漫画家が帰らない
どうしてこの世には空気を読めない人間がいるのだろう。俺は溜息をついた。いや、俺自身、そこまで勘の良い方ではないが、さすがにこれだけいやがらせをされれば気づいてもよさそうなもんだろう。いや、気が付かないはずはないのだが。俺は、隅のテーブルに座っている客の様子を盗み見て眉を顰めた。
俺は喫茶店を経営している。真面目にやっている訳じゃない。裏稼業のカムフラージュのためにやっているから、儲からなくても構わない。そりゃ店だけで生計が立てられたらどんなにいいだろう。でも俺には料理の腕もないし、金もない。今まで裏稼業に食わせてもらった過去があるから、足を洗うのは並大抵ではない。俺は現状に甘んじている。
今日もここでクスリの取引がある。俺はその場所を提供して、ちょっとした仲介のようなことをやる。そのために、十四時には店を閉める予定だった。しかし、午前中に来た客がいまだに帰らないのだ。こいつは最近よく来る男で、寝ぐせなのか天然パーマなのか分からないぼさぼさの髪に、黒縁の眼鏡をかけている。書類に目を通しては溜息をついたり、頭をかきむしったりしている。今は猛烈なスピードでペンでタブレット撫でている。こいつが全く帰らないのだ。俺は相手に気づかせようと、空になったコップに水を注いでやることもしなかった。ドアにクローズの表示を出して、奴の周りのテーブルをこれ見よがしに丁寧に拭いた。洗い物も済ませ、BGMすらも止めた。しかし帰らない。時間が迫っている。俺はついに諦めて、はっきり言ってやることに決めた。
「あのう、お客様。本日の営業は十四時までてして。申し訳ありませんが……」
「えッそうなんですか!?」
相手は吃驚した様子で、顔を上げた。しかし、すぐにタブレットに目線を落とした。
「あの、お客様?」
「……あぁ! ごめんなさい。ちょっと今良いところで。思いついたところまで描かせてくれませんか。今いいアイディアが。あ、僕漫画家でして。売れてませんけど」
男は目線を上げずにそう言って、相変わらずすごいスピードでペンを動かしている。
「ハァ、でもちょっと、この後僕も予定がありましてね」
「そうなんですね。それは良かったです」
相手は珍妙な返答を寄越した。どうもこちらの話を聞いていない様子だ。
「いや、だからあの、このあと予定があるんです」
「ん? 僕ですか? 何もないですよ。ただ今描いてるのを仕上げないと。締め切りが迫ってるんで」
「いやお客様のことではなくて、僕に予定があるんです」
「えっあなたに? あ、じゃあ僕が留守番してますよ。全然大丈夫です。僕ここで大人しく漫画描いてますし。あぁ、あとちょっと何かのエッセンスが足りないんだよなぁ、何か……」
「いやそういう訳には……それに、この店を使うんですよね」
「いや困ったなぁ。思いついたところまで描かせて欲しいんですよね。今すごくいい流れなんで、この調子が乗ってるときに描いちゃいたいんですよ。忘れちゃったら困るし。もうしばらく何とかなりません?」
「しばらくってどのくらいです?」
「……」
「あの、しばらくってどのくらい――」
「んもう煩いなぁあ!」
男は突然ガバッと顔を上げて、物凄い剣幕で叫んだ。
「ちょっと黙っててくださいよぉ! 僕の人生が懸かってるんだ!!」
そう咆哮して、血走った眼で俺を睨みつけてきた。しかし一瞬後には、再び目線を戻して作業に没頭している。
「いやいやいや、えぇ……」
その後も何度も喋りかけたが、耳栓でもしているかのように完全にシャットアウト状態になってしまった。俺は途方に暮れた。約束の時刻が迫っている。このままでは取引などできない。組織の奴らは俺をどやしつけるだろうし、信用はガタ落ちだ。それに、ここで取引を行っている気配を一般人に知られるのはマズい。通報でもされようもんなら、俺の身も危なくなる。
「クソッ仕方ない……」
俺はこの男の存在を隠すことにした。幸い、男が座っているのは店の一番奥まった隅の席だ。加えて、こいつは俺の言葉が耳に入らないくらい集中している。ここに存在していても取引の内容など耳に入らないに違いない。俺はついたてを移動させて、漫画家の座っている席をすっかり囲ってしまった。怪しまれないようにテーブルの上にバケツを乗せ、そこに箒を立てた。外から見ると、箒がひょっこり覗いていて、物置のように見える。つけていたウェイターエプロンを外し、ついたてに掛けた。万が一中を覗かれても大丈夫なように、奴にはブランケットを掛け、カムフラージュに生ごみの袋の口を縛って入れた。その間、男は全く俺のやることに気が付かない様子で、ペンを走らせ続けていた。
準備が整った瞬間、ドアベルが鳴って店のドアが開いた。ギリギリだった。
「裏メニューはやってるかい」
「えぇ、様々にございますよ」
「じゃ、フィッシュアンドチップスを」
「かしこまりました。どうぞ、おかけください」
合言葉を交わして、三人連れの男を席につかせた。その直後、音色の違うドアベルが鳴って、裏のドアが開いた。別の三人連れが表れて、同様のやり取りをした。俺は二組の男たちを席に案内しながら、漫画家のいる囲いの中に耳を澄ませた。今のところ静かだ。
「どうした、マスター。今日は顔色が良くないな」
「エッそうですか? いや、こんなのはいつもですよ。昔から青白い方です」
「そうか?」
後から来た男のうち一人が、怪訝な顔でこちらを見た。
「汗もすごいぞ」
「そ、そうですか? そんなことは――」
「フアックショイ!!」
突然囲いの中から遠慮のないくしゃみが響き、男がそちらに目線をやった。心臓が止まりそうになる。
「あぁ、今日の取引相手は彼らかね」
「は、はい。そうです! どうぞ、中へ」
幸い、男たちは、くしゃみをお互いのうちの誰かがしたのだと勘違いしてくれたようだった。冷や汗を拭いながら、男たちを引き合わせる。双方が軽い挨拶を交わし、値段の交渉をしている間、俺は気が気ではなかった。背後の囲いの中からは、タブレットを引っ掻くシャカシャカという音がかすかに聞こえている。俺は意味もなく鼻をかんだり、椅子の調子を確かめるふりをして、わざとギイギイいわせたりして誤魔化そうと努めた。
「なんだマスター忙しないな」
「えぇ、ちょっと花粉症でぃだってしばったようで」
「しっかり鼻をかんどけ。あと病院に行けよ」
「はい。ありがとうございばす」
交渉はスムーズに終わり、アタッシュケースから現金を取り出し、確認作業に入った。早く終われと、そればかりを祈って出ない鼻をかむ。その時だった。
「『しけたマネするぜ!』」
突然、漫画家がはっきりと喋った。どうやら台詞を口に出したらしい。
「何だと?」
売り手側の初老の男がスッと眼光を鋭くし、一瞬で空気が張り詰めた。
「この取引に何か文句でもあるのか?」
「は? そっちこそ何だ。俺たちを馬鹿にしてんのか」
「文句があるのかと聞いている。答えろ」
再び心拍数が上がり、汗が吹き出す。頼むから黙ってくれ。決して喋るんじゃない。
「『しけたマネしやがるって言ってんだ』」
「何だと?」
漫画家がまた喋ったので、男たちは色めき立った。
「や、止めてください」
俺は必死に割って入った。
「お前は黙ってろ」
「ウッ」
俺は若い男に肩を突かれ、ニメートルほど吹っ飛び、カウンターにぶつかって息が止まりかけた。
「売ってやってるのか分からないのか」
「そんなことは分かってらぁ。喧嘩売ってんのか!?」
「始めたのはそっちだろう。この取引は無かったことにしてもいいんだぞ。買い手は腐る程いる」
「『アァ!? 肛門から手ぇ突っ込んて奥歯ガタガタ言わせたろかぃ!?』」
「なっ何だとーー」
「アアァァァァァァ!!!」
俺は必死で割って入った。
「警報が鳴っています。聞こえるでしょう! サツです!!」
「サツだと!? 何故」
「嗅ぎつけられたに違いない! 裏から逃げてください! 早く、早く!!」
男たちは一瞬また睨み合ったが、俺に急かされて素早く裏口から出た。扉が閉まった瞬間、俺はカウンターに置いていたグラスを床に叩きつけ、床に椅子を投げ「警察!? 何するんですかアァァ」と自作自演した。しばらく続けた後、細く開けた窓から外を確認すると、男たちはすでに立ち去った後だった。大きなため息をついて立ち上がると、忌々しい隅の囲いをバンと開け放った。
「お前なぁ」
「出来たあ!」
「ハ? お前こんな時に……俺は職を失ったんだぞ!? 明日からどうやって食っていきゃーー」
「出来ましたよぉ! ありがとうございます!! マスターのお陰です! 家に帰って清書します。ご恩は一生忘れません!!!」
男はキラキラした目で深々とお辞儀をすると、ブランケットとゴミ袋を弾き飛ばし、タブレットを大事そうに抱えて店を飛び出していった。
「オイ……。あ、無銭飲食!!」
俺は追いかけて店を飛び出したが思い直した。
「いや、こんなはした金回収しても、何にもなんねーか。明日からどうするかなぁ……」
一年後、俺は相変わらずあの店にいた。
「あのう、先生がフィッシュアンドチップス描いてらっしゃった席って……」
「そこの奥の席ですよ。どうぞおかけください」
「嬉しい! 私先生の大ファンで! あの、色紙の写真も撮っていいですか?」
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます!」
ドアベルがカランカランと鳴る。
「マスター! いつものモーニング」
「あぁ、おはようございます」
「えぇ!? 先生!!?」
店は大繁盛している。