今度は貴方を愛さない
公爵令嬢のリリア・ナイーゼは可哀想な子供だった。
政略結婚だった両親にとって、リリアはどうでもいい存在で、生まれてこの方、彼女が両親に愛されたことなどなかった。
だからといって、メイドたちが必要以上に構ってくれる訳でもない。
ただ、公爵令嬢としての教育を受ける日々が流れていくだけだった。
ある日、リリアは男の子と出会った。
偶然抜け出した先で出会った男の子は、困惑気味に辺りを彷徨っていた。道に迷っているようで、手掛かりもなくひとり歩き回っている。
助けてあげようと思ったのか、それとも単に話し相手が欲しかったのか。そんな彼にリリアは話し掛けた。
始め、彼はリリアに訝しげな視線を向けていた。が、街の中をふたりで遊び回るにつれ、次第に心を開いていった。
一緒に遊んで、笑う。
それが一人でいるときよりもずっと楽しくて幸せで、気が付いたらリリアは初めての恋に落ちていた。
リリアだけが知っていた花畑を案内した時、彼はリリアに告白した。「君が好きだ」と。
爛漫に咲き誇る花々が彼らを祝福しているかのようだった。
幸せの絶頂期が地へと叩きつけられたのは丁度その日のことで、リリアが家にひっそりと帰宅してからだ。
いつもはリリアが家を抜け出そうが何も言ってこなかった父アバンリッシュが、この日だけはリリアを出迎えた。
母アルテミスの訃報を届ける為に。
その後は単純で、父は即座に自室へと戻り、リリアはその場で泣きじゃくった。
メイドに連れられて部屋へと入れられた後も三日三晩泣き続けた。涙が枯れるまで。
リリアの唯一の母だった。
結局一度も愛してはくれなかったけれども、お腹を痛めてリリアを産んでくれた大切な母親。
たとえ好かれていなくても、リリアはアルテミスが大好きだった。
母の死が受け入れられないまま、近日リリア宛に皇宮からの婚約打診が来た。リリアに相談などはなく、顔合わせの旨だけが伝えられた。
彼じゃなきゃ嫌だ、とリリアはアバンリッシュに初めて抗議した。が、勿論それは聞き入れられなかった。
母も失い、初恋も儚く砕け散ったリリアの心は悲しみで埋め尽くされた。
そうして迎えた顔合わせ。顔を沈めたまま婚約者となる者の声を聞いた。聞き覚えのある声。
ようやく顔を上げたリリアは、彼と目を合わせた。
カルロと名乗った彼は、皇太子であり、初恋の男の子だった。
これから君を不幸にさせたりはしない。その言葉は、悲しみに暮れるリリアを救い出すのには十分だった。
これが、リリアが二度目に恋に落ちた瞬間だ。
が、義母ラミアが義妹アナを連れて家にやって来た瞬間から歯車が狂い出した。いや、その前から既に狂っていたのかもしれない。
ラミアはアバンリッシュと再婚するなり、リリアを陰ながら手助けしていたメイドたちを皆入れ替えた。
残ったメイドはリリアに無関心な者や悪意を持つ者ばかりで、ラミアの目を潜り抜けた者は少数しかいない。
それから、ラミアはアナには好きなだけ欲しい物を買い与え、リリアには厳しい教育係を与えた。
始めは単にそれだけだった。
しかし、冷遇は日を増すごとに酷くなっていった。
リリアの部屋をアナのものとし、窓のない物置部屋にリリアを移動させた他、十分な食事を与えず同じ食卓に着くことが許されなくなった。
感情表現が乏しくなるように、教育という名の暴行を加え、メイドたちにも手伝わせた。それも、人の目につかない部位を狙って。
アバンリッシュはラミアの暴挙を知っていて、見て見ぬ振りをし続けた。
そうして、気が付けばメイドたちは自ら進んでリリアを虐めるようになり、義妹のアナはリリアを奴隷のように扱うようになっていた。
が、それは他の貴族たちには全く悟られることはなかった。教育の賜物か、リリアはすっかり外で感情を表に出さなくなったから。
いつも冷淡な態度で作法を完璧にこなし、世間には何処か人間味に欠ける令嬢だと認識されていた。
カルロの前だけで、時折微笑みを浮かべるくらいだ。
貴族の通う学園に入学するまでは、それで良かった。
が、リリアが学園に入学してからというもの、ある噂が蔓延するようになった。
―――リリアが義妹を虐めている。
と。
きっかけは単純で、いつかの社交パーティーが原因だった。
リリアと共にパーティーへと参加することになったアナは、腹いせにリリアをバルコニーに誘き出し、手すりから突き落とそうとした。
流石のリリアも必死に抵抗し、それは失敗に終わった。
しかし偶然にも、リリアの振りほどいた手が無防備なアナの頬を打ったのだ。
当然、アナは突然の痛みに声を上げた。
不審に思った貴族が扉を勢い良く開けると、頬を押さえるアナと、それを見据えるリリアがふたり立っていたのだ。
噂が広まるのは一瞬だった。
気が付けばアナは悲劇のヒロインとなり、対するリリアは悪女と罵られた。
ラミアがそれを聞きつけると、アナに噂を悪用するよう唆した。
リリアは社交界から追い出すべきだ、と。
皇太子には貴女のほうが相応しい、と。
すっかりその気になったアナは、ラミアの言う通りに行動を起こした。
アナが学園に入学する前は社交パーティーで。入学してからは学園内で。偶然を装いリリアに近付いては盛大に転んだり、階段から落ちたりもした。
それでも、リリアは何もしなかった。いや、出来なかったのだ。そうなるように躾けられていたし、学園内ではラミアの息がかかったメイドに四六時中見張られていたから。
いつしか、リリアを愛してくれていたカルロも彼女から目を背けるようになっていった。
それでも彼女はカルロを信じ続けた。あの時のように、いつかこの地獄から救い出してくれることを願って。
が、その時が訪れることはなかった。
信じていた彼は今、義妹のアナを庇って立っている。リリアに立ちはだかるかのように。
嗚呼、とリリアは思う。まさか、そんな、と。
カルロが忌々しいものを見る目でリリアを睨みつけ、遂にその口を開いた。
「リリア・ナイーゼよ。妹君への悪行の数々は聞き及んでいる。
……だが、それも今日までである。証拠は出揃った。
皇太子、カルロ・イル・アスベルトの名に於いて、貴様との婚約を破棄し、貴様をナイーゼ家内の部屋に軟禁させてもらうこととする。
本来なら、身分剥奪の末、牢に入れる筈だった。が、被害者である妹君本人の激しい希望により自宅軟禁を望んだことである。
貴様の改心を願って、な。
妹君に感謝し、贖罪の機会を無駄にするな。以上だ」
華やかに飾り付けられた皇宮の大広間。
大勢の貴族たちが見据える中、リリアはカルロにそう告げられた。彼の後ろに控えるアナは口を一文字に結んで、笑いを必死に堪えている。
リリアは頭が真っ白になった。カルロの口からそんな言葉なんて聞きたくなかった、と。
カルロにはもう彼女の本質など見えてさえいない。
彼の目に映るのは、偽りに覆われた"悪女"リリアだけだ。
「私はアナを虐めてなどいません。
殿下、私と婚約破棄をしたいのでしたら・・・」
「白々しいな。何を言い出すかと思えば、第一に否定か。他に言うことがあるだろうに。
それに、ただ婚約破棄をしたいが為にこんな大掛かりな捏ち上げをする訳がなかろう?するだけなら幾らでもできる。
私はこのような残虐な行為を好かんのだ。実の妹に手を上げるなど‥‥!!」
カルロが語気が強めてリリアの言葉を遮った。聞きたくない、とでも言うかのように。
「‥‥いいえ、そのような事実はございません」
今すぐその場から逃げ出してしまいたかった。が、リリアはきっぱりと否定した。
そうでもしないと気が狂いそうだから。
余りに堂々と言い放ったリリアに、カルロも一瞬たじろいだ。
それでも止める気はなさそうだ。
側に控えていたメイドにカルロが指示を飛ばす。
すると、そのメイドは隠し持っていた書類をカルロに手渡し、会場外から何かが入った籠を持ってきた。
瓶のぶつかり合う音が、静まり返った会場内に響き渡る。
リリアは籠の中身が何なのか、瞬時に理解した。
―――毒だ。少量では死に至らない毒。
何度か食事に混ぜられ、死にかけたことをリリアは覚えている。
家では食事さえ怯えながら食べなくてはならなかった。
その様子を毎度のように眺められ、嗤われていたものだ。
そうしている間に、カルロが綴じられた複数枚の書類をペラペラと捲り始めた。
「ならば、一つ一つ読み上げてやろうか?
……手始めに、妹君の頬を叩き、腹を蹴り、脚で躓かせた。次に、階段から突き落とし、学園内に彼女の悪い噂を蔓延させようとした。加えて、毒を仕込むだけでなく・・・・」
ありもしないリリアの罪を読み上げていく。
リリアには何も頭に入ってこなかった。カルロの言葉は右から左へと流れていく。
が、彼が籠の中に手を伸ばすと、リリアの肩がビクリと小さく震えた。
その時、だった。
「もう、もう………お止めください!!」
アナがカルロの後ろで、絞り出したかのような声を上げた。
カルロが動きを止める。
彼の制止も聞かずに、アナは震えながら前へと進み出て、リリアとカルロの間に立ち塞がるかのように佇んだ。
思わずリリアはアナを凝視する。が、アナはそんなこと気にしていなかった。
「お姉様は、私に度を超えた悪戯を仕出かしました。
‥‥‥‥ですが、それだけなのです!
他の方にはそのようなことをしておりません!!
それに元はと言えば、私がいけないんです。
私が、考えなしに発言したから…………。
だから、どうかこれ以上の罰はお許し下さい……!!」
一体彼女は何を言っているのか。リリアは目の前の義妹に震えだしそうになった。
それでも、震えも涙もこれといって出てこなかった。
アナは今にも泣き出しそうな悲痛な声で、震えを必死に抑えている。きっと他の者には痛ましく見えることだろう。
が、その場でリリアだけは分かっていた。アナが心のなかでほくそ笑んでいることに。
人混みに紛れているラミアも同様だ。
そんなアナの様子にカルロは見事に騙されたようで、哀れんだ目でアナを見た。
そして、近くのメイドに彼女を預ける。
メイドは会場の外に出て介抱しようとしていた。
が、その場に留まる為に、アナは泣き縋るようにしてメイドにしがみついた。
この光景を特等席で見ていたいのだろう。
何かを誤解したのか、皆アナを憐れむかのように見ている。
中には、アナの勇気に心を動かされている者もいた。すっかりアナに騙されているのだ。
リリアだけが唯一、アナの正体を知っている。
「‥‥‥よかろう。妹君に免じて、リリア・ナイーゼの件についてはこれにて終わりとする。異論はないな?
ただし、軟禁だけは免れん。今すぐ連れ帰れ」
何を思ったのか、カルロが突然終わりを告げた。聴衆に圧をかけて、黙らせる。
勿論、陰口を叩いていた者も例外ではない。
そうして、会場は一気に静まり返った。皆の視線がカルロへと集中する。
それもすぐに、本日の主役であるリリアへと向けられた。
「いやっ、‥‥‥!」
―――あの、いつでも冷淡なリリアが取り乱している。
中々お目にかかれない公爵令嬢の醜態を、貴族たちは物珍しげに眺めていた。
さぞ見ものだったことだろう。中には滑稽だと嗤い出した者もいた。
控えていた女騎士たちにリリアは為す術もなく拘束された。身をよじって暴れようとしたところで無意味だった。
栄養不足で虚弱な身体のリリアと鍛えられた騎士とでは天と地ほどの差があったのだ。
リリアは騎士に拘束される中、アナの方を見た。
メイドに顔を埋めるアナの口元は弧を歪に描いている。
恐ろしさで足がすくんで、リリアは顔から血の気が引いていくのを感じた。
アナを凝視したまま会場の外へと連れて行かれる。
勿論、群衆の誰もそれには気づかない。良くも悪くも、リリアの醜態をただ眺めているだけだ。
二度と社交界へは戻れない。いや、戻ることができない。
「やめてっ、殿下っ、見捨てないで‥‥っ」
リリアはカルロに必死に訴えた。
が、彼は彼女の方を見向きもしなかった。
最後まで諦めることなく、リリアはか細い声で藻掻き続けた。
ずっと声を出し続けた。ずっと、ずっと。
「あの家にだけは、閉じ込めないでっっ…っ!」
扉が閉まる直前、最後の力を振り絞ってこれまで以上に大きな声を出した。
それでも、その声はカルロには届かなかった。
代わりに、扉の閉まる音がリリアの耳に響き渡った。
リリアは扉に手を伸ばそうとした。が、女騎士はそれを許してはくれなかった。
怪しい行動をしたリリアの手を押さえ込み、彼女に言い聞かせる。
大人しくしてください、と。
すっかり色を失ったリリアを馬車へと追いやる。その周りは騎士で囲まれていた。
リリアには逃げる術もないし、今更逃げる気力さえなかった。
無意識に流れた一筋の涙はゆっくりと頬を伝っていった。
(もう、疲れた‥‥‥‥)
リリアは馬車の中で運ばれている間、一人そんな事を思っていた。
◆◇◆
「ほら!早く部屋に入りなさい!!」
一人のメイドがリリアに言い放った。
ナイーゼ家に着くなり、リリアの身柄は騎士たちからメイドへと引き渡された。
危険だから同行すると騎士は提案したが、メイドたちに断られてしまったのだ。
今日は遅いから帰ってくれ、と。
リリアは抵抗する気さえないのに、メイドに無理やり引っ張られながら自分の部屋へと連れて行かれた。
薄暗く、小汚い部屋に。貴族というよりも貧民を連想させるような部屋だ。
それでもここにいれば、誰かが入ってこない限りは何もされない。
だからこそ、リリアにとって屋敷の中で最も落ち着ける場所だった。
が、今日だけは全く心が休まらなかった。
リリアがずっと心の拠り所にしていた人にさえ信じて貰えず、こっ酷く捨てられた。
カルロの冷ややかな視線を思い出す。
(カル、貴方も私を‥‥‥‥‥)
すっかり静まり返った部屋の中で、リリアは虚空を見つめて呆然とした。
彼のお陰で、リリアはここまで耐えることが出来た。
いつか事実に気が付いてくれることを信じて、耐えて、耐えて、耐え続けた。
が、結局はその彼も他の貴族たちと一緒だった。
噂を信じて、騙されて、本当のリリアに見向きもしない。
カルロの愛を信じ続け、どんな時でも彼を愛し続けた仕打ちがこれだ。
リリアはベッドの上に無造作に置かれた布団へと目をやる。
"布団"というには余りに粗末な布だ。
(ここから一生出られない位なら―――――)
布団に手を伸ばす。
それをロープのように捻って輪っかを作って、扉の取っ手へと括り付けた。
生唾を飲み込んでロープの輪っかに手をやる。
―――さようなら。
そう思ったときだった。
幸か不幸か、扉が開いてメイドが訪れたのは。
「お嬢様!?何をして‥‥‥!?」
メイドは目を見開いた。慌てた様子でリリアを押し、ロープから遠ざけようとする。
リリアの手は無事にロープから外れ、押された衝撃で尻もちをついた。
ようやく、メイドはハッとしたように口を押さえた。
顔だけをリリアの部屋から出して、周囲の様子をコソコソと窺う。
何事もなかったようで、胸を撫で下ろしたメイドは、扉を静かに閉ざした。
それからリリアの方へと近づく。
「お嬢様、今、何をしようとしていたのですか‥‥?」
メイドはしゃがみこんで、リリアの様子を覗き込んだ。憂いに満ちた、優しい顔つき。
リリアは無言で俯いた。それが答えだった。
どうせまた、何かをされるのだろう。そう思っていた彼女は、諦めたように目を瞑った。
が、予想していたものとは違う反応が、メイドから返ってきた。
「それ程までに追い詰められていたことに気付けず、私は‥‥‥」
まるで自分のことのように苦々しい声。
ようやくリリアは顔を上げ、メイドを直視した。
思い悩むかのように苦悶の表情を浮かべたそのメイドは、ラミアの目を逃れた数少ないメイドの一人だった。
アルテミスの生前も、ラミアが来てからも、誰にも見られないよう密かにリリアの手助けをしてくれていたメイドがいることはリリアも知っていた。
しかし、それが誰なのかまでは知らなかった。
が、今この瞬間、彼女だ―――。と確信した。
リリアは屋敷のメイドの少しだけなら名前を把握している。特に、追い出されなかったメイドは。
その中に珍しくも双子の者がいた。
確か名前は、アリーとノーマ。何方もナイーゼ家のメイドだ。
一卵性双生児の彼女らは、見ただけでは判別が極めて難しい。
「あなたは‥‥‥‥‥?」
「‥‥‥アリーと申します、お嬢様」
アリーと名乗ったメイドは、もの寂しげに微笑を浮かべた。
「私で宜しければ、話をお聞きいたしますよ。
それでお嬢様の気持ちが少しでも和らぐのなら」
アリーは真っ直ぐにリリアの眼を見た。
まるで、彼女の心を見透かしているかのようだ。
「‥‥‥彼を愛していた。だけど、だけど、そんな彼にさえ信じてもらえず、捨てられた」
少しずつ、リリアが心情を吐露し出す。
誰かに聞いて欲しかった。ずっと話を聞いてもらいたかった。
これまで抑え込まれていた感情が一斉に溢れてきた。
アリーはそれを只管頷いて聞いてくれた。
「もう私に生きている意味なんて‥‥‥‥」
リリアがその言葉を言い終わる前に、彼女の口は閉ざされた。一瞬何が起こったのか分からなかった。
自分のものではない誰かの鼓動が、温もりが、ハッキリとリリアへと伝わってくる。
「泣いて、いいのですよ」
アリーが宥めるかのように、耳元でリリアに囁いた。久しぶりに聞く、優しくて温もりに満ちた声。
リリアはアリーに抱擁されていた。
気が付けば、リリアは身を任せていた。声も出さずに、子供のように泣きじゃくっていた。
ボロボロと大粒の涙が止め処なく溢れてくる。
服がぐしょ濡れになることも厭わずに、アリーはそんなリリアを撫で続けた。
が、突如としてその手がピタリと止まった。
彼女を支えていた身体も、力なくリリアに寄りかかった。
リリアが埋めていた顔を上げる。
しかし、そうした事を直ぐに後悔する羽目になった。
アリーの後ろに、いつの間にかメイドが一人立っていた。それだけならまだ良かった。
自身の、アリーに回していた手の甲に、何かがピチャリ、と跳ねた。
恐る恐る、離した手を確認する。
―――血、だ。
まだ新しい鮮血は、彼女の首元から噴水のように美しくも流れ出していた。
即死だった。
アリーの背後にいたメイドは、返り血を浴びながらリリアを見下ろしていた。
べったりと何かが付着した凶器を手に持っている。
「え‥‥‥‥‥‥」
目を疑うような光景に、リリアが思わず声が漏らす。
混乱と、恐怖と、‥‥‥‥。色々な感情がごちゃ混ぜになり、頭が上手く回らない。
「駄目じゃない、アリー‥‥‥」
メイドは、何処か哀愁を帯びた瞳でアリーを一瞥した。が、既にアリーの耳へは届かない。
気を取り直したように、彼女はリリアをじっと見る。
足が竦んでしまって、リリアは後退ることも、立ち上がることも出来なかった。
「な、何を‥‥‥‥」
つい、言葉が漏れる。
本当は今すぐ泣き叫びたい気持ちでいっぱいだった。が、何故かそんなものは出てこなかった。
リリアの視線はメイドに釘付けだ。
「‥‥‥‥‥口止めです」
落ち着いた声でメイドが答えた。それに反して、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「ずっとお嬢様を気に掛けていたようだから見に来てみれば‥‥‥」
すると、今度は独り言のようにぶつぶつと呟き始めた。
手が伸びる。リリアはギュッと目を瞑った。
が、リリアの予想に反して、メイドは彼女に危害を加えることはなかった。
手慣れたように遺体を回収すると、その場から立ち去った。リリアが病気になったら困るからか、血塗れの床は綺麗に掃除していって。
リリアは呆然とその様子を見ていることしか出来なかった。
ずっとリリアを側で見守ってきた人さえいなくなってしまった。それも、目の前で。
(どうして、私がこんな目に遭わなくちゃいけないの?)
誰もいなくなった部屋で、リリアはひとり佇んだ。
何故、自分が虐げられなければならないのか。
何故、自分が悪女と罵られなければならないのか。
何故、自分が罰を受けなくてはならないのか。
何故、―――――――。
考えに考えても、答えなど見つかることはない。
(私を虐げた人たちも、見て見ぬ振りをしたお父様も、救いの手を差し伸べてくれなかったカルロも、
‥‥‥‥‥‥‥‥‥もう、何もかもがどうでもいい)
リリアは小瓶に手を掛けた。いつかの日に、誰かが部屋に置き忘れていった毒。
何となく、ベッドの下に隠していたのだ。
蓋を開けると、どこか魅惑的な花の香りが辺りに広がった。
無意識に、それを口に含む。
カランッと音を立てて、床に落ちた。小瓶と何かが当たる音がする。
(せめて最期は安らかに)
固いベットに寝転がる。ボロ布のような布団を被り、目を閉じる。瞬間、意識が朦朧とする。
(もし、もしも。貴方とまた出会うことがあるのなら)
―――今度は貴方を愛さない。
◆◇◆
「お嬢様、起きて下さい。朝ですよ」
メイドの声でリリアは目が覚める。
失敗した。そう思って目を開ける。
すると、どこからか降り注いだ日差しが、部屋を明るく照らし出していた。
いつからか窓のない部屋で寝起きしていたリリアにとって、眩しすぎる光だ。
驚くことはそれだけではない。
寝心地の良いふかふかのベッドに、羽毛がたっぷり詰め込まれた柔らかな布団。
‥‥‥‥いつもと違って、何もされない朝。
それらは全て、昨日までのリリアには贅沢過ぎるものばかりだ。
側にいるメイドは、どこか懐かしい。
ラミアとアバンリッシュが再婚するまで、屋敷で働いていたメイドだ。
リリアも彼女をよく覚えている。
無愛想だが、真面目に仕事をこなす逞しい女性だった。
が、そんな彼女もやはり追い出されてしまった。
胸のざわめきを感じて、リリアはメイドから手鏡を受け取った。
覗き込むと、鏡の中に自分がいる。
まだ十代にも満たない、幼少期のリリアだ。
(夢、だったの‥‥‥‥‥?)
自身に問い掛ける。
が、あの凄惨な記憶が脳裏をかすめた。
あれが夢である筈がない。そう確信せざるを得ない程はっきりと。
思わずリリアは叫び出しそうになった。
「お嬢様‥‥‥?どうされたのですか‥‥‥?」
険しい顔を浮かべるリリアを、メイドが訝しげに見た。心から心配しているようだった。
無愛想?とんでもない。幼い頃のリリアが気が付かなかっただけで、彼女をよく見てくれていたのだ。
「いいえ、とっても怖い悪夢を見たの。
考えたいことがあるから、少しの間ひとりにしてくれないかしら」
夢であればよかったのに、と心の中で付け加えた。
リリアの言葉を聞いて、メイドは一度退席することにした。
リリアひとりになった部屋で、軽く息をつく。
―――幼少期まで戻っている。
この事実に、ある種の思いを抱いた。
やり直せるのかもしれないという希望と、繰り返すのかもしれないという恐怖。
何歳かまでは分からなかったが、まだアルテミスが亡くなっていないことと、ラミアたちが来ていないことだけは確かだった。
まだ、やり直せる――――。リリアはそう思った。
アルテミスの死因は不慮の事故だった。
偶然にも、彼女の乗っていた馬車が転落したのだ。
当時のリリアはそれを信じ込んだ。
が、よくよく考えてみると不可思議だ。
アルテミスの死後、ラミアは待っていたかのように直ぐにアバンリッシュと再婚した。
それは、何方かあるいは両方が、周到に用意していないと到底出来ることではない。
つまり、アルテミスの事故は偶然ではなく、意図して引き起こされた可能性が高い。
例え彼女を一度救えたとしても、根本的な解決にはならないだろう。
それでも、先ずは目の前にあることの方が大事だ。
アルテミスの事故を何とかして防ぎ、ラミアたちの再来を遅らせる。
が、それだけでは足りない。
最終的なリリアの目標は、ラミアの魔の手から完全に逃れて、付き纏う恐怖を失くすことだ。
アルテミスとの過去を振り返る。
何度も何度も構ってもらおうと話し掛けた。が、結局殆ど口さえ利いてくれもらえないままに彼女の命は潰えてしまった。
決して明るい話ではない。むしろ苦々しい思い出だ。
それでも、リリアは心からアルテミスを救いたかった。
大好きだったから。これから、関係を修復していけるかもしれないから。
端から見殺しにする選択肢はリリアには存在していなかった。
アルテミスが亡くなるのは、初めてリリアとカルロが出会う日。
記憶の中の彼は、リリアにとってのヒーローだった。けれども、そんな人はもういない。
今では、将来リリアを地獄へと叩きつける1人に過ぎないのだ。
例えリリアの未来が変わったとしても、今度はカルロを愛するつもりはなかった。
もう彼に捨てられるのは耐えられないし、似たようなことが繰り返されない保証はないから。
リリアは首を振った。今は感傷に浸っている場合ではない。
兎に角、リリアには運命の日に街へと降りずに、アルテミスを引き止めるしか方法がなかった。
そしたら自ずとカルロとの接触は避けられる。婚約の打診さえ来ないかもしれない。
が、突然、パタパタとメイドが駆け込んで来た。慌てた様子で、ノックさえ忘れている。
「どうしましたか?」
ただならぬ気配を感じ取り、リリアは、そのメイドに何も咎めることなく尋ねた。
「お嬢様、落ち着いて聞いて下さい」
「何、でしょうか‥‥‥‥?」
「皇太子殿下から婚約の打診がきているのです」
そこまで聞いて、リリアは自分の耳を疑った。
まだ出会ってさえいない筈なのに、と。
しかも衝撃的なのはそれだけではなかった。
メイドの話を呆然と聞き流していると、最後にとんでもない台詞が飛んできた。
「今、客室にいらしております!!」
明らかに早すぎる来訪。
もう既に手遅れなのか。とさえ考えて、リリアは血の気が引くのを感じた。
メイドに急かされて、慌てて仕度をした彼女は、部屋から勢い良く飛び出した。
◆◇◆
ナイーゼ家の中でも際立って豪華な客室。そこには6人の男女が席に着いていた。
リリアと皇太子、そしてその両親だ。
つまりは公爵家と皇族が顔を見合わせている状況で、畏れ多い面々にメイド達も息が詰まる思いだった。
それを察してか、あるいは大事な話をするからか、アバンリッシュがメイドを皆下げさせた。
(どうして‥‥‥‥‥‥?)
リリアはこの光景に見覚えがあった。前回と殆ど同じだ。
が、その時は、アルテミスは席にいなかった。既に帰らぬ人となっていたから。
だからこそ、突然の出来事に頭がついて行けなかった。
「さて。皆揃ったところで始めるとしようか」
皇帝が口を開く。
どこか威厳ある声に、自然と緊張が走った。
混乱するリリアを他所に話が進んで行く。
(あぁ、同じだ)
右から左へと、話が流れていく。目の前で、あの時と同じ会話が繰り広げられている。
リリアはまるで劇でも見ているかのような気持ちになった。
きっと、このままリリアたちの意見など求めずに話が進むのだろう。
リリアはそう思った。が、
「お父様、お母様。私からも少し申し上げたいことがあるのですが‥‥、よろしいでしょうか?」
突然声を出したのは、皇太子だ。
予想外の出来事にリリアは思わず目を見開く。一度目ではなかったことだ。
ついカルロの方を凝視してしまう。縁談の時期といい、やはり何かが可笑しい。
リリアは困惑しつつも、心なしかそわそわしている。
一体何を言い出すのか、と。
「ふむ、そうだな。言ってみなさい」
それを知ってか知らずか、皇帝は宥めるように言い聞かせた。『皇帝』としてでなく父としての言葉だった。
「はい。私は一度ご令嬢とお話させていただきたく存じます。何せ初対面なのですから交流を深めておいた方が良いでしょう」
またしても、カルロの口から飛び出したのは完全なるアドリブだ。
皇帝は顎に手を当てた後、軽く頷いた。
「成る程‥‥‥‥。では、子は子同士で話すと良いだろう。アバンリッシュ」
「は。別室に部屋を用意させます」
「よろしい。カルロにリリア嬢よ、後は子ら同士で仲を深めると良い。行きなさい」
隙を見計らって反対するつもりが、リリアは一歩出遅れてしまった。
こう言われてしまえばどうすることも出来ず、彼女は頷く他に選択肢がなかった。
「「はい」」
リリアとカルロの言葉が偶然にも重なる。思わず、ふたり顔を見合わせた。
目が合うと、カルロの表情が一瞬ふにゃりと崩れる。
まるで心から大切に思う人に向けるような笑み。
そこに先程までの大人びた雰囲気はなく、まるで別人のようだった。
不覚にもリリアは、そんな彼を愛らしいと思ってしまって、表情を少し緩めた。
が、直ぐにその考えを頭から振り落として取り繕う。
今はそんな気配を見せなくとも、リリアを裏切った挙げ句に捨てた男であることに変わりはない。
気を抜いている場合ではなかった。
そうしていると、カルロに突然手を差し出された。
一瞬リリアの思考が追いつかなかった。小首を傾げていると、「行こうか」とカルロは告げた。
そこで漸く、手を引こうとしてくれていることに気が付く。
ここはナイーゼ家で、初めて来た彼が道案内など出来る筈がない。
それに、慈しみに溢れた眼差しを彼から感じるのは、リリアの気の所為なのだろうか。
今世では初対面で、彼女のことを何も知らない筈なのに。
リリアはカルロのことが余計に分からなくなった。
皇太子の義務だからなのか、それともまさか一目惚れしたのか。
視線の先にいる、同い年の子供の考えていることがこれといって分からない。
差し伸べられた掌に視線を向ける。
まだ柔らかくて、なんの汚れもない幼い手。リリアにはその手を取れる自信がなかった。
取ってしまえば最後、あの悲劇が繰り返される気がしたから。
手を握ることを躊躇している彼女に気が付いたのか、カルロが申し訳なさげにその手をおろした。
何とも言えない気持ちになる。
そうして客室を出てから、直ぐに別室へとついた。
子供とはいえ、家族でもない未婚の男女が二人きりなのは色々と問題がある。
そこで、ひとりの年配のメイドが壁際で立ち聞きしている状態だ。
「改めて初めまして。私の名前はカルロ・イル・アスベルト。この国の皇太子だ。これからよろしくね」
「こちらこそ初めまして。改めまして、私は公爵家長女のリリア・ナイーゼと申します。この度はよろしくお願いします」
席に座る前に、軽く挨拶を交わす。
「ふふっ良いよ。そんなに固くなくても。私のことはカルとでも呼んでくれ」
カルロは目を細めて微笑んだ。
初対面の相手に対する態度には到底思えないフレンドリーさだ。
一周目よりも磨きがかかっているように見えるのは、リリアの実年齢の問題だろうか。
「殿下にそんな恐れ多いことなど出来ません」
「そうか。では、徐々に慣れていこうか」
リリアが断らないとでも思っているのか、彼は既に婚約に前のめりだ。
リリアはそんなカルロに違和感を覚えた。こんなことを言うような子供だったかと疑問に感じる。
「慣れるって‥‥‥‥。私は殿下と婚約するつもりはございません。まだ殿下のことも全然知りませんし‥‥‥」
「リリア嬢のことを知らないのは私も同じだ。
だからこそ、これから知っていけば良いのではないか?」
彼の言うことには一理ある。これ以上の言い訳が思いつかない程に。
何か逃れる術はないかと、リリアが思考を巡らす。
すると、彼女はあることを思いついた。
混乱ですっかり後回しにしていた計画。皇太子の肩書を持つ彼に協力してもらえたら心強い、と。
断られる可能性も十分に考えられたが、聞く価値はあった。
「あの‥‥‥‥」
「どうしたの?」
「皇太子殿下にお願いしたいことがございます」
「何、かな?」
自然と、空気に緊張感が走る。
表情が一層固くなったリリアを見て、彼が何かを感じ取ったのだ。
優しげな声色で、けれどもどこか真剣味を帯びた雰囲気を醸し出して聞き返す。
暫くの間、辺りに沈黙が流れた。話の続きを、カルロは静かに待ち構えている。
そんな中、遂にリリアは本題を切り出した。
「私の母を、救ってくれませんか」
一か八かの賭け。兎に角、第一に彼の興味を引かなければ元も子もない。
じっとカルロの方を見る。
どういうことかと聞き返すか、否か。リリアはそう予想していた。
が、彼の口から飛び出したのは、余りに予想外な言葉だった。
「‥‥‥‥‥分かった」
一言。
意味もまるで分かっていない筈なのに、彼はただただ頷いた。
単に天然なのか、馬鹿なのか。あるいは‥‥‥。それは誰にも分からないことだ。
それから暫くの間、只管ふたりで話し合った。具体的に何をするのか、事をどう対処するのかなど、あらゆる方法を時間いっぱい。
突然のことなのに、カルロは嫌な顔ひとつしなかった。
それどころか、真摯に話を受け止めて、彼の考えを色々と話してくれた。
そんなことは有り得ないのに、まるで前から対策を練っていたかのようだ。
結果としては、皇宮から騎士を数人貸りることに収まった。
皇宮付きの騎士たちは訓練が厳しく、他の騎士よりも個々人が強い。
加えて、主の命令は絶対という信念を貫き、誰よりも裏切りにくいのだ。
始めは、アルテミスを皇宮に預けることも考えた。が、それは根本的な解決には繋がらない。
馬車を襲った者がいる可能性がある以上、犯人を捕らえる必要があるのだ。
万が一、主犯は見つからずとも決行犯さえ捕まえれば、少なくとも抑止力になり得るだろう。
早々に主犯が尻尾を出すことを願って、運命の日がとうとう訪れる。
その前から念のため、アルテミスが出掛ける度に大勢の騎士を付けさせて、身の安全を確保していた。
カルロのように過去のこととは違う行動をとる可能性があったからだ。
慣れとは怖いもので、始めは不審がっていたアルテミスは、今ではそれを然程気にも留めていない。
直前になって、リリアが同行を決死の思いで強請ってみても、貴婦人たちとの集まりだからと断られてしまった。
結局は家でアルテミスの帰りを待つことしか出来ない自分に情けなさを感じつつも、ある種の不安が溢れてきて、リリアの心は押し潰されそうになった。
そのせいか、気がつけば何時間も経過していた。窓から外の景色を眺めながら、物思いにふける。
そうしていると、ナイーゼ家へと向かってくる馬車が遂に見えてきた。
視線を馬車に集中させる。
が、それはアルテミスの乗っていたものではなく、見覚えのあるシンボルのついた馬車だった。
馬車はナイーゼ家の門をくぐって停車すると、中から二十歳くらいの青年が降りてきた。
確か名前はブレイン・スラスト。将来カルロの側近となり、リリアが嫌ほど顔を合わせることになる人物だ。
真面目で、兎に角小言が多い。彼女にとってそんな印象である。
そんなことよりも、連絡もなく現れた皇宮の馬車に、ナイーゼ家内は半ばパニック状態となっている。
使用人たちが忙しなく走り回り、足音が彼方此方から聞こえてくる。
騒ぎを聞きつけたアバンリッシュは、即座に自ら出迎えに外に出て行った。ブレインと何かを話している。
が、家に入る気配が一向に見受けられない。
そんな様子をリリアがまじまじと観察していると、アバンリッシュが彼女の方を見た。
偶然、目が合ってしまう。
出て来なさい、と言わんばかりの視線。それを感知したリリアは慌ててメイドを呼びつけた。
軽く化粧を施してもらって、簡易的な外出用衣装に着替えると、外へと飛び出す。
あくまで下品に見えないように、小走りでふたりの元へと駆け寄ると、ブレインが深々と礼をした。
「初めまして。私は皇太子殿下の側近のブレイン・スラストと申します。以後、お見知りおきを」
この頃はまだ側近ではなかった筈だったのだが、ブレインはハッキリとそう告げた。
何故かは分からないけれども、やはり過去がいくつか変わっているようだ。
今更のことなので然程驚きはしないが、どちらかというと彼が訪ねて来た状況に疑念を感じる。
二度目の初めて遭遇する事態。アルテミスに関係することはリリアにも分かっていても、何が起こるかまでは想像できない。
「この度は殿下の命により馳せ存じました。どうぞこちらにお乗りください」
挨拶を返す隙もなく、流れるがままに馬車へと誘導される。
アバンリッシュもそのことを聞いていなかったのだろうか、不審げな表情を浮かべて馬車の中に乗り込んだ。リリアもそれに合わせる。
「では、皇宮へと向かいましょう」
ふたりが乗ったことを確認するなり、ブレインが淡々と言い放つ。
静かな空間の中を、蹄の音が軽快に鳴り響いた。
◆◇◆
現在、リリアたちは皇宮の客間で、カルロと向かい合っている。
皇帝は業務、皇后は茶会で席を外しており、子供ふたりに親ひとりという状況だ。
何とも不可思議な光景である。
気まずい空気のまま時間だけが過ぎていく。
すると、漸く扉の開く音が部屋に響き、ブレインが客間へと入って来た。
後ろに控えている女性はアルテミスだ。
空気が変わる。その瞬間を、リリアは肌で感じ取った。安堵する猶予もない。
「何故君がここに‥‥‥!!?茶会に行ったのでは‥‥!?」
先ず声を上げたのはアバンリッシュだ。困惑した様子で、声を荒げている。
何故こんな所にいるのか。と、心底不思議そうだ。
「行く途中で何者かに襲われかけたのよ。
もし騎士たちが付いていなかったのなら‥‥‥‥‥。今頃、私はここにはいないことでしょう」
アルテミスが苦悶の表情を浮かべる。"もしも"のことを考えているのだろうか。
いつの間にか、空気がサーッと引いた。その主な原因はアバンリッシュだ。
掌に爪が食い込みそうなほど拳を強く握りしめ、手の甲には筋が浮き出ている。
その瞳には静かな炎が浮かび上がっていた。
「‥‥‥‥どこのどいつだ?アルを害そうとした奴は」
心無しか彼の声色はいつもより低くて、重い。
リリアには彼がどうしてこんなに苛立っているのか分からなかった。
政略結婚の二人の間に愛など存在しない筈なのに、アルテミスの死後すぐにラミアと再婚していた筈なのに、何故こんな反応をするのか、と。
故意に起こされた事故に何かを思う前に、彼の様子に衝撃を受けさせられるばかりだ。
アルテミスは口を閉ざした。きっと思い出したくもないのだろう。
代わりに、カルロが答えた。
「今回夫人を襲った者たちは雇われたそうだ。
名も知らぬ女に、事故に見せかけて殺すよう依頼された、と。馬鹿げた話だが、それ以上は何も知らないらしい。
後ろに潜む"誰か"についてはある程度目星が付いているが、何せ証拠が上手く隠蔽されていて、何故か出てこないのだ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥すまない」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
対するアバンリッシュは、ただただ黙って、その話を聞いていた。青筋が額に浮かび上がっている。
タイムリープしているリリアにとっては、それが誰かなど容易に想像できた。が、ここで口出しする訳にもいかない。
まるで葬式のような雰囲気が辺りに広がり、皆静まり返った。誰も何も話さない。
リリアがそれとなくアルテミスの方を見る。
すると、目がバチリと合った。アルテミスは感極まったように目を潤ませ始めた。
「ねえ、リリア。今までごめんなさい」
突然、アルテミスが沈黙を破る。透き通るように綺麗な声は、息が詰まりそうな空気を和らげた。
リリアは耳を疑った。これまでまともに話してこなかった母親に、突如謝られたのだから。
アバンリッシュも沈めていた顔を上げた。突然の出来事に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
唯一、カルロとブレインだけが素知らぬ顔でその様子を眺めている。
彼らがアルテミスに何かをしたのだろう。
「何のことでしょうか‥‥?」
思わずリリアが尋ねる。
まさか、是迄の態度のことを謝っているとはとても思えなかったからだ。
が、アルテミスはもう一度謝り直した。
「これまで貴女に見向きもせず、冷たく接してしまってごめんなさい。今更都合が良いことなんて分かってるわ。でも、‥‥」
「ちょっと待って下さい。何があったのですか、?
私を嫌っていたのでは‥‥‥」
いきなりのことに理解が追い付かない。
依然として話を続けようとする彼女を、リリアは慌てて止める。
「アバンリッシュ公爵、貴公の結婚の経緯はある程度は聞いている。包み隠さず説明してくれないか」
そんなリリアたちを見かねて、カルロが助け舟を出した。皆の視線がアバンリッシュに集中する。
それは既に話を聞いているアルテミスも例外ではない。
始め、突然話をふられて困惑していたアバンリッシュは、漸く気持ちの整理がついたのか、少しずつ話しだした。
彼の話を纏めるとこうだ。
アルテミスとアバンリッシュの政略結婚は元を正せばアバンリッシュの言葉が原因だった。
幼い頃からアルテミスを想っていた彼は、何とか結婚しようと当時の父に相談を持ちかけた。
けれども、公爵位と男爵位という身分差のせいで一度は断られてしまう。
そこで、彼女の家の事業に目をつけた。当時流行っていた事業だったこともあり、提案しやすかったのだ。
そうして、何とか元当主と話をつけた彼は、いくつかの契約を交わすことでアルテミスと政略結婚することを許された。
それがことの発端だったのだ。
アバンリッシュはアルテミスから愛されていないと思っており、縛り付けたことに対する申し訳なさから、上手く話すことが出来なかった。
と、言うことらしい。
それを聞いて、アルテミスは大層驚いていた。カルロたちから聞くのと、本人から聞くのでは全く違う。
彼女によると、彼が全く相手にしてくれない理由を自分の存在自体が不要だからと思い込んでいた、といことだ。
最悪なのは、誤解が生じたまま結婚したことと、義務だからと過ごした初夜でアルテミスが懐妊したこと、そして生まれた子供がアバンリッシュの特徴を全く引き継いでいないことだ。
因みに初夜以降は、罪悪感からアバンリッシュが彼女の誘いを拒否し続けた。
その結果、拗れに拗れてしまった。
アバンリッシュはアルテミスの不貞を疑い、相手を突き止めようと躍起になり、更に話さなくなった。
アルテミスも自分が用済みで、彼が不貞をしているのだと信じていた。
アバンリッシュにとってリリアは他の者との子で、アルテミスにとって彼女はどう扱えば分からない子。
だからこそリリアは、これまでずっと寂しい思いをさせられて来たのだ。
アバンリッシュとラミアの関係性について謎は残るものの、コレが事のあらましである。
何とも腑に落ちない気持ちが溢れて堪らなくなった。
「リリア嬢、場所を移動しようか?」
そんなリリアの様子を察してか、カルロがそう提案する。
一刻も早く外の空気が吸いたくて、彼女は頷いた。
アルテミスたちを客室に取り残して、その場を後にする。
辿り着いた場所は見覚えのあるカルロの部屋。過去に数回訪れたことがある。
必死に引き留めようとしていたブレインの努力は無駄に終わり、まだ婚約者でもないリリアを、彼は部屋へと招き入れた。
今は溜息をつきつつも、ブレインは傍に控えていた。きっと何度も苦労しているのだろう。
カルロは悪戯げに微笑んだ。
「ここなら外に音も聞こえない」
「‥‥‥‥‥殿下。一体何をされたのですか?」
部屋のことについては、もう言及しないでおく。それよりも、さっきのことのほうが気になったからだ。
「さっき説明した通りだよ」
「そうではなく、何故こんなにも我が家のことを知っているのですか?」
話を逸らされた気がして、はっきりと否定した。
誤魔化されることのないように、詳しく言い換える。
リリアがカルロに相談してからそこまで日が経って居ない上に、まだ婚約者でさえない令嬢の家の事情まで、調査され尽くされていることは明らかだった。
「簡単な話だよ。彼方此方の貴族やメイドたちに聞いて回ってもらったんだ」
が、見当違いな答えが返ってくる。そんなことは聞かずとも分かることだ。
やはり敢えて話を逸らされている。
ブレインに目をやると、疲れたような顔をしていた。彼が奔走したのだろう。
「どうしてここまでして下さるのですか?」
今度は踏み入って尋ねることにした。逃げられないようにカルロの瞳を覗き込むかのようにじっと見る。
が、
「もうこの話はお仕舞い。
それよりも今度、私と出掛けてくれないかな?」
話を強制的に終わられ、突拍子もないことを言い出した彼に、リリアは目をパチクリとさせた。
ブレインは予期せぬ事態に頭を抱えている。
「え‥‥‥‥‥、?ですが、‥‥‥‥」
「お礼とでも思ってさ。その時に教えてあげるね」
君の住む街を案内して欲しいんだ」
"婚約は白紙になるのでは"リリアがそう言う前に、お礼という名目をカルロは突き出した。
「‥‥‥分かりました」
リリアは仕方なく頷いた。流石の彼女も断れなかったのだ。
が、リリアにはどうしてもカルロの真意が分からなかった。
殆ど話したこともない彼女にここまで気持ちを向けてくれる理由も、どんなことでも素直に聞き入れてくれる理由も。
「それ以降は誘わないで下さいね?」
「考えておくね」
辛うじてお願いしたことは、有耶無耶にされてしまった。きっとまた誘うつもりだ。
その後、アルテミスたちと合流したリリアは、皇宮の馬車に乗せて貰って直ぐに帰宅することにした。
が、アバンリッシュは何故か一人乗りで、アルテミスとリリアが二人で共に乗る形だ。
リリアが尋ねてみても、アルテミスは微笑むだけで何も教えてくれなかった。
だから、何があったかは当の本人たちにしか分からないことだ。
アバンリッシュとアルテミスがこれから完全に夫婦の仲を取り戻すかは不明であるが、リリアと彼女との関係はこれから修復していくことだろう。
まだまだ問題は山積みであっても、それだけでカルロに相談して良かったと心から思えるのである。
◆◇◆
「リアはやっぱり可愛いね」
「カ、カル!止めてください」
「敬語禁止」
リリアとカルロはふたりで街へと降りていた。平民にしか見えないよう変装していて、街に溶け込んでいる。
只のませた子供たちにしか見えず、とても皇太子と公爵令嬢とは思えない。
念のため身分を隠す為に、互いに愛称で呼び合っていたのだが、これが案外リリアには気恥ずかしかった。
しかも、わざとなのか天然なのか、カルロは事ある毎にリリアに甘い言葉を向けてくるのだ。
気を紛らわそうとしてくれているのだろうか。
リリアにとってカルロはまだ子供でしかないのに、褒められるたびに鼓動が脈打つのを感じる。
どうしてそうなるのか心では分かっていても、頭では認められない。認めなくなかった。
母を助けてくれて、家族の関係を修復してくれた。が、あんなことをされたことには変わらない。
リリアは単純すぎる自分を殴りたくなった。家族を助けてくれたとしても、同じことを繰り返すかもしれないのに。
彼方此方を当てもなく歩き回って、他愛もない話をして、ただただ時間だけが過ぎ去っていく。
昔のことを思い出して、懐かしさに身を沈めそうになる。
すると、カルロが突然立ち止まった。
「ここは何ていうの?噴水が綺麗だ」
「ああ。チェスキー広場ですね。この傍に花々が咲き誇って美しい絶景のスポットがありま、‥‥あるの」
懐かしい、とつい呟いてしまう。上手く聞き取れなかったのかカルロが首を傾げた。
「最後、聞き取れなかったな。もう一度言って欲しい」
「気の所為よ」
「そっか」
言いたくなさげなリリアの様子を察してか、これ以上は聞かなかった。
が、その代わりに、別の爆弾を投下した。
「そこに案内して欲しいな」
一言。リリアが動きを止めた。
何とか逃れようと、ひとつの言い分を用意する。
「良いけれど‥‥‥服が汚れますよ?」
「そんなの気にしてないよ。それよりも敬語」
無駄骨に終わったと思えば、また指摘された。
実のところ、敬語を使わずにカルロを呼んだのは、一周目に初めて出会った日限りであり、その時は彼女も幼かった上に、皇太子と知らなかったから成し得たことだ。
次に会った時には、皇太子と公爵令嬢として再会した。
だからこそ、彼を皇太子と知った上で敬語抜きに呼ぶことは難しかった。
結果として、慣れないことにはどうしても定期的に敬語に戻ってしまうのだ。
木々の間を抜けて、草むらをガサガサと進む。道を知らない筈のカルロが先行して進んでいた。
リリアが彼に付いていく形だ。
そうしていると、一面に花畑が広がった。
久々に見たからだろうか。言葉では言い表せないほどの気持ちがリリアに込み上げた。
本当に懐かしかった。
皇太子という肩書きのない、只のカルロに告白された場所。
今となっては苦々しい筈なのに捨て切れない大切な思い出。
リリアが花畑に目を奪われていると、カルロがポツリと何か呟いた。彼女の耳には届かないほど小さな声で「懐かしい」と。
リリアは小首を傾げた。
そうしていると、ゆっくりと彼が振り返った。
「いきなりでごめんね。
けれど、ここで伝えたかった」
色とりどりの花畑を背後に添えて、彼が照れくさそうに頬をポリポリとかいた。
何かの予感がした。
まさか、そんな筈ない。そうリリアは思った。
息を呑んで次の言葉を待つ。
「愛してる。これからもずっと」
どこか切なさを噛み殺したような笑顔。それは、少なくとも何も経験してこなかった幼い子供が出せるような表情ではない。
あの頃と少し異なる台詞、全く違う表情。
何故そんな顔をするのか、リリアには全く分からなかった。辛いのは私なのに、と。
リリアはその言葉に何も言い返すことが出来なかった。
「本当にいきなりで驚いたよね、ごめん」
リリアのそんな様子を見て、彼は悲しげな表情を浮かべた。
一度顔を伏せてから、彼女へと向き直る。
始めと変わらない笑みを浮かべる彼は、まるで無理に笑顔を取り繕っているかのように見えた。
それからの空気はぎくしゃくとなってしまった。
カルロが何事もなかったかのように接してくれるものの、リリアはどこかたどたどしい。
一周目のカルロに非があっても、目の前にいる彼は今は何もしていないし、むしろ本当の意味で救ってくれた。
そんなことはリリアも分かっている。が、どうしても割り切れない気持ちがあったのだ。
そんなままでその日のお忍びデートは終わってしまった。
数日後に、婚約の打診が取り消されたことをアバンリッシュの口から聞いた。
◆◇◆
―――場所は変わって、ある家屋
「どうして上手く行かないの!?」
ラミアが光る石に向かって怒鳴り散らした。それ越しに誰かと話しているようだ。
対する相手は冷静に返事をした。
『彼女の娘が助けたそうです』
「はぁ!?あれ程綿密に準備していたのに!!」
思わず、ラミアが手に持った石のようなものを投げつけそうになった。
が、不意に黙り込む。何かを考えているようだ。
漸く、思いついたかのように腹の底から声を出した。
「‥‥‥‥ねえ、貴方なら出来るわよね?」
『勿論です。直ぐにでも』
「待って。それじゃあ意味がないの」
先程の様子が嘘のように落ち着いたラミアが、今にも行動に移し出しそうな相手を制止した。
彼女の相手は、訝しげな顔をする。
『どういうことですか』
「アルテミスの娘には散々苦しんでもらわなくっちゃ。貴女もそちらの方が良いでしょう?」
意地悪げにラミアが微笑んだ。顔を見ずともどんな表情をしているかが容易に見て取れる。
『確かに‥‥‥‥一理ありますね』
「そうよ。親子の関係が深まってから目の前で、っていうのはどう?勿論、人気のない所でね」
『復讐が出来るのなら何でも構いません』
「じゃあ、決定ね。但し、五年以内が期限よ。それ以上は待てないわ」
『分かりました。あまり持ち場にいないのも疑われるので、そろそろ切りますね』
「ええ。良い報告を期待してるわ」
ぷつりと音がして、通話が切れた。
「ふふっふふふっ、アハハハハハハハ!!
待ってなさい。私の邪魔をした罰、たっぷり受けてもらうんだから!!」
ラミアが声高に嗤う。将来の光景を考えたら、彼女は五年くらい平気で待てた。
それをラミアの子供が傍から覗き込んでいた。
◆◇◆
あれから約四年半が経過した。リリアもすっかり大きくなり、十二歳だ。
事実が発覚してからというもの、ナイーゼ家はガラリと変わりつつあった。リリアとアルテミスは和解し、今ではすっかり仲良し親子だ。アバンリッシュの件もあり、アルテミスはリリアへの愛情表現が出来なかった。が、実際は愛してくれていたことが判明した。
両親はというと、アルテミスの尻の下にアバンリッシュが敷かれている状態である。
今ではアバンリッシュが毎日のようにアルテミスを口説こうと奮起している姿が度々確認されている。アルテミスも満更でもなさそうだった。
許していたとしても教えないのだろう。
そうして、ナイーゼ家は失っていたピースを埋めていくかのように、段々と活気が溢れてきた。
そしてもう一つは、リリアの侍女にアリーを指名したことだ。選ばれたアリーは喜んで世話を焼いてくれている。
今、アルテミスとリリアは庭園を二人並んで散歩していた。
リリアの一度目の人生ではあり得なかった光景だ。
他愛もない話をしながら、庭園の美しい景色を眺める。後ろには『アリー』が控えている。
「本日は良い散歩日和ですね」
アルテミスがリリアに微笑みかけた。そこに昔の面影はなく、慈愛に満ちた瞳で彼女を見ていた。
リリアも微笑み返して頷く。
「そうですね。たまにはこういうのも良いものです」
庭園で散歩することは珍しく、大抵は庭園の景色を背景にお茶を楽しむのが主流だ。
しかしこの日はメイドに勧められたこともあり、運動がてら歩くことにしたのだ。
「ねぇ、リリー」
「お母様、どうしましたか?」
アルテミスがふと思い出したかのように、リリアの方へと向き直した。
「貴女は素敵な人を見つけてね。アバンのように情けない人じゃない」
「ふふ。しょっちゅう言いますね。心配しないで下さい」
これまで会った最も素敵な人はカルロだった、と心の中で付け加えた。
最後には捨てられたとしても、今後、彼以上に愛する人はきっと見つからないし、見つけられないことだろう。
が、その彼も今は婚約者でも何でもない。
ふたりで出掛けた後、打診の取下げの申し出が皇家から届いたのだ。
カルロがリリアの意志を尊重してくれたのだろう。
それでも時々、皇太子としてでなく、『カルロ』として密かに家に訪ねてきていた。
リリアは窓越しに彼の姿を何度か見かけたが、複雑な気持ちに苛まれ、面会を拒否し続けた。
こんなにも想ってくれているのが伝わってきて、だからこそ顔を合わせるのが怖かったのだ。
兎に角、このまま何事もなく一日が過ぎ去るものかと思っていた。和気あいあいと、ふたり話に花を咲かせている。
が、事件が起こるのは突然のことだった。
ふたりが庭園の中でも一際大きな垣根がそびえ立つ道へと入った時、
「危ないっ!!!」
不意に彼の声が響き渡った。
きっと気の所為に違いない。リリアはそう思った。
彼女のよく知る声だったから。
すると、彼に押されたのかアルテミスが地面に転がり込んだ。
突然のことに、アルテミスは勿論、リリアも何が起こったのかがさっぱり分からなかった。
アルテミスにしてみれば急に誰かに押されて、リリアからしてみれば彼が母を押したのだから当然だ。
アルテミスを押した犯人に、リリアが怒りをぶつけようと振り返った。
ただ散歩をしていただけなのに、何故こんなことをするのか、と。
が、目の前に広がる光景は余りにも残酷だった。
彼、すなわちカルロがメイドに刺されている。
それも十分に大問題だが、刺した人物の方がリリアにとっては衝撃的だった。
その場にいるメイドは一人しかいない。
―――『アリー』だ。
信頼していた人物なだけに、リリアのショックは大きかった。
カルロに捨てられた時と同等、あるいはそれ以上リリアの心に響いた。
するとその時、前回でアリーが刺された瞬間を思い出した。
記憶に蓋をしていたのか、今の今まで、リリアはアリーに刃を突き立てた誰かを一向に思い出せなかったのだ。
蘇る凄惨な光景。あの時、アリーの背後にいた人物は、彼女と顔のよく似た双子、ノーマだった。
つまり、目の前にいるのは‥‥‥‥‥‥。
突如入った邪魔者に、メイドは舌打ちをした。
カルロの肩に刺さったナイフを引き抜こうとする。が、彼は痛みで顔を歪めながら、刺された側の腕でメイドを掴んだ。
そのまま、叩きつけるように彼女を地面へと抑え込む。
その間、暴れる隙もなく、メイドは歯軋りした。
「くそっ。あと少しだったのに‥‥‥!」
怒りの混じった顔で、メイドが悲痛な叫び声を上げる。
が、所詮は子供の拘束だと侮っていたのだろう。何と逃れようと手足を動かしている。
しかし彼が護身術でも使っているのか、どうしても抜け出せず、メイドは一層怒りに顔を歪めた。
押さえられながら、憎悪を露わにしてアルテミスを睨みつけている。
「今、お前は何をしようとした。アリー」
リリアが彼の傷を心配する前に、カルロが冷ややかな声で『アリー』に言い放った。
リリアが目を見開く。
メイドの名前を何故把握しているのかと今更驚いたからではない。
彼からあの時あの場所で、リリアに向けられた視線と同じ、いやそれ以上の殺気が滲み出ていたからだ。
が、メイドは恐れも怯えもせず、ただアルテミスたちを凝視していた。
「私が抑えているから、人を呼んできてくれ!」
カルロが力いっぱい叫んだ。
視線で促されたアルテミスは慌てて屋敷へと駆けていった。足が縺れそうになのを抑えながら。
「貴女、ノーマ‥‥‥よね?」
リリアがポツリと呟くと、メイドは目を丸くした。何かを叫ぼうと口を大きく開く。
が、それはカルロに強い力で抑え込まれることで終わった。
呻き声だけが辺りに広がって消えていく。
暫くして、アルテミスが何人かの騎士を連れて戻ってきた。その中に一人、メイドが交じっているのが見えた。
騎士たちはカルロの傷を見て青ざめて、対するメイドは悲しみと怒りが入り混じった表情を浮かべている。
「ノーマ!!貴女一体何をしているの!?」
そのメイド、いや、アリーが、双子であるノーマに向けて叫び声を上げた。
「五月蝿い!アリーは黙ってて!!お人好しの貴女なんかに私の気持ちなんか分かる訳ない!!」
痛みを堪えながら、ノーマは精一杯叫んだ。
が、彼女に抵抗する気力は最早なく、ただ怒鳴り声を上げて睨みつけることしか叶わない。
傍から見れば滑稽で、憐れな姿だ。
「連れて行け。事情は後で聞く」
アリーが口を開く前に、カルロが騎士たちに指示を飛ばした。
騎士たちにノーマの身柄を預けると、傷口の応急処置を施して貰いながら、その場から立ち去ろうとした。
一介の使用人に過ぎないアリーはそれを黙って見ていることしか出来ない。
「待ってください」
が、リリアの一言でカルロは足を止めて振り返った。思いもよらぬ介入に驚いた様子だ。
彼に合わせて、騎士たちもその動きを止めた。
「殿下はノーマを独房へと連れて行くおつもりでしょう?」
確信した素振りでリリアが尋ねる。
が、カルロからの返答はない。黙り込んだまま静かに微笑み返されるだけだ。
「家に丁度よい部屋があるのです。そこで彼女の話を聞きませんか?それからでも遅くはない筈です」
「だが‥‥‥‥」
「お願いします。どうしても確認したいことがあるのです。約束、したでしょう?」
約束――5年前、皇宮でふたりが会ったとき、"いつでも頼ってくれ"と彼は言った。
勿論このつもりで言った訳ではないことは確かだが、その言葉は彼を縛りつけるには十分すぎた。
彼は困ったように顔を暫く伏せた後、仕方がないように頷いた。
「‥‥‥‥そうだ、な」
「それに殿下の傷の手当が優先です。
ナイーゼ家で処置させて下さいな」
リリアが畳み掛けるかのように頼み込んだ。
アルテミスを助けてくれた恩人であるし、カルロは一国の皇太子だ。処置しない訳にはいくまい。
実際、皇太子の身に何かあれば大変なことになる。最悪の場合、一家郎党打ち首だ。
それでは本末転倒である。
カルロは少し考えた後、やはりその結論に思い至ったのか静かに頷いた。
「君には敵わないな」という呟きが、リリアの耳に届く。
家の廊下を通っていると、物々しい雰囲気に気圧されたメイドたちが自然と彼らを凝視していた。
カルロの処置を終えてから、リリアと彼、そして護衛騎士は、ノーマのいる部屋へと向かった。
そうして着いたナイーゼ家の一室。‥‥‥前回リリアが長年お世話になった部屋だ。
元々は物置部屋で、まともな照明がなく薄暗かったのだが、最早その面影はない。
今ではきちんとした照明に取り替えられ、他の部屋同様明るいだけでなく、音が漏れにくいという特性を生かして、機密事項を共有する場としても使われている。内装も一新された。
そんな所に騎士と罪人、そして遅れて入って来た皇太子とリリアが向かい合うように座る。
アルテミスには戻ってもらった。
ノーマは騎士に挟まれ、余計な動きを取れないよう手足が縛られている。
彼女は怒りを滲ませているものの、半ば諦め顔だ。
「さて、何故こんなことをした?」
カルロが口火を切った。空気に緊張感が走る。
一見落ち着いて見える彼の台詞には、明確な怒りと敵意が見え隠れしていた。
とても成人にも満たない男子が出せる迫力ではない。
彼の突き刺すような視線に、ノーマは遂に顔を逸らした。依然として無言を貫く。
カルロは今すぐにも殺気を辺りに撒き散らしそうになった。が、リリアの存在がそれを不可能にした。
暫くの間、辺りに沈黙が広がる。
そうしていると、リリアが口を開いた。
「貴女、何か弱みでも握られているの?」
「‥‥‥そんな訳ないじゃない!」
ノーマが叫んだ。周りのことなど気にも留めていないかのように、只々リリアを睨み付ける。
カルロはそんな2人の様子を交互に観察していた。自分の出る幕ではないことを察して。
「じゃあ、一体何が狙いなの?お母様が何か貴女にした‥‥、?」
「ハッ、一体貴女に何が分かるの!?
温々と育てられたお嬢様に!!」
ヒートアップしたノーマが高々と声を上げる。今にも身を乗り出しそうな勢いだ。
対するリリアは冷静な様子である。こういうのには慣れているから。
が、彼女の隣にいるカルロは不快感に顔を歪めた。
拳を握りしめ、とうとう口を開く。
「黙って聞いていれば‥‥‥‥‥」
「殿下、お静かに」
しかしそれも、リリアに制止されて終わった。ほんの少しの間目を見開いたかと思うと、言葉を喉の奥に自然と引っ込めた。
「分からないから聞いているの。教えてくれないと何も分からないでしょう?」
そんなカルロを他所に、リリアが続けた。ノーマに寄り添うかのような、温かみのある言葉だ。
ノーマが黙り込んで、リリアの瞳をじっと見た。
あと、ひと押し。
「ねえ、教えてくれない?」
もう一度、心に語り掛けるかのような声色で、リリアはノーマを見つめ返した。
力強く、どこか重みのある声だ。
暫く、ノーマは黙り込んでいた。が、やがて言葉を紡ごうと、口をパクパクし始めた。
「私は!私たちは‥‥‥!!お父さんとお母さんを貴方達に奪われたのよ‥‥‥!!」
彼女から徐々に声が漏れ出す。憎しみと悲しみが篭った声。
リリアもカルロも、目を大きく見開いた。
ポロリと、気の抜けた声がリリアから漏れる。
「え、どういう‥‥‥こと、?」
「やっぱり何も知らないのね。貴女。
だからこそ、余計にムカつく!!
ノーマは馬鹿にするような目でリリアを見た。先程までの敵意を剥き出しにした態度はない。
そこにあるのは自身に対する嘲りだけだ。
「‥‥‥良いわよ。折角だし教えてあげる」
自嘲気味に小さく笑った後、何を思ったのか彼女はスラスラと話し出した。
「ある日ね、私たちの家に誰かが訪ねてきたの。貴女がまだ物心付いてないとき。
その人はナイーゼ家の御者だと名乗った。公爵夫妻が両親の事業について興味があるってね。
勿論、私たちは喜んだ。公爵家のお墨付きになれるチャンスだもの。
‥‥‥‥だけども、私たちの両親は帰っては来なかった。
代わりに、御者がやって来て言ったわ。"ご両親は公爵様の逆鱗に触れ、処罰されました"ってね。
最初は私も嘘だと思ったわよ。そんなふざけた事ある訳ないって。
でも、何故か家に"使用人としてナイーゼ家に来なさい"って手紙が届いた。
訳も分からないまま、私たちは貴女たちの家に行った。両親に会えるかも、と期待を抱いて。
けど、どこを探しても両親は見つからなかった。それも誰も両親について触れさえしない。
怖くなって誰にも相談さえ出来なかった。いいえ、違うわね。
いつか貴女たちに、この手で復讐する為だけに、ずっと計画を立てていたのよ!!
‥‥‥‥‥もう失敗したけどね」
ふっ、と息を吐いた。全て語り終えてすっきりしたかのように、何かを悟って諦めたかのように。
最後に大きな爆弾をナイーゼ家の娘に残せて満足しているかのようにも見えた。
「ちょっと待て。何か変ではないか?」
「は‥‥‥‥?」
話を飲み込めきれないリリアが絶句していると、首を傾げていたカルロが横槍を入れた。
ノーマが彼を睨みつける。こいつは何を言い出すのかと言いたげだ。
対するリリアは困惑した様子でカルロを見た。
「第一に、貴族は特別な理由がない限り、わざわざ御者を寄越すような真似はしない。
逆鱗に触れた?それなら尚更どうして御者を寄越す?意味が分からぬ」
衝撃的な話でいっぱいいっぱいだったリリアが、それを聞いてハッと気が付いた。
冷静に考えてみるとその通りだ。
百歩譲って初めは御者が来たとしても、何か粗相を仕出かしておいて、わざわざそれを知らせに行かせる人間が一体どこに居るのだろうか。
独断で即座に処罰する傲慢な貴族が?
‥‥万が一来るにしても、通達の手紙か、あるいは家族も同罪だと捕えに来た騎士くらいだ。
ノーマが何かを言おうと口を開く前に、カルロが畳み掛けるかのように続けた。
「第二に、簡素過ぎる手紙の内容。両親の失態について一言も触れていない。
どう考えてもおかしいだろう?何故、気が付かない」
暫くの間、彼女は押し黙った。納得できない、したくない事実に、気持ちの整理がついていないようだ。
それを知ってか知らずか、カルロはたった一言、言い放った。
とどめを刺すかのように。
「他にも理由はあるが‥‥‥‥‥‥‥まだ聞くか?」
「‥‥‥‥五月蝿い!じゃあ雇われたのはどう説明つくのよ!!ここで私達が働いてるのが何よりの証拠よ!」
弾かれるかのように、ノーマが声を荒らげる。
彼女の言い分も尤もだ。
何故、彼女らは何もしていないのに公爵家のメイドに抜擢されたのか。ノーマたちの両親の身に何があったのか。
「これは私の憶測だか、お前たちにナイーゼ家を恨むように仕向けたかった誰かが細工したのではないか?例えば、―――」
「適当言わないで!『誰か』って誰なのよ!!」
ナイーゼ家には偽のメイド採用紙と履歴書を送り、本物の通知書がナイーゼ家に送られてきたという可能性。カルロがそれを言い切る前に、ノーマが怒鳴り声を上げた。
今この場で取り乱しているのは彼女だけで、他の者は皆、息を潜めて二人の会話を静観している。
そもそも口出しできる状況ではない。
「そうだな‥‥‥‥。ナイーゼ家を嫌う者、あるいは特定の人物を狙う者だと私は考えている」
「‥‥‥‥‥‥‥特定の、人物?」
ノーマの勢いがピタリと止まった。先程までの様子が嘘のように声を潜めている。
まるで平静を取り戻したかのように、黙り込んでしまった。
「心当たりが?」
「いや、まさかそんな筈は‥‥‥‥‥」
周りの言葉が耳に入っていないのか、ノーマは独り言をぶつぶつと呟いている。
自分の世界に入り浸っているようだ。
「私の思い違いでなければ、リリアの義母ではないか?」
見兼ねたカルロが助け舟を出した。つもりだった。
が、衝撃を受けたのはノーマでなくリリアだ。思いもよらぬ言葉に目を大きく見開いている。
対するノーマはというと、訳の分からぬ言葉に、より困惑した様子である。
理由は単純だ。
ラミアがリリアの義母となったのは一周目の話で、今世のリリアたちにとってラミアはナイーゼ家と関係のない只の他人に過ぎないのだから。
つまり、それを自然と言い放ったカルロが変なのだ。
「いや、何でもない。
‥‥‥偽名を使っている可能性も捨てきれないが、ラミアという名前の女では?」
即座に彼が仕切り直す。ふたりの様子を見て、何らかの違和感に気が付いたのだろう。
呆然としていたノーマが漸く反応した。
「ラミアと、ラミ‥‥‥確かに‥‥‥‥!」
小さく呟いて、目を丸くしたかと思うと、今度は肩を震わせた。唇をギュッと噛む。
徐々に、ノーマの声に覇気が戻ってくる。
「ふむ、やはりそうか。親を殺したかもしれぬ本人に騙されていたとは、何とも皮肉なものだな」
「‥‥‥許せない!!
あいつ、今度会ったら殺してやる!」
何かがプツンと切れたように、怒りの篭った怨嗟の声をノーマが上げた。拘束された手足に力を込めるも、金具の音がガシャガシャと鳴り響くだけだ。
「ノーマ!もう止めて!!!」
「アリー‥‥‥?」
「それじゃあお父さんもお母さんも報われないわ。勿論、貴女もね。ノーマ」
途中から話を聞いていたのだろう。いつの間にか半開きになっていた扉からアリーが部屋へと駆け込んで来た。
ノーマの意識がそちらへと向く。
「何偽善者ぶってるの?貴女も憎いはずでしょう!?お父さん達を殺した奴が!」
怒りの矛先をアリーに向け直して、大声で当たり散らす。
自身の目的が崩れ落ち、信じていたものが偽りだったことに気が付かされ、どうすれば良いのか分からないのだろう。
リリアには、ノーマが誰かに何かをぶつけないと気が済まないようにも見えた。
向ける感情は違えど、あの時のリリアと同じだ。
「勿論、憎いわ」
一切の迷いなく、アリーが答えた。
その堂々とした佇まいは、一介の貴族よりむしろ凛として見えた。
「でも、それで復讐した所で私達に何が残るの?」
口籠るノーマを変わらず真っ直ぐと見て、アリーは力強く言い放った。
「それは‥‥‥‥!」
「私たちが手を汚して、本当にお父さん達は喜ぶと思う?」
「それは‥‥‥‥‥」
言い訳する余地を与えず、ひとつひとつ、疑問をぶつける。答えは分かり切っている筈だ、と。
徐々に蘇ったばかりの威勢はなくなり、すっかり身を縮こませている。
ぼそぼそと呟いて、遂には俯いた。
それを確認するや否や、部屋の中にズンズンと進み出たアリーは、ノーマの正面に立ちはだかった。
途中、何かが起こる前に阻止しようと、一人の騎士が席から立ち上がったが、カルロに目配せされて座り込んだ。まるで従順な大型犬だ。
彼らにじっと見守られる中、アリーがノーマの両頬をふんわりと包み込んで顔を上げさせた。
てっきり慰めの言葉でも掛けるのか、とその様子を見た誰もが思うことだろう。
が、視線を合わせると、
「そんな筈ないでしょう!ちゃんと幸せに生き抜くことがお父さんたちの何よりの弔いになるでしょう!?どうして分からないの!?」
皆の予想に反して、追い打ちを掛けるかのような切迫した声をノーマに投げ掛けた。逃げ道を残さないように、瞳の奥を覗き込んで。
そんな気持ちの籠もった訴えに、とうとうノーマの瞳が揺らいだ。
アリーが手をパッと離す。
「‥‥‥‥‥‥ごめん、なさい」
「聞こえないわ」
小さく、くぐもった声でノーマが呟いた。が、それはアリーにしか聞こえないほどに小さな声だ。
「ごめんなさいっっ!!」
ポロポロと、ノーマから溢れ落ちた涙が絨毯を僅かに濡らした。
もう、抵抗する気配は見受けられない。
リリアに囁かれ、カルロが騎士に離してやるよう促す。
ノーマの両手が開放された。
「よし。証拠となるものは他にあるか?」
「電話が。それで掛ければ出るかと思います」
「掛けてみろ」
コクリと小さく頷いたノーマは、メイド服の裏地に縫い付けられたポケットから小さな石を取り出した。
そこに力を込めると、石は光を帯び始める。
「‥‥‥‥ノーマよ」
石に向かって声を掛ける。すると、暫くの間ノイズが聞こえたと思ったら、それは段々と誰かの声になった。
『久しぶりね。期限前に掛けてきたってことは、無事成功したのね?』
女の声が静まり返った部屋に響き渡る。予想通り、リリアのよく知る声だ。
分かってはいたが、驚きを隠さずにはいられない。長い間ずっと付け狙われていたことを再び実感させられたから。
「ええ。娘の目の前で、心臓を深々と突き刺して、顔をぐちゃぐちゃにしておいたわ」
ノーマが悪戯げに嗤った。あたかも本当のことのように聞こえてくるのは、元の演技力が高いからだろう。
自身にそう信じ込ませて、会話している。
『最高ね!!予想以上よ!
‥‥‥見たかったわぁ‥‥‥』
ラミアが歓喜の声を上げる。艶やかで、何処か狂気をはらんだ声だ。
何とも言えない恐怖がリリアに襲い掛かった。抑えきれず、身体がガタガタと震えてしまう。
対するカルロはやり場のない怒りで拳を震わせた。目に鬼火を燃やしている。
そんな様子を横目に、ノーマは続ける。
「それで、遺物からいくつか金目の物が出てきたのだけど、今夜会えるかしら」
『ええ。良いわよ。いつもの所で落ち合いましょう。バレないようにするのよ』
「勿論です」
既に事が明らかになっていることなど露知らず、ラミアは愉快そうに嗤った。
その内、小石は光を失っていき、とうとう音がブツリと切れた。
それを確認すると、カルロが声を上げる。
「ノーマよ。今夜、素知らぬ顔でそこへと向かってくれ。私に考えがあるのだ。いいな?」
これは最早お願いなどではなく、命令だ。
勘違いと言えども、貴族それも皇族に殺人未遂を冒したのは事実で、本来ならば処刑ものだ。
それを少なくとも今は免れているノーマに選択肢などある筈がない。
有無を言わさず、ただ頷くだけだ。
「‥‥‥‥待ってください。殿下はそこへ向かうつもりでしょう?私も行かせてください」
「駄目だ。危険すぎる」
自身に大丈夫、と言い聞かせて震えを止めたリリアは、彼の瞳をじっと見る。
が、それも虚しく、カルロは切り捨てるかのようにピシャリと言い放った。
「お願いします。私は、ラミア‥‥‥いえ、お義母様と今度こそ向き合いたいのです。
‥‥これ以上、彼女の影に怯えて生きていくのは嫌なの」
カルロが目を見開いた。これまで以上に大きく。
リリアを怖がらせまいと無理に取り繕っていた冷静沈着な表情は消え失せ、明らかな動揺の色が浮かび上がっていた。
勿論、この発言の意味を理解しているのはリリアとカルロだけで、他の者はみな話についていけていない。
「君は‥‥‥‥‥‥」
真っ直ぐにリリアを見た彼は、何かを口走ろうと口を開いた。
が、結局カルロはそうしなかった。リリアが軽く首を振って、人差し指を口元に当てたからだ。
「この話は一度止めましょう。
続きは、全て終わってからにしましょう?」
リリアがふんわりと微笑んだ。
◆◇◆
「ラミ、こうして合うのは久しぶりね」
「そうね」
街にあるこじんまりとした酒場。そんな所で、ノーマとラミアはふたり向かい合って席に着いていた。
いつもより大勢の人が店内にひしめき合い、だからこそラミアにとっては好都合だった。
「ところで、例のものは?」
彼女が早速本題を切り出す。
いつもは注意深いラミアも、この日だけは周りを然程見ていなかった。
大勢いるということだけ認識し、顔ぶれが異なることには気が付かない。
きっと、それ程までに気が急いていたのだろう。目を爛々とさせ、今にも身を乗り出すような勢いだ。
「その前に教えて欲しいの。どうしてアルテミスを執拗に狙っていたのか」
「前も言ったでしょう?あいつがいるから、アバンリッシュ様は私と結婚してくれないのよ」
面倒くさげに鼻を鳴らしつつも、突然の質問にも答えてくれる。すっかり油断しきっている。
その様子を見て、全てが上手くいくことをノーマたちは確信した。
「それで彼女の馬車を狙ったり、私に殺害を命じたのですか?」
更に踏み込んだ質問を投げかけてみる。核心を突く質問だ。
もしこれで何かに気が付かれたら、少なくとも今夜ラミアの身柄を押さえることは難しくなる。
きっと対策されるから、今後もより困難になるろう。
息を潜めて、じっと彼女の様子を窺う。
すると、ラミアは暫くの間、過去のことを振り返っているかのように目を瞑った。
それから意地悪く微笑む。どこか闇を感じる笑みだ。
「‥‥‥‥‥当然じゃない。
一時はどうなることかと思ったけれど、本当に良かったわ。後は予定通り、彼の心につけ込んで、予め用意してた婚姻届に印してもらうだけ」
「左様ですか‥‥‥‥」
ラミアが恍惚とした表情になる。必ず成功する、そう確信した様子だ。
何がそんなに彼女に自信を与えるのか。
「あぁ、娘はまだ殺さないでね」
ハッとしたようにラミアが付け加えた。
アルテミスの娘である彼女をとことん追い詰めるつもりなのだろう。
が、それはノーマ含む聴衆たちには容易に想像できた。
「分かりました。私は今後何をすれば?」
「そうねぇ、じゃあ周囲の監視をお願いするわ。
使用人が怪しい動きを見せたら、私に報告すること。追い出した後は、人目のつかない所で殺すのよ。
勿論、貴女の手で。分かった?」
「よく、分かりました‥‥‥。皆さん、聞きましたか?」
周りを見渡して、ノーマが合図した。
すると、先程まで側で飲食していた者、馬鹿騒ぎしていた者、客に給仕していた者などが皆、ふたりを取り囲んだ。
ざわめきは嘘のようになくなり、辺りはすっかり静まり返った。
「は、‥‥‥‥‥?」
思わず、ラミアから呟きが漏れる。その声はシンとした店内ではよく響いた。
彼女はやっとのことで周りの面々をよく見直す。
そして、漸く状況を察したようで、ギリリと歯軋りした。嵌められた、と。
暫くして、リリアとカルロが人混みをかき分けて、ラミアたちの前に躍り出た。
ラミアとの視線が重なると、リリアはにっこりと微笑んで、気丈に振る舞った。
ラミアが血走った目で彼女を睨む。背後の皇太子の存在には目もくれない。
というより、リリアの方へ意識が行って、全く気が付いていないようだ。
「初めまして。お義母様?いえ、今はラミアですね」
「お前は‥‥‥!あいつの娘!!どうしてここに!」
「私もいるぞ」
「皇太子‥‥‥‥!?」
漸く、カルロの存在を認識したラミアは、彼の方を見た。思いもよらぬ事に混乱し、声が震えている。
同時に、どう足掻いても逃れられないことを確信し、爪の跡が付きそうな程に拳をブルブルと握りしめた。
「嘘だ!嘘!!何故!」
やり場のない気持ちがラミアの中で込み上げてきて、とうとう爆発した。
狂ったかのように、頭を掻きむしって悲痛な声を上げる。怒りと混乱の入り混じった悲鳴だ。
その様子をじっと見ていたリリアは、段々とラミアへの恐怖心がなくなるのを感じていた。
滑稽で、滑稽で、余りにちっぽけな人間に見えたから。
こんな者に長年虐げられていたのかと、リリアは自身が恥ずかしく思えてきた。
「貴女はノーマに騙されたのよ。貴女がノーマたちを騙したようにね」
リリアが淡々と告げると、ラミアは唾を飲み込んで黙り込んだ。何処でバレた、と言いたげに歯軋りするだけだ。
鎌をかけたつもりだったが、彼女は見事に引っ掛かったのだ。
ラミアの近くにいたノーマがカッと目を見開いた。
「やっぱりお前があぁ!!」
「駄目、ノーマ。アリーに言われたでしょう?」
思わずラミアに掴み掛かりそうになるのを、リリアが制止する。強く言い聞かせると、怒りに顔を歪めながらもノーマは動きを止めた。
その感情をラミアに利用される前に、彼女を人混みの中に紛れさせる。
「観念しなさい、ラミア。私は、これまでもこれからも、貴女を絶対に赦さない。罪は償ってもらうわよ」
リリアがラミアを睨みつけた。これまでのことを思い返していると、沸々と静かな怒りが湧いてきたのだ。
「せめて、せめて貴女だけでも巻き添えにしてやる!!」
すると突然、ラミアが訳の分からぬことを言い出した。この状況下では何も出来ない筈だ。
気でも狂ったのかとリリアが思った時だった。
「死ねえええぇぇ!!」
何処に隠し持っていたのか、ナイフを持ったラミアがリリアに突進して来た。
躱せない。そう確信してリリアが目をギュッと閉じる。
が、ナイフがリリアに刺さることはなかった。
代わりにラミアが声にならない叫びを漏らしたと思うと、勢い良く地へと叩きつけられるような音がした。
漸く、リリアが目を開けると、どこか心強い背中が彼女の前に立ちはだかっていた。
―――カルロがラミアを蹴り飛ばしたのだ。
それを見ていた者は皆、唖然としていた。
危険に自ら飛び込み、勇敢に立ち向かう皇太子。身分的にも、年齢的にも衝撃的な光景だった。
「先ずは、一発。お前と、娘の分の報いは受けてもらう」
ラミアを見下ろして、冷ややかな声でカルロが告げる。
一見冷静に見えても、彼の目には怒りの炎がハッキリと燃え上がっていた。
「カル!!止めて!!!」
このままでは罪を償う前に殺しかねない。身でそう感じ取ったリリアが、カルロの手をギュッと掴む。
"カル"。そう呼ばれて、彼は理性を取り戻した。動きをピタリと止める。
「リリア‥‥‥?今、何と‥‥‥。いや、それよりも」
「アリーも言っていたじゃない!貴方が手を汚す必要なんてない!!」
漸く話が通じるようになった彼に、ここぞとばかりにリリアが叫んだ。怒鳴るような、悲痛な声だ。
困惑したかようにカルロが目を逸らした。明らかな動揺が見て取れる。
「だが、それでは‥‥‥」
「だが、じゃない!私が見たくないの!」
言い訳しようと口を開いたカルロに追い打ちを掛ける。
必死に訴えて、リリアは彼の怒りを何とか鎮めさせた。
ポツリと呟く。
「貴方はそこで見てて‥‥?」
「待て、近付くな!危険だ‥‥!!」
カルロが止めようと手を伸ばすも、無理やりにその手を振り払う。
そうして、ラミアの元に着いたリリアはしゃがみ込んで、彼女の顔を上げさせた。
無理に起き上がって俯いていた彼女は、リリアの顔を見るなり怒りと妬ましさに顔を歪めた。
―――バチンッ
が、突然の違和感に目を丸くする。頬を押さえて、ジンジンとくる痛みを感じ取る。
「私からはこれでおしまい。ずっと我慢してたの。
後は騎士たちに任せましょう?」
リリアは、ラミアを平手打ちした手を二度叩いた。思いの外、彼女の元にも痛みが返ってきたのだ。
段々と赤く腫れ上がる掌を見て、何故か気持ちが晴れるのを感じた。
全て言い終わると、リリアは悪戯げに、けれども吹っ切れたように微笑んだ。
「君は、甘すぎる」
そう言いつつも、カルロはこれ以上何も口出ししなかった。何処か寂しげに、儚げに、笑い返すだけだ。
それから、ラミアは騎士に取り押さえられ、大勢に囲まれながら連行されて行った。
いくら暴言を吐こうが、喚こうが、決してカルロたちの耳に届くことはなかった。
◆◇◆
ラミアの悪事が次々に露呈し、強制収容所に入れられたことをカルロから聞いた。
そこでは男女など関係なく、死ぬまで過酷な肉体労働を続けなくてはならない。言うならば終身刑だ。
この世で最も辛い罰。
詳しい調査の結果、やはりラミアはアリーたちの両親の死に関与していたことが判明した。
埃を叩けば、何の罪もない市民をみだりに殺害した事実が露わになったのだ。子供を唆し、巧みに工作をして貴族を欺いた。
目的は、ナイーゼ家に刺客を送り込むこと。そんなことの為だけにノーマとアリーの親は殺されたのだ。
が、ラミアの娘であるアナには何の罪もない。
議論に議論を重ねた結果、リリアの意見を汲んで、アナは孤児院へと入れられることになった。
そこで更生するかどうかは彼女次第だ。
今、リリアは皇宮へと訪れている。名目上はアルテミスを救ってくれたお礼をしに。
客室で、リリアは深々と礼をした。
「殿下、改めてご助力頂きありがとうございました」
「ああ、当然のことだ。
‥‥‥もうカルとは呼んでくれないのか?」
すっかり声変わりした声。
ノーマに襲われた時やラミアと邂逅した時、リリアは正直それどころではなかった。
が、改めてカルロを見てみると、約四年前の彼とは明らかに違った。
身長はリリアよりも高くなり、顔立ちは可愛いというより美しく、骨ばった手首が服から顔を覗かせている。
そんな彼が、残念そうに肩を竦める様を見て、リリアは不覚にも可愛らしいと思ってしまう。
今世でも、幼い頃に見たことある筈なのに、何故だが不思議な気持ちになる。
「あれは、気が動転していて‥‥‥‥」
「そうか‥‥。けど、嬉しかった」
カルロが、自身の気持ちを押し殺すかのように微笑んだ。
このまま平穏に話し続けてもきりが無いので、早速リリアは本題を切り出すことした。
「そういえば、殿下に聞きたいことがあったのです」
その一言で、空気に緊張感が走る。
カルロがゴクリと生唾を飲み、続く言葉をじっと待つ。
お互い何も言わずとも、どんなことを言い出すかは既に分かり切っていた。
「殿下も、ですよね?」
恐らくこれだけで、何の話が分かるだろうことをリリアは確信して、じっとカルロを見る。
どうして彼も時が戻ったのか。詳しくは分からずとも、戻ったことだけは確かだ。
カルロが小さく頷く。冷や汗が彼の頬を伝った。
まるで何かを後悔しているかのように、整った顔立ちを苦々しく歪めた。
リリアは何となく察する。彼もあの時の瞬間を覚えているのだ、と。
そして、リリアの死後、事態が発覚したことも。
「何処まで、だ‥‥‥?」
カルロは震える声を何とか抑えつけ、捨てられた子犬のように、不安げな目でチラリとリリアを見た。
悪戯するかのように一度微笑むと、彼の表情が少し緩んだ。
「そうですね。殿下が婚約破棄された所までです」
「そう、か‥‥‥‥」
そこで事実を突き付けてみると、彼は奈落に落とされたかのように視線を地へと沈めた。
「私は、何てことを‥‥‥‥」
お葬式のような空気が辺りに漂う。
そんな空気を何とかしたくてか、それとも、悲しみに暮れる彼を見たくなくてか。敢えてリリアは微笑んだ。
「気にしないで下さい。貴方は騙されただけですもの」
そう言ってはみるものの、やはり何処かにわだかまりが残る。
苦しくて、辛くて、泣き出したいのは自分なのに、どうして今更そんな顔をされるのか、と。
自分まで辛気臭い気持ちになって、リリアはそんな考えを無理に頭から振り落とした。
「それでも、私が自らの手でやったことだ。
だから‥‥‥‥‥すまない。私を赦さなくて良い。むしろ、恨んでくれ。それが君のためになるのなら」
そうしていると、やっとのことで視線をリリアへと向け直した彼が、切なげにそう言った。
何処か意志の感じる、力強い声。
確かに、前回のカルロがしたことは到底赦されざることだ。ずっと信じて、愛してくれた唯一の女性を裏切ったのだから。
だが、今回はどうだろうか。
リリアの母の命を2度も救って、両親の仲を取り持って、どんな時でもリリアの意志を尊重してくれた。
ずっとずっと、良い意味で期待を裏切り続けた。
「何が、貴方をそうさせたのですか‥‥?」
ふと、リリアの口を衝いて出たのはそんな言葉だった。
彼女は自分の死後の話を知らない。その間に、カルロに一体何があったのか。
暫くの間、彼は口をつぐんだ。
単に言いたくないだけなのか、それともリリアにとって避けるべき話なのか。あるいはその両方か。
「私の死後に、何があったのですか、?」
そこでリリアは、更に踏み込むことにした。きっとこれは彼女にとって必要なことだから。
過去を敢えて掘り起こすのには気が引けたが、そうしないとカルロとまともに向き合える気がしなかった。
「死後‥‥‥?それは一体、どういうことだ?」
が、カルロは目を見開いた。まるで何を言っているのか理解出来ていないかのようだった。
とても演技をしているようにも見えない。
想定外の反応に、リリアも思わず肝を潰した。
ラミアたちに隠蔽されていたとしても、事実が明るみになった時点で、そのことも発覚する筈だ。
が、彼はそのことを知らなかった。
知っていたのは、リリアがラミアたちにされた仕打ちくらいだ。
「私は貴方に婚約破棄された日に、瓶いっぱいの毒を飲み干しました。これがどういうことか分かりますか?」
責め立てるようにリリアが言うと、カルロが目を見張って、遂には押し黙ってしまった。
青白い顔を押さえることさえせず、その指先は只々震えていた。
あの時の光景が蘇って、思わずリリアも身震いした。が、
「お願いします。貴方の身に何があったのか教えて下さい」
彼女はそう強く言い放った。彼を射抜くように、じっとカルロを見る。
そうして、暫く黙り込んでいた彼が漸く口を開いた。
それは余りに衝撃的すぎる話で、けれども過去に戻ったことを考えると十分に有り得る話だった。
あの出来事の後、何があったのか。それは、
―――カルロがリリアの身体に憑依した。
というのだ。
最後までリリアを信じることが出来なかった愚かな彼への天罰なのか、それとも施しなのかは神のみぞ知ることで、他の誰にも分かることではない。
が、これで話の辻褄が合う。
真実を知っていたのも、リリアの死を知らなかったのも、全てはカルロがリリアに代わって
冷遇を受けていたのだ。それも、彼の命が潰えるまで。
事実をその身で味わった時、彼は一体何を思ったのだろうか。
「私に、君を幸せにする資格など、ない―――」
話し終わり、塞ぎ込んでしまったカルロを見て、リリアは気が付いてしまった。
いつの間にか彼のことを赦そうとしている自分に。
また彼を信じようとしている自分に。
そんなリリアを愚かだと罵る人がいるかもしれない。
だけども、彼女はこれ以上、カルロの苦しむ様を見たくなかった。見ていられなかった。
だから、
「ですが、‥‥‥
今回の貴方は違うのでしょう?」
救いの手を差し伸べるように、突拍子もなくそう言い放つ。
伏せてしまっていた顔を、彼はゆっくりと上げた。すっかり魂の抜けたような顔色をしている。
目は朧げで、焦点が合っていない。
が、漸く、その視線が重なった。
彼とは対象的に、リリアはふんわりと微笑んだ。
「私たち、お友達から始めませんか?」
「友、だち‥‥‥‥?」
やっと、カルロが瞳に光を灯し始めた。希望に縋り付くかのように呆然と呟く。
リリアは小さく頷いた。
「はい。"友達"です。
友達以上、恋人未満というのはどうですか?」
「それでは、余りに‥‥‥‥」
「残念ながら、異論は聞き入れられません。
それが貴方への罰ですもの。
甘んじて受け入れてくださいね?」
「君は‥‥‥‥」
カルロが何かを言おうとするのを制止して、リリアが悪戯げに微笑んだ。
「ええ。ええ。勿論、貴方が私を愛していると証明できるまでは、"友達"のままです。
‥‥‥貴方の隣で、ずっと待っていますね」
これは一種のプロポーズだ。
けれども、このまま何事もなかったかのようにカルロと婚約することは避けたかった。
彼もそんなことは望んでいないだろう。
「約束、する。絶対に、約束する。
私の一生をかけて証明して、必ず幸せにする」
予想だにしていなかったリリアの台詞。
それを受けて、カルロは何かを決心したかのように生色を取り戻した。
瞳は燃え上がるかのような熱を灯し、何度も何度も自分に言い聞かせるように呟いた。
そこに先程までの姿はない。
そう思えば、カルロは椅子から立ち上がって、リリアの傍に跪いた。
突然のことに、リリアの反応が遅れる。困惑したままカルロの方へと顔を向け直した。
視線が重なる。先の様子が嘘のように穏やかに微笑んだ彼の瞳には、リリアの姿が揺れることなく映し出されていた。
呆然としていると、彼はリリアの手を包み込むように優しく握った。
彼女の思考が追いつかないまま、手の甲に柔らかな口付けを落とす。
思わず、彼女は動きを止めた。
鼓動が激しく脈打って、自然と頬が赤く染め上げられる。
「今度は君を幸せにしてみせると誓うよ。
今はまだ信じてくれなんて言わない。
何年掛かったって構わない。私はずっと君だけを愛している」
そういう彼は、何かが吹っ切れたように爽やかに微笑んでいた。
◆◇◆
「あれから数年経ちましたね」
「そうだ、な」
誰もいないバルコニーの脇で、神秘的に輝く夜空を見上げながら二人は話す。
数年はあっという間に過ぎ去り、二人はいつの間にか婚約者の関係になっていた。
学園を無事に卒業して、安堵と共に少しの不安感が彼女の胸を揺らつかせた。
前回では、この日に大勢の前で婚約破棄をされたことをリリアはよく覚えている。
苦々しいことであるが、今ではすっかり懐かしい二人だけの思い出だ。
「なあ、リリー」
「何ですか?カル」
不意に名前を呼ばれて、リリアは星空から目を離した。カルロは真剣な眼差しで彼女を見つめている。
「今度は君を不幸になんかさせやしない。
絶対に幸せにしてみせるから。
だから、信じて待っていてくれないか?」
「何回言うんですか、それ」
「君が望むなら何度だって」
「もう、カルったら」
すると、不意にリリアの前に跪いて、カルロが用意していた小箱をそっと取り出す。
中には、二人の瞳の色の宝石の埋め込まれた指輪が月明かりに照らされて輝いていた。
リリアが目を大きく見開く。
「結婚してください」
リリアは暫くの間黙り込んでいた。
おずおずと彼女の顔を見上げたカルロと視線が合わさる。
すると、リリアは満面の笑みを浮かべて頷いた。 嬉しそうに頬を赤く染め上げて、"はい"と一言小さく呟く。
自然と、一筋の涙がカルロの頬を伝った。
「ありがとう‥‥‥‥、本当に。ありがとう‥‥!!
絶対に、君を幸せにする」
そう言って立ち上がろうとするカルロの肩に、リリアは屈みこんで、その華奢な手をふわりと乗せた。
不思議そうに彼が顔を上げると、ふたりの唇が優しく重なる。
彼はその目を大きく見開いて、リリアは照れくさそうに顔を逸らして起き上がった。
そんな彼女が愛らしくって、カルロは再びリリアに口付けを落とした。
キラキラと輝く星空が二人を祝福しているかのようだった。
将来、カルロはリリアだけを愛し続け、対するリリアも彼を支え続け、幸せなままに生涯を終えることを今の二人はまだ知らない。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
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よろしくお願いしますm(_ _)m
こちらのカルロ視点の話もございますので
ご興味ありましたら合わせてご一読下されば幸いです。
話の内容が深まるかと思います。
(只今連載中の作品も是非覗きに来てください(*´ω`*))
【追記】
感想、誤字報告、ご評価ありがとうございます。
感想にも順次返答していっておりますので、何か気になることがあればお読み頂ければと思います。
作者の解釈などお答えしております。
多くのご意見を頂いて、
ラミア視点のお話も書きました。
よろしくお願いします。