第8話
鷹彦の高校の入学式には、峰彦の姿も、まほろの姿もなかった。陸子が校門のところで撮った写真が一枚あるだけで、今までの中で最も寂しい写真となった。
あんなに陽気だった鷹彦は、だんだん峰彦に似てきて気難しくなった。通っていたスイミングスクールも熱が冷めたように行かなくなった。スイミングスクールのコーチから何度も電話がかかってきて、企業が主催する全国大会に出場するようにいってきたが行かなかった。そのくせ、高校の部活は水泳部に入った。むしゃくしゃすると、自分を苛めるように泳ぎたくなるらしく、プールを使いたいために入ったようなものだったので、部員としては不真面目だった。
峰彦は帰宅するのが遅いし、顕人のほうは仕事の関係で帰って来たり来なかったりだし、儀衛門は取締役社長職を顕人に譲って代表取締役一本になってからは、毎日定時で帰ってくるようになったが、階下で食事をとると自室に引き取ってしまうので、階下はいつもがらんとしていた。
誰もいないリビングのテーブルで勉強をしながら、帰りの遅いまほろを待つのも最近は辛くなってきた。
二十二歳になったまほろに、子供の頃のお転婆で底抜けに明るい面影はなかった。物静かで愁いを帯びた女性になっていた。話しかけても、一言二言返事をするくらいで、すぐに部屋に入ってしまう。腕の中からするりと抜けていくスカーフのようだった。
高校生になったら、まほろと腕を組んで歩くのを楽しみにしていた鷹彦は、自分が思い描いていたものとは違う現実に、どう対応していいのかわからないでいた。
高校生の自分から見たら、大学四年のまほろは大人の女性だった。でも、まほろと結婚すると無邪気に喜んでいた小学生の頃の自分と今の自分に齟齬はなかった。鷹彦はずっとまほろと結婚するとおもい続けてきたし、まほろを特別な存在とおもっていた。
来春、まほろは大学を卒業する。だが、たいして就職活動をしている様子はなく、いくつかの会社説明会に出掛けて行ったり、面接を受けたりしていたが、不採用の通知しか来ないので、本人はすっかりやる気をなくしていた。根気がないというか、根性がないというか、そもそも真剣に働く気がないのではないか。なにを考えているのか本人に聞いてみたいくらいだ。休みの日は出掛けてばかりいるし、まほろのこれから先のことを考えると鷹彦は心配だった。
玄関のドアがカチャっと音がした。だれか帰って来たのだ。峰彦だろうか。まほろだろうか。鷹彦は耳をすませた。玄関からの足音は真っ直ぐ廊下を進んでリビングに入ってきた。まほろだった。
まほろの目の下には薄いくまができていた。肩にかかる髪も乱れ、パンツの中にたくし込んでいるシャツもはだけてだらしなかった。
「お帰り。遅かったね。また友達と一緒だったの」
鷹彦は努めて陽気にふるまった。まほろは鷹彦に振り向かなかった。髪で顔を隠すように下を向いている。
「ただいま。またリビングでお勉強をしているのね。自分の部屋ですればいいのに」
疲れた声に、苛立ちが滲んでいるのを鷹彦は敏感に感じ取った。
「どうしたんだよ。友達となんかあったの」
「関係ないでしょ」
一瞬まほろは強く鷹彦を睨んだ。まほろの左の頬が変だった。痣のような赤いあとがある。
「まほろ。その頬」
どうしたんだ、と訊く前に、まほろは逃げるようにリビングを出て行ってしまった。
まほろのようすがおかしいことには気がついていた。休みのたびに出掛けていくし、帰りも遅い。急に呼び出されるときさえあった。どんな友人と付き合っているのか、きいてみたことがあった。しかし、何かいうと強く反発してきて、結局言い合いになってしまう。
鷹彦はまほろを追って二階に行った。二階の踊り場の廊下側にトイレと洗面所が並んでいて、まほろは洗面所の鏡の前で自分の顔を覗き込んでいた。その鏡の中に鷹彦が映り込んだので、まほろは慌てて左の頬を手で隠した。鷹彦はその手を掴んでどけた。
「なにするのよ」
睨んでくるまほろを睨み返す。
「どうしたんだ。この痣」
「どうもしないわ。うっかり壁にぶつけただけよ」
「どうやったら、うっかり顔を壁にぶつけるんだよ」
「だから、うっかり」
まほろが年下にみえた。自分の背が伸びたせいで、見下ろしているまほろが小さい。こんなに細かっただろうか。こんなに頼りなかっただろうか。怯えたような目つきのまほろが、鷹彦には自分より若い女性にみえた。
まほろが鷹彦の手を振りほどいて、逃げるように部屋に行ってしまった。鷹彦は階下に戻って、ダイニングテーブルに置いたままにしていた勉強道具を片付けはじめた。西側の二間には陸子と相場がいるはずなのに、テレビの音さえ聞こえない。もう寝てしまったのだろう。二階の顕人の部屋は留守だが、儀衛門は部屋にいる。でも、やはり物音は聞こえない。この家は静かすぎる。人がいるのに、人の気配がないなんて、なんと寂しい家なのだ。
蒔江田の里で陸子の家で暮らしていたときは、いつも賑やかで笑い声がしていた。おとなばかりだと家の中はこんなに静かなのだろうか。家庭とは、こんなものなのだろうか。これが平均的な家庭というものなのだろうか。
鷹彦は、親と暮らす家庭を想像してみた。学校の友人たちは、母親や父親のことを“うぜえ”とか“メンディー”などといっていたが、そこに軽蔑や嫌悪はなかった。反対に、愛されている自信が覗いていた。親とは、そんなにいいものなのだろうか。陸子はよくしてくれている。相場も控えめではあるが男親のような厳しさを示してくれている。なんの不足があるというのだ。そう思う一方で、実の親に対する憧憬が湧いてくるのをどうすることもできなかった。
知りたかった。なぜ自分は蒔江田で暮らしているのか。なぜ千住の両親は二人の子供を手放したのか。なぜ自分は、まほろと結婚しなければならないのか。何かの罰なのだろうか。誰かの罰を自分と兄が支払っているのだろうか。そうだとしたら許せないとおもった。
勉強道具を取りに来たのだが、いつの間にか椅子に坐って考え込んでいた。
「こんなところで勉強しているのか。変わってるな」
声をかけられて顔を上げたら峰彦だった。
「兄貴。毎日遅くて大変だね」
鷹彦にねぎらわれて峰彦は笑みを浮かべた。
「おまえこそ、部活のほうは、ちゃんとやっているのか。スイミングのほうはやめちゃったんだろ」
「うん。なんだか気が乗らなくてさ」
ノートと参考書を持って立ち上がった。
「まほろは帰ってきているのか」
何気ない峰彦の問いかけに鷹彦の動きが止まった。
「あのさ。まほろが」
「どうした」
峰彦は冷蔵庫のところに歩いていって缶ビールを取った。小気味よい音がしてプルトップが開く。
「まほろが、顔に痣をつくってきたんだ。うっかり壁にぶつけたって」
峰彦は一口ビールを飲んだ。
「相変わらず抜けてるな」
そういって、またビールを口に運ぶ。
「うん。まほろはいつも抜けてるんだ」
元気のない声で鷹彦は、参考書とノートを抱えてリビングを出て行った。峰彦の表情がくもった。ビールがやけに苦く感じた。
夏休みに入り、不真面目な水泳部員だった鷹彦は、先輩たちからの締め上げにあって真面目に出て行くようになった。屋内プールでの練習だったから日に焼けることはなかったが、真夏の日差しの中を部活に通うだけでも鷹彦の肌は小麦色になった。
高校選手権水泳競技大会が間近に迫ってきて、練習は連日行われた。土曜日も練習だったし日曜も休めない。もともと泳ぐのが好きだったから、日曜日も大きなスポーツバッグを持って家を出た。
今日は電車で一時間ほど行ったところにある都立高校との練習試合だったので、集合場所の駅に向かった。改札の前でひとかたまりになっているのは顧問の先生と二十人近い男子部員だ。
全員揃ったところで改札を抜けた。電車の中では静かにするように顧問の先生からさんざん注意を受けていたので、乗車すると部員たちはそれぞれの学年のグループに分かれて散らばった。
急行の乗換駅のホームに電車が入ったときだった。ホームを挟んだ向こうの線路に準急が停車していて、ドアが開いたまま二分間の時間調整をしていた。その電車は混んでいて、立っているおおぜいの乗客で車内が暗くなっていた。その車両の中にいる一人の人物が鷹彦の視界に飛び込んできた。
「まほろ!」
一瞬だったが、まほろの横顔が人の隙間に見えた。鷹彦が乗っている電車のドアが閉まりはじめた。鷹彦は部活仲間の肩を押しのけて、閉まりかけたドアからホームに降りた。そのまままほろが乗っている準急の電車に走って飛び乗る。
部活の仲間を乗せた電車が動き出していた。ガラスのドアに顔をつけて彼らが身振りでなにかいっていた。鷹彦が飛び乗った準急も反対方向に動き出した。鷹彦はまほろを探した。同じ車両に乗っているはずだ。声をかけるつもりはない。見つからないようにあとをつけるつもりだ。どこに行くのか、だれかと待ち合わせをしているのか、まほろのようすを知りたかった。家ではろくに話もできない雰囲気のまほろに、鷹彦は胸を痛めていた。
まほろは車両の奥のほうにいた。肩に届く髪を下ろして白地に赤のドッド柄の七分袖のシャツブラウスを着て、ぴったりしたジーンズをはいていた。足元は素足に真っ赤なエナメルのハイヒールミュールを履いている。バッグはエルメスのトートバッグだった。
まほろはドアのところの手すりに掴まって、じっと外を見つめていた。明るい色彩の服装をしているのに表情が暗い。流れていく景色を眺めているようには見えない。放心しているのだ。
電車がホームに滑り込んだ。おおぜいの人に混じってまほろも降りた。鷹彦も降りる。まほろは階段を上って改札に向かった。後ろからついていく鷹彦からは、まほろの表情は見えなかったが、改札を出て行くときに見えた横顔は、放心していたときとちがって、引き締まっていた。それは、飛び板飛び込みの選手が、飛び板の上でジャンプして、コンクリートのように硬い水面に突入するときと同じ、緊張した表情だった。
改札を出たところで、まほろは一瞬竦んだように息を殺した。そして、別人のように笑顔になって手を振った。
まほろが走っていく先に男がいた。まほろと同年齢にみえた。はっきりした顔だちをしていて、どことなく峰彦に感じが似ていた。それだけのことなのに、鷹彦はその男に嫉妬した。
男は、走り寄ったまほろを余裕のある笑顔で迎えた。まほろのトートバッグを、あたりまえのように自分の肩にかけて、まほろと手をつなぐ。まほろはうれしそうに笑っていたが、それが作り笑いであることを鷹彦は見抜いてしまった。
「まほろのやつ、バリバリ緊張しているじゃないか。なんだ、あいつ」
あいつというのは男のことだった。
「気にいらないな」
鷹彦は二人のあとを追った。何人か間に挟んで見え隠れについていく。どこに向かっているのかはしらないが、先を行く二人はおしゃべりしながら賑やかなメインストリートをのんびり歩いていった。 鷹彦も、しゃれたオープンカフェに目をやった。パラソルがつくる涼し気な日陰でお茶をするものいいなとおもったりして前に目を戻したときだった。
男が肩にかけていたトートバッグを開けて、まほろの財布を取ったのだ。まほろの表情がくもった。男は財布から札を数枚抜いた。笑いながら自分のズボンのポケットに突っ込む。鷹彦はぎょっとした。まほろは何も言わない。黙って俯いている。男がじゃれるようにまほろの頭を小突いた。細い首が折れそうに揺れた。
鷹彦の頭にかっと血が上った。まほろが俯いてぼそぼそと何かいった。もちろん鷹彦には聞こえない。すると、男が気分を害したようにまほろの手首を掴んで横道に入った。
メインストーリーから逸れただけで事務所関係のビルが多くなり、人通りもほとんどなくなった。ビルの谷間の暗がりで、男は機嫌をとるようにまほろの肩をポンと叩いた。まほろがまた何かいった。強い言い方ではなく、懇願するようなしぐさだった。
すると男が、こんどはまほろの腕を強く叩いた。まほろが男からトートバッグを取り返そうとして手を伸ばすと、いきなり怒りだして、こんどは平手で顔を叩いた。怯えている犬を叩くような、容赦ない残酷な叩き方だった。
叩かれたのはまほろだったのに、鷹彦の頬に強い痛みが走った。心臓がバクバクして怒りが沸騰した。まほろのところに行こうとしたとき、男はさらにまほろを叩いた。まほろは手で頭を庇って首を竦めていたが抵抗はしなかった。
鷹彦は怒りで目の前が真っ赤になった。まほろを叩く男にも、叩かれたままでいるまほろにも。
スポーツバッグを投げ捨ててアスファルトを蹴った。その横を、風を起こして駆け抜けた男がいた。峰彦だった。
「兄貴!」
峰彦は、まほろを叩いている男の胸倉を掴むと、痛烈なパンチを浴びせた。男はがくんと頭をのけぞらせて道路に倒れ込んだ。その襟を掴んで引きずり起こす。
「まほろに二度と近づくな」
峰彦の声は怒りで震えていた。
「財布から抜いた金を返せ」
男はいわれたとおりズボンのポケットから札をだした。
「鷹彦。取れ」
いわれて、鷹彦は慌てて走って札をもぎ取った。
「な、なんだよ。おまえら」
男は、峰彦と鷹彦に怯えたような視線を向けたが、次にまほろに向けた目は怒りに燃えていた。
「まほろ、てめえ、はじめから仕組んでやがったのか」
男の遠吠えに、まほろはぶるぶる震えた。
「ちがう。でも、もう疲れた。別れよう。ノボル」
「それはこっちのいうセリフだ。くそ。バカ女が」
鷹彦はカッとしてこぶしを構えた。そのこぶしが繰り出されるまえに男は逃げていった。
峰彦と鷹彦を前にして、まほろは言葉を失ったように立ちすくんだ。驚きと恥ずかしさで頭の中が真っ白になっていた。見られたくない姿を、一番見られたくない二人に見られてしまった。まほろの見開いた目は、峰彦と鷹彦を映していながら、その実何も見えていなかった。
「まほろ」
峰彦の声に、意識が戻ったようにまほろは瞬きをした。そして、周りを見回す。
「もう彼はいないよ」
そういった峰彦の声に優しさはなかった。峰彦もまた怒っていた。
「ちがうの。そうじゃなくて、レイナさんは、どこ」
「レイナ? どうしてレイナのことをきくんだ」
「だって、峰彦は、いつもレイナさんと一緒だから。高校の時から、ずっと、一緒だから」
峰彦の目が大きくなった。レイナに無関心だったまほろから、レイナのことをいわれるとはおもわなかった。
「レイナはいない。いつもレイナといるわけじゃない」
「峰彦はレイナといつも一緒。レイナに誘われると、峰彦はついていく」
呟くまほろの表情の無さが変だった。鷹彦はまほろの両腕を掴んで揺すぶった。
「まほろ。どうしたんだよ。ちゃんとしろ。帰るぞ」
「あ。鷹彦」
いま初めて気がついたというように表情が変化する。まほろは安心したように薄く笑みをうかべた。
「鷹彦。迎えに来てくれたんだ。うん。帰ろう、タカコ」
子供の頃の呼び方で鷹彦をよんで手をつないでくる。
「久しぶりだね。タカコと手をつないで歩くの。大きくなったね。もう高校生だものね。まほろより背も高くなちゃって、大人っぽくなちゃって。小さかったタカコがこんなに大きくなったよ」
まほろに手をつながれて歩き出した鷹彦が、峰彦を振りかえる。峰彦がスポーツバッグを拾ってあとからついてきた。
「あの人はね、合コンで知り合ったのよ。よその大学の学生だから、学校で顔を合わせなくてすむからよかった」
歩きながら、まほろは話しだした。峰彦も後ろについてきながら聞いている。鷹彦は言葉を挟まずに黙ってまほろの話に耳を傾けた。
「あの人ね、俯いたときの横顔が峰彦に似ていたの。そしてね、目を伏せたときのまつげの濃さが鷹彦と似ていたの」
ポロリとまほろは涙をこぼした。
「はじめは優しかったの。でも、だんだん……。峰彦はレイナさんに取られちゃったし、鷹彦は大人になっていくにつれて、まほろから離れていっちゃったし……まほろも、自分の人がほしかったの。はじめは優しかったから、うれしくて、楽しかった」
鷹彦と峰彦は顔を見合わせて絶句した。横顔が似ている? まつげの濃さが似ている? そんなことで? そんなくだらないことで? 二人は呆れた。
「いつかは、別々になっていくんだね。わたしたち」
まほろは静かに泣いた。鷹彦はぎゅっとまほろの手を握った。
「俺はずっとまほろのそばにいるよ。俺たちは結婚するんだ。忘れたのか」
はっとした。まほろはまじまじと鷹彦を見つめた。そんな昔のはなし、本気にしてるの、とまほろは言いそうになってやめた。鷹彦が、あまりにも真剣だったからだ。
「だって鷹彦。わたしはおばさんだよ。鷹彦がそう言ったんだよ」
「そんなこと、言ってないよ」
「言った。中学二年の体育祭のとき、確かに言ったの。6コもはなれているからおばさんだって。ババアだって、友達にそう言って、ああっ!……笑ったのよっ」
まほろは鷹彦の手を振りほどいて歩調を速めた。メインストリートの人ごみの中を、人とぶつかりそうになりながら歩いて行く。
「それで中三の体育祭には来なかったのか」
遠ざかっていくまほろの後ろ姿に向かって呟いた。思い出した。確かにそんなことがあった。木村との会話を聞かれていたのだ。
鷹彦は悔しそうに口元を歪めた。本気じゃない。悪気じゃない。ちょっと生意気をいってみただけだ。それを真に受けるなんて。
鷹彦はまほろを追いかけようとした。
「やめておけ」
峰彦が横に並んでそういった。
「なんで」
「わからないのか。六歳も年下のおまえに、高校生のおまえに、俺たちは結婚するんだと言われて、まほろが喜ぶと思うのか。そんなたわごと」
「たわごととはなんだよ。おじいがそう言ったんだぞ。俺とまほろは結婚するんだって、言われ続けたんだぞ」
峰彦は、持っていたスポーツバッグを鷹彦に放り投げた。両手で受け止める。
「自分で持て」
「俺は本気だ。まほろが暴力を振るわれているのを見てわかったんだ。俺のまほろを叩くやつは許さない。まほろは誰にも渡さない」
「儀衛門のじいさんに刷り込まれただけなんだよ。そんなの愛じゃない。錯覚だ」
「兄貴に何がわかるんだよ。俺とまほろは特別なんだ。いつもいつも思ってた。おとなになるまで待っていてくれと。そして、やっとまほろに追いついたんだ」
スポーツバッグを斜め掛けにして、鷹彦は走り出した。まっしぐらに、まほろに向かって。
峰彦は、走り去っていく鷹彦を見つめるよりほかはなかった。思いつめるな鷹彦。すべては儀衛門の罠なんだ。
借金で首が回らなくなっていた千住寛臣は、儀衛門の資金で立ち直り、もともと豊かな教養と学識の持ち主だったので、借金から解放されてからは、能力を生かしてアクティブに経営の幅を広げていった。しかし、その経営母体は蒔江田グループだったので、寛臣はただの歯車の一部にすぎなかった。
実力がありながら借金のせいで発揮できない。負債は経営能力がないせいだといわれればそれまでだが、寛臣の場合は、何代にもわたる借金が累積していたので、どうにもならなかったのだ。売れるものは売りつくしていた。途方に暮れていたところ現れたのが儀衛門だった。
そして、いちばん犠牲になったのは鷹彦だった。鷹彦は一途にまほろに恋しているが、そのいきさつを知ったとき、鷹彦の恋には陰りがさすだろう。まほろだってそうだ。あの子は、自分でおもっているほど強くない。あの子の心の中は寂しさでいっぱいだ。
峰彦は携帯電話を出してレイナに電話した。
「僕だよ。うん。レイナの言うとおりだったよ。ありがとう。見逃すところだった。こんど食事でもおごるよ」
峰彦は頷いて、「じゃあ」といって電話を切った。仕事が忙しかった。峰彦が所属している経営企画室は社長の直轄となっていて、多岐にわたる業務を、各担当が情報を分析して資料を作成するのだが、業績に問題があれば、そのつど経営陣に問題点の対策や提言をしていかねばならない。
峰彦としては大した事案ではないと判断して上にあげなかったことがあり、代表取締役社長の顕人から、きつく叱責された経験があった。
峰彦はそれに懲りて、念には念を入れた仕事をするようになった。千住くんの資料なら間違いはない、といわれるようになるまでには、たいへんな努力を要した。忍耐力と集中力が並外れている峰彦だからこそできたことだが、能力を評価されてきたころから仕事の量が増えた。
さらに、顕人が些細なことでも峰彦を呼びつけて内容の詳しい説明や調査を指示するものだから、職場での峰彦の立ち位置が面倒なことなっていた。
峰彦の住所が、社長が住んでいる渋谷の広尾と同じ住所なのも、陰でいろいろ囁かれる原因でもあった。しかもレイナまで、同じ経営企画室で働いていて、住所も同じなのだ。社内では千住さん、岡田さんと呼び合っているが、見交わす視線の親しさはごまかせなかった。
そのレイナが、いち早くまほろの変化に気づいた。男なら見逃してしまいそうな些細な変化。
「まほろさん。夏でも袖の長い服を着るのね。最近、スカートもはかないようだし」
それがどうしたときいたのだった。
「髪も、顔を隠すようにかぶせているわね」
「何が言いたいんだ」
昼休み。いつもの定食屋で昼食をとっているときだった。レイナは、会社では長い髪を後ろで束ねていた。無駄口をきかず、きびきびと仕事を片付けていく働きぶりは好感が持てた。そのレイナが、話すかどうか迷うように箸を止めた。
「ねえ峰彦。最近、まほろさんに変わったことはない?」
「べつに、特には」
「そう。それならいいけど」
「なんだよ。言えよ。気になるじゃないか」
「うん。ちょっとね、わたしの友人のことなんだけど、夏でも半袖を着ないのよ」
「べつに変じゃないだろ。冷房で冷えるとか」
「スカートもはかないの」
「おかしなことを気にするんだな」
「たまにサングラスをかけているの。真っ黒の。そういう時は、目の淵になぐられた跡があるの」
「まさか」
あの時は息が止まりそうになった。まさか、まほろに限って、そんなことがあるはずがない。あんなに素直で、誰からも好かれる、やさしい子が。
それ以来、峰彦は家にいるときはまほろから目を離さなかった。まほろの着るもの。出かけていくときのようす。帰って来た時の顔つき。サングラスはかけていない。だいじょうぶだ、と安心しかけたときだった。鷹彦から、まほろが顔に痣をつくって帰って来たと聞かされたのは。
レイナがヒントを与えてくれなかったら、今日のことも見過ごしていただろう。油断ならないとおもった。まほろに危害を加える男はほおっておけない。今回はなんとかなったが、これからもあるかもしれない。なんといっても、まほろは年頃の娘なのだから。
今日叩かれた腕はだいじょうぶだろうか。服に隠れたところにも痣はあるのだろうか。
殴った男への怒りがふつふつと湧いてくるのだった。