな表情で窓の外を眺めるのだ。
そんな、かっこいい僕は今、存在すら不明な『何か』を前にして、泣きも叫びもせず、ただその時を待っている。自分の存在が無価値以下に思えて、相対するものへの絶対的な畏怖に、意味のない事をしても無駄だと本能が働くのだ。よくわからない所で、我々の根本は合理主義なのだと思わされる。
気が付くと、僕は真っ白な砂浜に腰を下ろし、ヤシの木にもたれかかっていた。雲一つない群青色の空の下で、僕はただ一人、こうしている。ふと辺りを見渡すと、地平線が途切れることなく一周して見えた。
いつからこうしていたのかは、分からない。ただ、この一切の辻褄の合わない空間に、僕が心地よさを覚えているという事は、僕は心の中で、このような何かを求めていたのだろう。
「何してるんですか」
振り返ると、アズサさんが立っていた。
「久しぶりですね」
僕は視線を前に戻した。少しの沈黙が流れた後、アズサさんは隣に腰を下ろし、僕の肩に頭を乗せた。華奢な負荷を感じながら、僕は永遠に続きそうな沈黙を楽しんだ。
「なんで、ここにいるんですか」
沈黙を破ったのは、アズサさんだった。
「安楽死装置に入ったんですよ」
「そんなの知ってます」
アズサさんはかぶせ気味にそう返した。僕が何も言わないのを見て、彼女は静かに続ける。「私が居なくなったからですか」
「別に、理由を持ってここにいるわけじゃないんです。ただ、なんとなく。としか言いようがないですね」
僕のぶっきらぼうな返答に、彼女は黙っていた。また、沈黙が流れた。
ヤシの木に、砂浜に二人。目の前に海があって、静かな波の音が聞こえたらなぁ。そんなことをぼんやりと考えると、目の前の景色が歪み始めた。水で浸した画用紙に絵の具を垂らしたように、空間に色が広がっていく。その色は瞬く間に原型を得て、気が付けば目の前には透き通る程に綺麗な海が広がっていた。
「海ですか。いいですね」
アズサさんは独り言のように言った。
「ここって、どこですか」
僕が尋ねると、アズサさんは可笑しいといった様子で答えた。
「そんなの、雨宮さんが一番分かってるものだと思ってました。私だって気づいたらここにいたんですもん」
「え、アズサさんも分からないんですか」
思わず訊き返すと、「あ、やっと雨宮さんっぽくなった」と言って、アズサさんは笑った。
夕日に照らされた波が、静かに砂浜に伸びて縮んでいく様子を、ぼんやりと眺めていた。
「私、人間じゃないんです」
藪から棒なその言葉に、僕は驚かなかった。僕は黙って、彼女の話に耳を澄ませた。
「私、人間じゃないんですよ。なのに、凄い人間っぽくないですか。自分で言うのもなんですけど、私、殆ど人間なんですよ。食欲だってあるし、好きなことだってあります。勿論、感情だってあります。物じゃない概念だって、私にはあるんです。そこら辺の人間より、人間やってるんです。なのに、人間じゃないんです。私の血の色は青色だし、戸籍とか無いから、表立って生活するのすら困難で、何もない山奥で暮らすことしかできなくて。でも、何もないとは言っても、本は読めたんです。一緒に暮らしてた人が、人間の人で、その人が外に一週間に一度だけ、買い出しに行くんです。その度に、本を数冊買ってきてくれたんです。いろんな本を買ってきてくれました。絵本とか漫画とか、でも殆ど小説でした。買ってくる本にはどれも、私には夢のような世界が広がっていて、一日中、本を読みました。本を読んでる間は、私もその夢の世界に入れるから」
彼女の声は、小さく震えていた。僕は、砂浜に触れる彼女の掌に手を重ねた。
「そんな中でも、私、恋の話が好きだったんです。高校生とかの、あり得るわけない、夢のような話。放課後に二人並んで帰ってみたかった。勉強するためにカラオケ行って一切勉強しないでみたかった。あのテスト難しかったねって言ってみたかった。鈍行でどこか遠くまで行って「腰痛いね」って笑ってみたかった。浜辺で水をかけあったり後ろから押し倒して水浸しにしてみたかった。でも、できなかった。できるわけがなかった。異性の男の子は愚か、学校すら行ったことなかったのに」
彼女は僕を見る。じっと見つめてから、また、浜辺に視線を向けた。
「雨宮さんと出会って楽しかったです。でも、どうあがいても私が人間でないという事実は変わりません。どうせ叶わない夢なんて、捨てたほうがいいなって。思ったんです」
言い切るようにそう言うと、彼女は立ち上がって海へ歩き出し、波のかかる位置で立ち止まった。
「わ、砂が、足の砂が波に持ってかれます」
波が浜辺に伸び縮みする度に、彼女は僕に無邪気な笑顔を見せた。
「ほら、こっち来てくださいよ」
彼女は僕に自分の方へ来るよう両手で手招きをした。僕は腰を上げ、思い切り彼女の下へ駆け出した。そして、勢いそのままに彼女に飛びつき、衝突事故のような形で、僕たちは海に倒れた。思わず海水を飲んでしまったが、何故かしょっぱくなかった。立ち上がり、顔にかかる海水を手で拭い、髪をかき上げると、彼女も同じようにしていた。ふと、彼女と目が合った。僕たちは笑った。
目が覚めるとそこには、真っ白で無機質な天井があった。辺りを見渡すと、白いレースカーテンに囲まれていて、枕元に置かれた銀の棒にかかる謎の点滴が僕の布団の中に伸びていた。
「あ」
聞きなれた、ついさっきまで聞いていた声が、鼓膜を鳴らした。僕がそれに呼応する前に、彼女は僕に飛びついた。
彼女は何を言うわけでもなく、ただ静かに僕を抱きしめていた。僕も彼女の体に腕を回し、何かを言うわけでもなく、ただそのぬくもりを感じていた。
「ごめんなさい」
彼女は何度もそう言った。僕は彼女の背中を優しく撫でた。僕はただ「大丈夫だよ。大丈夫だよ」と、背中を揺らす彼女にそう語り続けた。
とめどなく溢れる感情を形容できず、気づけば僕たちは泣いていた。
窓の外には、夕焼け空にヒグラシの鳴き声が寂しく響いていた。
本当に僕が書きたい事がなんなのか、分からなくなりました。