第二十二話 涙の雨(後編)
再び立ち上ったベルフラワーは、瞳を熱く輝かせながら、ギッと相手を睨みつけた。
傷つけられ、打ち倒され、冷たい雨に打たれても、彼女はまだ折れてはいない。僕も、これ以上目を逸らさずに、彼女の舞闘を最後まで見届けなくてはならない。
冷たい能面の顔に戻ったブラックシューレイスは、鳴るはずのない足音を響かせながら、彼女に向かって歩みを進めた。
「私……あなたの言うこと、全然分かんないわ」
近づいてくる対戦相手に向かって、ベルフラワーは言った。ブラックシューレイスはもう何も言わず、一歩一歩確かめるように、足を踏み出していく。
「分からないけど……確かなのは、なんだか気に食わないってこと。私は進む。闘いを終わりにする。そのために、あなたに勝つ!」
ただ立っているだけでも周囲が冷え込むようなブラックシューレイスの陰気さを吹き飛ばすように、ベルフラワーは高らかに宣言した。彼女は展開させた両脚の刃を地面に突き刺し、いわゆる「仁王立ち」の体勢で、ゆっくりと近づいてくる相手を待ち構えた。
そしてブラックシューレイスは、お互いの拳と脚が届くギリギリの距離まで来て、ぴたりと立ち止まった。見計らったような風が吹き、黒い髪が肩から背中へと流れていく。
向き合った両者は、それぞれに手ひどく傷を負っていた。
ベルフラワーがダメージを受けたのは、おもに左腕――痛々しい左頬の傷をわざわざ右手で押さえているところを見ると、どうやらほとんど動かせないらしい。対するブラックシューレイスは、右手を切り飛ばされ、髪の毛もベルリンガーによって実質的に封じられている。
単純にダメージだけを見れば、ベルフラワーの方が優位に立っているようだけれど、基礎能力はブラックシューレイスの方がずっと上であることを考えれば、これでようやく、互角。問題は、これからブラックシューレイスが本気を出し切った時、どこまでそれを覆してくるかだ。
「……そうしてご覧」
黒く塗られたブラックシューレイスの唇が、頬に切れ込むように鋭い笑みを浮かべた。瞬間、ボッと空気を貫く音が響き、最後の舞闘の幕が落とされた。
砲弾のように撃ち込まれた相手の拳を、上体を左に振って避けるベルフラワー。タイミングはわずかに遅れて、右のこめかみに走った衝撃で、ベルフラワーの頭はねじ切れそうな勢いで弾き飛ばされる。
けれど、彼女もただでやられはしない。その衝撃を利用して、いつか記録映像で見た二十世紀のバレリーナのようにクルリと体を回転させ、右足から生え出た四つの刃で相手の胴を狙う。
ブラックシューレイスはその攻撃を、ひょいと持ち上げた膝で難なく受け止めた。切り裂かれた喪服が周囲に飛び散り、黒い吹雪が巻き起こる。白く露になったブラックシューレイスの膝には、四筋の小さな傷しか付いてはいなかった。
「まだよ!」
そのまま勢いを緩めず、左足で相手の胸――心核へと刃を向けるベルフラワー。
しかし、ブラックシューレイスはすでに引き戻していた左腕を振り上げ、強烈な肘打ちでその刃を叩き落とした。さらに続けざま、伸ばした右足でベルフラワーの脇腹を打ち、勢いで彼女ははね飛ばされ――そして、踏みとどまった。
荒い息をしながら、両脚を地面に突き刺して、ベルフラワーはまだ間合いの中に立っていた。
ブラックシューレイスの一撃で、左のジャックフットは四つの刃のうち三つまでがへし折られていた。その後の蹴りで、おそらく肋骨も数本は折られたに違いない。
僕の脳裏には、このままなす術もなく殺されるベルフラワーの姿が浮かんでいた。それはすでに起こったことのような鮮明さで頭に焼き付いたけれど、ただ一つの救いは、今、舞台の上で立つベルフラワーの目付きが、どうしてもその想像と重ならなかったことだ。
ベルフラワーの瞳は、まだきりっと焦点を結んでいて、星のように輝いていた。
「……月が、翳る」
ブラックシューレイスは、不意にぽつりと呟いた。
その言葉通り、二人の頭上では、薄い雨雲に囲まれていた月が、とうとう雲の中に飲み込まれようとしていた。舞台の上には、月明かりの他に照明はない。
月が隠れて舞台が暗くなれば、黒服のブラックシューレイスが有利になるだろうか? 一瞬、そんなことを考えたけれど、舞台で向き合う二人を見る限り、もうそんな些細な有利不利など、どちらも気にしていないようだった。
「ぼうっと月なんか眺めているうちに、時間切れになっちゃうわよ」
そんな軽口を言いながら、今度はベルフラワーが攻めに転じる気配を見せた。
両脚で地面を弾いて、ブラックシューレイスの懐に飛び込もうと――しかし、同時にブラックシューレイスも動いていた。眼前に迫る拳に気付いて、ベルフラワーは即座に動かなくなった左手を振り上げ、右手でそれを支えて、即席の盾として相手の拳にぶつけた。
ベルフラワーの左腕は、肘から先がシャダー・ブラシを当てられた虫のように弾け飛び、苦痛に顔を歪める彼女の顔が、一瞬モニターに映り――それでも、彼女はそのまま止まらずに突っ込んでいく。
そして、ベルフラワーの右手がとうとう、ブラックシューレイスの胸に触れた。乳房の下、心核のすぐそばに。
バウッと音がして、ブラックシューレイスの体が後方に弾き飛ばされるのが見えた。それに、彼女が吐き出した血も。
けれど、一瞬遅れて、僕はまだ決着がついていないことに気がついた。
ブラックシューレイスはまだ、倒れていない。彼女は素早く体を引いて、心核に受けるベルリンガーの衝撃を最小限に留めたのだ。そして、彼女はすでに反撃の一手を打っていた。弾き飛ばされると同時に、カクンとうなだれたように見えた頭――それは、背中に垂らしていた髪の毛を前方へと振り降ろすための動作だった。
「痛ッ」
声を上げたベルフラワーの首に、真っ黒な髪の毛がまとわりついていた。さらに締め上げようとうねる髪たちを、彼女は慌てて右手でつかみ上げ、ベルリンガーを叩き込む。ブラックシューレイスが待ち構えていたのは、まさにその瞬間だった。
「コォォッ……!」
鳥の鳴き声のような、声にならない音を口から発しながら、ブラックシューレイスは瞬時に身を屈め、弾丸のごとく突進した。
目をカッと見開き、裂けた喪服の裾を振り乱し、なりふり構わないその突進は、夜の女王のように超然としていた普段の彼女からは想像もつかない闘い方だった。その姿こそ、彼女が唯一垣間見せた『本気』の姿なのかもしれなかった。
その突撃に気付いたベルフラワーは、髪の毛をつかんだまま、慌てて両脚を振り上げようとした。
けれど――間に合わなかった。ブラックシューレイスの指先が、彼女の顎にかかっていた。瞬間、ベルフラワーは体を反らせて避けようとしたけれど、ブラックシューレイスにとっては、その指先一つで十分だったのだ。
「おやすみ、釣鐘草……」
澄ました声でそう呟くのが聞こえたのは、ベルフラワーの体がドサリと地面に落ちた後だった。
ブラックシューレイスの指先は、彼女の顎を強烈な力でピンッと弾き、彼女の脳を揺らして失神させていた。
「ベルッ! ベルフラワー!」
叫び声が聞こえた。一体、誰がそんな熱心に叫ぶのだろう――観覧席から身を乗り出したまま、僕はふっと思った。
こんなの、叫ぶようなことじゃない。こんなの、いつものことじゃないか。
ここで生きる人形たちは、いつか必ずここで死ぬ。
そんなのは当たり前のことじゃないか。
ここで生きる僕たちは、いつか必ずここで死ぬ。
そんなのは当たり前のことだ。誰にも覆せない。
涙は止まらない。この雨みたいに、ずっと流れ続けるしかないんだ。
僕たちは死ぬために生まれてきたんだ。
こんな荒れ果てた世界で、死に方なんて選べやしない。
ただ言われるままに生き延びて、言われるままに死ぬだけだ。
頭では、そう分かっていたはずなのに。
僕は、どうして彼女の協力者なんかになっちまったんだろう。
どうせ、こうして、しくじって、涙を流す羽目になるのに。
「起きろよ、おい! そんなとこで寝るなんて、はしたないぞ、こん畜生ッ!」
そうやって叫び声を上げているのが他ならぬ自分だってことに、さすがに僕も気がついていた。けれど頭のどこかで、別人のような冷たい僕がまだ、叫ぶ僕を見ていた。
(ビット、おまえは、どうしてそんなことをするんだ? ロングレッグ氏に企みが全部バレて、おまえは殺されるぞ。取り返しはつかない。犬みたいにあっさり殺されるんだ)
そして、冷たい僕に向かって、僕はこう言い返す。
(でも、ベルフラワーはあそこで死にそうになってる。僕だけ何もせず生き残って、また涙を流しながら、ずるずる生き延びていくなんてまっぴらだ。これで殺されるなら――それは、僕が選んだ死に方だ。他の誰のものでもない、僕のものだ)
冷たい僕は、それきり黙り込んで、何も言わなかった。ロングレッグ氏と彼の意思表示モニターも、僕がベルフラワーに呼びかけている間、何も言わず黙り込んでいた。
僕の呼びかけが届いたのか、数秒経って、ベルフラワーはふっと目を開いた。
はしたない、なんて言われたのが気に食わないらしく、ムッと唇を尖らせて、不機嫌そうな寝起き顔だった。
彼女は何やらパタパタと服装を正してから、思ったよりもしっかりした足付きで立ち上がり、対戦相手の姿を探した。彼女よりも先にその姿を見つけていた僕は、もう一度、力の限りに声を張り上げた。
「後ろだ!」
僕の声を聞きつけたベルフラワーは、地面に突き刺した左足を中心に、コンパスのようにザッと円を描いて体を後方へと回転させる。ブラックシューレイスはその真っ正面、わずか半歩ほどの距離で、彼女が目覚めるのを待ち構えていたかのように、悠然と立っていた。
「おまえは、また、立ち上がって……そうしてどこへ行くの?」
ブラックシューレイスの静かな問いかけ。
この間合いでは、腕力で勝る彼女の方が圧倒的に優位だ。彼女もそれを承知していて、あとはとどめを刺すだけだと思っているに違いない。先ほどのなりふり構わぬ態度はどこ吹く風で、完全にいつもの余裕を取り戻していた。
「分からないわ。でも、どこか、ここじゃないところよ」
やせ我慢のカラ元気かもしれないけれど、そう言い返したベルフラワーもまた、いつも通り自信たっぷりの微笑みを浮かべていた。
「きっと……小鳥と同じところだよ」
ブラックシューレイスの最後通告とともに、二人の間で緊張が高まった。
月は完全に雲の中に隠れ、モニターに映る二人の姿も不鮮明になりつつある。時間切れまで、あと数十秒。これが、最後の衝突になるだろうと、観客も、彼女たちも思っていたに違いない。
観客たちは――それにロングレッグ氏も、おそらくはもうベルフラワーに勝ち目はないと思っていただろう。けれど、この最後の瞬間に至って、僕はベルフラワーにも優位な点があることを知っていた。
勝利を確信した時、ブラックシューレイスは必ず相手の「心核」か「背骨」を抜き取ろうとする。今までの全ての勝ち試合で、彼女はそうやって決着を付けてきた。
それがおそらく、彼女にとって舞闘を締めくくる儀式なのだ。それを、僕はベルフラワーに伝えていた。だからその一点において、ベルフラワーはブラックシューレイスに勝っているはずだった。
けれど――事ここに至っては、もうそんな些細な予測はほとんど意味をなさないのかもしれない。分かっているのは、この瞬間が過ぎた後、どちらかが倒れるということだけだった。
雲の間から、一瞬、月の光が舞台を照らした。それが、合図だった。舞台上に風が吹き、光が走り、それから二人が地面に足をつく音が聞こえた。
――耳に痛いほどの静寂。
僕は、自分の額から流れ落ちた汗が、観覧席の手すりに当たって砕ける音を聞いた。
空を見上げると、雨が止んでいた。
先に、ベルフラワーが地面に倒れた。
彼女の右足は、ブラックシューレイスの蹴りで木っ端みじんに砕かれて、刃と骨と血の混ざった塊になり、地面にべとりと散らばっていた。白いワンピースは、胸元から流れ出た血で真っ赤に染まっていた。
それから、ブラックシューレイスの足音が聞こえた。
カツ、カツ、と――彼女はゆっくりと両足で数歩歩いて、いつにも増して気高く胸を張ったまま、立ち止まった。それでも、足音はまだ鳴り続けていた。
響き渡る堅い足音の中で、ぼとり、と異質な、生々しい音がした。
地面に落ちたブラックシューレイスの首は、いつものように無表情で、冷たいままだった。もしかして、彼女は最初からずっと死んでいたのではないかと思ってしまいそうなほどに。
血に染まった左手は空っぽのまま、何かをつかもうとするように虚空に伸ばされていた。
壊れたハイヒールから流れ続けていた足音は、少しずつ小さくなって、それから、とうとう聞こえなくなった。
それは、最後の闘いを終えて、舞台から歩き去っていく彼女の足音のようだった。




