五
「リン」
そう呼ばれた気がした。
眠い目を擦りながらディスプレーに視線を移す。
『RIN?』
ディスプレイにそう書いてあるんだけど、その言葉は直接頭に響いていた。
『アナタハドコニイルノ』
「白い部屋。少女がいる」
とっさに口をでた言葉が、英語に変換されて画面に打ち出されていく。
『ワカッタ。イマイクカラ、マッテイテ』
助けに来てくれるのだろうか。
でも、そんな事が出来るのは、知っている限り一人しか居ない。
北山郁美だ。間違いない。
「あら」
ユキが、振り返ってこっちを見た。でも視線は微妙に横にずれている。
「おはよう。今日は早いのね」
隣りに現れたのが郁美先輩だと分かるまで、それほど時間は必要なかった。
「お待たせ」
先輩はヒロインを助けにきた正義のヒーローみたいにかっこ良かった。妙にスタイルのいい小学生風の少女でなく、二枚目のお兄さんだったら良かったのにと、不謹慎にもそう思った。
「ほらそこ貸して」
先輩が私を追い出してディスプレーの前を陣取った。
「あんたがここに来れる人だとは思わなかったのよ。この子があなたの家に居た時点で気付くべきだったわ」
「どういう意味です?」
「ユキシステムって聞いた事ある?」
「いいえ」
「その昔、人工知能に夢を見せる為に考え出されたプログラムなの。その基礎データーに一人の少女の記憶を使った。でも彼女はネットワーク奥底に意識を取り込まれたまま、二度と目を覚ます事はなかったんだって」
「何ですそれ」
「都市伝説」
「は?」
「彼女の事よ」
先輩は窓際に立って外を見ている白いワンピースを着た少女を指差した。
「その少女の名前がユキと言うの」
少女がそれに気付いたかのように振り向いて笑った。
とても寂しそうに笑った。
「でも、これはコピーなの。彼女の記憶の単なるコピー」
少女を「これ」と呼んだ後、先輩もまた寂しそうに微笑を返した。コピーと言うからにはオリジナルがあるのだろうか。
「じゃあ、帰りましょ」
「え?」
「帰りたくないの?」
どうだろう。帰りたいかといわれたら「うん」と答えたかもしれないけど、帰りたくないかと聞かれてもすぐに答えが出てこない。
「無理にとは言わないけどさ」
半ば諦めの表情をしたまま、それでも先輩はしっかりと私を見た。美しい顔で見つめられたりしたもんだから、少し恥ずかしくなって目をそらした。
「彼女に誘われて帰ら無かった人は、一人や二人じゃなんだよね。いやかえって来た人は居ないと言った方がいいかもね」
そうか、だから彼女は回収されたんだ。
ここはとても居心地が良かった。だから、このままいつまでも……。
そうやって何人もの人がこの世界に取り込まれて消えていった。
正式な記録としては抹消されたのかもしれないけれど、都市伝説としてその話はいまでも人々の記憶に残っている。
「でも、残念ね。折角話の合う友達が出来たと思ったのに」
「今なんて……」
先輩は笑っていた。その笑顔がとても素敵だった。
「さっきは久しぶりに楽しかった。それに、漫画貸してくれるって言ったよね」
この世界はとても素敵だ。とても魅力的で、私の心を掴んで離さなかった。
だけど、先輩と過ごしたわずかな時間の方が何倍も素晴らしかった。
いま、それに気づいた。
先輩と一緒に過ごして見たかった。この人となら本当の「友達」に成れる気がした。たとえそれが私の思い過ごしだったとしても、それを信じてみたかった。
「わたし帰ります」
「そう」
今まで黙っていた少女が突然口を開いた。
「それがいいと、私も思う。あなた名前は」
「RIN」
「そう。また会いましょう」
ユキはにっこりと笑って、再び窓の外に視線を戻した。
そんなやり取りなど気にもせずに、先輩はキーを叩いていた。
「これUNIXっていうの。昔主流だったOSよ」
情報処理時間に名前だけは聞いた事があった。だけどそれだけだ。実際に動いているのを見たのは初めてだったから、使い方だって分からない。
それをまたこの先輩は、自分の物のように簡単に動かしてしまうのか。
「また迷い込んだ時のために、ここから抜け出す呪文を教えてあげる」
郁美はコマンドラインからGUIを起動して、複数のコンソールを表示させると更に別のプログラムを起動した。正直早すぎて何をやっているか理解できない。
「この六万五千五百三十六個のパラメーターを全て一にすればいいのよ。簡単でしょ」
やって見なさいといわれて頭から一を入れて行ったけど、いつの間にか0にもどる所があったりしてなかなかすべてを一には出来ない。それは気の遠くなる作業だった。
「貸して」
痺れを切らした先輩は、私を押しのけるとすばやくそれをやり遂げた。
この人には一生掛かっても勝てるような気がしなかった。
最後のパラメーターに一を入力したとたん、少女も、ベッドも、コンピュータも、全ての存在がだんだんと薄くなってきて、最後に部屋全体が輝いた。
余りのまぶしさに目をつぶった。
目を開けたとき、私はベッドに横になっていた。
色のついた自分の部屋だった。
「ゆめ?」
朝の六時。いつも起きる時間だった。