番外編「ナッツタルト」
<場内セキュリティシステム 映像記録データ
設置ナンバー:98(舞闘場 東五番通路)
録画日時:21XX/XX/XX/20:34>
人気のない廊下を、二つの人影が並んで歩いている。
一つは小太りの、燕尾服の男。もう一つは、髪を輪のように結い上げた細身の女。男は大股に歩き、女は小走りにその後をついていく。
「あの……マネージャー。私はなぜ、呼び出されたのですか」
不安げにそう問いかけて、女はうつむく。男は立ち止まって、長い息を吐く。
「分かってるだろう? 今夜の舞闘だ。あれは……よくなかったな。ロングレッグ氏も不機嫌だった」
男は抑揚なく、しかし重い口調で言う。女は肩を震わせる。
「……降級されるのですか」
覚悟を決めたように問う女。男は緊張の糸をゆるめて、おどけた笑いを浮かべる。
「ウッフッフ! そんなに怯えた顔をするなよ。あれがおまえの最高のパフォーマンスじゃないことは、ロングレッグ氏も承知しておられるさ。これが最後というわけじゃない。次の舞闘に生かすことだ」
男がそう言うと、女はホッと肩から力を抜いた。
「よかった、私……私……」
「おい、おい、泣くのはやめろ! まったく、誰がそんな機能をおまえらに付けたんだ? そんなもの、舞台じゃ何の役にも立たないだろうが。ほら、こいつで拭け」
男は胸のポケットから白いハンカチを取り出す。ハンカチはよく洗われているが、染み付いた煤で全体に灰色がかっている。女はそれを受け取って、瞼からにじんだ水滴を拭い去る。
「私……次は失望させません。もっと果敢に舞ってみせます。それが許されるのであれば」
「そうだ、その意気だ。健気だな、おまえは……よし、ついてこい」
男は急に顔をしかめて、また歩き出す。女は戸惑いながら、コツコツと足音をたてて後につづく。
「時間つぶしに、ちょっと話をしてやろう。昔、この舞闘場にちょうどおまえみたいな人形がいてな。もう何年前だったか……”アップルタルト”って女だ。おまえの親戚だろう?」
背中越しに、早口で話す男。女はぽかんとした顔で、黙ってそれを聞く。
「あいつは強くて、健気で、それに、くそっ、恐ろしく綺麗だった。ああ、やっぱりおまえによく似てるな。その目のせいだ。その目のおかげで、俺は、あいつに……若かったせいか? いや、いくつだって同じことだ。あんな瞳で上目遣いに見られて、正気でいられる男なんざいない。星みたいに輝いていた。今でもまざまざ思い出せるのさ。取り憑かれたようなものだ」
独り言のようにつぶやき続ける男を、女は不思議そうに見る。男は我に返って、フンと鼻を鳴らす。
「おまえには分かりっこないことだな? まあ、いい……」
「は……い」
女はパチパチと虚ろな瞬きをして、しばらくぼうっとしていたが、それからふと、思い付いたように男に話しかける。
「つまり、その方は、マネージャーにとって重要だったのですね?」
「……そうだ」
男は皮肉な笑みを浮かべる。女はさらに問う。
「私にとっての、おじさまのように?」
その言葉を聞いた途端、男の笑いがこわばる。彼は何度か口を開いては閉じて、それから苦々しく絞り出すように言う。
「……そうかもしれん」
男は足を早めて、大股に歩き出す。女は困惑しながらも、彼の後を追いかける。
「あの……どこまで行くのですか」
不安にかられた女の問いかけ。彼らの行く手には、人気のない廊下だけが延々と続いている。
「すぐだ。もうすぐ着く……」
男はどこか上の空で、その唇は乾いている。女はそれ以上の追求はしない。
曲がり角に差し掛かった時、男は不意に立ち止まって、その場にしゃがみ込む。
「ああ……おっと。靴紐がほどけちまった。なんてことだ。俺はこれを結びなおさなきゃいけない。おまえは先に行ってくれ」
「はい……?」
男の冗談めいた口調に首を傾げながらも、言われた通り、女はしゃがんだ男の前に出てゆく。
その瞬間、男の手からパッと強い閃光が走る。女は糸を切られた操り人形のように、ごとりと硬質な音を立てて床にくずれ落ちる。見開かれたままの瞳は、無表情に虚空を見つめている。唇はかすかな微笑みを残したまま、凍りついている。
「なんだ、その目は? 笑ってるな? 俺がどんな人間になったか、眺めて楽しんでるのか? 何年経っても、同じ顔で笑いやがって。同じ地獄で仲良くやるがいいさ……同じ炎で焼いてやるんだからな。おまえの大好きなくそじじいの命令でだぞ。嬉しいか? からっぽ頭の娼婦どもめ……」
男は息荒く悪態をつきながら、倒れた女の顔をのぞきこむ。そうしてしばらく睨みつけてから、彼はさっと右手を女の顔にかざし、開いたままの両まぶたを閉じてやる。