父が生まれた日
「母さんって恋愛とかしたことあんの?」
「え、いきなりなんだい気持ち悪い」
「いや、なんとなく。学生の頃不良だって聞いたし結構そっちも遊んでたのかなって」
「我が子にしては本当に失礼なクソガキに育っちまったねえ、アンタ」
会社の事務服に身を包んだ母、新戸真奈美は向き直ることなく鏡と睨めっこしてそう言う。
「そんなことはいいから早く学校の準備しな、後たまにはいい点でも取って親孝行でもするんだね」
「へーい」
もちろんそんな気はなかった。
高校一年生の新戸慶介は鞄にシャーペンと消しゴム、そして携帯ゲーム機一式を入れ学校に向かう。もちろん暇を無駄に消費しないために枕の代わりにもなる単行本の数々も忘れちゃいない。
「いい点ねえ」
慶介は学校の屋上で物思いに耽る。夏休みに差し掛かる前だけあってなかなかに日差しがささる。
フェンス越しに三階からの景色を眺める。意味なんて聞いてくれるな。
授業なんてものはとっくについて行けず、先生の口から繰り出される単語は慶介からしたら古典も数学も大した差は無い。
「これから後二年どうすりゃいいんだろうな」
正解なんて分かるわけが無い。しかし自分の母も自分くらいの頃にはさぞかし遊んでいたというにも関わらず今では会社でまともに社会貢献出来ているあたり何とかはなるのだろうという謎の自信が今日の怠惰な時間を提供してくれている後押しとなっている。
「せめて遊べる程の何かでもあればいいんだけどな。こんな田舎じゃ何もないぜ」
ふと母の学生時代を想像する。
自分の母はなかなかに美人だと思う。
さすがに今のあの姿に制服を当てはめると違和感が凄いが四十台であの若さならなかなかのものだと思ってしまうのだ。
だが男運は悪く、父はかなりの暴君で自分が小さい頃に出て行きそれ以来女手一つで自分をここまで育てている。
「今度学生時代の写真でも見せてもらうかな」
「あんた、そこで何してんの」
いきなり自分とは違う声がしたものだから急いで声の方向とは逆の方へ身を引く。声の先は屋上に上がるための階段の裏側の方からだ。
「そんなとこで何してる」
「あんたこそ。今は授業中じゃないのかい」
「いや、俺は他の奴らと違って自主性を重んじてるんでね」
慶介は声の先の死角へと近づいてみると、そこには体育座りでシャボン玉を吹いてる女子がいた。
「おっと、あんた他校の奴か。よりにもよってこんな屋上でシャボン玉吹きとは。俺よりも怠惰な人生送ってる奴を初めて見たぜ」
「同じ屋上で暇潰してるんだから同じようなものじゃないのかい」
碧色の制服の少女が片手で持っていた筒の先のシャボン玉が音もなく割れる。
「あーあ、もうちょっとで新記録だったのに」
「あんた、本当にここでシャボン玉してるだけかよ」
「ヨシノリ」
「あ?」
「あたしの名だ。あんたは?」
「……慶介だ」
「へえ、面白くない名前だねえ。ミドルネームくらいつけたらどうだい」
「こんな田舎じゃ浮いちまうだろ」
「そりゃそうかい。ここでは人を待ってるんだ」
「人? ここの学生か?」
「ああ、最初は一緒に授業バックれて外に出ようって話だったんだけどねえ。授業十分前でやっぱムリだとか言ってあたしを置いて行っちまった」
「とんでもない奴じゃねえか」
「まあ正直チキンだねえ。街中でいきなり声かけてきたから面白そうな奴だと思って付き合ってたんだけどね」
「え? じゃあ知り合って長くもないのか」
「三日」
「三日……あんた、相当遊んでるのな。軽いのはシャボン玉だけにしとけよ」
「ははは、全然うまくなくて逆に笑っちまったよ。今年一番だ」
「その割にはシャボン玉の記録が著しいじゃねえか」
おお、そうかいとそのままちょっとずつ筒の先に空気を送り続けるヨシノリ。慶介はそれを見てただ単純に彼女を屋上にほっぽって自分は授業に出ているそいつが許せなくなった。
「じゃあさ、これから俺とどっか遊びに行かねえか」
だから慶介は彼女を誘うことにした。シャボン玉が音もなく割れた。
平日の商店街は昼間だけあって人通りは全然なく歩いているのは老人と猫、時々おっさん。
「こんな真昼間から学校バックれて他校の女をナンパしてランデブーだなんて見た目によらず結構遊んでるんだねえ」
「う、うるせえ。そういうあんたは、金髪だし見た目どおり遊んでそうだよな」
「あー、金髪差別したー。そういうのいけないんだよ。まあでもこういうの自体は嫌いじゃないよ」
そう言うとヨシノリはいきなりぎゅっと腕にしがみ付いてくる。そのせいもあって慶介は歯切れの悪い返事をしてしまう。
「で、誘っておいてなんだがあんた、どこに行きたいんだ」
「ヨシノリ」
「あ?」
「二回目。自己紹介したのに名前呼んでもらえてない。これデートなんでしょ? あたしも慶介って呼ぶからさ」
「お、おう。ヨ、ヨシノリ」
「なんだい慶介。やけに恥ずかしそうじゃないかい。やっぱりミドルネームつけてあげようかい」
「まだそのネタ引きずってたのかよ」
とりあえず慶介はゲーセンに入ることにする。喫茶店とかも考えたが、あまりに普段行かなさ過ぎて何をしていいか分からなかったし、そもそもコーヒーなんて苦いだけのものは飲めなかったからだ。
ゲーセンの中は人もいないのに賑やかだ。でも静かだとヨシノリと何か話さないといけないような気がして正直気まずかったから今の慶介には丁度良かった。
「へえ、これが最近のアーケードって奴かい。なんだかオシャレになっちまったねえ」
「最近? 久しく来てないのか」
「そうだね、こういう賑やかなとこは一人じゃちょっとね」
「へえ、意外だな」
「ああ! 慶介、あんたまた偏見で! よし、そこのエアホッケーであたしと勝負しな。負けた方がジュースとアイスな」
「あそこのエアホッケーやってる奴見たことないけど動くのか? まあいいやとりあえず俺に挑んだこと、後悔させてやるぜ!」
「ふう! やっぱり勝負の後の炭酸飲料とアイスは喉の通りが格別だねえ」
筐体の横にあるベンチでヨシノリはアイスを舐めてはジュースを飲むという贅沢食いを横で披露する。高校生にとってゲームプレイ代に加えての計四百二十円はなかなかのダメージだった。
「帰ったら母さんにちょっとねだってみるか、どうせムリだろうけど」
「はい」
慶介が今月残りどうやって生き残るか考えていると視界の横にソーダアイス。
「……いいのか」
「いいも何も慶介の金じゃないかい。さてと、あたしはもうちょっとあんたをボコれそうなゲームがないか見てくるから」
そう言うとヨシノリは他の筐体が並んでいる方へ行ってしまった。残されたのは自分とソーダアイス。
「これは、俗に言う間接キスという奴なのでは」
右手に握られたそれはいつもの何倍も魅惑的に見える。これが付加価値なのだと思い知らされる。
「食べないと溶けちまうからな。今日は特に暑い」
慶介はアイスを三口程で食べ終える。アイスの味は普通のソーダ味だった。
いつものものと違いなんて無い。だが、身体は冷えるどころか気恥ずかしさでさらに熱くなってしまった。
「さ、早くヨシノリ探すか。もう結構いい時間だし」
そんな自分がアホらしくなって忘れようとヨシノリを探すことにしたが、そう時間はかからなかった。
「欲しいのか、それ」
「う、うわあ」
後ろから声をかけるとヨシノリは驚いて後ろへ下がる。そして頭が慶介の顎に当たる。
「いたた」
「あ、ごめん」
「ったく、そんな驚かなくてもいいだろ」
「いや慶介がいきなり驚かすから」
「で、そのかわいいウサギさんを眺めてどうしたんだよ」
ヨシノリがさっき眺めていたのはUFOキャッチャーの景品の一つ、ピンクの大きなウサギだった。
ゲーセンといっても田舎だし遊べるものなど限りがある。メンテナンスなんてあるのかすら謎だから自分達で百円を入れて自己点検するしかない。
「なんていうか、かわいいところあるんだな」
それを一番言われたくないことはなんとなく予想はついていたけどつい口をついて出てしまう。ヨシノリは案の定顔を真っ赤にして下を向いてしまう。どうやらこうかばつぐんのようだ。
「い、いいだろ! なんか文句でもあんのか」
「おいおい、その見た目でそのフレーズ言われるといよいよ恐喝されてるみたいだから堪忍だぜ」
「くっ、悪かったね。どうせあたしみたいなヤンキーみたいな見た目した女がこんなかわいいぬいぐるみ欲しがったらおかしいものね」
「そこまで言ってないだろ、まあ見てろ」
慶介はそう言うと財布から残り少ない百円玉のうち二百円を出す。
「くっ、よりにもよってでかい奴だから一発が痛いな。今月は……出血大サービスだ」
夕方の空はいつにも増してなかなかに清清しく見えた。
慶介の横では嬉しそうに大きなうさぎのぬいぐるみを抱きかかえたヨシノリがスキップをしている。
「その、なんだか嬉しそうで何よりだぜ」
「当たり前だろー、それにしても慶介があんなにぬいぐるみ取るのが上手だなんて思わなかったねえ。あんた今までさぞかしあいつに投資してきたろ」
「してないって言ったら嘘になっちまうが、でかいのは今回が初めてだ。アレ待てよ、前に誰かに取ってやったような気がしたが……誰だったか」
「まあいいよ、とりあえず今日は本当にありがとうね。なんていうか久々に凄く青春をした気がしたよ」
「もっと語彙力なんとかなんねえのかよ」
「いいじゃないかい、とにかくあたしは今日最高に満たされたんだよ」
そう言いながらスキップのまま慶介の前まで来ると立ち止まりこっちに向き直るヨシノリ。
その笑顔は素直に綺麗だと思った。
「でさ、ちょっと慶介に言いたいことがあるんだけどさ」
「どうしたんだよ、そんな改まって」
「あの、そのさ、あたしと、付き合ってくれないかい」
「ま、まじかよ」
語彙力をツッコんだ矢先頭が真っ白になる。言葉が出なかった。
「なんでだよ。お前、今日学校で待たされてた奴と付き合ってたんじゃ」
「いいんだよ、あんな奴。別に正式に告白されたわけでもないしさ」
「そ、そういうものなのか」
本来ならこれだから遊んでる奴はとでも言えばいいのかもしれないがそんな茶化すような事は言えなかった。
それぐらい彼女の目は正直だったし、よく見てみればそんなに不純そうにも見えなかった。
いや、御託を並べたって意味なんてないなと吹っ切れる。
慶介は、彼女を好きになっていた。
しかしこれに答えてしまっていいものだろうか。慶介はふとそんな疑問に駆られる。
今日会った知らない他校の女の子。しかもお互い気が合うのかうまく付き合っていけるのかも分からない。
慶介はこんなことになるならもっと今まで遊んでおけば良かったなんて本末転倒な後悔をしてしまう。
「ダメか?」
「いや、ダメじゃない。ダメじゃないから……」
そうだな、とりあえず一歩前に進んでみればいいんだ。付き合ってみれば変わる事だってあるかもしれないと天使の囁きだけが自分を誘惑する。
「もちろんいい……」
「ヨシノリ!」
と、返事をしようとしていた時だった。ヨシノリの名をちょっと遠くから呼ぶ男がいた。
その男は冴えないもっさり頭にメガネ。自分なんかよりよっぽど彼女とは釣り合わない見た目をしていた。
「え、どうしてここが」
「先生に屋上に誰かいなかったか聞いたら今日早退した学生が他校の制服の女子を連れてたって聞いたから……どうして待っていてくれなかったんだい」
「だってあなたも約束を守らなかったじゃない」
「え」
「一緒にサボってくれるって話だったのに結局あたしを置いて授業に出ちゃうし。さすがにシャボン玉だけじゃ飽きちゃうよ」
「それは」
明らかにもっさり頭に分が悪い様子だ。一つの縁の終わりを前に慶介はただ傍観を決め込む予定だった。しかし。
「待って欲しい。確かに僕は君との約束を破ってしまった。今回だけじゃない。これからも何回も破ることになるだろう」
「何開き直ってるの。じゃあ尚のこと終わりよ」
「でも、そんな僕に付いて来て欲しい。そして、そんな僕を正して言って欲しいんだ」
その真っ直ぐに彼女だけを見据えた姿勢。それでいて見た目とは想像も出来ない亭主関白的な発言。
こんな無茶苦茶な言葉放っていくわけにはいかないし、こんな奴と一緒にいたら最悪ひどい目に合わされる可能性だってある。
「もう、何言ってんだか。ねえ慶介からも」
「いけ」
「え」
でもそんな言葉は絶対に慶介には出せない。自分には彼女を守り通せるそんな信念の強さがないような気がした。
だからこうするしかなかった。
最初ヨシノリは困惑した顔でこちらの心情を窺おうとしたが何かを悟り最後にありがとうねとだけ言ってもっさり頭に連れていかれてしまった。
「あーあ。何やってんだか」
もう少しのチャンスを棒に振ってしまったのだった。
「ただいまー」
「おかえりー、あんた……今日なんかあったのかい」
仕事終わりの母が何かを察し心配そうな声でそう言ってくる。まだ涙の跡が取れてないのか心配になり急いで鏡を見に行くがどうやらそういうわけでもないらしい。
「さすが母さんだな」
「そういえばあんた、ちょっといいかい」
すると向こうから母に呼びかけられる。
「なんだよ」
「あんた、今朝母さんが恋愛したことあるか聞いてきたわよね。今日仕事中考えてみたんだけど。今日あんたに話したいことあるし丁度いいから話してあげるわ」
「そうなのかよ。偉く急だな」
「急なのは今朝のあんたもなんだしお互い様でしょ。結論だけ言うとね、親のそういうの聞きたいかは知らないけどなかなかに満喫した高校生活だったわね」
「やっぱり遊び散らかしてたってことか」
「その表現は気に食わないけど大体当たりだわ。街中の人に何回もナンパされては付き合って男に困らなかった日はないわ」
「そんなにかよ」
何となく想像はついていたが実際にその口から聞かされると思ったより生々しいなと慶介はしみじみ思う。
「でも、そんな高校生活で唯一落とせなかった男子が居てね。他校の男の子だったんだけど。初めての告白で振られちゃったわ」
「マジか。そんな当時無敵な母さんを振ってしまうなんてよっぽどの男だったのか」
「顔は別にそんなでもなかったんだけどね、はぁ」
遠くを見つめ深い溜息をつく母。
「でも、それっきりだったのかよ。もう一回とかさ。リベンジすれば」
「ええ、ここからが話の本題なのよ。実はね、数年前久々にその人と再会してね」
「ま、まさか」
「そのまさかよ。二回目告白してその後あんたには悪いんだけど黙ってお付き合いをさせてもらってたのよ」
「それで茶化してたのか」
「ええ、だから今日聞かれたときは話そうか結構悩んでしまってね。で、実は今度結婚するの。こんないい年した女にプレゼントまでくれてね」
「プレゼント?」
「ええ、かわいいでしょ。うさぎのペンダントよ」
母は普段しない表情でペンダントを見せてくる。そのペンダントの先にはピンクのうさぎの顔がついていた。そのうさぎはとても見覚えがあった。
ピンポーン。
「あ、丁度来たようね」
母は玄関の方へ向かおうとする。
慶介はなんだか感じたことの無い悪寒を感じ母に急いで聞き返す。
「母さん、あの。旧姓は?」
「旧姓? なんだい急に。義則よ。義則真奈美」
「あれ? 真奈美? 上がっていいのか」
玄関の方からなんだか偉く馴染む声が聞こえ家に上がってくる。
その声の主は母の横に現れた。
「紹介するわ。あなたの新しい父よ」
「よお、はじめまして」