第6話
「今夜から、まほろは自分の部屋で寝ることにします。タカコも自分の部屋で寝なさい」
朝食の席でそう宣言したのは、まほろが中学二年になった五月の朝だった。
「なんでだよ。おれ、いやだぞ。まほろと一緒に寝る」
抗議の声を上げるのは鷹彦だ。峰彦は知らん顔で食事を続けている。相場は儀衛門と顕人を車に乗せて出勤したあとなので、この場には陸子を入れて四人だけだった。
「そうなさいませ。鷹彦さまも二年生なんですから、そろそろご自分の部屋でおやすみにならないとね」
「嫌だ。おれ、まほろと一緒でなきゃ嫌だ。おとなになるまで一緒に寝る。おとなになったら結婚する」
峰彦が危うく味噌汁を吹き出すところだった。口元を抑えて箸を置き、「ごちそうさま」といって席を立った。
「峰彦。今朝もレイナさんと一緒に登校するの」
からかいを含んだまほろの声が追ってきたが、峰彦は無視している。
「峰彦のクラスでも噂になっているんじゃないの。レイナさんと付き合ってるって」
顔は笑っているが、まほろの言い方には棘があった。
「カノジョだ。カノジョだ。兄ちゃんの彼女は住み込みの使用人の子供のレイナだよおーん」
鷹彦がまほろに調子を合わせてふざけるので、峰彦が戻ってきて鷹彦の耳をぐいと掴んだ。
「もう一度言ってみろ、鷹彦」
「痛い。やめてよ兄ちゃん。クラスの友達がみんなそう言って笑ってたんだよ」
「峰彦。手を放してよ。峰彦のことは、まほろの中学でも噂になってるよ。峰彦は目立つし、レイナさんも、この辺りじゃ有名だから」
「レイナが有名って、どういうことだ」
「あの人、自分から男子に近づいていって、飽きると別れちゃうんだって。でも、頭がいいしきれいだから、声をかけられると、男子はついて行っちゃうんだって。峰彦だって、ついて行ったじゃない」
鷹彦の耳を放して、峰彦はまほろをひと睨みしてから学校へ行ってしまった。
「怒りんぼなんだから」
まほろの呟きに、陸子はたまらず声をかけた。
「噂になっているんですか。峰彦さまとレイナさん」
「だって、二人して堂々と家の門から一緒に出ていくじゃないの。岡田さんの家は、うちの門を使わなくても、岡田さんの家の門があるんだから、そこから出ればいいのに」
たしかに岡田が住んでいる戸建ての家には、専用の門があった。岡田夫妻はその門を使っていて、屋敷のほうの門は使わない。蒔江田家の門は蒔江田家の人々が使う門で、使用人が使う門ではないからだ。それなのに、レイナは敷地の中を通って門のところで峰彦を待ち、一緒に門を出て行く。
陸子は胸の中がもやもやした。不快だった。岡田夫婦はおとなしい品のよい人たちだったが、娘のレイナは陸子の目にはふてぶてしく映った。そのレイナと峰彦が交際している。陸子はそのことを、夫に話すべきか悩んだ。話せば、岡田にとってよくないことが起こりそうな気がした。
「岡田さんには辞めてもらおう」
と、軽くいった相場の言葉が思い出された。陸子の告げ口で岡田が職を失うことになったりしたら気が咎めてしまう。自分の考えすぎかもしれないとおもいなおして、陸子はまほろと鷹彦を学校に送り出した。
自分の部屋で寝るようになったまほろの部屋は、色とりどりのかわいい小物で溢れていた。クローゼットの中の衣類もティーン雑誌のモデルが着ているような服ばかりで、バッグやアクセサリーもたくさんあった。
長い時間鏡を覗いて髪をいじっているかとおもえば、壁にアイドルの写真をベタベタ貼ったり、そうかとおもえば、痩せなくちゃいけないからダイエットする、といっては挫折を繰り返していた。
食事の時も、B組のなんとか君はかっこよくてモテるんだとか、でも、まほろはC組のだれそれ君がすてきだとか、陸子からすれば他愛のないおしゃべりに夢中だった。
あれほど鷹彦と片時も離れなかったのに、まほろは鷹彦を置いて、先におとなに近づこうとしていた。
置いて行かれた鷹彦は、さかんにまほろに絡んで気を引こうとした。まほろが電話で友達とおしゃべりしているとやきもちをやいて、クッションを投げつけたりするものだから、怒ったまほろが鷹彦を追いかけまわして陸子に叱られていた。
峰彦のほうは、そんな二人を風景の一部のように見ていた。だが、醒めているわけではなく、峰彦はいつも鷹彦のことを案じていた。 鷹彦の運動会が一週間後に迫ってきた夜、美苑が峰彦に電話をかけてきた。鷹彦に会いたいから連れて来いという、いつもの催促だった。
「だから、お母さん。誘ってもだめなんだよ。行かない、の一点張りで、逃げ出しちゃうんだ」
「強引に連れてくればいいでしょ。鷹彦は八歳だもの、小さいからなんとでもなるじゃない。一度、東京に来て以来、四年も会っていないのよ。四年もよ」
「お母さんが会いに来ればいいじゃないか。同じ東京にいるんだから」
「冗談じゃないわ。誰が蒔江田のところなんかに行くものですか」
「それじゃあ今度の土曜、小学校の運動会だから、見にくればいいよ」
「蒔江田の人たちが来ないのなら行ってもいいわ」
「来ないよ。仕事だから」
「まほろという子は来るの」
「来るよ。まほろはいつも鷹彦と一緒だ。相場のおばさんも来るよ。一回ぐらいは挨拶してもいいんじゃないの。鷹彦が生まれたときもお世話になったんだし」
「わたしが? 相場さんの奥さんに?」
「大切に育ててくれているよ。いい人だ」
「ふざけないでよ。ほんとうならわたしが育てていた子よ。わたしが産んだ、わたしの子だもの」
その子供を真っ先に売り渡したのは誰だ、といいたかった。鷹彦が美苑を嫌って会おうとしないのは、四年前、たった一人で東京まで迎えに来たまほろに、バラの花束を投げつけて怪我をさせたのが原因だった。
初めて連れてこられた家で、知らないおばさんとおじさんを前にして、これが鷹彦のお母さんとお父さんだよといわれて、鷹彦は混乱したのだった。
それまで鷹彦は、自分の生活に満足していた。鷹彦の世界には父母は存在していなくて、親代わりの陸子と陸子の夫の相場と、祖父と信じている儀衛門と、怖いけど子供たちの上に君臨する顕人と、大好きなまほろと、大好きな兄の峰彦しかいなかった。
新幹線に乗って、知らない家に連れて行かれて、知らないおじさんとおばさんを親だといわれた鷹彦の気持ちは、どんなだっただろう。帰るといって泣き出した、あの時のせつなさを、峰彦は忘れない。怯える鷹彦を美苑と寛臣は必死になだめたが、そうするとますます激しく泣いた。子供に泣かれて途方に暮れるとはこのことかとおもったとき、まほろの声がしたのだった。
タカコ! まほろだよ。迎えに来たよ!
あの時の驚きをどのように表したらいいのだろう。救いの神がやってきた。そうおもった。緊張で顔を強張らせたまほろが、必死になって鷹彦を連れ帰ろうとする気迫に感動さえ覚えた。そのまほろに、美苑は玄関の花瓶のバラを投げつけたのだ。一つだけ取り忘れた太く鋭い棘が、まほろの額に傷をつけ血が流れた。
さらに美苑は、ガラスの花瓶さえ投げつけようとしたのだ。鷹彦は狂ったように泣いた。あの時の記憶が鷹彦の心に恐怖を植え付け、まほろの額に薄く白い傷を残した。
あの出来事を思い出すたび、峰彦の胸は痛んだ。まほろが自分と鷹彦に寄せる愛情と、美苑の我が子を恋しがる気持ち。愛情に善悪はないとおもう。それなのに、どうして美苑は、まほろにバラを投げつけるという乱暴をしたのか。そんなことをしなければ、まほろに傷は残らなかったし、鷹彦の心にも傷は残らなかったのに。
美苑一人を責めているわけではない。ただ、峰彦は、なにもかも悔しくて悲しくてならなかった。
五月の青空に万国旗がひるがえり、ドミトリ・ボリソヴィチ・カバレフスキーの道化師のギャロップが軽快に校庭に響きわたっていた。紅白に分かれた男子リレーの最終ランナーが、走ってくる選手をスタートラインで待ち受けている。その中に鷹彦もいた。
「タカコー! 頑張れ。タカコー!」
まほろは身を乗り出して鷹彦に声援を送った。あまりの大声に周りから笑い声がおこり、陸子が恥ずかしそうに首を竦めたが、まほろは鷹彦しか見えていなかった。
アンカーのたすきをかけた鷹彦は、バトンを受け取ると、鉄砲玉のように飛び出した。風を切ってぐんぐん走る。胸がわくわくする、素晴らしい走りだった。まほろは夢中で鷹彦の名を呼んだ。誇らしかった。わたしの鷹彦。
鷹彦は、二人抜き、三人抜き、ついに先頭になったとき、まほろに向かってブイサインをした。満面の笑みだった。まほろもブイサインを出して鷹彦と笑い合った。それを、少し離れたところで峰彦が見ていた。
峰彦の横にはレイナもいた。鷹彦は先頭を走りながら峰彦にもブイサインをだした。峰彦は笑った。毎年欠かさず見に来る鷹彦の運動会でしか見せない、峰彦の明るい笑顔だった。
だが、峰彦の後ろに、隠れ気味に立っている美苑と寛臣に気がついたとき、鷹彦から笑顔が消えた。そして前を向いてムキになって走り出した。それがいけなかった。足が空回りして上体がのめり、音をたてて地面に倒れた。
「タカコ!」
まほろは驚いて叫んだ。
「鷹彦さま」
陸子も叫んだ。鷹彦は起き上がれなかった。先生が駆け寄ってきて助け起こす。膝から血が出ていた。鷹彦は美苑と寛臣を睨みつけてから、足を引きずってゴールした。順位は最下位だった。そのあとの競技では、鷹彦に笑顔はなかった。
「残念だったわね。転ばなければ一着だったのに」
美苑はほんとうに残念そうだったが、鷹彦が元気に成長している姿が見れて嬉しそうだった。寛臣は美苑とちがって冷静に鷹彦の成長した姿を目で追っていた。
「鷹彦はどうやら峰彦とは反対の性格のようだな。感情的な人間だ」
ぼくだって感情的な人間だ、と峰彦は心の中でいいかえした。押さえているだけだ。我慢しているだけだ。長いことそうだったから。みんな、ぼくという人間を誤解しているんだ、と峰彦はそっと唇をかんだ。
「あなたったら。鷹彦はまだ八歳よ。子供じゃないの。感情的で当たり前だわ」
かばうような美苑の言い方に寛臣は口を曲げて笑った。
「きみを睨んだ鷹彦の目つきを見ただろ。あれは千住の人間の目じゃないよ。蒔江田の目だ」
寛臣がそういったとき、峰彦の耳から運動会の喧騒が消えた。蒔江田を憎む寛臣の憎悪が鷹彦に向かったような気がしたからだ。鷹彦を庇わなければ。そうおもったが声が出てこなかった。鷹彦は美苑を見て、確かに睨んだ。子供らしくない怖い目だった。まだ八歳なのに、自分の母親を、あんな目で睨むなんて、叱らなければとおもう一方、ああ、そうか、鷹彦は、美苑を母親だとはおもっていないのだとおもいかえした。まほろを傷つけたおばさん。そうおもっているのだ。
「運動会に来てよかったわ。これから毎年来るわ。ねえ峰彦。こんど鷹彦と峰彦とわたしたちでディズニーランドに行きましょうよ」
「あの様子じゃ、来そうにないな。意外に鷹彦は頑固そうだぞ。もしかしたら、私たちの手に負えない子に育つかもしれないな。なにせ、蒔江田儀衛門が目の中に入れても痛くないほどかわいがっている子供だからな」
寛臣の突き放した言い方に、美苑は顔をしかめた。
「よしてよ。あの子はうちの子よ。蒔江田に育てられても、血はごまかせないわ。他人より実の親のほうがいいに決まっているわ」
「たしかに。最後に勝つのは私たちだ。鷹彦は自分から私たちのもとに帰ってくるさ」
「ええ。そうですとも。ほんとうのことを知ったら、あの子はわたしたち両親のところに帰ってくるわ」
爽やかな五月の気候だというのに、峰彦はぞくっと身震いした。はたして鷹彦は、ほんとうに千住の両親のもとに帰っていくだろうか。自分がもくろんでいるのと同じことを寛臣と美苑は口にしたが、そうなったらなったで峰彦は、それを鷹彦の裏切りと感じてしまいそうだった。
峰彦は自分の中にいつのまにか矛盾が芽生えていることに動揺した。九歳の時に蒔江田にやってきて八年たった。十七歳になった峰彦は、改めて年月の長さを痛感した。陸子との穏やかな生活、相場がもたらす家長としての重さ、単純なまほろと、だんだん生意気になっていく鷹彦。血がつながっているのは鷹彦だけだが、他人であっても共に暮らしていれば家族としての情がわいてくるものなのか。
峰彦は、浮かび上がって形を成していく考えに動揺した。長く蒔江田に居すぎたのかもしれない。
「峰彦。聞いているの」
美苑の苛立った声で我に返った。
「いつになったら帰ってくるの。あなたは千住家の長男よ。蒔江田に行ってから何年たっているとおもっているの」
「お母さん。こんなところでよそうよ、そんな話」
峰彦は横のレイナをちらりと見た。レイナは聞こえないふりをして二年生の玉入れを眺めていた。
「じゃあ、いつ話すの。電話で話すとすぐ切るじゃない。遊びに来なさいと言っても来ないし。あなたはいったい、どっちの子なの。あなたまで蒔江田にくれてやるつもりはありませんからね」
「大きな声を出さないでよ。人が聞いているよ」
峰彦は痛いところを突かれて横を向いた。視線の先にまほろがいて、陸子が話しかけていた。
「まほろさま。あそこの峰彦さまのところにいらっしゃるご夫婦ですけど、あれは、たしか、千住ご夫妻ですよね」
陸子が伸びあがって人の頭の向こうを眺めた。
「うん。そうみたい」
「鷹彦さまを見にいらしたんですね。やっぱり親御さんですね。ちょっとご挨拶してきますね」
「行かなくていいよ。あの人たちは、タカコをさらいに来たんだから」
「まあ。なにをおっしゃっているんですか。おかしなことを」
「行かなくていい。おばちゃんは、まほろとタカコと峰彦だけを見ていればいいの。ほかの人は見なくていいの」
「嫌なんですか。わたしがご挨拶に行くのが」
「嫌! まほろのおばちゃんが、あの人たちと親しくしているところなんか見たくない」
かたくなな態度に陸子は挨拶に行くのをやめた。まほろが嫌うなら、何か理由があるのだろうとおもった。
これを機に、美苑と寛臣は毎年鷹彦の運動会を見に来るようになった。
鷹彦はすくすくと成長し、一年ごとに背が伸びて、細かった骨格も成長に合わせて男子らしくなっていった。水泳を続けてきたせいで筋肉も六年生にしてはしっかりしていて、同じ年齢の男子たちより頭一つ分背が高いせいもあり、よく目立った。
性格は闊達で負けず嫌いだった。峰彦ゆずりの整った目鼻立ちが女子たちに注目されたが、鷹彦の人気は顔だちではなく、明るい性格と人を笑わせるのが上手なせいだった。
小学校生活の最後の運動会でも、鷹彦は100メートルリレーの選抜選手に選ばれた。最終ランナーだった。グラウンドの中央で、走る順番に並んで待機させられている。
鷹彦は観覧席をぐるりと見渡した。観覧席は人で埋まっていて、まほろを見つけることはできたが、峰彦が探せなかった。どこにいるのだろう。峰彦の隣には必ずレイナがいたし、二人のそばには美苑と寛臣もいるはずだ。鷹彦は美苑と寛臣を探していた。
来るな。来なくていい。心の中で呟きながら目を皿のようにして探していた。美苑と寛臣は、裏門に近い観覧席で、峰彦と何やら楽しそうに話していた。
来てる。来てた。気持ちがすうっと落ち着いていった。毎年美苑たちは運動会に来ているが、鷹彦は一度も口をきかなかった。話しかけられても走って逃げた。嫌いだ、あんな奴ら。そうおもうが、いつのまにか、来ればうれしい気持ちが生まれていた。
和やかに会話している峰彦と美苑と寛臣の三人は、遠目にも親子だとわかった。似ているし、まとっている雰囲気が同じだ。優雅で美しい。それなら、おれだって、あの人たちと一緒にいたら、親子にみられるのだろうか。鷹彦がそんなことを考えていたら、峰彦の隣にいたレイナが、鷹彦に気がついて、手を振って笑いかけてきた。レイナに心を見透かされたような気がして顔が熱くなった。
二十一歳になったレイナは、真っ直ぐな黒髪をセンターで分けて左耳だけに髪をかけていた。五月とはいえ風はひんやりしているのに、ノースリーブの細身のワンピースを着て、透き通るカーディガンを飾りのように肩に羽織っていた。水中花のようなレイナの涼し気な華やかさが眩しくて、鷹彦は目をそらした。
まほろは職員室の前あたりに陸子と一緒にいた。レイナに比べると、まほろは子供っぽく見えた。十八歳なのだから、鷹彦よりはずっと年上なのだが、ジーンズにスニーカーを履いて、ふわふわの髪に深くキャップをかぶっている姿は、どこにでもいる平凡な女子高生だ。
「おまえの姉ちゃん、ファッション雑誌に載ってたぞ。おれ、うちの姉ちゃんに見せてもらったんだ。おまえ、見たか」
横に並んでいる木村が話しかけてきた。
「知らないよ。なんだそれ」
「『街で見かけたNO1』というコーナーがあって、それに載ってたんだよ。おまえの姉ちゃん、きれいだもんな」
「なにがきれいなもんか。あいつの寝顔を見たことないだろ」
鷹彦が呆れたようにいうと、木村はアハハと笑った。悪い気はしなかった。まほろがファッション雑誌に載ったとしても驚いたりはしない。細くて長い首と、華奢な肩をした、歩く姿の美しいまほろなら、モデルにだってなれるさ、とおもった。ただ、むやみに目立ってほしくなかった。おれが大人になるまでは、まほろは今のままでいい。そんなに先を行かないでくれ。おれを待っていてくれと、鷹彦は焦りを覚えた。
鷹彦は、体操着から出ている自分の腕を見た。細い腕だ。峰彦の腕はもっと太い。力もあり背も高い。早くおとなになりたい。ならなければとおもった。まほろは来年大学生になる。鷹彦は中学生だ。六歳の年齢差は縮まらない。何年たっても、まほろには追いつけないのではないか。
鷹彦の焦りを吹き飛ばすように、徒競走のリレーがスタートした。六年生の走りともなるとスピードが違った。筋力と体力がついてくるから、子供であっても力強い走りをする。シンプルな競技ではあるが、力強く地を蹴って風を起こして走り抜けていく姿は胸をワクワクさせた。
鷹彦は今回も最終ランナーだった。アンカーのたすきをかけた鷹彦がスタートラインに立って走者を迎える姿勢をとった。
「タカコ! 頑張れえええー」
「まほろさま。まだ走っていませんよ」
陸子がまほろの服を引っ張る。鷹彦のグループは六人中四番目を走っていた。鷹彦は四人抜かなくては一位になれない。選手はコーナーを回って直線距離に入ってきた。鷹彦が腰を屈めて助走の体勢に入った。
「タカコ! タカコ!」
まほろは鷹彦の名を呼んだ。どきどきする。同じ年の男子たちより背が高いくてがっしりしている鷹彦が、かっこよかった。鷹彦がまほろの身長を追い越すのはもうすぐだろう。中学生になったら、あっという間にまほろを追い越してしまうだろう。
バトンを受け取った選手が次々と走っていく。やっと鷹彦がバトンを受け取った。強いばねで地面を蹴って飛ぶように走りだす。前方の四人を追いかけて走る。鷹彦の髪が後ろに流れる。濃い眉と切れ上がった漆黒の目。小麦色の頬が上気し、汗が滴る。激しい呼吸まで聞こえるようだ。
一人抜いた。歓声が上がる。
二人抜いた。また歓声が沸き上がる。
三人抜いた。歓声がどよめきに変わった。
四人抜いて先頭にたったとき、まほろは体が震えた。感動で涙がこぼれた。誇らしかった。わたしの鷹彦。
峰彦は、校門のほうの観覧席にいる顕人に気がついていた。瞬きもせずに、走る鷹彦を目で追っている。
鷹彦やまほろ、陸子でさえ、顕人が運動会に見に来ているこを知らなかった。毎年ではなかったが、来れるときは、こっそり見に来ていた。峰彦の体育祭もそうだった。とっつきにくい顔をして、人並なところもあるのだなとおもった。そのかわり、長居はしない。元気なようすを見たらさっさと帰ってしまう。顕人にも少しは親らしいところがあるということなのだろう。しかし峰彦は、そのことを誰にもいわなかった。
「何を見ているの」
美苑が峰彦の視線を追って顕人を見つけだした。とたんに眉間にしわが寄った。
「専務が来ているわ」
「なに。顕人氏が」
それまで笑顔だった寛臣も表情を硬くした。ポロシャツにジーンズという軽装の顕人は、仕事をしているときとはちがってリラックスした表情をしていた。しかし、鋭さは相変わらずで、峰彦が見ていることに気がつくと、自然なしぐさで片手を上げて挨拶を送ってきた。それをみて、寛臣は意を決したように顕人に近づいて行った。
「あなた。どうするの」
「挨拶してくる」
美苑はついて行かなかった。不安そうに夫を見ていた。100メートル選抜リレーは、とっくに終わっていた。もちろん鷹彦の活躍で鷹彦のチームが一位だった。
寛臣は意外に早く戻ってきた。校門を出ていく顕人を確認してから美苑は夫に向き直った。
「なにを話していたの」
「決まっているだろ。毎年鷹彦の運動会を見に来ていた。これからも見に来ると言ったんだよ」
「それで」
「すきにすればいいとさ。見るだけならかまわない、だとさ」
「なに、それ。相変わらず、嫌な奴」
美苑は憤慨したが、鷹彦の運動会を見に来てもいいという言質を顕人からとれたのだから、美苑の機嫌はそう悪くなかった。鷹彦を絡めとって、取り戻す糸口を掴めたとおもったのだろう。
走り終えた鷹彦は、まほろのところに行って一言二言何か話して、笑いながらクラスの席に戻っていった。
まだ子供だ。鷹彦が年頃になるのは、もっと先のことだ。峰彦は、そう自分に言い聞かせた。だが、鷹彦はたぶん早くおとなになるだろう。おとなになることを、本人が望んでいる。急ぐな鷹彦。自分のペースでおとなになれ。
峰彦は、鷹彦が心配だった。まほろと仲が良すぎる。二人は片時も離れようとしない。これはあまりに不自然だ。いつか破たんが来るのではなか。
峰彦の心配は、別の形で現れた。それは鷹彦が中学二年の体育祭のときだった。