第四話 花の娘たち(後編)
ブラシでの掃除がようやく三分の二ほど終わった頃、ふと、扉を数回ノックする音が聞こえた。
「まだ、掃除中です!」
僕がそう言ったのが聞こえたのかどうか、ガチャリとドアを開けて、やかましい数人の少女たちが入ってきた。少女といっても、作り物だけれど。敬語を使っているからといって、僕は別に彼女たちを心から丁重に扱ったりはしていない。彼らの方が僕よりずっと丈夫な身体をしているんだから、そうする義理なんかどこにもないだろう。
「あら、まだいたの。なんだっけ……チップ? スナック?」
ケラケラ笑う声を聞いて、僕は誰が入ってきたのか気付いた。またしても、ベルフラワーだ。彼女は二人の仲間たちを引き連れて、くるくる回ってスカートを風にふくらませながら、控え室中央に置かれた円形の大きなソファに向かって飛び込んだ。他の人形たちも彼女に続いて、ソファの上で楽しそうに跳ねた。
「ビット君でしょ。ベルは最近来たから知らないのね」
そう言ったのは、等級Cの舞闘人形”クークーフラワー”だ。ベルフラワーよりも一年先輩で、髪を肩口で切り揃えていることを除けば、ちょうどベルフラワーを少し成長させたような容姿をしている。とは言え、彼女たちが成長することは永遠にないのだけれど。
「ううん、さっき聞いたわ。でも、忘れちゃったの。なんだろ……不思議」
ベルフラワーはそう言いながら、頭を横に振って金髪を振り乱す。彼女の横に寝そべっていた少女、花冠の”フラワーペタル”が彼女の背中をトンと叩いて笑った。
「アハハ、気にすることないよォ。私なんて、もう長いこと見てるのに、未だに顔も覚えてないもん。影が薄いんだ、彼」
フラワーペタルは舞闘場の古株で、もう四年も等級Dのままここに居座っている。彼女の言葉に僕は内心少しムッとしたけれど、ここで使用人として働くかぎり、影が薄くなるのは仕方がないんだ。表で目立つのは人形たちで、裏方の僕たちは常に隠れ、人目につかないようにしてなきゃならないのだから。
僕は彼女たちの話をなるべく無視して、黙々と掃除の仕上げにかかった。ブラシ掛けが終わったら、最後はそこら中の食器をまとめて、洗濯槽まで持っていかなければならない。
人形たちは本来、口で食事をとる必要などまったくないはずなのだけど、なぜだか彼らは日常的に大量の糖分を摂りたがる。つまりケーキとか、カップケーキとか、甘ったるいカプチーノとかだ。彼らの居住棟や控え室には、その類の菓子が夜ごと山ほど運び込まれ、次の日にはこうして空っぽの皿たちが残されるわけだ。
「それにしてもさ、フラワーズじゃ一番の出世頭よね……ベルは」
複雑な表情で唇を尖らせて、クークーフラワーが言った。その声の響きは、そしらぬ顔で大皿を積み上げていた僕でも気になるくらい意味ありげだった。
フラワーズというのは、名前に「フラワー」が付く人形たちの集まりだ。人形の名前は出身研究所の系列やデザイナーの流派などで決められるため、似たような名前を持つ人形は、似たような性能や容姿を持つことになる。そういう似た者同士が集まって、舞闘場の中に一種の派閥みたいなものを形成しているのだ。他にもシュガー・レディスとか、マカロニアなんてのがある。
「なァに、嫉妬してんの? クークーったら……私に言わせればね、誰かが自分より勝ってるとか、そんなの気にしてちゃダメよ」
と、後輩の頭をなでて慰めるペタル。四年間も舞台に上がりながら、引き分けばかりで未だにD止まりの彼女は、もう少し勝敗を気にした方がいいと思うけれど。クークーはため息をついて、首を横に振った。
「そりゃ、ちょっとは嫉妬もあるけど……それより、この子が心配なんだよ。等級Bからは毎週、本興行に出なきゃならない。前座興行とは違う。あんな闘い方を続けてたら、心核がいくつあっても足りないわ」
彼女の言う「本興行」とは、週に一度行われる、等級BからAの人形たちだけで行われる舞闘のことだ。それ以外の「前座興行」は、相手の頭部と心核の破壊を禁じられた、言わば模擬戦みたいなもの。制限なしの本興行こそがこの舞闘場の最大の見せ物で、客は多く入るし、入場料も賭け金も高い。
ベルフラワーは、無表情に皿を運び続ける僕を横目で追いながら、ひょいと肩をすくめた。
「クークーは考えすぎよ。昨夜だって、私はちゃんと勝ったもの。次もたぶん、勝てると思う……」
余裕というより興味なさげに言うベルフラワーに、他の二人はムッと口を尖らせる。
「あらあら、余裕ぶっこいちゃって、ホントやな奴ゥー」
「まったく、さっさとぶっ壊されちゃえばいいのにね」
かわるがわるに新参者をからかう、ペタルとクークー。ベルフラワーはそんな彼らの裾を左右の手で引っ張って、ごめん、ごめんと謝った。ランプシュガーや僕には「はしたない」とかなんとかって、さんざん言葉遣いに文句をつけてたけど、仲間うちでは気にしないらしい。
「アッハ、そんな真に受けないでよ! ベルちゃんはフラワーズの誇りだよォー」
ペタルはそう言ってケラケラ笑いながら、円形のソファの上にだらけた格好で身を投げ出した。年季が入っているせいか、僕にも周りに対しても遠慮ってものがない。その横に座っていたクークーは控えめな微笑を浮かべて、膝の上に転がり込んできたペタルの頭を叩いた。
「そうだね。きっちり勝ってきなさい、ベル。誰よりも、あなた自身の名誉のために」
名誉――それは、引っかかる言葉だった。
彼女たちにとっての最高の名誉は、本興行で誰より多く勝ち続け、最も優れた舞闘人形としてロングレッグ氏から「永世闘士」、ペルマネンテ・グラディアトリクスの称号を与えられること。それこそが彼女たちの透き通った脳神経に刷り込まれた自分の誇り、命の目標なのだ。
だけど、僕は知っている。グラディアトリクスになるということは、ただ機能停止され、動かないただの「人形」としてガラス張りの箱に収められるだけのことなのだと。ただ生き延びる以上の目標を持たない僕に、彼女たちを見下す資格なんてないかもしれない。でも、目を輝かせて名誉がどうこう語るのを聞くと、どうしてもそれが空虚なものに感じてしまう。
「あァーあ、私も早く勝ちまくって、本興行に出れるようになりたいなーァ。ホントに!」
そう言って起き上がったペタルは、祈るように両手を胸の前で重ね合わせた。どうも彼女が言うとホントには聞こえないけれど、それは刷り込まれた本能なのだから、嘘はつけないはずだ。彼女たちは、傷や死を恐れない。彼女たちが感じる恐怖は、舞闘に必要な最低限の生存本能から出たものだけ。舞台やそこで得る勝利について語る時、彼女たちは必ず無邪気に瞳を輝かせる。
だから次の瞬間、ベルフラワーがふっと表情を曇らせたのは、僕にはとても意外だった。
「そうね……ホントに」
ぽつりと呟いて、彼女は何か思い詰めたように自分の膝を見下ろした。まるで、勝利や本興行には興味がないかのようだ。
「どうしたの、ベル? まだ直りきってないの?」
交換されたばかりのベルフラワーの左腕を服の上からさすって、クークーが心配そうに言う。
「ううん、なんでもないってば、本当に。ねえ、もう部屋に戻りましょ。今夜はクークー、等級Bのナッツタルトと闘うんでしょ。作戦立てなくっちゃ」
ベルフラワーはそう言って立ち上がり、二人の背中を押しながら扉へと歩き出した。これで、ようやく掃除を終わらせられるわけだ。僕はホッと胸をなでおろし、手に持ったシャダー・ブラシを空いたソファの方へと向ける。
しかし、彼女たちとのすれ違いざま、背後からぽつりと聞こえた小さなつぶやきが、僕の手を止めさせた。
「ビット。五時きっかりに、廃棄場で」
ベルフラワーの声だった。はっきりと、僕に向かって。振り向くと、ちょうどドアが閉じられて、少女たちの姿は見えなくなっていた。