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第六話 秘密と約束(後編)

 その日の舞闘が行われている間、僕はずっと上の空で過ごすことになった。

 彼女が言った言葉の意味を、ちゃんと理解できたかどうかも曖昧だった。自分の、主人を殺す――ロングレッグ氏、舞闘場の主、「足長おじさま」を、殺す。その言葉だけが、頭の中をぐるぐると回っている。まるで、体に染み付いた使用人としての忠誠心が、その言葉を理解することを拒んでいるみたいだった。


「ビーット! 何をボケッとしてやがる? ロングレッグ氏がお部屋にお戻りになるぞ!」


 ドリッパーの声が聞こえて、僕は慌ててエレベーターの電源レバーを上に押し上げた。駆動し始めたモーターのゴンゴンいう音を聞きながら、ロングレッグ氏が地上三インチで浮遊する可動安楽椅子の上で目を細めるのが見えた。彼は少し機嫌が悪いようだ。もしかして、僕の混乱が伝わってしまったのか? それとも今夜の最後の舞闘、”クークーフラワー”と”ナッツタルト”の前座興行が、「時間切れ」という彼の最も嫌う形で終わってしまったせいだろうか。


 ロングレッグ氏はしわくちゃの見た目通り、かなりの高齢だ。正確な数字は知らないが、二百年だか三百年だか生きてるらしい。彼はもう自力で歩くことも、喋ることもほとんどできない。いつもこうして安楽椅子に揺られながら、舞闘場の経営方針やその他諸々をその都度判断し、神経接続されたコンピュータを通じてドリッパーや僕たちに指示を出すのだ。体がどれほど衰えても、彼の脳は結局、ここの誰よりも優れていて、執念深い。

 僕が物心ついた時から、彼はずっとこの姿だった。自分で身動きもできずに、目だけをぎらぎらと輝かせて、血まみれの人形たちをじっと眺めている。いつか僕が寿命で死ぬ日が来ても、彼はまったく同じ姿のまま、何十年、何百年とこの舞闘場を支配し続けるんだろう。


「誰かが、それを断ち切らない限り……」


 聞こえてきた声に、僕はビクッと肩を震わせた。振り向くと、ドリッパーが脂っぽいカイゼル髭を震わせながら、こちらを見下ろしていた。


「誰かが電源を切らない限り、間抜けなエレベーターはゴンゴンうるさい音を立て続けるんだぞ。それは、誰の仕事だ?」


 睨みつけられて、僕は慌てて手元のレバーを下げた。モーターの音が徐々にゆっくりになって、完全に止まるまでには数秒かかった。電気の節約のため、使う時以外は電源を落とすことになっているのだ。僕が考え事をしている間に、ロングレッグ氏はとっくに上階の自室に戻っていた。桁外れの金持ちのはずなのに、こと舞闘場の経営になると彼はうんざりするほどケチなのだ。


「坊主! おまえ、どうした? 悩みごとでもあるのか?」


 錆びた鉄階段の上で、ドリッパーは笑いながら言った。怒られるかと思ったけれど、今日は虫の居所がいいようだ。

 彼は舞闘場の使用人の中ではただ一人、仕立てのいい、アイロンのかかった服を着ている。聞いたところでは、燕尾服ってやつらしい。上役だからというわけじゃなく、マネージャーという仕事上、お客や企業の人間と接する機会が多いからだそうだ。丸っこい体つきの彼がそれを着ている姿は、太ったペンギンみたいで滑稽だ。

 別に嫌っているわけじゃない。ただ、好きってわけでもない。上司としては気分屋で、機嫌のいい時は休憩を多めにとらせてくれるが、機嫌の悪い時は、理不尽な仕事を押し付けてきたりする。ここで長年マネージャーを任されてることを考えると、有能ではあるらしいけれど。


「大したことじゃないんだ。大丈夫、明日からもっとちゃんとするよ」


 手についた油を服の端にこすり付けながらそう答えると、ドリッパーはフンと鼻を鳴らした。


「明日がどうだなんて、あるかどうかもわからん話は気に食わん。俺が当ててやろうか……そうだ、人形のことだな?」


 一瞬、どきりとする。でも、ドリッパーが何か知っているはずはない。使用人を見張るのが彼の仕事なら、彼の目をかいくぐるのが僕らの仕事だ。わざわざ尾行して盗み聞きするほど仕事熱心じゃないのはわかってる。


「違うよ」


 気取られないよう背を向けたまま否定すると、ドリッパーはハッハと声をあげて笑った。よかった。冗談を言ってる時の笑い方だ。


「むきになるなよ! おまえの年頃なら、しょうがないことだ。おおかた、あいつらのつるっとした尻でも見ちまったんだろう? まあ、まあ、気持ちはわかるとも……俺だって男だったんだからな」


 ドリッパーが「だった」と過去形で言うのには理由がある。彼は若い頃、舞闘場の人形に手を出していた(具体的に何をしたかは知らない)ことをロングレッグ氏に察知され、捕まって、手術を受けさせられた。つまり、去勢されたのだ。

 そこまでされても、ドリッパーはこの舞闘場から逃げ出したりはしなかった。理由を直接聞いたことはないけれど、きっと僕がそうしないのと同じ理由なんだろう。たとえうまく逃げおおせたとしても、この舞闘場の中しか知らない僕には、一人で生きていく力も、知識も、お金も、住む場所もない――本当に全くないのかどうか、外に実際出てみなければ確かなことは言えないけれど、それはあまりに危険な賭けに思えた。


「あんな綺麗な顔した女どもが、女神みたいに着飾ってそこら中を、目の前を歩いてるのに、触るどころか、まともに話すこともできないんだ。ちょっとでもそんな気を起こしてみりゃ、俺みたいにちょんぎられるか、袋詰めにして廃棄場に放り込まれちまう、ときた。若い男なら、頭がおかしくなっちまうだろうさ。いっそおまえも、さっさと切ってもらうか? あっても仕方ないだろう? ハ、ハ、ハ!」


 どこか狂気じみた調子で、ドリッパーは声高く笑った。僕は少し怖くなって、彼の機嫌が変わらないうちにその場から離れようとした。けれど、彼は目ざとくその気配に気づいて、パッと腕を伸ばして僕の頭をつかんだ。


「待てよ、坊主……俺がありがたい話をしてやる」

「ちょっと、急いでるんだけどな」


 僕は少し強い語調でつっぱねた。ドリッパーという男は、偉そうにしていても根は小心者だ。少なくとも、僕が知るかぎりはそんなやつだった。強気に出ればたいていは引き下がる。そう思ったのだけれど、今日は何か思うところがあるのか、なかなか手を離そうとしなかった。


「何をするにせよ、しないにせよ……あの老人にほんの少しでも疑わせないようにすることだ。たとえ事実無根の、老人の被害妄想だろうと、疑いを持たれた時点でおまえはおしまいだ。俺の歳まで生き延びたければ、常に周りで起こることに気をつけていろ。生きるってことはつまり、気をつけるってことだからな」


 ぶつぶつと呟くようなドリッパーの言葉は、僕への助言のようでもあり、自分への戒めのようでもあった。でも、とにかく悪意はないみたいだ。邪険に言って、少し悪いことをしたな。謝ろうかとも思ったけれど、彼は手を離してさっさと歩いていった。

 僕もため息ひとつついてから、自分の部屋に向かって歩き出す。考えなくちゃいけないことが沢山ある。ドリッパーの言ったことも。ベルフラワーのことも。



 帰り道の途中、角の向こうからめそめそと誰かの泣く声が聞こえた。人形たちの控え室がある方だ。

 負けた連中が泣くのはしょっちゅうだけれど、今日はそこに聞き覚えのある声が混じっていたので、僕は歩きながらぼんやり耳を傾けていた。


「うん……分かってる。いい舞闘ではなかったけど、とにかく……等級は上げてもらえたんだし」


 クークーフラワーの声だ。冴えない声だけれど、泣いているのは彼女じゃない。時間切れとはいえ、彼女は今夜の勝者なのだから。

 泣いているのは負けた方、舞闘人形”ナッツタルト”だった。通りすがりに控え室を覗き込んでみると、数人のタルト仲間に囲まれて慰められているのが見えた。格下相手にあんな負け方をして、明日まで彼女が生きていればいいが。いや、やっぱり知ったことじゃないな。いちいち同情なんかしていられない。

 クークーは廊下の奥にいた。高価なロココ調のベンチに腰掛けて、昼間と同じ二人のフラワー仲間と何か話し合っている。つまり、フラワーペタルと……ベルフラワーだ。


「そうそう、気にすることないってば! これでクークーも等級Bでしょ、本興行で華々しく決めればいいんだからさァ。もっといいスポンサーもつくかもしれないし。私の同期のラズベリジャムだって、そうしてグラディアトリクスになったんだから」


 いつもの調子で明るく励ますペタルに、クークーは弱々しく笑い返した。

 「スポンサー」ってのは言葉通り、人形たちを広告塔にしてる企業たちのことだ。強い人形、つまり舞闘で目立つ人形には、企業も宣伝効果を見込んで、よりよい武装や新しいテクノロジーを惜しみなく提供してくれる。等級ってのは、そのための分かりやすい指標でもあるわけだ。


 ペタルの言うように、舞闘場で勝ち上がるためには、いいスポンサー企業がつくかどうかは重大な要素だ。ラズベリジャムは数年前までペタルと同じように負け続きだったのだけれど、ある時、人形たちの擬似神経網、つまり脳みそ部分の開発企業がスポンサーについて、彼女に新しい増設型の思考回路をプレゼントした。それから彼女は、別人のように強くなった。

 ただしラズベリジャムの場合は、代償も大きかった。古い神経が負荷に耐えられなかったのか、心がすっかり壊れてしまったのだ。言葉もろくに喋れなくなって、獣みたいに舞台を四つん這いで駆け回り、前座興行で相手の体をめちゃくちゃに引きちぎったり。結局、勝ち上がってグラディアトリクスにはなったものの、ロングレッグ氏にひどく嫌われていたので、保存処理もされずひそかに廃棄されてしまった。

 クークーが勝利を喜びきれない理由も、どうやらそのロングレッグ氏にあるらしかった。


「ありがと。でも、私はスポンサーのことなんか別に構やしないんだよ。ただ……あんな勝ち方で、おじさまに嫌われたんじゃないかって気がして……」


 彼女はそう呟きながら、顔を覆う両手の指の間から、虚空をじっと睨んでいた。心配しすぎってわけでもない。ロングレッグ氏は実際、そういう人だ。意にそぐわないものは、あっさりと排除する。人間でも人形でも。僕は無意識に、ベルフラワーの方へ視線を向けていた。

 ベルフラワーは悩ましげなクークーの隣に座って、仲間の背中をさすっていた。僕は帽子を目深に被りなおして、彼女に気づかれる前に廊下を抜けようと足を早める。どうしてわざわざこっちに来てしまったのか――最初から回り道をすれば顔を合わせずに済んだのに。

 ベンチの正面を通り過ぎようとした時、僕は急にズボンの裾を何かにぐいっと引っ張られた。振り向くと、するすると床を這っていくジャック・フットのつま先と、その向こうで僕を見てわざとらしくまばたきするベルフラワーの顔が見えた。どうやら、とっくに気づかれていたらしい。


(約束、忘れないで)


 彼女の唇が、そんな風に動いたようだった。

 僕は聞こえよがしにチッと舌打ちして、廊下を駆け出した。忘れようったって、忘れられるものか。


***


 部屋に戻るとすぐ、僕は帽子を放り投げて、古い鉄のベッドの上に転がった。寝心地はひどいものだけど、それでも、ここが舞闘場の中で一番落ち着く場所であることには変わりない。使い慣れた毛布の匂い。ため息をついて、天井を見る。


 あの時、廃棄場での打ち明け話のあと、ベルフラワーはこう続けたのだ。


「それじゃ、『協力者』になってくれるのね?」


 まるで、それが当然のことみたいに。僕はとっさに返事ができず、つい口から出てくるまま「一週間待ってくれ」なんて言ってしまった。彼女はそれを約束だと思ってる(まったく、約束ばっかりさせられる)。だから、とにかく一週間のうちに答えを出さなきゃならない。


 ヴィクター・ロングレッグを、殺せ。

 ロングレッグ氏の死を望む人間は、舞闘場の中にも外にも沢山いる。そのうちの誰かが、どうにかして、彼女の脳にそんな命令を刷り込ませたんだ。彼女はどんなリスクを払ってもそれを実行しようとするだろう。そういう風に作られたのだから。彼女は人形だ。ただ言われた通りにするだけ。


 それじゃ、僕はどうする? 彼女一人じゃ不可能な仕事なのは確かだ。

 まず舞闘場の中を、人形が勝手に出歩くことはできない。それにロングレッグ氏は常に護衛をつけているから、目立つ彼女じゃ近づくことも難しいだろう。一方で、僕は場内をあちこち掃除してるからある程度自由に動けるし、舞闘のあいだはロングレッグ氏のすぐそばまで近づける。

 だけど――彼女に協力することが何を意味するのか、人形じゃない僕は考えてしまう。


 殺す。自分の所有者を。舞闘場の、僕が生きてきたすべてである場所の主人を、殺す。世界を丸ごとひっくり返すようなものだ。どれだけ彼を憎んでいても……そう、僕は確かに彼を憎んでる。だけど、それでも殺すなんてことは思いもしなかった。ちょっとした秘密を作ることさえためらったのに。

 どれだけ危険なことか。どれだけ恐ろしいことか。もし露見したら、彼は僕をどうするだろう? 僕のどこをちょんぎられる? そうまでして、僕は彼を殺したいだろうか。あるいはもし、成功したら……彼のいない舞闘場はどんなだろう。いや、彼がいなくなったら、もうここに残る必要もないのか。


 まとまらない考えをめぐらせながら、僕は次第に襲ってくる眠気に身を委ねた。明日も朝から仕事がある。疑いを持たれないためにも、いつも通りに働いていなきゃいけない。そのために、今は眠ろう……。

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