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まほろと鷹彦 だけど峰彦   作者: 深瀬静流
7/17

第7話

 よく晴れ渡った雨上がりの空に、飛行機雲がくっきりと筋を引いていた。鷹彦の中学の体育祭は、五月の第二木曜日だった。

 小学校のときは土曜日だったので、それまで峰彦は鷹彦の体育祭を欠かさず見に来ていたが、今年の四月から社会人としての生活がはじまったので、平日行われる体育祭には来れなくなった。だが、まほろは大学生だったので、授業があってもさぼって見に行った。

 平日に行われる体育祭は、中学生たちが楽しむためのもののようだった。見に来る親がいなくても、生徒たちは声を張り上げて応援し、盛り上がっていた。

 鷹彦が小学生だった頃は、まほろが見に行くとあんなに喜んでいたくせに、中学になったら、まほろにも陸子にも見に来るなというようになった。

 かまわれるのが嫌な年頃になったのだろうと陸子は遠慮して行かなくなったが、まほろは鷹彦が嫌がっても見に行った。本気で嫌がっているわけではなかったからだ。ただの照れ隠しだとわかっていた。

 今年の一月に成人の日を迎えたまほろは、内側から輝くような光を放っていた。透きとおる白い肌に珊瑚色の唇。褐色の髪はふわふわと風に舞って背中に流れている。コバルトブルーのチュニックに白のパンツ姿も五月の空によく映えている。子供っぽさはどこにもなく、遠くからでも、まほろは匂い立つように美しかった。

 鷹彦の視線はついついまほろに向いた。まほろの表情までは遠くてわからなかったが、きっと微笑んでいるだろうとおもった。去年、中学になって間もなく、まほろの身長を抜いた。今では見下ろしている。鷹彦の肩や胸は、峰彦にだって劣らない。身長だって、じきに峰彦を抜ける。高校生になったら、まほろと腕を組んで街を歩こう。恋人のように手をつないで歩こう。待っていてくれ。まほろ。 鷹彦は、球技用のフェンスに寄りかかっているまほろに、心の中で呼びかけた。

「おまえの姉ちゃん、飽きずによく来るよな」

 後ろから、小学校の時から一緒だった木村が肩に腕を乗せてきた。競技は一年生の綱引きが行われていた。互角の勝負は白熱していて、応援も熱を帯びる。次の競技は鷹彦たちが出場する二年の大縄跳びだったので、木村と話しながら校舎の昇降口の前を歩いて入場口に向かった。

 風が吹いた。その風は校庭の埃を舞い上げ、まほろの目に入った。まほろは片目をつむって手で押さえながら昇降口の水場に向かった。前を鷹彦が木村と肩を組んで、話しながら歩いていた。

「来るなって言ってるのに、大学の授業をさぼって来るんだよ。うざいよな」

 鷹彦ともおもえない言葉にまほろはぎょっとした。

「よくいうよな。うれしいくせに。姉ちゃんがくると、おまえ、すっげえ張りきるだろ」

「姉ちゃんじゃないし」

「姉ちゃんだろ」

「ちがうよ。おれは千住で、あいつは蒔江田っていうんだ。他人だよ」

「そういえば苗字がちがってたな。じゃあ従姉? あ、叔母さんか。」

「他人だよ。おれの追っかけが趣味のおばさんだ」

「おばさんはかわいそうだろ。まだ若いし、美人だし」

「おばさんさ。6コも年が離れているから、おばさんだよ。もうババアだ。せめて3コぐらいの年の差だったらなあ。6コは離れ過ぎだよなあ」

 遠ざかっていく鷹彦の後ろ姿を見つめるまほろは動けなかった。ショックだった。そんなふうにおもっていたとは知らなかった。たしかに六歳も年が離れていたら、わたしなんか、鷹彦からみたらおばさんかもしれない。お祖父ちゃまは、小さい頃からまほろと鷹彦は結婚するのだといっていたけど、考えてみたらふざけた話だ。

 峰彦はいつもいっていた。まほろはバカだと。そのとおりだ。鷹彦はわたしの身長を追い越して、体だけならもう青年だ。顔だちも彫が深くなって、男らしくなってきた。声だって男性の声だ。それなのに、鷹彦はわたしよりも六歳も年下の中学生なのだ。

 冷水を浴びせられたように、まほろの頭は冷えていった。なにも考えず、疑わず、真っ直ぐ鷹彦を見つめていた心に、ためらいが生まれた瞬間だった。

 まほろはこぶしで涙を拭うと校庭を後にした。目の中の埃はとっくに涙で流されていた。

 鷹彦が、まほろがいないことに気がついたのは、それからしばらくしてからのことだった。



 それから一年。中学三年になった運動会にまほろの姿はなかった。鷹彦は初めて動揺した。幼稚園のときから欠かさず見に来ていたまほろが来なかった。鷹彦の中の自信が揺らぎ始めた。まほろはおれしか見ていない。まほろだっておれだけのまほろだったはずだ。どうしたんだ。なにがあった。なぜまほろは来ないのだ。

 中学最後の運動会を、鷹彦は上の空で過ごした。まほろの姿ばかり探していた。競技の最後を飾る三年のリレーで、アンカーを務めた鷹彦は散々だった。とうとうまほろは来なかった。力が抜けるようだった。

 家に帰って、鷹彦はまほろが帰ってくるのを待った。夕飯の時間になっても帰ってこないので陸子に訊ねると、

「お友達と外で食事してくるそうですよ」

 と、いった。

 峰彦も仕事が忙しいらしくて、帰ってくるのが遅い。風呂をすませてから携帯と炭酸のペットボトルを持って玄関先に行った。トルコ絨毯の玄関マットに腰を下ろしてペットボトルの飲料を飲み、携帯電話をいじりながらまほろの帰りを待った。

 携帯電話には美苑からのメールが入っていた。きょうのリレーが振るわなかったことを残念がっていた。そのほかにも、仕事のことや寛臣のこと、最近話題の映画やゲームのこともあった。話題は何でもいいらしかった。鷹彦にメールすることが目的で、なんとか返信をもらいたいとおもっていることが明白だった。

 美苑にメールアドレスを教える気になったのは、毎年運動会を見に来るようになった両親へのねぎらいのようなものが含まれていた。両親という実感が、少しづつ生まれていたのだ。峰彦と自分と美苑と寛臣は、確かに親子の外観をしていた。

 それならなぜ、自分と峰彦は、両親と離れて暮らしているのだろう。なぜ別々に生きているのだろう。不思議におもって当然の疑問が、鷹彦の中で大きくなっていた。

 玄関ドアが開いた。鷹彦は、はっとして携帯電話をポケットにしまった。まほろが帰って来たのかとおもったら峰彦だった。

「なんだ、鷹彦。そんなところで」

 いつもすっきりとしている峰彦だったが疲れた声だった。

「お帰り」

「ただいま。どうだった、体育祭」

 峰彦は鷹彦の脇を通って廊下を進んだ。

「兄貴」

「ん?」

 ネクタイを緩めながら振り向く。自分の兄ながら、いい男だった。

「あのさ」

「うん」

「あの……」

「なんだよ」

「まほろがさ」

「まほろ?」

「来なかったんだ」

 峰彦の切れ長の澄んだ目が大きくなった。峰彦にはすぐにわかった。鷹彦の体育祭にまほろが行かなかったのだと。鷹彦が助けを求めるように峰彦を見上げてくる。峰彦は目を反らしそうになって踏みとどまった。

「初めてだよ。まほろが来なかったのは。なんでだろう」

 不安が鷹彦の瞳に揺れていた。峰彦には心当たりがあった。去年、鷹彦が二年生だったとき、今夜の鷹彦のように、まほろが玄関先で峰彦が帰るのを、膝を抱えて待っていた。

 まほろは泣いていた。どうしたのかと尋ねると、まほろは濡れた目を峰彦に向けて首を横に振った。

「わたしじゃ、だめみたい」

 何のことかわからなかった。なにがあったのかもわからない。

「なんのことだよ。いきなり」

 膝を抱えているまほろを見おろす。まほろは言いずらそうに肩を揺すった。

「やっぱりさ、あんまり年が離れているのって、だめだよね」

「わかるように言えよ」

「鷹彦のことよ」

「けんかでもしたのか」

「けんかじゃないけど。ちょっとね。年の違いを実感したっていうか」

「なんだ。そんなことか」

 峰彦は笑った。もっと深刻な話かとおもったからだ。

「ずっと思っていたんだけど」

 と、まほろはいいずらそうに続けた。

「あのさ。あの。なんで峰彦と鷹彦は、うちで暮らしているの。まるで、この家の子供みたいに」

 いつかは訊かれるだろうとおもっていた。だから峰彦に動揺はなかった。ただ、何がきっかけで、その質問をする気になったのだろうとおもった。峰彦は慎重になった。

「いやなのか? 僕と鷹彦のこと」

「違う。そうじゃなくて」

「出て行ってもいいんだぞ。そうしようか?」

「いや! 違う! そうじゃないの!」

 峰彦はまほろの目の奥を覗き込んだ。涙をこらえて睨み返してくる精いっぱいの強気に峰彦はふと笑みをもらした。

「泣くなよ、まほろ。こんなに大きくなって」

「泣いてない」

「うん。そうだな。気になっていたのか。僕たちのこと」

 まほろはこくんと頷いた。

「お祖父ちゃまは、ずっと昔、鷹彦が生まれたとき、まほろ、じゃなくて、わたしと鷹彦は結婚するんだよと言ったわ。子供だったから、なんとも思わずにそうなのかと思ったけど、でも、これって、おかしいわ。そう思わない?」

「そうだな。結婚は当人同士の問題で、人に決めてもらってすることではないものね」

「お祖父ちゃまは、どうしてそんなことをいったの。峰彦は知っているんでしょ」

「僕の口からきく勇気はあるのか」

「どういう意味」

「怖い話だよ」

「なにが怖いの」

「儀衛門さんを嫌いになるかもしれない」

「お祖父ちゃまを。どういうこと」

「長い話になんるよ」

「それを聞いたら、お祖父ちゃまが嫌いになって、わたしと鷹彦の結婚の理由がわかるの」

「たぶん」

「それを聞いたら、わたしと鷹彦が変わってしまう?」

「変わるかもしれない」

「秘密があるのね」

「秘密じゃないさ。知らないのはまほろと鷹彦だけだ」

「周りの人はみんな知ってるの」

「みんな知ってる」

「そんな……」

「どうする。訊きたいか」

 まほろはあえぐような息をして首を横に振った。

「そうだな。やめておいたほうがいいだろう。まほろはおとなだからいいけど、鷹彦はまだ中学生だからな。聞いたらショックが大きいだろう。話すだろ? 鷹彦に。そうしたら、鷹彦はまほろから逃げていくぞ」

 薄く笑う峰彦を、まほろは怖いとおもった。峰彦を怖いとおもったことなどなかったのに、なんだか怖い。怖いのは、峰彦なのか、峰彦の話のほうなのか、まほろにはよくわからなかった。

 まほろから鷹彦が逃げていくとはどんな話しなのだろう。まほろと鷹彦だけが知らなくて、みんなが知っている話とはどんなことだろう。おばちゃんに訊いたら教えてくれるのだろうか。おじちゃんは教えてくれないとおもう。おじちゃんは、お祖父ちゃまに忠実なひとだから。

 顕人に訊いたら、顕人なら顔色も変えずに教えてくれそうだ。儀衛門に訊ねたら、老人特有の、のらりくらりした態度でうやむやにしてしまうかもしれない。だって、わたしと鷹彦が結婚するんだよといったのは、お祖父ちゃまなのだから。

「いまは聞かない。やめておく。もうすこし、あとになって、おちついて考えられるようになったら、その時に……」

 最後までいわずに、まほろは逃げるように階段を駆け上がって行った。

 まだだ。まほろ。いまじゃない。その時が来たら、おまえより先に鷹彦に話してやるさ。

 廊下の壁のアールヌーボーのランプが、佇む峰彦を照らしていた。

「兄貴。おれたち、なんでここで暮らしているの。なんで親と暮らしてないの。なにか事情ってやつがあるんだろ?」

 鷹彦の声で我に返った。

「え? なんだって」

「おれとまほろが結婚するっていう話だよ」

 峰彦は乱暴にクタイを引き抜いた。シルクが擦れるシュッという音がした。

「疲れてるんだ。こんどにしてくれ」

「兄貴。なんでおれはまほろと結婚しなきゃいけないの」

「いやだよな。当然だ」

「そうじゃなくて、疑問なんだ。なぜ、おれとまほろが結婚しなくてはいけないのか。どんないきさつでそういう話になったのか。なぜ、おれと兄貴は両親がいるのに、他人の家で育ったのか。なんでおれたちの両親は、おれたちを手放したのか。そこにはどんな事情があったのか。兄貴は、この疑問に答えられるんだろ?」

「知らないよ。おとなの事情なんだろ。僕だって、ここに来たときは子供だったんだ。わからないよ」

 突き放した言い方だった。そのまま峰彦は足早に歩いて、自分の部に入ってドアを閉めた。そのままドアにもたれる。まだだ、鷹彦。まだいえない。おまえの心は柔らかい。もっと硬く強くなってからでないと、真実を受け止めきれないだろう。

 まほろのようすが変わってきたことに、最初に気がついたのはレイナだった。

「まほろさん、このごろ服の好みが変わったみたいね」

「まほろの服?」

 会社の昼休み、昼食をとりに外に出たときだった。同じ経営企画室で働くレイナが、行きつけの手打ちうどん屋の暖簾をくぐりながらそういった。コシの強いうどんで、出汁がきいていて、何より席がテーブルごとに仕切ってあって、会社の人間が来ないのがよかった。

「それって、何か意味があるのか」

 席について、天ぷら盛り定食を二つ注文してから峰彦はレイナに向き合った。

「まほろさんらしくないわ。あんな服。それにメークも濃くなったし」

「まほろらしくない?」

「ほんとうに気がついていないの」

「なにが」

「女ならすぐに気がつくのに」

「だから」

 レイナが満足げな笑みをうかべた。

「思ったほどじゃなかったのね。これなら、わたしにもチャンスがあるかも」

「何の話だよ。ぜんぜん通じない」

「気にしないで。思ったほど峰彦がまほろさんに執着していなかったって、わかっただけで満足だから」

 レイナは職場では峰彦のことを千住さんとよんだ。だが、二人だけの時は名前でよんだ。長い付き合いだったから、呼び方に慣れと甘えがあった。レイナがいおうとしていたことは考えるまでもなかった。峰彦の彼女になれるチャンスがあるかも、という意味だ。本気で言っていることもわかっていた。それには言葉を返さずに、運ばれてきた定食に箸をつけた。まほろのことは見続けて来たはずだ。なにも見逃してはいないはずだ。その時はそうおもった。

 峰彦はスーツの上着を脱いで洋服ダンスのハンガーにかけた。ワイシャツのボタンをはずしながら、最近のまほろのようすをおもいかえす。

 まほろは、いつから化粧をするようになったのだろう。思い出せない。

 ワイシャツのボタンを外す手が止まった。高校からか、いや、色のつくリップを塗るぐらいは化粧のうちに、はいらない。大学に入ったあたりからか。違う。まほろが初めて化粧したのは、成人式で晴着を着たときだ。見違えるような華やぎに戸惑いを覚えたくらいだ。成人式のあと、友人たちと二次会に行って帰りが遅くて心配したっけ。

 再びワイシャツのボタンをはずす。そうだ、思い出した。去年だ。まほろが、今日の鷹彦のように僕の帰りを玄関で待っていたあたりからだ。気づかないくらい少しづつ、まほろは変わっていったのだ。

 いまごろ思い当たるなんて、と峰彦は舌打ちした。迂闊だった。当時入社したばかりで仕事を覚えるのに懸命で気持ちがまほろから逸れていたのだ。その頃からまほろは少しずつ鷹彦から距離を置いていたのだ。鷹彦でさえ気づかないほど巧妙に。

 閉め忘れていた窓の隙間から風が入ってきた。寒くはないが冷たい風だ。峰彦は、ぞわりとして腕をさすった。


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