第9話
「峰彦さま。まほろさまのこと、ありがとうございました」
夜、リビングで、カモミールティーのカップをテーブルに置きながら、陸子は峰彦に頭を下げた。
「ほんとうにありがとうございました。峰彦さまが追いかけてくださったから」
苦渋の滲んだ声で同じことを繰り返す。峰彦は小さく首を振ってカップに手を伸ばした。
「おばさんが教えてくれたから、なんとか間に合ったんですよ」
「おかしいとは思っていたんです。でも、何を聞いても返事をはぐらかすし。やはり、本当の親子ではないからですね。母親だったら、娘が怒ろうが怒鳴ろうが、遠慮なく服をまくって体を調べたものを、ほんとうに情けないです」
ここにも傷ついている人がいた。陸子はまほろに暴力を振るった男を責める前に、無力だった自分を責めていた。悪いことをしたら遠慮なく叱っていた陸子だったのに、まほろが年頃になっていくにしたがって叱れなくなっていた。それまで存在しなかった他人という壁が、陸子をためらわせるようになっていたのだ。愛情は変わらないのに、愛情を注ぐのではなく、一歩も二歩も退いて忍耐して見守るという苦しい立場に変わっていた。
まほろのようすがおかしくても、顕人にはもちろんのこと、儀衛門にも相談できなかった。父親や祖父から、頭ごなしに問い詰められたら、まほろは意地になって口を閉ざすとおもったからだ。
娘には母親が必要だった。その母親に、自分がなれないことも陸子にはわかっていた。給料をもらって子供たちの世話をしているおばちゃん。そうまほろにいわれたら、陸子には返す言葉がないのだった。
どんなにまほろを愛していても、陸子とまほろの関係が変わることはなく、愛情を押し付けていい立場でもなかった。そんな苦渋が込められた峰彦への礼だったが、峰彦はそこまで深く陸子の気持ちを理解しているわけではなかった。
「大旦那様が、たいそうお怒りになりまして……」
「叱られましたか」
「いえ。大旦那様はわたしを叱ったりなさいません。いっそ叱ってくださったらよかったんです。わたしの失態なんですから」
「子育てに失態はつきものですよ。親なんて、子供の成長と共に親になっていくものでしょう。子供に初めてがあるように、親にも初めてがいっぱいあるんじゃないんですか」
「親じゃありませんから」
陸子は峰彦の斜め前の椅子に腰を下ろして、自分のカップに手を伸ばした。壁の時計は二十三時を回っていた。まほろも鷹彦も自分の部屋で、とっくに眠っているだろう。顕人も、今日は帰りが早くて自分の部屋にいる。儀衛門は家にいるときは、十一時にはベッドに入って、眠くなるまで本を読むのが習慣だった。
「おじさんは遅いですね」
「そろそろ帰ってくるでしょう。遠いところにある斎場ですから、お通夜のおふるまいもそこそこに帰ってくると思います」
壁の時計をちらりと見上げて陸子はいった。相場は、定年退職を機に郷里に帰った友人の通夜に出掛けているのだ。
「大旦那様は、相手の男の方をお調べになったようです。犯罪歴はありませんでした。大学もまほろさまがおっしゃたように、別の大学ですし、あれ以来まほろさまの周りをうろつくことはありませんから、だいじょうぶだろうとおっしゃっていました」
「怒っていましたか。まほろのこと」
「はい。とても。そんなに弱虫だったのかと。悔しそうにおっしゃいました。情けない、とも」
峰彦は俯いてしまった。自分が叱られたように感じた。まほろはあの時、真っ先にレイナはどこかとたずねたのだ。峰彦はレイナに誘われるとついていくといったときのまほろの顔。あの男の横顔が峰彦に似ていたと。目を伏せたときのまつげの濃さが鷹彦に似ていたと。鷹彦はおとなになるにつれてまほろから離れていったと。
呆れるほどくだらない理由で、まほろはあの男のいいなりになって金を巻き上げられ、暴力を振るわれていたのだ。
情けないとおもう。なんてバカなのだろうとおもう。昔からまほろはバカだとおもっていたが、これほど愚かだとはおもわなかった。だが、まほろも自分の人がほしかった、と、いうのを聞いたとき、峰彦は胸を突かれた。
「いつかは別々になっていくんだね。わたしたち」
と、まほろは泣いた。
カップを口元に持っていくと、ハーブティーのやわらかな湯気が顔にかかった。口に含む峰彦の唇はかすかに震えていた。
僕と、鷹彦と、まほろ。いつか、別々になっていく。もう、とっくに別々なのかもしれない。僕たちの子供時代は、とっくに終わっていたのだ。
苦しかった。胸の奥が絞られるようだ。だが、なぜ自分の胸がきりきり痛むのか、峰彦は考えることを拒否していた。
鷹彦はまほろの部屋のベッドで勉強道具を広げていた。寝転びながらポテトチップスを口に入れては教科書をめくっている。
机の前でパソコンを操作しながら、学校に提出するレポートを書いていたまほろだったが、たまりかねて横の鷹彦に振り向いた。
「だから鷹彦。ベッドでポテチを食べないでよ。カスが落ちるでしょ。だいいち、なんでわたしの部屋で勉強するの。自分の部屋へ行きなさい」
鷹彦は聞こえないふりをして壁のほうを向いた。
「鷹彦!」
鷹彦は以前のようにまほろにまとわりついていた。家にいるときはまほろから離れようとしない。
「鷹彦ったら!」
まほろは鷹彦の手から教科書を取り上げた。
「自分の部屋に行きなさい」
「うるさいなあ」
起き上がって、ポテトチップスの油と塩で汚れた指をまほろのTシャツで拭ったものだから、まほろがぎゃっと叫んだ。
「鷹彦!」
怒って手を振り上げると、まほろの脇をすり抜けて逃げ出した。笑いながら階段を駆け下りていく。まほろは元気な鷹彦に救われていた。何もなかったかのように、昨日と同じ日常の延長線上に今日が続いているとおもえる。
あの日、部活の練習試合に向かう途中で電車を降りた鷹彦は、そのあと、さんざん顧問の先生と部員たちから叱られた。急な下痢でトイレに急いだと言い訳しても嘘だと丸わかりなので、よけいに叱られた。
部を退部になるかとおもったが、それならそれでかまわないと呑気にかまえて叱責されていたが、退部を言い渡されることもなく、高校選手権水泳大会に出場して、全国五位の好成績で終わった。
鷹彦はまだ一年なので、二年になったら、へたをしたら部長をやらされるかもしれない。そうなったらやめる。めんどうだ、などと勝手なことをいっていた。
長かったような短かかったような夏休みが終わって二学期が始まった。鷹彦はせっせと部活と勉強に励んでいた。落ち着きを取り戻したまほろも、大学のサークル仲間と大学の敷地内にある植生と生物の観察研究を楽しんでいた。
峰彦のほうはますます仕事が忙しく、顕人に指示を受けたり報告したり、ときには叱責されて意気消沈することもあったが、顕人の仕事ぶりを間近で見られるのは幸運だった。
顕人のほうは笑顔ひとつ見せることなく、常に厳しい態度だったが、峰彦はよく耐えて顕人の期待をうわまろうと努力した。顕人は常にそばに峰彦を置いていた。そのことを自覚している峰彦は、いつか自分は、この蒔江田グループの頂点に立ってやるという野望を抱いた。
千住の両親が儀衛門の差し出した札束に屈服したときの屈辱を、いつか必ずはらしてやる。蒔江田グループを我が物にしてやる。顕人の座を奪ってやる。
峰彦には、儀衛門の紐付きで千住寛臣が経営している会社など眼中になかった。羽振りがよくて上品な寛臣が、アート関係の雑誌やメディアで取り上げられても、そちらの仕事には食指は動かない。生き馬の目を抜くような業界の競争の中でこそ、峰彦の血は騒いだ。
熱い血がたぎっている峰彦を見抜いていたのはレイナだった。屋敷に越してきた峰彦をはじめて見たとき、レイナは恋に落ちた。冷たい風貌をしているくせに峰彦の目は燃えるようにきつかった。
レイナは、峰彦の冷たさと熱さの落差に惹かれたのだ。だが、それから何年たっても、親しい友人の関係は変わっていなかった。その陰に、まほろの存在があることを、女の直感で感じ取ていった。峰彦が心の奥底にしまい込んでいる想いを、みずから突いて明るみに出すことはない。レイナは賢い女だった。
それぞれが、それぞれの思いを抱えながら、さらに一年が過ぎた。そして、鷹彦が高校二年の十七歳の誕生日に大きな変化がおとずれたのだった。
「まほろと鷹彦や。あとで、じいの部屋においで」
七月二十六日は鷹彦の誕生日だった。陸子のごちそうが並ぶ夕食のテーブルには、まほろと鷹彦、それに儀衛門と陸子と相場しかいなかった。顕人は仕事でインドのデリーに行っているし、峰彦も顕人に随行している。
相場はビールを飲みながら上目遣いで儀衛門を盗み見た。儀衛門がどんな話をするつもりなのか、相場はわかっていた。陸子は知らないものだから、
「まあ、めずらしい。どんないいことがあるんでしょうね」
などと軽口をいって笑っている。
「プレゼントはもらったし、まだなにかくれるのか、おじい」
鷹彦はのほほんと笑いながら、皿に残った最後のケーキのひとかけらを口に入れた。
「お祖父ちゃまは、鷹彦がこんなに大きくなっても、まだ甘やかすんだから」
まほろもケーキをほおばりながらいう。
「じいにとっては、まほろと鷹彦。そして峰彦は、宝物だからねえ」
「峰彦も?」
まほろは意外そうに目を大きくした。
「そうだよ。峰彦は特別だ。あれは、かわいい」
「峰彦が?」
「兄貴が?」
まほろと鷹彦は顔を見合わせて、あははと笑った。儀衛門も笑っていたが、目は笑っていなかった。儀衛門がいちばん目をかけているのが峰彦だということを、相場はわかっていた。だが、峰彦だけは儀衛門の手に入らない。だから鷹彦を手に入れたのだ。相場は食欲を失って腰を上げた。
「あら、あなた。どうしたんです。もっと食べたら」
「うん。ちょっと飲み過ぎたようだ。大旦那様。私は風呂に入りますので、失礼します」
「ああ。ゆっくり入っておいで」
儀衛門は鷹揚に頷いた。相場が部屋に引き取り、儀衛門もリビングを出て行った。
「鷹彦さま。若旦那様にプレゼントのお礼のメールを送っておいてくださいね。それと、インドからお帰りになったら、またお礼を申し上げてくださいね」
「二度もいうの? メールだけでいいよ」
「いいえ。さっそくのメールのお礼は礼儀ですし、言葉で伝えるのは感謝の気持ちですから、そうなさってくださいね」
陸子から念を押されて鷹彦は頷いた。そういう鷹彦の素直さは、陸子にとってはありがたかった。
「お腹がいっぱいになったのなら、大旦那様のところにお行きなさい。あまり待たせては、お疲れになりますから」
陸子に促されて二人は腰を上げた。めったにないことだったから、どんな話だろうとおもった。
「鷹彦の進学のことじゃないかな」
「高二だもんな。俺、兄貴と同じ東大に行くつもりなんだ」
「むりむり。峰彦はできが違うもん」
「俺だって、できがいいよ。まほろだけだよ。頭、悪いのは。就職試験に全部落ちて、大学はなんとか卒業できたけど、結局ニートじゃないか。かっこ悪い」
まほろがぴしゃりと鷹彦の腕を叩いた。
「かっこ悪いはよけいでしょ。なによ、その言い方。希望する会社に落ちたっていうだけじゃないの」
「おじいに言えば蒔江田グループのどこかに入れてもらえるのに」
「それだけは嫌なの。会社に入ってから苦労するもの。同じ苦労なら、縁故のないところで頑張りたい」
「言うことだけは立派だけど、もう七月じゃないか。大学を卒業してから四か月もたつんだぞ。どうするんだよ。本気で働く気があるのかよ」
「うるさいなあ、鷹彦は」
そんなことを話しながら階段を上って儀衛門の部屋をノックした。儀衛門の部屋は、入ると特有の匂いがした。なんと表現したらいいのか、なにもかも古くて古さの中に時間だけがひっそりと息づいているような匂いだ。
分厚いゴブラン織りのカーテンが窓にかかり、大きな両袖机には本や書類が積まれている。テレビの前にはラタンの寝椅子があり、ベッドは電動でリクライニング式のが置かれている。ベッドサイドのテーブルには囲碁の会報誌が開きっぱなしになっている。衣装箪笥は上質の桑材を使っているので狂いがなく、年代物だ。
儀衛門は机の前にいて書類をめくっていた。老眼鏡を外しながら顔を上げ、つかのま、まほろと鷹彦を見つめた。そして、立ったままの二人に感慨深くため息をついた。
「鷹彦や。おまえが生まれて十七年たったよ。じいは年寄りだから、長く感じたが、若いおまえたちには、あっという間だったんだろうねえ」
鷹彦とまほろは顔を見合わせた。話の意図が見えない。儀衛門は感慨にふけるようにひっそりと息をした。
「おまえたちの結納が決まったよ」
儀衛門の静かな瞳に見つめられて、まほろの心が波だった。子供のころから、言い聞かせられていたことだったのに、結納という言葉の持つ重みがずしっときた。
なぜ自分と鷹彦が結婚しなければならないのか、誰が、どのような理由でそう決めたのか、以前、峰彦に訊ねたことがあった。
怖い話だと峰彦はいった。長い話になるとも。まほろは聞く勇気がなかった。それを聞いたら、自分と鷹彦の関係が変わってしまうかもしれないと峰彦がいったからだ。いま、自分は、祖父から怖い話を聞くことになるのだろうか。
まほろはそっと横の鷹彦を窺った。まほろより背が高くて引き締まった体格の鷹彦は、若い頬にまほろと同じような戸惑いを浮かべていた。鷹彦もまた、まほろと同じ疑問を峰彦にぶつけたことがあったからだ。
「どうしたね。二人とも。驚いたのかね」
先に口を開いたのはまほろだった。
「お祖父ちゃま。ほんとなの? ほんとうにわたしたちを結婚させるつもりなの」
「そう言い続けてきたじゃないか。まほろや」
「生まれたときから、一緒に育ってきた鷹彦と、結婚?」
「嫌かね」
「わたしに結婚の自由はないの」
「あるさ。憲法の下、婚姻の自由は認められているよ」
「では、断ってもいいのね」
「鷹彦と結婚するのは嫌なのかね。好きな相手でもいるのかね」
「そうじゃなくて、鷹彦との結婚には無理があるとおもうの。年が違い過ぎるし、鷹彦はまだ高校生だし、将来、鷹彦にふさわしい女性が現れるとおもうの」
「今すぐ結婚しろとは言っていないよ。鷹彦が、もっと大人になってからだよ。結納を交わすだけだよ」
儀衛門はやさしい口調を変えなかった。根気よくまほろに答えていく。まほろは首を横に振った。
「結納って、婚約のことよね。縛られたくないわ」
「では、鷹彦にも聞いてみようかね。鷹彦はどう思うかね」
鷹彦の瞳が強い光を帯びた。
「おじい。俺、前から聞きたかったんだ。なんで俺は蒔江田の家で大きくなったんだ。それに兄貴まで。両親がいるのに、なんで俺たちは、両親と暮らしていないんだ。俺の親たちは、蒔江田に遠慮して、この家にはやってこない。だけど、兄貴には、いつになったら千住の家に帰ってくるんだと文句を言ってる。結納の話しの前に、俺は、それが聞きたいんだ」
儀衛門は大きく頷いて、テレビの前のラタンの寝椅子を顎で示した。
「そこにお掛け」
まほろが寝椅子の足乗せ台をたたんで椅子に座り、鷹彦は肘掛けに腰を掛けた。儀衛門は、机の上の湯飲み茶わんを取って、喉を湿らせてから話し出した。
「もともと千住家は由緒正しい家柄で、家系を遡れば平安時代の公家まで行きつく。だが、鷹彦が生まれる頃には、先々代の頃からの家計の行き詰まりで借金が膨大になっていたんだよ。鷹彦や、聞くのが辛かったら、やめてもいいんだよ」
「へいきだ。話してよ。ほんとのことが知りたいんだ」
「うむ。千住寛臣氏は優秀なうえに古美術から現代美術まで造詣が深く、代々家に伝わってきた古文書や書画骨董を展示した美術館を運営していたんだが、借金で首が回らなくなっていたんだよ。じいはね、千住家の家柄血筋に憧れたんだよ。じいは、田舎の庄屋の小倅だったからねえ」
「つまり、おじいは借金だらけだった俺の両親に融資をしたということなのか」
儀衛門がにこっと笑った。
「そうだよ、鷹彦や。融資をしたんだよ」
「そして、俺を養子にしたのか。融資の条件に」
「養子じゃないさ。婚約だよ。ゆくゆくは、まほろと結婚して、この蒔江田を継いでもらいたいと、おまえのご両親に頭を下げたのだよ」
「融資の条件が、俺とまほろの結婚だったのか。そういうことなんだな」
「気を悪くしたかい。鷹彦や」
「なんで兄貴まで蒔江田にいるんだ」
「そのとき峰彦は九歳だったよ。おまえを一人にするのはかわいそうだといってついてきたのさ。やさしい子だよ」
「なんで親元で暮らせなかったんだ。なんで、親と別れて暮らさなきゃならなかったんだよ。俺や兄貴の気持ちはどうなるんだよ。おとなの都合に振り回されてさ」
「金だけ取って逃げられたら、損をするのはじいだからねえ」
くくっと儀衛門は喉の奥で笑った。
「俺と兄貴は担保ってわけだ」
「結納を断るかね?」
鷹彦とまほろが顔を見合わせた。鷹彦の瞳のなかには怒りが、まほろの瞳のなかには迷いがあった。二人は、たがいに目の中を探った。どうする、まほろ。どうしよう、鷹彦。
「あした、結納の儀を赤坂のホテルで執り行うよ。千住夫妻とおまえたちと、このじいの五人でね」
「あした? だって、お父さまはインドじゃないの」
「兄貴だってそうだよ」
「吉日なんだよ。楽しみだねえ」
鷹彦もまほろも、呆れて言葉が出なかった。顕人はこのことを儀衛門から知らされていた。知っていて、わざと峰彦を随行させたのは、峰彦に邪魔をさせないための儀衛門の指示だった。
儀衛門は、まほろに恋人ができる前に、なんとしても鷹彦と婚約させてしまいたかった。儀衛門が予想したとおり、鷹彦は峰彦に似て優秀だった。姿や頭脳ばかりでなく、性格が明るく素直だった。かわいがって大切に育てた宝物を逃がすつもりはなかった。
翌日の七月二十七日は、油照りのような暑さだった。海水の温度が異常に高いために年々気温が高くなって、夏になると必ず熱中症の警戒予報が出されるが、その日の暑さは、アスファルトを歩いただけで気分が悪くなるほどだった。
突然婚約を言い渡されて戸惑ったが、翌日には結納の儀を行うと聞かされて、まほろも鷹彦も冷静に考える時を失ってしまった。押し流されるように身支度させられて、相場が運転する車に乗せられ、赤坂にあるホテルに連れて行かれた。
儀衛門は紋付き袴の正装で、鷹彦は紺のスーツを着せられた。まほろは白と紺のプレタポルテのワンピースだ。仲人なしの略式だったが、ホテルの一室で千住夫妻と顔を合わせたときには緊張で硬くなっていた。
寛臣はブラックフォーマルの正装で、美苑は色無地の一つ紋のお召を着ていた。儀衛門を先頭に部屋に入っていったとき、寛臣と美苑は、一瞬、感電したように硬直した。
儀衛門に続いて入室した鷹彦は、そんな両親を怪訝な面持ちで見たが、美苑が大輪の深紅のバラの花束を抱えていたのでぎょっとした。おもわず足を止めてしまった鷹彦に、「どうしたの。鷹彦」と、声をかけたまほろも、部屋に入って、真っ先に目に飛び込んできた美苑の抱えているバラの花束に息を飲んだ。
鷹彦とまほろの記憶がフラッシュバックした。昔、峰彦が幼稚園だった鷹彦を連れて千住の家に行ったとき、まほろは二人を迎えに行った。一人で東京まで迎えに行ったのだ。そのとき、玄関で美苑に投げつけられたバラの棘が、まほろの額に傷をつけて血が流れた。 傷の痛さより、燃えるような美苑の憎しみに怯えた。震えるまほろに、さらに美苑は花瓶まで投げつけようとしたのだ。
「峰彦――」
おもわずまほろは峰彦の姿を求めていた。あのとき、花瓶を投げようとした美苑の手を掴んで止めたのは峰彦だった。だが、峰彦はいない。まほろは動揺した。すると、鷹彦が強い力でまほろの手を握ってきた。
鷹彦にとっても忘れられない記憶だった。美苑がバラを用意したのは偶然なのか、あるいは意図的なのかは知らないが、黒ずむほどに赤い花を、美しいとは感じなかった。
テーブルには、すでに結納の品が置かれていた。儀衛門は、鷹彦に千住夫妻と並ぶように声をかけてから、テーブルを挟んで丁寧に一礼した。まほろも儀衛門にならって一礼する。テーブルの向こうの三人も同じように頭を下げた。
顔を上げたとき、まほろは鷹彦と目が合った。向こう側に行っただけで、いつもの鷹彦が知らない人のように見えた。いま、まほろの正面に立っているのは、千住鷹彦という青年であることを、まほろは驚きとともに新鮮に感じた。
弟のように慣れ親しんだ鷹彦ではなく、一人の男性としてまほろの前に立っていた。鷹彦の頬は紅潮し、目がきらきらしていた。その横の美苑は、強張った頬にひきつった笑みを浮かべていた。少しも温かみのない刃物のような目つきだった。美苑がさしだした花束を、まほろは受け取れなかった。
寛臣が、やはり冷たくまほろを見つめていた。寛臣は美苑のように感情を露わにはしていなかったが、その代り儀衛門への静かな憎しみがあった。
まほろは儀衛門が昨夜話してくれたことを信じていたので、融資して負債の負担を軽くしてくれた儀衛門に感謝こそすれ、憎いものでも見るような寛臣と美苑の目つきを不快に感じた。でも、鷹彦の両親なので、そんな感情は表情に出さなかった。
千住家が用意した結納の品は立派なものだった。婚約指輪は古いデザインのものだが、千住家に代々伝わっている、めったにないほど大きい翡翠だった。翡翠の原産国でもある日本では、格式の高い石として昔から尊ばれてきたものだ。
金の台座に収まった美しい翡翠の指輪を贈られ、蒔江田からは鷹彦にスイスの高級腕時計が贈られた。高校生の鷹彦にそんな腕時を贈っても、つけるときがないのだが、儀式とはそういうものだった。
受け書、家族書、結納、結納返しなどが両家の間で滞りなく行われ、ホテルの写真館で記念写真を取った後、部屋に戻って会食となった。
儀衛門は淡々としていたが、この日を喜んでいた。まほろと鷹彦は、なにがなんだかよくわからなくて、早くこの日が終わることを望んでいた。
寛臣と美苑は、儀式が進むにつれて意気消沈していき、別れの挨拶をする頃になると、美苑は鷹彦の手を掴んで離さなかった。儀衛門にはばかることなく、このまま一緒に千住の家に帰ろうといって涙をうかべた。
親の愛情を知らずに育った鷹彦は、自分に執着する美苑に戸惑っていた。生まれたときから蒔江田の手で育てられた自分に、この女性は愛情が湧くものなのだろうか。鷹彦にしてみても、親だとはわかっていても、頭でわかっているだけで、それほどの情は湧かない。
儀衛門のほうが、よっぽど身近だ。あの冷たい顕人でさえ、父親のような気持ちでいる。自分の家族は千住ではなく、儀衛門であり、顕人であり、峰彦であり、まほろであり、相場夫婦だった。
美苑は鷹彦との距離感を、握っている指の力で感じていた。美苑は強く握っているのに、鷹彦はだらんと握られたままなのだ。この手を放したら、鷹彦は蒔江田のところに行ってしまう。美苑は行かせまいと、さらに強く握った。
「鷹彦や。帰ろうか」
儀衛門が穏やかに鷹彦を促した。鷹彦は頷き、美苑の手を離して一礼すると、儀衛門に歩み寄った。儀衛門が先に立って部屋を出て行く。まほろが鷹彦の腕に手を添えて、一緒に部屋を出ようとしたときだった。美苑が鷹彦の名を呼んだ。
「鷹彦! 忘れものよ」
美苑は、まほろがわざとテーブルに置いてきた薔薇の花束を掴むと、それをまほろに向かって投げつけたのだった。空中でリボンがほどけて、乱れた薔薇がまほろに降り注いだ。それを鷹彦が自分の背中でまほろを庇った。
一瞬凍りついたまほろだったが、今度の薔薇に棘はなかった。まほろは美苑が怖くて振り向けなかった。だが、鷹彦は振り向いた。そこには、顔をくしゃくしゃにした美苑が目を真っ赤にして鷹彦を睨み付けていた。