第五話 秘密と約束(前編)
そして、僕はベルフラワーに言われた通り五時きっかりに、舞闘場の地下にある廃棄場へ来ていた。
来るべきじゃなかったかもしれない。ロングレッグ氏は使用人が人形とあれこれお喋りするのを好まない。それに、六時になれば舞闘が始まってしまう。その時までに仕事に戻らないと、ドリッパーにまたどやされることになる。馬鹿正直に来てしまったのは、ベルフラワーの有無を言わさぬ態度に気圧されたのと、彼女の妙な振る舞いが少しだけ気になっていたからだ。
とはいえ、仕事の方がずっと大事に決まってる。イライラしながら周囲を見回すと、目に飛び込んできた気味の悪い光景のせいで、さらに気が滅入ることになった。
廃棄場はその名の通り、人形たちの不要になった部品や服、そして時には、廃棄処分が決まって機能停止させられた人形たち自身が放り込まれる場所だ。集められた廃棄物たちは、プレス機で砕かれ、高温の炎で焼かれ、薬品処理で溶かされて、跡形もなくなるまで徹底的に分解される。彼女たちの身体や武器には多くの企業秘密が組み込まれているので、契約上、わずかな痕跡も残さないように処理しなくてはならないのだ。
この時間はまだ、そういう処理は始まっていない。だから、そこら中に処理される前のもの――切断された腕とか、血まみれの服、どこから飛び出してきたのか考えたくもないような内臓の一部、ちぎれた髪の毛の塊やなんかが散乱していた。この場所のことを、人形たちは強く忌避している。人間でさえ吐き気をもよおすような場所だ。
フラワーペタルは等級Dだからまだ笑っていられるけれど、等級Eまで落ちた人形たちは、ここに送られることを恐れて、笑うこともしなくなる。実際には、もっと上の等級にいる人形でさえ、ロングレッグ氏が気に入らなければいつでも廃棄場送りになることはあるのだけれど――人形たちはその可能性をあまり考慮しないようだ。自分は愛されている、と信じているんだろう。
そんな場所に、ベルフラワーは本当にやってくるんだろうか? 指定された六時から十分ほど過ぎた頃、僕はふっと不安になった。たまにいる、最初から精神構造の壊れた人形なんかは、まるで意味のないことを口走ったりすることがある。
さらに十分経って、不安よりもあきらめが強くなって来た頃、ようやくコツ、コツと軽い靴音が聞こえてきた。スキップでもしてるみたいな音だ。
振り向くと、コンクリートの床の上をくるくると跳ねて、踊るように歩いてくる少女の姿があった。
「自分で呼びつけた上に二十分も遅れといて、どうしてそんなにのんびり歩いてるんだよ」
思わず文句が漏れる。僕はもう、彼女に対して敬語を使うつもりは全くなかった。どうせ、ここなら誰も聞いてやしない。
「あら、そんなに待たせてたかしら? でも、淑女は紳士を何分待たせておいてもいいのよ。ペタルがそう言ってたもの」
ベルフラワーは悪びれる様子もなく、きょとんとした顔で笑った。きっと、本気でそう信じてるんだろう。間違いを正す気にもなれない。
「いいから、さっさと用を言ってくれよ。仕事があるんだ。大体、なんで僕を呼んだんだ? 君らの世話はマネージャーのすることだろ」
ぶつくさ言いながら、僕は床をガツガツと蹴りつけた。そのへんに転がってるものには触れたくなかったので、鬱憤をぶつけられるものが床ぐらいしかなかったのだ。ベルフラワーは哀れな床を少し見つめてから、コンと小さく咳払いをした。
「大切なお話があるの。あなただけに。大切で、そして、とても秘密なのよ。だから、マネージャーには言えないの」
僕がフゥンと適当に相槌を打つと、彼女は急にこっちへ顔を近づけてきて、こう尋ねた。
「最初にひとつ、聞かせてもらわなくちゃいけないわ。あなた、秘密が守れる人?」
ぐいぐい近づいてくる彼女に、僕は思わず後じさりながら顔をしかめた。
「なんで、そんなこと……急に聞かれたって。秘密なんて、作ったこともないのに」
反射的に口から出たこの言葉は、ほとんどにおいて真実だった。僕は足の先から脳みそまで全部ロングレッグ氏の所有物であって、彼に聞かれれば、何ひとつ隠さずに答えなければならない。聞かれていなくても、問題がありそうなことはすぐにマネージャーに報告する。子供の頃からそう教え込まれていたし、ずっとそれを破らずに生きてきた。
たった一つの例外は、数年前に拾った、古い一ドル紙幣のことだ。いつかここから出られた時のためにと思って、帽子の内側に縫い付けてある。でも、秘密と言えるほどのものかどうかは分からない。
僕の回答に、ベルフラワーは明らかに落胆したようだった。しばらく悩ましげに眉間を指で押さえて、それから気を取り直したのか、もう一度コンと咳払いをして僕の目を見た。
「ン……それじゃあ、約束は? 約束はしたことあるでしょう。あなた、約束が守れる人?」
二度目の質問に、僕は少し考え込んだ。約束――それもあんまり縁のある言葉じゃあない。でも、毎日やれと言われた仕事は余さずきっちりこなしているし、契約という意味でなら、破ったことはないと言える。使用人同士での口約束とか、暗黙の了解みたいなものも、まあ、守ってきたはずだ。
もろもろのことを考慮したのち、僕はゆっくりとうなづいた。正直なところ、さっさと話の中身を聞きたかったし、何より彼女にまたガッカリした顔をされるのが癪だったのだ。
「よろしい。それじゃあ、ひとつ約束して頂戴」
さっきとは打って変わった明るい表情で微笑んで、ベルフラワーはようやくその「約束」を口にした――それは僕が予想していたより、ずっと重大なものだった。
「これから私が話すことを、絶対に、誰にも言わないこと。使用人同士でも、他の人形にでも、マネージャーも……それに、『おじさま』にも」
彼女がそう言葉を切った瞬間、自分の心臓がドクンと強く脈打つのを感じた。ロングレッグ氏に、秘密を作れというのか。なぜ? この人形、僕に何をさせようとしてるんだ? 疑問と同時に、興味も湧いた。このへんな人形が何を言うのか。
首を縦に動かすのは、かなり力を込めなくちゃならなかった。何しろ、生まれて初めての小さな反逆だ。だけどとにかく、やりきった。
「よろしい!」
僕がうなづくのを確認して、ベルフラワーはさらに明るい顔になった。こんな風に笑う人形を見るのは初めてだ。表情筋が他より高機能なのかな。その辺の人間よりもよく笑う。
「……なんで、そんなに秘密なんだ?」
当然の疑問を投げかける僕に、ベルフラワーは言葉を濁した。
「えっと、それは……フム。そんな風になってるからよ。私の心核のため、かしら……?」
ぼんやりした答えを口にしながら、トコトコと落ち着かなげに歩き回るベルフラワー。それからうんざりしたように肩をすくめて、僕をにらんだ。
「ねえ、難しい質問は後にして頂戴。つまりあなたは、秘密を守って、という私との約束を、守ってくれるのよね?」
ややこしい聞き方だったけれど、僕はもう一度、深くうなづいた。二度目の反逆は、一度目よりも楽だった。
ベルフラワーは不意に、キョロキョロと周囲を見回しはじめた。廃棄場に僕たち以外誰もいないことを確認しているようだ。どうしてか彼女は、他の人形たちが本能的に恐れる(人間でも気色の悪い)このおぞましい風景が、まったく気になっていないようだ。
「耳を貸して」
手招きされて、僕は仕方なくその場で少し腰をかがめて、顔を横に向けた。ベルフラワーは僕より背が低い。彼女はトコトコ歩いてくると、お辞儀するような格好で僕の耳元に口を近づけ、ささやき声で話しはじめた。
「……私はね、他のお人形と少し違ってるみたいなの」
それは、とっくに気づいてる。連中の性格にばらつきがあると言っても、こんな風に、こんな場所に、僕を呼び出してくる人形なんて初めてだ。ましてやロングレッグ氏に「秘密」だなんて、まともじゃない。
彼女たちはここへ出荷されてくる前にしっかりと、「おじさま」への忠誠心とか、舞闘に向かう闘争心とか、行動様式なんかを脳神経に焼きこまれてくるはずだ。だけど時々その処置にミスがあって、それらの刷り込みがちゃんと機能していない人形がいたりするらしい。ベルフラワーも、そんな例なのかもしれない。
僕がまだ神妙に耳を傾けているのを確かめると、ベルフラワーは残った言葉を一つ一つ吐き出していった。
「記憶があるの。ぼんやりとだけど……送られてくる前のこと。研究所にいた時のこと。まだ、体も組みあがらない時のこと。頭だけで、むきだしの目玉で外を見てたこと。優しい声がしたの。素敵な声。そして、三つのことを言われたわ。それだけ、ずっと覚えてるの。三つの『言葉』よ」
耳元でささやくベルフラワーの声は、だんだんと熱をもって、力強くなっていった。自分でもそれに気がついたのか、彼女はふっと息を吐いて、再び息をひそめた。
「私はその言葉を、何よりも大事に思ってるみたいなの。勝つことよりも。スポンサーよりも。おじさまよりも……間違ってるってわかってる。でも、やらなきゃいけないの。止められない気持ちなの」
やっぱり、刷り込みの段階で何か手違いがあったんだ。目覚める前のいらない記憶が残って、最初の刷り込みに余計な言葉がまぎれ込んじまったとか。約束を破ってでも、ドリッパーか誰かに報告すべきか。だけど、そうすれば彼女はきっと、すぐにでも廃棄処分されることになるだろう――そんなことを考えながら、僕は曖昧にうなづいた。
だけど、彼女の話はまだ終わりじゃなかった。そこから先が、本題だったんだ。
「あなたにも教えるわね。ひとつめの言葉……『秘密を守ること』。これはもう、いいわよね」
「え? ああ、うん」
「ふたつめ……『協力者を探すこと』。これがずっと問題だったの。私が覚えてる顔は信用しちゃいけない顔だって言われてたんだけど、ここで見かける使用人はほとんど覚えてる顔で、協力者としては不適格だった。記憶になかったのは、あなただけ。だからべつに、あなたがいいって選んだわけじゃないのよ。他に誰もいなかっただけで……」
ぶつぶつ続けようとするベルフラワーの言葉を、僕は慌てて遮った。
「ちょ……ちょっと、待ってくれ。協力者? なんの!」
唐突に始まった不可解な話に、僕は完全に面食らっていた。こんなのは、刷り込みの手違いとか、そういうレベルの話じゃない。覚えてる「言葉」だなんて言っていたが、あれをしろこれをしろって、これじゃまるで、誰かの「命令」みたいじゃないか。
「質問はあと! ……でも、そうね。ちょうど、最後の言葉がその答えになると思うわ」
困惑する僕を尻目に、ベルフラワーは今までより一層声をひそめて、そのぶん唇をさらに僕の耳へと近づけた。
「最後の一つ。一番大事なことよ」
一呼吸置いて、彼女はそれを口にした。
「『ヴィクター・ロングレッグを、殺せ』」