第十話 涙は落ちた小鳥のために(後編)
舞台の上で弱々しく羽ばたいていたクークーは、いずれフロート・ユニットの効果時間が切れれば、地面に舞い戻ってこなければならなかった。けれどブラックシューレイスは、彼女が自然に落りてくるのを待つほど慈悲深くはなかった。
夜が深くなり、彼女の姿はさらに周囲の暗さに溶け込み、クークーは勢いよく地面に引きずり降ろされるまで、自分がすでに捕らえられていることに気付かなかった。クークーの足には、闇に紛れて伸びてきたブラックシューレイスの長い髪の毛が、びっしりと絡み付いていたのだ。
クークーは地面スレスレでどうにか体勢を立て直し、ぱくりと開いた両脚から出した高周波ブレードで、絡み付く髪の毛を切りつけた。しかし、ランプシュガーの指先と同じ超硬金属が編み込まれたブラックシューレイスの髪の毛は、そう簡単に切れるものではない。火花を散らしつつ、どうにか数本の束を切断して、縛めから抜け出したものの、彼女の前にはすでに逃れられない運命が立ちふさがっていた。
「お逃げ、小鳥……」
クークーの正面に立ったブラックシューレイスはそう呟いて、カツカツとヒールの音を響かせながら、少しずつ彼女に歩み寄った。土が敷かれた舞台の上で、本当はヒールの音など聞こえるはずがない。それは、彼女の高級なハイヒールに仕込まれた電子音だった。婦人靴メーカー曰く、「たとえ空中を歩いていても、美しいヒールの音が人々を引きつけます」。実際には、それは忍び寄る恐怖の足音として、クークーフラワーを追いつめた。
「こっ、こっちへ、来ないでッ!」
クークーは泣きそうな声を出して、足のブレードで空を切った。前方で黒々と渦巻いていた髪の毛たちが、一瞬、波が引くように後方へ下がる。けれどそれは、さらなる攻撃の予兆に過ぎなかった。地面を蹴り、大きく跳躍して、一飛びにクークーの懐に飛び込むブラックシューレイス。クークーは慌てて両腕を体に寄せて防御を固めたものの、黒衣の人形はすでに彼女の死角に回り込んでいた。
「つッ……」
脇腹に強烈な掌打を叩き込まれ、クークーの体が浮き上がった。しかし、ブラックシューレイスの攻撃はそれだけでは終わらない。彼女はクークーが地面に倒れ込むより先に、髪の毛を使って彼女を抱きとめ、身動きのとれないうちに頭部へ鋭い蹴りを放った。直撃していれば致命傷だったはずだけれど、クークーはそれをかろうじて両腕で防いだ。
その瞬間、骨が砕ける、いやな音がマイクを通じて聞こえた。僕は思わず眉をひそめたけれど、観客たちは大きな歓声を上げていた。
クークーは地面に倒れこみ、もはや立つこともままならない状態だった。顔は苦痛で歪み、目の端には涙がにじんでいた。ブラックシューレイスは何も感じないような無表情のまま、今度こそ確実にとどめを刺すために、長い髪の毛でクークーの手足を縛り上げ、空中に吊り上げた。
「もう逃げないの、小鳥……?」
ブラックシューレイスのかすれた声が、そう問いかけた。クークーは荒い息をしながら、彼女をじっと睨みつけた。
「に……逃げない!」
もはや自分の死が動かせないと悟った時、怯えきって震えていたクークーの瞳が、再び力を取り戻したように見えた。そこにどんな心境の変化があったのかは、僕には分からない。けれど、彼女はおそらく自分の「誇り」のために、最後の攻撃を試みた。背中のフロート・ユニットを再び展開し、ぼろぼろの身体を軋ませながら、自分を縛る髪の毛ごと、ブラックシューレイスに向かって突っ込んでいったのだ。
その瞬間、貼り付いたように動かなかったブラックシューレイスの唇が、かすかに微笑んだような気がした。
彼女はその場でクルリと回って、クークーの決死の攻撃を難なく避けると、おもむろに髪の毛の拘束を解いた。空中に放り出されたクークーは、とっさに両脚のブレードを格納して舞台に着地しながら、すぐに顔を上げて対戦相手の姿を探した。けれど、探していたその姿は、彼女の背後にあったのだった。
ブラックシューレイスは音もなく冷たい両腕を伸ばし、左手でクークーの口を覆った。そして右手で、真っ直ぐに、クークーの背中を貫いた。クークーの胸元から花のように生え出たその右手は、千切り取った背骨の一つを指で弄んでいた。
クークーは一瞬、何かを見つけたようにふっと目を見開いてから、カクンと力を失った。ブラックシューレイスは右手で彼女の胸を貫いたまま、虚ろな顔を左手でクイと自分の方へ傾けて、その額に、そっと自分の唇を寄せた。
「おやすみ、小鳥さん」
そのかすかな別れの言葉とともに、ブラックシューレイスは左手の指先でクークーフラワーの首を切断し、舞闘は終わった。
クークーフラワーの血に染まった舞台を見て、ロングレッグ氏は笑うのではないかと僕は思っていた。けれど、彼はそうしなかった。
舞闘が終わってすぐ、彼の浮遊式安楽椅子に取り付けられたモニターが、ピッと音を立てた。それは、声を出せない彼が、自分の意志を伝えるために取り付けられたものだ。そこには「今夜はもう眠る。エレベーターを起動しろ」と表示されていた。僕は、黙ってその通りにした。
*****
それから僕は、胸の奥に砂袋を放り込まれたような、重苦しい気分で廊下を歩いていた。これまでに、人形たちが死ぬところは何度も見てきた。もっとひどい死に方も、たくさん見た。けれど、今夜は何か違った気分だった。顔を見知っていたからだろうか? だけど、直接話をしたわけじゃない。はっきりした理由は思い付かなかったけれど、とにかく僕は、嫌な気分だった。
控え室の前を通りがかった時、聞き覚えのある声を聞いて、僕は立ち止まった。フラワーペタルだ。彼女はいつものように口うるさく、誰かに話しかけているようだった。
扉が開いていたので、僕はそっと中を覗き込んだ。想像していた通り、そこにいたのは、ベルフラワーだった。彼女は、見たこともないような青ざめた顔をして、じっと鏡を見ていた。
「ねえ、どうしちゃったの、ベル! ベルちゃんが話してくれないと、私寂しいよ。ただでさえ、クークーがいなくなっちゃったんだから」
ペタルはベルを心配した様子で、何度も話しかけていたけれど、ベルの方はじっとふさぎ込んでいて、何も答えようとはしなかった。
「どうして、そんな風になるのか分かんないよ。何か、そんな悲しいことでもあったの? 食べかけのケーキ食べられちゃったとか?」
ペタルの問いかけに、ベルはビクッと肩を震わせた。それから、消え入りそうな声で、こう言った。
「……クークーが……死んじゃった」
ベルフラワーが発した言葉に、ペタルは首を傾げた。
「それが悲しいってこと? ……どうして? クークーは立派に闘ったでしょ。力の差があったわりに、いい舞闘だったじゃない」
そう言って、あっけらかんと笑うペタル。彼女の感想は、人間ならば冷たく聞こえるけれど、舞闘人形としてはごく当たり前のものだ。彼女たちにとって「死」はありふれたもので、それは、ただ「いなくなった」のと同じことだった。
それに、クークーフラワーは廃棄場に送られたわけではなく、誇りをかけた舞闘の中で死んだのだ。だから、何も悲しむことはない。そう感じるように、彼女たちの心は作られているはずだった。
けれど、ベルフラワーはペタルとは何か違うものを感じているらしかった。彼女はただ首を横に振って、ペタルがあきらめて部屋を出て行くのを待った。僕は、溜め息をつきつつ出て行くペタルと入れ替わりに部屋に入って、彼女に声をかけた。
「……大丈夫か?」
ベルフラワーはしばらく振り向かずに、じっと自分の膝を見つめてるように見えた。近づこうとして、僕は彼女が膝を見つめているわけではないことに気付いた。
「大丈夫じゃないみたいなの」
そう言ってこちらを振り向いた彼女の頬から、数滴の涙が流れて、床にぽつんと落ちた。
「分からないの。私、分からないのよ……自分がどうなってるのか。こんな気持ちになるなんて、知らなかったのよ」
彼女はきっと、自分が他の人形たちと違っていることを悟られないよう、ペタルの前では涙をこらえていたに違いない。次々と睫毛からこぼれ出し、頬から顎へ伝って床に落ちていく涙を、彼女は拭きもせず流れるままに流していた。まるで、自分の目から流れているものが何なのかさえ分からないかのように。
「だって、誰も、教えてくれなかった……こんな気持ちはないものだって、ペタルも、おじさまも、そう言ってたのに……それじゃ、私は、どうして……」
そうしてぽつぽつと呟きながら涙を流すベルフラワーを前にして、僕は長いこと黙りこくっていた。何を言ったらいいのか、何を言えるのか、僕には分からなかったのだ。ずっと待ってみても、彼女は一向に泣き止まなかった。床の上に落ちた彼女の涙は、ちょっとした水たまりのようだった。
広がっていく透明な水たまりを見るうちに、僕は一つの決心をして、口を開いた。
「今日で、一週間だっただろ。約束、守るよ」
ベルフラワーは赤く泣きはらした目で、僕をじっと見返した。僕は小さく咳払いをしてから、言葉を付け加えた。
「僕が協力者になる。彼を……殺そう。一緒に」
そう決めた理由を聞かれたら、僕はきっと困っていただろう。
幸い彼女は何も聞かず、目を細めて笑った。水たまりは、それ以上広がらずに済んだ。




