親友のユカ(旧題:親友の泉)
十二月十日。
チキンを頬張りながら、ガールズグループのライブ配信をみていた。
あたしの親友が出ているのだ。
親友は昔からダンスが好きだった。授業中も小刻みに踊っているから、何度も先生に睨まれていたのは覚えている。
高校では三人組のダンスユニットを作り、動画投稿を始めた。
その後高校卒業と同時にメジャーデビュー。
親友をみていると、愛される人はこういう人だと思い知らされる。
それはときめきとも輝きとも言えるだろうし、愛嬌とも呼べるだろうし、天真爛漫、スター性。とにかく、内から湧き出てくる泉がある。
あたしがのうのうと生きているのも、独身なのも、これといった思い出がないのも、親友が持っているものを持っていないからだ。泉が乾ききっているせいだ。
……ダメだ、もっと煽らねば。
缶ビールが一本空いた頃、映像の向こうでは赤いドレスに身を包んだ親友が現れ、スタンドマイク前に立った。
「私、ユカは本日を持ちましてKEYを卒業します」
ついに来たんだな。
あたしは親友が最後に帰省した三年前を思い出していた。
〇
大学三年生の夏休みのことだった。
親友のユカが帰省して早々、KEYを抜けるかどうか相談してきた。KEYはユカが所属するガールズグループの名前である。
デビューを喜んでいた親友が脱退。そこに違和感はなく、むしろ彼女の深刻そうな面持ちが疑問だった。
アイドルは総じて愛されているし、グループを抜けようが抜けまいが、愛される限りなんとかなると考えていた。
親友が脱退する動機は、要するに事務所への不満だった。
事務所は新しいメンバーを迎えて更なる高みを目指したいという。それは暗に、人気が出てないからメンバーを増やして新陳代謝したいという意味だそうだ。
若さとはそれだけで武器になる。あたしは心のなかで概ね事務所側の意見に傾いていた。
しかし、親友は反対した。
KEYというグループ名はキキ、エリ、そしてあたしの親友であるユカの三人の名前からとった名前。親友にとって新メンバーを入れるのはありえなかった。
この説得に対し、事務所が提案したのは親友の卒業であった。
確かに深刻である。事務所の提案を呑まないと、親友は活動が続けられないし、提案を呑んだとしても変化を受け入れねばならない。
ここまで聴いたあたしの発言は「そっか」「そうなんだね」「なるほど」の三つ。
せめて、せめて何か違うことが言いたくて尋ねる。
「ユカ以外のメンバーはどうなの?」
「リーダーのエリは賛成してる。キキは概ね賛成だけど、私が抜けるならわかんないって」
「そ、っかぁ」
「三人で頑張ってきたのに、どうして……」
普通なら。普通なら、の話だ。
自分のものは自分のもの。自分のものであるということは、捨てるのもまた自分の意思でできる。小さい頃に買ったおもちゃを捨てるとか、そういうのはいつだって、所有者の自分ができることなのだ。
だが、ことにこの話はシンプルじゃない。
親友は「例えばの話だけど」と前置きした。
「卒業したとしてね、自分が振り付けた振りを新しいメンバーが踊ってくれるのはありがたいことだと思う。踊ってみた動画あげていてもね、他の人が踊ってるの嬉しいから。だからそれはいい。
嫌なのは、私が卒業したらKEYを名乗れなくなることなんだ。『KEYのユカです』って言えなくなっちゃうことが嫌」
「うん」
「つらいときも三人で励ましあってきたし、メジャーデビューの喜びも三人で分かちあってきた。エリ、キキ、私の三人で乗り越えていくためにKEYって名付けた。
新メンバーを迎えたら、私たちのものじゃなくなる。でもね、まだそれは呑み込める。当たり前なことだとも思う。わかるから余計寂しい」
当たり前? どういうことだろう。
理解できていないのが伝わったのか、親友は苦しそうに微笑んだ。
「私たちのものであると同時に、すでにファンのための名前でもあるからね。もうあたしたちのためだけの名前じゃないのは納得できる」
「ファンのものでもあるなら、その事務所出てやり直すのもありなんじゃない? ファンはついてきてくれると思うけど」
本当のファンならどんなことがあっても黙ってついてきてくれるものだと思うのだ。実際、インディーズに出戻りした後二回目のメジャーデビューを果たしたバンドをあたしは知っている。
でも親友は首を横に振って拒む。
「できない」
「なんで」
「なんで、か」
苦しそうにしているところからして、説明の難しさが伝わってくる。逆に言えば、難しさしかわからない。なぜ、難しいのだろう。
そこまでファンがいないとか? この訊き方はストレートすぎるな。
「できない、かぁ」
適当な言葉が見当たらなくて、ただのオウム返しをした。これが効いたのか、親友の表情は幾ばくか柔らかくなる。
「うん。……もっと推しておけばこんなことにならなかったのに、ってファンが悲しんじゃうかもしれないからね。メンバー増員は、事務所退所よりは前向きに捉えてくれる」
ははあ、なるほど。その考えはなかった。推すとは難しい。
エンターテインメントの世界においてファンの存在は大事だ。が、そのファンを思うと引き返すことができない。
ひたすら前を向くことは、明るくみえて残酷だ。
あたしなんかは大学卒業して就職して一年で辞めて引き返しても誰も咎められない。あるいは、今すぐ大学を中退したって、あたしがその気になれば、できる。説教する人がいたとしても、できないわけじゃない。
これが推しの世界においては通用しない。引き返すとはかなりネガティブに捉えられてしまうらしい。
特に親友みたいにグループを、メンバーを、ファンを、すべてを愛そうとする人にはかなりの苦痛が伴う様子である。
「大丈夫?」
思わずそんな言葉が出てしまう。ユカの苦笑は儚ささえある。
「今はまだ……。でも、決めなきゃね」
「つらいんじゃないの?」
「つらいよ。三人を否定されたわけだし。でも、……ファンを悲しませるほうがつらい」
「そうなんだね」
「うん。だから……、増員は受け入れよう、かな」
「そっか。あたしはどうなっても応援するよ」
「ありがとう。頑張る! ……けど」
あたしをまっすぐみつめる親友の目には涙が溜まっていた。
「今だけ泣いていいかな」
○
「後輩を迎えたときは不安や心配がたくさんありました。ファンの皆さんもそうだったと思います。
でも後輩の皆、本当に頑張ってくれて、ファンの皆さんが応援してくださって、昨年は初めて日本武道館に立つことができました。あの景色は本当にきれいで、一生忘れられない宝物です」
すでにライブは終盤に差し掛かっていた。
ユカは事前に手紙をしたためていたようで、ファンに向かって読みあげている。
と言ってもこのご時世、ファンは声をあげることはできない。それでも会場に広がる拍手は大きく、あたしも画面の前で小さく拍手した。
「あの頃から私たちKEYは、どこまでも高みを目指せると本気で思っていました。そのような大事なときに怪我をして、ライブをお休みせざるを得ない状況がありました。本当に悔しかったですし、ファンの皆さんに申し訳なかったです。私が落ち込んでいたとき、メンバーが、特に後輩の皆が積極的に助けてくれました。こんなメンバーと一緒に活動してると思ったら、とても誇らしかったです」
三年前、ユカはメンバー増員を受け入れ、卒業しないことにしたようだ。
あたしは夏休みが終わったあと、就職活動が本格化してライブに行かなくなった。就職後は多忙な生活に追われ、連絡すらまともに取っていない。
あの日から今日までの三年間の思いを、今はじめて知る。
一応、卒業発表後のネットニュースは読んだ。
泣いて苦しんでいたあのユカが、新メンバーを迎えてからの三年間はセンターとして立ち続け、日本武道館まで導くエースとなったこと。怪我もあったがエースとしてグループを支え続けたこと。卒業を惜しむ声が多いこと。
ユカが卒業するのはメンバーを増員したせいだとか、エースの重圧から逃れるためだとか、ネガティブな記事もあった。
それでも圧倒的に占めていたのは、ユカのこれまでを称賛し、プロフェッショナルな人物だと認める記事だった。
だからだろうか、ユカの表情には凛々しさとたくましさが増していた。堂々と話す姿と照明が相まって、後光が差しているみたいだ。
「怪我が治ってからのライブをしていても、これまで一緒に頑張ってきたエリ、キキはもちろん、後輩も皆も頼もしくなっていて……。KEYは大丈夫だと感じました。
また、自分自身の将来のことも考えるようになって、メンバーともっといたいけど、新しいことにもチャレンジしたい。そんな気持ちになりました。
ダンスだけじゃなくて、パフォーマンスする人として、一人の人として立派になって、ファンの皆様にパフォーマンスをお届けする人になりたいと考えるようになりました。メンバー、特にリーダーのエリにはたくさん話して、たくさん考えました。そして、ソロ活動していくことに決めました」
一言一言、丁寧に、ゆっくり読み上げられていく。
スタンドマイク前に立つユカの背後で、メンバーが一列に並ぶ。ユカの言葉を噛みしめるように、寂しそうに前を向いていた。照明が当たらない薄暗い中、涙を流すメンバーが何人かいるのがみえた。
「明日からKEYを名乗れなくなることが寂しくて、まだ実感がわきません。でも、私は前を向いて進んでいきます。パフォーマンスも、人としても、もっと磨きます。ファンの皆さん、これからもついてきてください! あ、でもKEYのこともたくさん応援してください! 私もこれからは一人のファンとして、KEYを見守りたいと思います」
三年前にも聞いた言葉が、今は明るく前向きに聞こえた。
あたしは静謐な空間に響くユカの声を聞いていた。ビールを飲むのもチキンを食べるのも躊躇われ、じっと静かに言葉を待ち続ける。
「改めて約六年間、応援してくださり、本当にありがとうございました! 毎日が幸せでした。そしてこれからもついてきてくださいねー! 十二月十日、ユカ」
会場では拍手が沸き起こっていたが、私は拍手も呼吸も忘れて眺めていた。
「では、最後にこちらの曲をお届けします!」と照明が暗転した。
再びライトのもとに晒されたユカの瞳は潤んでいた。
思い出されるのは、デビューすると決まったときの嬉しそうな顔。
よかったらライブ観に来てよと弾んだ声。
ライブを観に行くといつでも見せてくれた笑顔。
三年前の夏、あたしに見せた涙。
どうして一つ一つの記憶が美しいのか。
どうして惨めじゃなくいられるのだろうか。
親友の輝きも、笑顔も、みなぎるダンスも全部、あたしだけが知っていた頃と変わらない。
センターという重圧を背負わなければ、もっと長く活動できたかもしれないのに。
怪我するくらい、本当は逃げたかったんじゃないの?
事務所のせいって言えば楽になれたかもよ?
ファンは味方してくれるって知っているはずだ。エースを失って気分のいいファンなんていないのだから。
でもユカは誰かのせいにしたり、特定の人を否定したりしない。
まっすぐに、真摯に受け止めて前を向く。涙は見せても泣き言は言わない。
三年間一切連絡しなかったあたしに『久しぶり! 今回のライブどうしてもみてほしい。三年前の答え、みせるから』と親友は連絡してきた。
今まさに、ユカの覚悟をみせられている。
だけどごめん。あたしには受け止めきれないよ。あたしは感想どころか存在も陳腐なんだ。
連絡を取らなかったのも、今日現場に行かないでライブ配信をみているのも、今のあたしにユカを受け止めることができないからだ。
眩しすぎる。
変化を受け入れ、前に進んでいく親友に、あたしは必要ない。
「ありがとうございました。KEYでした!」
画面の向こうでは、ライブを駆け抜けたメンバーが一様にお辞儀をし、会場は割れんばかりの拍手に包まれる。
顔を上げた瞬間、ユカの涙ぐむ表情を見て、あたしはテレビを消した。
ユカはもう一人でやっていける。あたしを置いてって。
放心状態に陥り、ベッドに横たわって天井を眺めていた。
携帯に新着メッセージが届く。ユカからのボイスメッセージだ。
「みてくれた!? どうだったかな。うまくできてたかな」
うん。できてたよ。最高に輝いてたと思う。
「これ、ライブ前日に撮ってるんだ。ライブ終わった後だと恥ずかしくなりそうだから先に撮っとく! 相変わらず緊張しいなんだ」
気弱に笑う声はステージの上ではみせないユカだった。
「この三年間、佳奈美の『応援する』にいつも励まされてた。佳奈美は私がKEYとして活動する前から私のダンスみててくれてて、本当に私の支えなんだ。
覚えてる? 昔は結構佳奈美も私にダメだししてくれたよね。あのとき悔しく思ったからここまでこれた。佳奈美の意見はいつも参考にしてた。
ダンス動画をあげるきっかけくれたのも佳奈美。KEYの二人と出会うの躊躇ってた私の背中を押してくれたのも、佳奈美。三年前も『大丈夫?』って心配してくれる佳奈美をみて、前を向こうと思えた。私にとって最高の相棒なんだよ、佳奈美は」
……知らなかった。
「でもデビューしてから佳奈美はよそよそしくなってる気がして……。忙しいからかもしれないけど、最近は連絡もしなくなってたよね。それで私、甘えてるなって気づいた。私が卒業するって決心するときまで連絡しないでおこうって決めた」
あはは。全部見抜かれてたか。ごめんね。ユカはポジティブに受け止めてくれたんだな。
「卒業コンサート、どうだった? 私の気持ち、届いたかな。届いてるといいな。私はファン第一号の佳奈美がいてくれて幸せだよ。今日までありがとう。そしてこれからもよろしく、親友!」
ど素人のあたしの言葉なんて気にしなくていいし、輝いているユカに、あたしはいらないでしょ。
……でも。
わざわざ用意してくれたなら、それ相応の誠意を返したほうがいいかも。
『こちらこそありがとう、ユカ。ライブみたよ。気の利いたこと言えなくてごめん。今何も言葉が浮かばなくて……』
――ユカと親友でいるのは今日でおしまい。
頭によぎる言葉が喉を詰まらせ、目尻に涙がたまって脳内が白くなる。
諦めて携帯を閉じようとしたとき、電話がかかってきて心臓が跳ねた。
ユカからだ。
『佳奈美、い、今いいかな?』
「どうしたの? まだライブ終わりで忙しいんじゃないの?」
『ん、本当はまだやることあってよくないんだけど、佳奈美声が聞きたくて……。既読もついてたし』
「そっか。……ライブお疲れ。みたよ」
『ありがとう。その……』
声が途切れる。電波が悪いのか、ユカが何か切り出しにくいからなのか。
「ユカ?」
『……う、うう』
「どうした?」
『だっ、だってやっとライブ終わったし』
すすり泣く声が耳に刺さる。
ライブ中ずっと見栄張ってたのかなぁ。センターとしてやらなきゃって追い詰めていたのだろうか。
『ずっと佳奈美の声も聞けてなかったし』
「帰ってきたらいいじゃんかー。まぁ片田舎のこっちは東京よりつまんないと思うけど」
『佳奈美がいない東京は嫌い』
ユカの内側にある泉が溢れ返り、号泣している。
そう大胆に告白されても困る。
困惑するあたしをよそに、ユカは泣き続ける。そこにはメンバーやファンを思うユカでなく、ユカという一人の人間が体裁も建前も取っ払い、泣いていた。
電話越しに事務所のマネージャーらしき人の声がした。メンバーであろう声も聞こえてきて、「どうした~」と慰める声も聞こえてくる。
記憶の奥から引きずり出される。中学の放課後、オーディションに落ちた連絡をみて一人で泣いていたユカを、物陰に隠れて見守っていた日々。
「……大丈夫。ユカはもう一人じゃないよ」
『うう……。でも……』
「とりあえず切るね。またいつでも話せばいいじゃん」
『……わかった。またね、佳奈美』
「うん、また」
ユカはあたしのこと、好きなんだな。
あたしはたぶん、ユカ以上にユカのことが大好きだ。
大切だからそばにいたくて、遠く感じて悲しくなって。頼られたら嬉しくて。支えられているのはあたしのほうだ。
「今度休み貰って会いに行くよ。おいしい店連れてって」
携帯に声を吹き込み、ユカ宛てに送信した。
涙が止めどなく溢れて眠りにつくまで泣き続けた。涙を流した理由はわからなかったが、朝になると心が軽くなっていた。
早く会いたい。会って、あの泉に触れたい。きれいで暖かくて、愛おしいあの泉に手を伸ばしたい。そして、ありがとうと伝えるのだ。
あたしは空になったマグカップを置いて、仕事に向かった。