第二十話 涙の雨(前編)
結果を先に言ってしまうと、僕の抱いていた不安は当たらなかった。
ベルフラワーは廃棄場送りにはならなかった。それをはっきり確かめるために、僕は毎朝ドリッパーからの定期報告をチェックした。廃棄場送りの人形は、次の日になっても、週末になっても、ゼロのままだった。
その代わり、月曜日になって、僕はロングレッグ氏の下した決断を知ることになった。
次の本興行の組み合わせ――ベルフラワーと、ブラックシューレイス。
来るべき時が来てしまった。ロングレッグ氏は、確実にベルフラワーの異常に気づいている。そして、彼女の処刑を舞台上で行うつもりなのだ。最強の舞闘人形、ブラックシューレイスと闘わせることで。
けれど、それは直接廃棄場送りになるよりはずっとマシな状況とも言えた。ベルフラワーは、その最強の処刑人と対等に闘った舞闘人形、アプリコットティを倒している。勝算はある。
そして、その舞闘の後――「足長おじさま」と、最後の決着がつく。僕たちは、たぶん、自由になる。
***
対戦が決まった後、僕はすぐベルフラワーに会いに居住棟の近くまで走った。
もう、隠れてはいられない。彼女もまた本興行のことを知ったようで、居住棟の外に立って、決然とした表情で空を眺めていた。
「廃棄場に行きましょう、ビット」
「ここでもいいさ。今さら隠れたって、きっと彼は……」
僕の言葉を遮って、ベルフラワーはさっと人差し指を立てた。
「私はいいけど。あなたは、私が負けたらここに残ることになるんでしょ。きちんとしなくてはダメよ」
言い返そうとする僕の手を引っ張って、彼女は廃棄場へと駆け出した。彼女の足は当然僕よりもずっと速いので、僕は宙に浮くような形で足をパタパタさせなくてはならなかった。
廃棄場へ着くと、彼女はパッと僕の手を離して、壁に背をつけた。
「最初に言っておかなくちゃならないことがあるわ。今度の舞闘、私はちょっとだけ不利かもしれない」
ちょっとだけ――なんて言い方をしているけれど、ベルフラワーが舞闘前にそんな弱気なことを言い出すのは初めてだった。僕が理由を聞こうとすると、彼女はまた人差し指を立てて、それを遮った。
「シュガーキューブが故障中なの。セドラスのエンジニアさんから交換品が届くはずだったのだけれど、新型の試作品だから替えがなくって、もう一週間かかるって……明後日の舞闘には間に合わないわ」
僕は自分の抱いていた楽観的な予想が、じわじわと色あせていくのを感じた。
シュガーキューブは、ここ数回の彼女の舞闘で、大きな役割を占めていた。それがないとなると――しかも、相手はあのブラックシューレイスだ。ベルフラワーは曇った僕の顔を気の毒そうに眺めてから、フウと溜め息をついて、スカートの中からコロンと二機のシュガーキューブを蹴り出した。
「ほら、全然飛ばなくなっちゃって……きっとアプリコットティに蹴られたときに、どこか壊れちゃったんだわ。舞闘の終わりまでしっかり動いていてくれたから、ご苦労様、って言ってあげたいところなんだけど」
力なく転がるキューブたちの一つを持ち上げて、僕はコンコンとノックしてみた。確かに、ウンともスンとも言わない。
「あっ、気をつけてね。まだちゃんと手動でレーザーは出るの。裏っ側に小さなスイッチがあるでしょう。でも二つそろってなくちゃ撃てないから、やっぱり舞闘じゃちょっと……ねえ、そんな、この世の終わりみたいな顔しないでよ。この子たちがいなきゃ闘えないわけじゃないのよ。昔のやり方に戻ればいいだけなんだから」
ベルフラワーはあっけらかんと言って、キューブたちを僕から取り上げると、お手玉のように両手の上で転がした。
けれど彼女も、ブラックシューレイスがそんなに甘い相手ではないと知っているはずだ。強気でいられるのは、人形として刷り込まれた本能だろうか。それとも、僕に気を使ってそんな風に取り繕っているのだろうか。
僕の頭に、一つの考えが浮かんでいた。それは、ずっと頭に引っかかっていた考えだったけれど、今日この時まで、本気で考えたことはなかった――あまりに現実味がなかったからだ。
けれど今、彼女がこの不利な状況でブラックシューレイスに勝つことと比べると、それは十分検討に値する考えに思えた。
「もし……もし、僕が、このまま舞闘なんか放り出して、二人でここから逃げ出そうって言ったら、君はどうする?」
ベルフラワーは一瞬、僕の提案を笑って受け流そうとした。けれど僕の目を見て、どうやら僕が本気だと気付いて、きりっと表情を固くした。
「……私は、逃げ出すことはしないわ」
虚空を睨みつける彼女に、僕は言葉を付け加える。
「自分でも言ってたじゃないか。君は、刷り込み機械でそんな風に思わされてるんだって。この舞闘場から逃げ出せないように、ロングレッグ氏に逆らえないように。でも、君はそれを自覚してる。だから、きっとそれを破ることだってできるはずだろ。だから……これ以上、あんな、イカれた爺さんの見せ物に付き合う必要なんかないんだ!」
そう口にした途端、僕はどっと全身に重圧がかかったような気がした。
ロングレッグ氏のことをそんな風に言うのは、生まれて初めてのことだった。もしかすると僕自身も、人形たちと同じように、彼に心を縛り付けられていたのかもしれない。この舞闘場で日々を過ごすうちに、自分で自分に刷り込んでいた――ロングレッグ氏に逆らうな。ロングレッグ氏を悪く言うな。
ゼェゼェと荒い息をする僕を、ベルフラワーは見たこともないような優しい表情で眺めていた。その顔を見た途端、僕は体にかかっていた重圧が、風に吹かれた霧のように通り過ぎていくような気がした。
「ビット、私は闘うわ。逃げ出せないからじゃないの。誰かさんに刷り込まれた『仕事』のためだけでもない、と思う。アプリコットティと闘った後で、私、たくさん泣いたでしょう?」
僕がうなづくと、彼女は微笑みながら言葉を続けた。
「あれは、私だけの涙ではなかったと思うの。本当は流されるべきだったのに、流されなかった涙がいくつも、あの舞台の上でずっと淀んでいたんだわ。ペンデュラムクロック、ランプシュガー、それにクークー、それからもっともっと……沢山の死があそこにあって、誰かがそれを悲しむべきだったのに、誰もそれをしなかった。そういう全部が、私の目からぽろぽろ流れてきたんだと思うの……言ってること、分かる?」
はっきりとは分からなかったけれど、僕はまたうなづいた。僕は嘘をついたのかもしれない。でも、じっと虚空を見据える彼女の横顔が妙に綺麗だったので、僕は首を横に振る気がしなかった。
「私、涙を止めたいんだわ、きっと」
彼女が口にした「闘う理由」は、偶然かどうか、いつか僕が彼女に協力することを決めた理由と同じだった。僕はもう一度、今度は力を込めてうなづいた。
「分かった。もう、逃げようなんて言わない。考えよう、二人で……勝とう。ブラックシューレイスに」
「それから、『足長おじさま』に」
僕たちは改めて誓いを交わすように、互いの右手を握り合った。
彼女の手はかすかに震えていたけれど、前以上に力強く僕の手を握り返し――そして、僕はヒビの入った右手に包帯を巻いたまま、最後の舞闘の日を迎えることになった。




